『きのう何食べた?』にみる日常の連続と「年をとる」ということ

学び
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弁護士・筧史朗(シロ)と美容師・矢吹賢二(ケンジ)というふたりのゲイ男性の同棲生活を、食を通じて描く漫画『きのう何食べた?』(よしながふみ、講談社)。2007年から始まった連載は、その後2019年にテレビ東京でドラマ化し、2020年にはスペシャルドラマの放送、2021年の映画化、2023年のテレビドラマseason2の放送など、長く愛されてきました。

ドラマ『きのう何食べた?』シーズン1のオープニングクレジットに注目し、本作が「ゲイカップルの日常を映し出すことで異性愛規範的な定義をラディカルに作り変えるホームムービー的飯テロドラマ」と読み解く映画研究者・久保豊さんによる論考をお楽しみください。

なお本記事は、2024年3月31日に閉鎖されたWEBメディア「wezzy」(運営:株式会社サイゾー)に掲載されていた論考を、著者・久保豊さんの許諾を得た上で、OHTABOOKSTANDに転載したものです。

※初出:wezzy(株式会社サイゾー)。2020年2月24日掲載。

 『きのう何食べた?』がテレビドラマ化(テレビ東京:2019年4月〜6月)されてから、もうすぐ一年が経とうとしている。2020年1月1日にはスペシャルドラマが放映され再び話題となり、原作とテレビドラマの人気が再認識されたことは記憶に新しい。現在、NetflixやPrime Videoなど各種動画配信サービスでも公開中だ。

 原作は2007年から青年誌『モーニング』(講談社)でよしながふみが連載中の料理マンガ。主人公の弁護士・筧史朗(シロ)と美容師・矢吹賢二(ケンジ)は2LDKのアパートで同棲中のカップルで、本作は食生活を中心に彼らの生活を丁寧に描く。毎エピソードで披露されるシロの手料理は、背伸びせずに明日作れるレシピが多い。そのためか、「シロさんの〜」というタイトルのついた再現料理が料理レシピサイトに掲載されるほど広く親しまれている。

 テレビドラマ版の『きのう何食べた?』は、『孤高のグルメ』や『忘却のサチコ』といった「飯テロドラマ」と同じ「ドラマ24」の枠で放送された。

 本作も同様に、シロ(西島秀俊)が作る仲直りの煮込みハンバーグ(第8話)、ケンジ(内野聖陽)が大晦日に食べるサッポロ一番味噌ラーメン(第5話)、多忙なシロとケンジが三週間ぶりに食卓を囲んで食べるオムライス(正月スペシャル)など、視聴者の空腹を誘う飯テロドラマとして見事に成功した。

 しかし、『きのう何食べた?』は単なる飯テロドラマではない。

年老いていくことに向き合う

 2010年代半ば前後から、トランス女性やゲイ男性などを主要人物として描く映画やテレビドラマの製作が国内で増えた。

 それらの作品すべてが均等に肯定的に評価されるべきか否かについては、個々の作品分析が今後必要である。本稿が取り上げる『きのう何食べた?』もまた批判すべき要素が全く存在しない作品ではない。

 とはいえ、本作が突出しているのはエイジングの視座を作品内に導入している点に見出すことができる。エイジングとは、簡潔に言えば、誕生から死まで老いる経験を指す。誰しもが等しく経験する。本稿を読み終える頃には、数分前よりも年をとっているように、エイジング(年をとる経験)は常に起こっている。

 異性愛中心主義社会において、人々はライフコース(結婚、出産、子育てなど、社会的に定義されたイベントや役割)を特定の年齢で満たすことを期待される。異性愛者ではない人々や、異性愛者であっても異性愛規範に懐疑的な人々は、エイジングの過程においてこのようなライフコースとは異なる時間を生きる。例えばクィアな若者にとって、親や社会から期待される異性愛規範的なライフコースを満たせないのではないかという不安は重圧となり、しばしば命を奪う。

