政府から見放され、警察が去り、無法地帯と化した東京・町田。そこで暗躍するのは、当事者たちの間に立って事件を仲裁する「探偵」だった──。『布団の中から蜂起せよ』で注目を集めた気鋭のアナキスト/フェミニスト・高島鈴による新時代左翼小説。
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〈町田に来るならここは近寄るな!? 連邦化以後に治安が悪化したスポット5選〉
タイトルは流れるように決まった。
記事を書くなら見出しは命、一番扇情的なところを強調してPVを稼げ。ただし決定的なことは言うな。書いていないこと、言われていないことは書くな。ただ「そうかもしれない」を想像させるラインを狙って、読んだ人が記事をシェアしつつ何かひと言、言いたくなるように……。
一番最初に入ったWEBメディアの編集部ではそう叩き込まれた。別によくある会社だった。芸能人のSNSを巡回して、服のセンスが急に変わったのは恋人ができたせいじゃないかとか、所属事務所との間に実は何かわだかまりがあるんじゃないかとか、そういう記事を日に三つ四つと書き続けるのだ。当事者からすれば訴えるほど相手にする意味がない、でも顔のまわりにたかってくるハエみたいにしつこくて目障りなやつを、延々と。
そういう記事はよく読まれた。読まれるからもっと書くことになる。読者が求める情報を!というスローガンを見上げながら、私はずっと、あなたたちとは関係ない、本当に関係のない他者の人生に、なんでそうも首を突っ込みたいんだろう、とぼんやり考えていた。今、改めてああいう情報の濁流がいかに有害か、よくわかる。あらゆることが簡単に自分と紐づいてしまう、今の自分にとっては。
少し迷ってから「公開」ボタンを押す。小さなブラウザが起動し、緑のバーが左から右へ到達すると、本番サーバーに記事がアップロードされた。そこからさらに「LIFE配信用」というボタンを押して別のページに遷移する。LIFEは日本語圏最大規模のニュースプラットフォームで、ありとあらゆるサイトから配信されたニュース記事が検索エンジンのトップ画面に表示されるようになっている。正直LIFEからの流入がなければ、うちのサイトは一瞬でつぶれてしまうだろう、と思う程度には、凄まじいインプレッションがある。だからより有害だとわかっていながら、LIFE向けにはLIFEらしい、つまりより人を煽るタイトルを記事につけ直すのだ。LIFEのコメント欄はなるべく見ないようにしている。あまりにもひどすぎるから。
またちょっと考えてから、タイトルの頭に「危なすぎる……」という文字をつけ足して、「配信」ボタンを押した。これで配信は完了だ。
「はあ……」
事務椅子の背もたれに思いきり体重を預けて天井を見上げると、自然とため息が漏れる。どうせ誰もいない土曜日のオフィスだから、叫ぼうが歌おうが関係ない。
私がこの会社に来て、もう一年になる。当時は恋人に逃げられ、仕事もなく、ずたぼろの状態だった。たまたま飲み屋で居合わせただけなのに、経験の浅い私を雇い入れてくれた石和(いさわ)さんには感謝している。だが、仕事が好きかといえば、やはり私は、首を縦には振れない。
本番環境のサイトトップを改めて眺める。町田タイムス。〈今一番ヤバい街で何が起きているのか。町田住民アンケート治安編その2〉〈連載「ヤクザの歩く街」第38回:相模原大学生暴行事件の裏側に三島会系ヤクザの影?〉〈名探偵ファイルvol.126:皆川卯月 大久保家連続放火事件を解決に導いた天才探偵の横顔とは?【グラビアあり】〉〈一度は依頼してみたい!?スター探偵の所属する事務所ベスト10〉……。
「こんなことをするためにここにいるのかなあ~……」
勝手に言葉が口をついて出て、自分でもその素直さに笑ってしまう。この街がいかに荒れているかを喧伝するたくさんのおおげさな「反社」関連ルポとともに、その街を守る探偵たちがいかにかっこよくて優れているか、どんな素顔を持っているのかを記事にして出す(もちろん写真つき)。私が働いている媒体は、こうやってぶっ壊れた街のぶっ壊れ具合を全力で誇張して広めつつ、そのぶっ壊れをどうにかしようとしている人たちを下世話なかたちで持ち上げて、その広告代で稼いでいるのだった。嘘ではない、嘘ではないのだが、最低のマッチポンプだと思う。街の中の人間からは自嘲か拒絶かそもそもアクセスされていないか(おそらくはこれが大部分を占める)で、街の外の人間からは、ゲスい関心や素朴すぎる正義感でもって受け止められている。
