人気漫画『弱虫ペダル』の著者である渡辺航も推薦する、フランスの自転車ロードレース「ツール・ド・フランス」について記された愉しく感動的な旅行記、『旅するツール・ド・フランス』(小俣雄風太)が2024年5月17日に太田出版より刊行されました。
日本では誰も知らないようなフランスの街並みやレースの様子を、著者の体験や写実的な文章によって「ツール・ド・フランス」を知っている人はもちろん、知らない人でも楽しめる一冊となっています。
OHTABOOKSTANDでは、本書の刊行を記念して全6回にわたり本文の一部を試し読み公開します。第5回は、第4回に続いて第1ステージについて紹介していきます。このレースが現地の方にどのように親しまれているのか、コースはどのような風景なのでしょうか?
第1ステージ
スタートの雰囲気
今年の最初の地はビルバオ。グランデパールであることで、レース開始前にすでに二日間を過ごしたが、やはりツール開幕当日の熱気はものすごい。昨日は閑散としていたサン・マメススタジアム周辺は人でごった返している。昨年フランスのどの町で見たスタート地点より人が溢れんばかりで、かつてイタリアのシエナ・カンポ広場で見たパリオ[*]という伝統あるお祭りを思い出させた。
[*] イタリアの各地で行われる競馬。それぞれの町の地区対抗となるのが特徴で、シエナのものが特に有名。世界一美しい広場と称されるカンポ広場に、パリオ当日は3万人以上がごった返し、その周囲を競走馬が駆け抜ける。集まる人の密度がとにかくすごい。
ツールの朝は早くない。スタート時間はだいたいお昼ごろだから、選手たちは朝10時頃になって会場にやってくる。チームで自転車の整備を担当するメカニックや選手の補給を担当するマッサージャーといったスタッフたちは、選手たちが到着するときまでにバイクや補給食の準備をある程度終えておきたいため、もう少し早めにやってくるが、それでも早朝ということはない。このタイムスケジュールは、レースのフィニッシュ時間に合わせてのものだ。一日200㎞弱を5時間ほどで選手たちは走り切るのだが、テレビ放送の都合上、フィニッシュ時間は夕方が望ましい。仕事を終えた人たちが家でテレビをつけるであろう17時半ごろに多くのステージがフィニッシュするよう段取りが組まれ、その日のコースの距離に応じてスタート時間が決まる。160㎞ほどの短いステージではスタートが午後になることも珍しくない。
チームバスで会場にやってきた選手たちは、戦闘服であるチームジャージに着替えたり、そのジャージにゼッケンをピン留めしたり、必要ならウォーミングアップをしてスタートを待つ。かつてのツールは一日の距離が長く、ステージの前半は暗黙の了解でゆっくりと進行することが多かったから、そこで選手たちは足を温めればよかった。だが、近年のツールは距離も短く、序盤から激しい攻撃合戦になることが多いので、レースの中でウォーミングアップができるほど悠長なものではなくなっている。
また、会場に向かうバスの中でSNSのチェックや、自身について書かれたネット記事、あるいはツールの中のゴシップなど、目を通さなければならないものも多い。まったく忙しい時代になったと、昔気質の選手なら嘆息するだろう。それはあらゆる情報を見逃せない取材陣にとっても同じである。
ウォーミングアップを終えた選手たちは、チームで集まってステージで顔見世を行う。スタート地点に集まる熱心なファンのお目当ては、出場全選手が登場するこのチームプレゼンテーションだ。かつては出走前にサインを行うのが、選手の顔見世の機会だったが、コロナ禍を経てサインの慣習は無くなった。今はより華やかなチームプレゼンテーションになったが、大会主催者のタイムスケジュールにはいまもこの時間は「出走サイン」(Signature)と書かれている。習慣は消えても言葉は残る。
ツールの取材スタイル