 中年男性のシロやケンジも同様の不安から自由なわけではない。シロが正月に実家へ帰る第5話では、隣人の子供達が遊びに来た時の両親の様子を見て、シロは「そうか、うちの親たちはもう、孫の代わりにお隣の子供達を可愛がることに決めたんだ」とぎゅっと唇をつむる【図1】。結婚や子育てなど、シロが年をとる過程で親の期待に反して叶えてあげられなかったことへの気持ちをそっと内にしまう表情だ。

【図1】隣人の子供と楽しそうに話す父を見つめるシロ

 『きのう何食べた?』は異性愛規範に囚われないエイジングの姿をシロとケンジの生活を通じて提案する。それによって視聴者には、中年男性のシロとケンジがこれまでどのように時間を過ごし、またこれから共に年老いていくのか、さらに二人の周辺にいる人々がどのように老いや若さと向き合っている/いくのかについて、登場人物たちと一緒に考える喜びが与えられる。

 よしながふみ原作のこの料理マンガは、これまで13年間の月日を費やしてゲイカップルがエイジングする過程を描いてきた。

 第1話から第12話までにおよそ1年半の時間が経つテレビドラマ版は、シロとケンジのエイジングをどのように「記録」することができるのだろうか。

 「記録」の手法を考える本稿では、テレビドラマ版『きのう何食べた?』の各話を分析するのではなく、ホームムービー的な撮影で構成されたオープニングクレジットにまず着目する。続いて、シロとケンジのホームムービーの特徴とその映画史的重要性について、東日本大震災後の家族の文脈で考察したい。

『きのう何食べた?』のオープニングクレジットの画期性

 第一話の冒頭、弁護士事務所で依頼者との面談を終えたシロは、若先生の修(チャンカワイ)から「筧先生は、きのう何食べた?」と聞かれる。シロが「きのう?」と反応し、夕飯の献立を思い出そうと視線を少し上に送ると、画面がブラックアウトし、OAUの主題歌「帰り道」にあわせて、以下のようなオープニングクレジットが流れる。

 フライパンで炒められる生姜焼きがミディアム・ショットでまず映し出される。縦型のフレームと動画撮影用の赤いボタンから、この映像がスマホで撮影されたものだと分かる。スマホのカメラは生姜焼きから右斜めにパンして、エプロン姿のシロをバストショットで捉える。シロは一瞬スマホを一瞥した後、左腕で撮影者を少し押しのけるような仕草を見せる。

【図2】シロとケンジのツーショット

 すると、撮影者のケンジがフレームインし、ハイアングルから自撮りのようにシロとのツーショットを収める。シロが再度ケンジを左腕で払い、ケンジがフレームアウトすると、シロは火を止め、すでに千切りキャベツが乗った皿二枚に生姜焼きを分けていく。

 スマホのカメラが再びシロに向けられると、シロはしかめっ面でケンジに向かって何かを言う。またもケンジがフレームインし、ケンジはシロが手を離せないのを良いことに、シロの頬にキスをしようとするが、笑いながら回避される【図2】。

 二人分に取り分けられた生姜焼きをシロが食卓へと運んでいく様子が移動ショットで撮影される。すでに副菜の並んだ食卓へと生姜焼きが加わり、シロに次いでケンジも食卓につき、「いただきます」と手を合わせると、二人の間に「きのう何食べた?」とタイトルが挿入されて、オープニングクレジットが終わる。

 たった一分ほどの長さだが、ケンジ撮影によるシロとのスマホ動画で構成されたオープニングクレジットは、『きのう何食べた?』がゲイカップルの過ごす日常を記録する作品として成立するために大切な役割を果たしている。もう少し詳細に見てみよう。

 ケンジが食卓につく前、彼はテーブルから少し離れた場所にスマホを横向きに置く。それによってオープニングクレジットの映像が縦型から横型へと、90度くるっと切り替わり、スマホ動画が画面全体へと拡張される。背景にいるシロがケンジの左肩を3度叩き、席につくように急かしている様子が映る。ケンジは急かされながらも、まるで家族写真を撮る前にカメラのタイマーをチェックする父親のように、動画撮影が継続しているのをしっかりと確認してから席についていることが分かる【図3】。

