高校生によるセックス・セラピー Netflix『セックス・エデュケーション』のススメ

カルチャー
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2024年3月31日に閉鎖されたWEBメディア「wezzy」(運営:株式会社サイゾー)に掲載されていた映画研究者・久保豊さんの批評を、著者の許諾を得た上で、OHTABOOKSTANDに転載します。

※初出:wezzy(株式会社サイゾー)。2020年1月13日掲載

 たとえば日曜洋画劇場を家族で見ていたとき、少しエッチな描写のせいで家族と気まずい雰囲気になった経験はないだろうか。

 家族団欒に亀裂を入れる沈黙。無駄に咳きこむ父。お茶を入れるために席を立つ母。僕はといえば、「サヨナラおじさん、今すぐ『さよなら、さよなら、さよなら』と言ってくれ」と強く願いながらテレビをただ見つめるしかなかった。悪夢のような時間だったと今も覚えている。

 現代日本社会はいまだに保護者と子どもの間で性/性行為に関する会話を避ける傾向にある。とはいえ、最近では「知ろう、話そう、性のモヤモヤ」をキーワードにセイシルというウェブサイトがSNSで話題となったりと、スマホやタブレットの普及が性に関する情報へのアクセスを容易にしつつある。

 テクノロジーの発展にはAmazonプライムやNetflixのようにオリジナルコンテンツを配信するプラットフォームも含まれると考えられる。スマホなどで気軽にそうしたプラットフォームを楽しめる環境は、若い視聴者が交際や性行為において相手を思いやり、また自分の身体を知る大切さを学ぶためのコンテンツ作りに貢献できるのだろうか。

Netflixオリジナルドラマ『セックス・エデュケーション』

 本稿では、性をテーマに扱う作品の一例として、2019年1月11日に配信開始したNetflixオリジナルドラマ『セックス・エデュケーション』(SEX EDUCATION)の第1シーズンを取り上げてみたい。

 イギリスを舞台にした本作の主人公オーティス(エイサ・バターフィールド)は、「性と関係のセラピスト」である母親ジーン(ジリアン・アンダーソン)と二人暮らしの16歳で、マスターベーションで射精できない悩みを抱えた男子高校生である。

 校長の息子でいじめっ子気質のアダム(コナー・スウェンデルズ)の射精問題を解決に導いたことをきっかけに、オーティスは高校で「ペニス噛み」と噂される隠れた秀才メイヴ(エマ・マッキー)に説得され「セックス・クリニック」を開くことになる。

 セックス・クリニックを訪れる患者=高校生やオーティスたち主要人物の視点を通じて、第一シーズンでは不安症、射精不全、性器の形状、膣に挿入されることへの恐怖、性的同意、SNSでのリベンジポルノ、妊娠、中絶、セックス中のコミュニケーションなど様々な性に関する重要なトピックが扱われる。

 『セックス・エデュケーション』が配信開始からわずか4週間で第2シーズン制作が決定されるほどの話題作となった背景には、どのような魅力があるのか。

 本作の題名は文字通り「性教育」ではあるものの、コンドームの使用方法や生理の仕組みなど、各エピソードが教科書的な内容に沿って展開するわけではない。だが、シンプルかつ明瞭なタイトルと扱うトピックの身近さは、The Guardianとのインタビューでバターフィールドが明かすように、出演者が期待していたよりも圧倒的多くの視聴者の関心を引き寄せることに成功した。

 その中でも本作の見所の一つは、思春期真っ只中の高校生たちがオーティスとの会話や様々な発見を通じて、それぞれが置かれた環境や身体を見つめ直し、様々な規範や性的に消費される視線を疑ったり回避する姿にある。本稿では、「精液」と「身体」という二つの観点から第一シーズンを振り返り、最後に第二シーズンに期待する変化を述べたい。

精液はどこ?