我々のようにクルマで取材するメディアは、選手たちがスタートする前にコースに繰り出す。先回りをして撮影に適したスポットで待ち構えるのだ。そして一度撮影をしたら、再び先回りして選手たちを迎え撃つ。コースのレイアウトにもよるが、一日に2〜4回こうやって撮影するのが基本的な動きとなる。コースの中を走って選手たちを追い抜くことが許可されていないため、2回目以降はコースの外を迂回して先回りすることになる。どんなルートをとるか、どうやって撮影回数を稼ぐかもフォトグラファーの腕の見せ所だ。スタジアムスポーツではありえないスキルを問われるわけだが、運転好き・地理好きの啓兄にとっては得意分野。「むしろこの行程こそが楽しい」という人種である。前日までにGoogle Mapでヴァーチャルロケハンをし、レース当日に各国のフォトグラファー仲間たちと話しながら、どこで撮影するかを決めるのだという。
そんな啓兄がこの日最初にクルマを停めたのは、アストラブデュアの町。レースコースのおよそ20㎞地点だ。大きな陸橋が架かっていて、いかにも写真映えのしそうなロケーション。この町の人たちがみんな出てきたんじゃないかと思うほどに、陸橋の上も下も観客で埋め尽くされていた。選手たちがやってくるまであと20分くらいだろうか。この間に、良い撮影スポットを見つけないといけない。僕は写真に関して、まったくの素人である。このツールを観るのを楽しみに沿道に繰り出してきた人たちを押しのけてまで写真を撮る道理は僕にはない。極力みんなの邪魔にならないように写真を撮ろうと思うが、それはそれでいい場所がない。人が密集しすぎていて、沿道にはまったく隙間がないのだ。こうした事態はツール取材時には毎回のことなのでいくつか戦略がある。
1 観客にフレンドリーに話しかけて打ち解けた後に、写真を撮りたいのだけど場所がなくて……と困り顔をする。
2 逆張りして人のいない高台や斜面などに位置取る。
3 諦めて人垣の後ろから、隙間にそーっとレンズを差し込んで撮影する。
1は効果的なのだが、ここはバスク地方。スペイン語もバスク語もできない僕にはコミュニケーションの手段がない。若者であっても英語が達者な人が少ない地域だ。
2はしばしば消極案として採用して、駄作を多数生み出すことになっているのだが、この場所に関しては使えそうなスペースもない。ということで、3を採用。案の定、撮った写真には前の人の後頭部だったり、スマホだったりが入り込んだ。これが3週間で最初の撮影だと思うと、先が思いやられる!
コースの外から先回りをして、次の撮影スポットとして啓兄がクルマを停めたのは、バキオという町。眼下にビーチの広がる、海岸沿いの崖の上の街といった趣だ。ツールのコースが海岸線沿いに走ることは意外と少ないので、海を絡めた写真を撮りたいのだろう。天気こそ、バスクらしく生憎の曇り空。だが、この町の人々が総出で沿道に繰り出しているようだ。突然現れたシトロエンから、日本人が降りてきたのにはひととき奇異の眼差しを向けたが、すぐに上空を飛ぶヘリコプターに関心は移った。空撮でレースを撮り続けるヘリコプターは、選手たちがまもなくやってくる合図なのだ。前年に撮った駄作の例。中途半端な斜面に陣取ったため、選手の到着に合わせ立ち上がった前の観客の後頭部がフレームインしてしまった。
こちらがカメラを構えていると、「フォト、フォト!」と対岸から声がする。10代後半の男女のグループが、私たちの写真を撮って! とアピールしている。そのうち何組かはカップルのよう。思春期真っ只中な彼らの毎日に、たまたまツールがやってきたというわけだ。彼らにはこのあと、バスクに残るか、それともスペインの他の町へ出るか、あるいは海外へ行くのか、選択が待っている。ひとつになってしまったヨーロッパでは、どんな町でも多かれ少なかれ若者が直面する人生の決断がある。今日のバキオでの、ホームタウンの恋人とツールを観た一日を、彼らは将来、どんな風に思い出すのだろうか。ツールはこうやって、いろんな人の人生に少し触れながら、パリを目指す。
* * *
美しい田舎町を駆け抜ける選手たち、道端で出会うヴァカンス中の人びとの熱狂──食、宿、自然etc…普通のガイドブックには載らない、フランスの原風景を体験できる“特別な3週間”の道しるべ。
小俣雄風太×辻啓 ポッドキャスト 書き起こしも抜粋収録されています。
生活の横をレースが通過する!ー「ツール・ド・フランス」がどのようにしてヨーロッパの人々に親しまれているのか、その魅力が詰まった一冊です。
『旅するツール・ド・フランス』(小俣雄風太)は現在全国の書店、書籍通販サイト、電子書籍配信サイトで発売中です。