【図3】動画撮影が継続していることを確かめるケンジ

 ケンジの撮影するスマホ動画は、シロとの日常を記録するホームムービーの一種だと考えられる。ホームムービーとは、一般的に家族間や親しい間柄で、誕生日や運動会といった「ハレの日」と呼ばれる特別な日に撮影され、上映/視聴も限られた人々との間のみで楽しまれるアマチュア映画を指す。

 1980年代にビデオカメラが登場してからは長尺の撮影が可能となり、日常生活も撮影対象に含まれるようになった。さらに現代ではスマホでより簡単に動画撮影ができ、短い動画であればInstagramのストーリーのように24時間限定でシェアされることもあるだろう。

 ケンジがスマホを使って動画撮影する行為は、現代的なホームムービー撮影の実践である。オープニングクレジットが構成的に興味深いのは、ケンジ撮影のホームムービーがクレジットの最後に画面全体へ拡張され、『きのう何食べた?』の物語空間に溶け込んでいくように見える点だ。

 言い換えれば、シロとケンジが一緒に暮らす日常を捉えた様々な物語は、シロとの日常を記録するためにケンジが撮影したホームムービーが拡張され、視聴者はスマホのカメラが二人を捉える視点を共有された状態にある、と鑑賞体験を読み替えることができるのではないだろうか。

 『きのう何食べた?』の物語がケンジとシロの日常を記録するホームムービーだと仮定すると、本作は映画史/映像史だけでなく、エイジングの視座においても極めて画期的な試みだと考えられる。物語世界へと拡張されるゲイカップルのホームムービーがなぜ現代の文脈において重要なのか、東日本大震災後にテレビ放映されたあるCMの分析を通じて考えてみたい。

東日本大震災後の家族とホームムービー

 2011年の暮れ、東芝は「僕とLEDの10年」というLED電球のCMを放映開始した。

 このCMは、ある男性が電球を新しく取り替え、電気をつける場面から始まり、独身時代、新婚時代、妊娠、子供の誕生と成長、愛犬の死、そして家族の拡大を10年間のスパンで描く。まるで影絵のように登場人物たちをシルエットで見せる手法は、視聴者にとって、暖色のLED電球に照らされた部屋(家)で過ぎ去る10年間の物語と感情移入しやすい効果的な演出となっている。

【図4】電球を替えてから10年後の2021年12月31日が明るく照らされている

 このCMの最後、「10年前は想像しなかった自分」というナレーションと共に、2021年12月【図4】までに過ぎ去った10年間の1日1日がカレンダーのように提示される。画面がもう一度暗くなり、「同じあかりの下で、幸せな日々は続いていく。」というキャプションの後、新しく交換されたLED電球が夫婦と子供3人のシルエットを再び照らし始める。「今日替えたLED電球は、10年後の私たちも明るく照らしていることだろう」と、新しいDay1から始まる家族の未来を展望させる。

【図5】赤ん坊が立ち上がる瞬間をビデオカメラで撮影する父

 LED電球を交換して「〜日」経過したか示すことで、ある男性とその家族の日常がカレンダーのように記録されていく。例えば、「1804日」は赤ん坊が歩き始めた記念日である【図5】。CMは、父親が赤ん坊の初めての歩行をビデオカメラで撮影し、子供の成長(=エイジングの過程の一部)をホームムービーとして記録に残す姿を提示する。このように、ある家族がホームムービーを撮影するきっかけとなるのが子供の誕生であり、成長の記録が収められていく。

 ホームムービーの歴史は古く、映画が誕生した1895年にフランスのリュミエール兄弟が制作した『赤ん坊の食事』にまで原型を辿ることができる。屋外のテーブルで、兄オーギュストと妻マーガレットが赤ん坊の娘アンドレに食事を与えている様子を、弟のルイがシネマトグラフで撮影した一分弱の作品である。葉っぱや涎掛けを揺らす風の動きだけでなく、背景に映る土埃、そして生きている赤ん坊が動いている様子が捉えられていることに当時の観客は驚いたとされる。