 第一話冒頭のセックス・シーンの最後、エイミー(エイミー・ルー・ウッド)は萎びたLサイズコンドームをアダムから奪い、「精液はどこ?」と問う。

 空っぽのコンドームを一瞥した後、アダムは気まずそうに目をそらしオフスクリーンを見つめる。まるでアダムの気持ちを代弁するかのように、 “I’ve got secrets I don’t know if I can tell you”(君に伝えられるかどうか分からない秘密があるんだ)とエズラ・ファーマンが歌う“Coming Clean”(告白するよ)が物語外音楽として流れ始める。カヌーが一台だけ浮かぶ大きな河を背景にSEX EDUCATIONのタイトルが挿入され、エスタブリッシング・ショットを経て、物語はオーティスの部屋へとゆっくりと移行していく。

 “I swear each mornin’, when I wake/ Today’s the day/ I’m coming clean”(毎朝目覚めるたびに誓うんだ。今日という今日こそは告白してみせるって)と続けるファーマンの曲に合わせて、カメラはベッドから天井を見つめるオーティスをバスト・ショットで捉える。何かを決心したような表情を浮かべるオーティスが、保湿ローションを染み込ませて丸めたティッシュとエロ本を並べて配置し、マスターベーション「事後」を演出し終えたタイミングで曲は終わる。

 ファーマンの“Coming Clean”は、なぜアダムとオーティスを音響的に結びつけるのか。エイミーの「精液はどこ?」という問いが的確に示している通り、それは二人が共通して射精へ辿り着けない悩みを抱えているからだ。

 そのような二人をシーズン1第1話冒頭で結びつける編集と、オーティスが助ける最初の人物がアダムである設定は興味深い。その点については後述するとして、まずは第一話でオーティスが廃屋のトイレでアダムをどのようにカウンセリングするのかを見てみよう。

 校長を父親に持ち、ペニスが巨大だと噂されてきたアダムは、他人の視線によってプレッシャーを感じてきたとオーティスとメイヴに吐露する。

 エイミーとのセックス中も彼女からの評価や射精のタイミングで父親が急に部屋に入って来ないか、と不安で頭がいっぱいだったと打ち明ける。

 「普通の子供で─普通のサイズだったらって。普通の父親だったらって」と呟くアダムの表情には暗いライティングが施されており、これまで誰にも告白できなかった寂しさが効果的に演出されている。そんなアダムに対するオーティスの助言は、「自分の環境もペニスも[自分の一部として]誇りに思う」ことによって「自分を受け入れる」というものだ。オーティスの助言を受けたアダムは射精に成功し、性に関する自己肯定感を取り戻す。

 一方、オーティスは第1話の最後でマスターベーションするものの射精には至らない。

 オーティスは射精できない自分を偽るのを止め、事後演出グッズを捨てる決心をする。ボイスオーバーやフラッシュバックを用いた補足は避けられるが、オーティスとアダムが第1話の冒頭でつなぎ合わせられた編集を考慮すると、オーティスはアダムへの助言が彼自身にも当てはまると考えたのかもしれない。だからこそ、自分の状況を受け入れようとするオーティスは、マスターベーションできないことを母親に打ち明けると同時に、「自分で解決したい」と宣言する。

 おそらくレーティングの事情で本作は射精や精液を実際に見せないのだが、第1話で問題化される射精や精液のイメージはシーズン1を通じて繰り返し想起される。次節では、その一例として女性の皮膚に粘着する精液のイメージについて見ていこう。

身体を知る、身体を守る─皮膚にくっつく異物としての精液

 オーティスのセックス・クリニックで最も大事なことは対話である。基本的なセラピーの手法かもしれないが、重要なのはオーティスと患者との会話ではなく、患者がそれぞれの身体と向き合うことを促し、また恋人や友人といった大事な人物との対話へと導くことである。

 セックス中の電気ON/OFF問題で揉めるカップルには自分の好きな点を挙げさせることで仲直りへと導き(第2話)、セックス経験の有無で彼氏と仲違いした少女には彼の過去の行いではなく現在の彼と向き合うことを諭し(第3話)、セックスがうまくいかない幼馴染同士のレズビアン・カップルにはもっとコミュニケーションを取るように提案する(第4話)。

 オーティスのカウンセリングは必ずしも毎回うまくいくとは限らないが、成功例の一つとして、第6話におけるエイミーへの助言を見てみよう。

 第1話の冒頭で「精液はどこ?」とアダムに問いただしたエイミーにとって、セックスは男性を楽しませるものであり、彼女自身はオーガズムの経験がない。つまり、彼女はいつも気持ちいいふりをしてきたのだ(”I’m always fake”)。

 アダムと別れたあとに出会ったスティーヴとのセックス中に、彼女は「顔にイキたい?」「おっぱいの上では?」と彼に聞くのだが、彼は彼女の質問を丁寧に断り、逆に「君がして欲しいことは?」と問い返す。