 1920年代前半に不可燃性フィルムを用いた家庭用撮影機と映写機が登場し、日本でも富裕層や元々写真愛好家だった人々によってホームムービーが撮影されていた。戦後日本では、高度経済成長期に入った1950年代後半から8mmフィルム撮影のブームが再燃し、1964年の東京オリンピックや1970年の大阪万博といった大規模イベントへの家族旅行だけでなく、地域のお祭りやピクニック、誕生日や運動会といった「ハレの日」を中心にホームムービーが撮影されてきた。

 上記のテレビCMに映るホームムービー撮影の様子は、このような歴史の連続性の上に成り立っている。ここで見逃してはならないのが、ホームムービーは男女の夫婦と子供がいる家族を主体とした、極めて異性愛規範的なアマチュア映画である点だ。震災後に絆の重要性が叫ばれたとき、その絆にはもちろん友情も含まれたが、その中心にあったのは「僕とLEDの10年」が示すような異性愛的な絆、そしてその絆から形成される異性愛家族の増幅ではなかったか。

 【図4】は、ある一つの家族の10年間を視覚化したカレンダーである。しかし、視点を変えれば、このカレンダーが示す一日一日は、まるで集合住宅で暮らす別々の家族たちの家が照らされていると読むことも可能だろう。同一的な異性愛家族が震災から10年をかけて均一に増幅し、次の10年にかけてさらに拡大していく。この照らし出された家々の中に、シロとケンジが暮らす空間は存在しうるだろうか。

『きのう何食べた?』は同性カップルの未来を想像させうるか?

 同性パートナーシップの整備や同性婚に向けた法律上の議論が進められている一方で、同性カップルやトランス女性/男性を含む家族のイメージに対する豊かな想像力を、2020年代以降の映像製作者たちは養わなければならない。

 『きのう何食べた?』は、そのような豊かな想像力をよしながふみの原作から脚色することで獲得した。西島と内野の細かな演技によって、その想像力がシロとケンジというゲイカップルの日常へと表現されることで、多くの視聴者を説得させることができたのだろう。

 その想像力はエイジングの観点からも重要である。シロとケンジが共に年を重ねる過程が描かれるマンガが原作であるがゆえに、テレビドラマ版『きのう何食べた?』もまた、実際に西島と内野が年々老けていったとしても、いや、老けるからこそ、お正月スペシャルのように継続してシロとケンジのエイジングを違和感なく演出できるのだ。

 ケンジが撮影するホームムービーは、西島と内野の演技に染みついたシロとケンジが共に生きてきた時間を記録したものだ。第一話で二人が口論する場面において、ケンジは次のように吐露し涙を流す。「ごめん。でも。でも、うちの店の店長はお客さんに自分の奥さんや子供の話をするよ。なんで俺だけ、自分と一緒に住んでる人の話を誰にもしちゃいけないの?」と【図6】。ケンジにとって、オープニングクレジットのホームムービーは、「一緒に住んでる」シロとの日常を(視聴者と)共有する役割を果たす。

【図6】シロとの暮らしを誰かと話したいと打ち明けるケンジ

 シロはケンジの言葉に直接答える代わりに、手料理でケンジへの愛情を示す。料理を作ることがシロにとってケンジと暮らす日常の象徴なのだ。だからこそ、料理するシロを映すケンジのホームムービーがオープニングクレジットとして毎エピソードの始まりを刻むのは、『きのう何食べた?』が単なる飯テロドラマではなく、ゲイカップルの日常を映し出すことで異性愛規範的な定義をラディカルに作り変えるホームムービー的飯テロドラマであるからだ。

 日本映画やテレビドラマにおいて、中年や高齢の性的マイノリティを描く作品はあまりにも少ない。だからこそ、シロとケンジの日常を映像化する意義は、中年のゲイカップルが共に年を重ねる経験に対する想像力を地上波で拡散した点にある。中年のゲイカップルとして彼らが提示する日常は、無数にある生き方の一つに過ぎないかもしれない。しかし、二人が日常の連続のなかで年をとる姿は、シロやケンジと同世代の人々だけでなく、クィアな若者たちにとっても未来を想像するための糧となるだろう。

久保豊
映画研究者。専門は日本映画史(特に木下惠介の作家論)、クィア・LGBT映画史、クィア批評。喪と不在、触覚と体温、エイジングに関心があります。

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