 一度も男性に自分が何をしたいか、して欲しいかと聞かれたことがなかったエイミーは言葉を失い、オーティスに助言を求める。自分の体が何を求め、どこが気持ち良いかを知る手段としてマスターベーションを勧められたエイミーは、夜通しの実践を通じて、自分の体が喜ぶ場所や触り方を探り当てる。

 第6話の終盤に挿入されるスティーヴとのベッドシーンでは、エイミーは的確にどこをどのように触って欲しいかと彼に指示を出し、スティーヴも喜んだように応じる。エイミーの例が示すのは、マスターベーションが女性にとっても自分の身体を知る術であり、恥じるものではないということだ。

 スティーヴがエイミーの顔や胸への射精を拒む態度には、女性が何を望む/望まないかについて同意を得ずに、女性身体を精液で占有せんとする男性への批判を読み取れる。男性が喜ぶだろうから、と第1話と第6話のエイミーのようにセックスの最中に演技する人もいるかもしれない。本作はそのような演技を前提としたセックスには暴力的な側面が存在してしまう可能性を実は第1話の冒頭から指摘している。

 アダムに対して「胸の上でイキたい?」と聞くエイミーは、すぐさま「前に発疹が出たから、やっぱりバックで」と体位を変えてセックスを続けるのだが、ここでなぜ発疹が言及されるのか? それは発疹が異物に対する皮膚の拒絶反応であり、つまりエイミーが実際は精液を顔や胸にかけられることを望んでいなかったからだ。皮膚にくっついた精液を洗い流しても、発疹は残り続ける。発疹部位にイメージとしての精液がくっついたままなのだ。

 皮膚に粘着し続ける精液のイメージは、女性を卑下するための蔑称や性的対象として女性を見貶す男性の視線からも読み取れる。

 たとえば、SNSでのリベンジポルノを扱う第5話で、メイヴはなぜ彼女が「ペニス噛み」(“Cock Biter”)と呼ばれているかについてオーティスに打ち明ける。友人エリック(ンクーティ・ガトワ)との待ち合わせに遅れて苛立つオーティスに対して、メイヴはある少年からのキスを断ったのをきっかけに、あらぬ性的な噂を流され、4年間も「ペニス噛み」と呼ばれてきたと訴える。

 視聴者はメイヴの告白をオーティスの視点ショットを通じて知らされる。メイヴに対するオーティスの心的距離の変化に応じて、ウェスト・ショットからバスト・ショット、そしてクロース・アップへとカメラは次第にメイヴに近づいていくエモーショナルな場面だ。

 ここで注目したいのはメイヴが使うボキャブラリーである。日本語字幕では「容赦ないわ」(“This kind of thing sticks”)と訳されているが、“stick”(くっつく、粘着する、こびりつく)という言葉は粘着性を想起させる。キスを断られた少年が作り上げ、尾びれのついた噂話はセックスの話題ばかりで、彼女の身体は、触れてもいないのに皮膚にくっついたまま離れない精液のイメージに侵されている。

 そんなメイヴにとって、リベンジポルノ被害者へのサポートは、女性を何年も苦しめかねない噂や他者からの蔑視的視線から守ることを意味している。自分の身体は自分のものであり、他者から占有されるのではなく尊重されるべきものだと、メイヴの告白は視聴者に呼びかけているのではないだろうか。

シーズン2はどうなるのか?

 斬新なタイトルと扱うトピックの幅広さから、『セックス・エデュケーション』は確かに若者だけでなく、様々な観客層への手広いアプローチに成功している。しかし一方で、シーズン1は恋愛至上主義で、誰しもが性愛に憧れるという価値観が物語を強く支配していた。 海外ドラマは日本のドラマよりもジェンダーやセクシュアリティの多様な在り方を物語世界に取り入れる巧みな手法を持っているが、多様性の名の下で無意識に排除してしまう存在たちがいることを見逃してはならない。

 また、オーティスの成長譚でもある本作には、「普通」への憧れやそれを達成することと「成長」を等しく扱う価値観が潜んでいる。そのような価値観がシーズン2でどのような発展を遂げるのか、注意深く考察する必要があるだろう。

 Netflixというプラットフォームを通じて、あらゆる人間関係で相手を思いやり尊重する大切さを学ぶ性教育が『セックス・エデュケーション』の物語に織り込まれることを期待している。2020年1月17日からシーズン2が始まる。

久保豊
映画研究者。専門は日本映画史(特に木下惠介の作家論)、クィア・LGBT映画史、クィア批評。喪と不在、触覚と体温、エイジングに関心があります。

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