別に、選べなかったわけじゃない、と思う。今だってバイトだし、バイトでよければこんなに人が減った街だって仕事くらいあった。それでも自分は、ちょっとでも何か、自分の言葉を表明できる場所で働きたかった。そうじゃなきゃ耐えられない何かが、おそらくあった。それが何かは、どうにも言語化できたことがない。
「そんなに疲れてるのかね、左岸(さがん)」
不意に背後から声がして、振り返ると石和さんだった。セミロングを無造作にうしろで束ねた、おくれ毛が目立つヘアスタイルに、何かの企業ロゴが入ったジャージを羽織った、いつもの格好だ。片手にはハイパーマーケットでしか見たことのないプライベートブランドのエナジードリンクを握りしめている。このクソまずいエナドリを、石和さんはいつも一六号沿いのハイパーマーケットでまとめ買いしているのだ。意味がわからない。
伸びをしたまま、椅子を回転させて石和さんのほうに身体を向ける。
「別に……多少ナイーブになってるだけですよ。生理前なのかな」
嘘ではない、と思いながら適当に流すと、石和さんはあっさりと「そう、お腹あっためなね」と言って隣のデスクに腰かけた。額に乗った眼鏡をかけ直し、抱えてきたノートPCを有線ケーブルとモニターにつなぐ。
「集荷、四時に来るから。なんか手紙類あればまとめといて」
「うす」
「あのあれ、西山さんだっけ、新しいライターさんの秘密保持契約のやつ、あれもう今日出しちゃったほうがいいから。あの人どこだっけ? 野津田?」
「いや、全然町田のほうすね……今出しときます」
「はいよ、頼んだ」
契約書のWordファイルを探しながら、自分のPCに刺さった巨大な有線ケーブルを見つめる。壁に沿って固定されたクラーケンの足みたいなそれは、オフィスの景色をどことなく物騒なものにしている。はっきりいえば見た目が悪い。だが、これがないとこの街ではインターネットがつながらないのだ。
なんとなく雑談したくなって、私はまた石和さんのほうを向いた。
「石和さんってここ出ようって思ったことないんですか」
「え? なんで?」
「いや、だって、まともに考えて首都圏行ったほうが断然働きやすいでしょ。こんなWi-Fiも飛ばせないところより、よっぽど……」
「それはさ、左岸も一緒じゃないの」
「私は、そんな、京都なんか高くて住めないですよ」
「いや、そうじゃん? 考えてみなよ。みんなが住んでるたっかい土地に住んで誰でも書けるニュース出すよりさ、誰も住みたくないやっすい土地に住んで誰にも書けないニュース書くほうが、よっぽど儲かるよ」
「そういうもんすかね……」
「そういうもんよ。自分の住んでない街のざわめきをさ、みんな一方的に求めてるわけよ。ちまちま悩む前に、記事にできるネタを探すのが先」
石和さんはスン、と息を吐いて、わずかに胸を張ってから、スムーズにモニターに向き直った。私はまだ考え込んでいた。その「誰にも書けない」ニュースとして出しているのがこのゴミみたいな記事なのか、と思う。ずいぶん麻痺したとはいえ、今も罪悪感は消えていない。悪いことをしている、とはっきり感じている。ただこの仕事に食わせてもらっている現実があるから、私は何も言えなくなる。
私はまた天井を見る。白くぼこぼこしたコンクリートにぼやけた汚れが染みついている。あの汚れがどんどん広がって天井を埋め尽くす想像をする。悪いことってそういうふうに広がっていくんじゃないかな、と思う。私が働いた悪が、実際のところそこまで悪化していないこの街の治安をむしろ悪化させて、いずれ世界そのものがうちのサイトみたいに変わってしまうかもしれない。そうなったらすべての淵源(えんげん)は私ってことにならないか?
口から無意識に「し」と発音される。に・た・い、という続きを発音する前にここに石和さんがいることに気づいてふっと口をつぐめば、すでに私のことなんかわかりきっている石和さんは、呆れた顔でこっちを見ていた。
「左岸、また考え過ぎてないか」
「そ、んな、ことは、別に……」
「まだ休憩取ってないでしょう。いいよ、西山さんのやつはこっちで巻き取るから、飯でもおやつでも食べてきな」
「いや、でも」
「ほら行った行った! お前は考え込むとわけわからん方向に飛ぶからな。頭冷やしてくるといいよ」
手をぴっぴっと振って、石和さんは私を追い払う。こういうときに石和さんはけっして「お前は何も悪くないよ」みたいな方向性の労りを見せない。だって石和さんだって、悪いことをしているとわかっているから。私の想像の飛躍だって、病気のせいではあるけれど、その空想をリアルに見せかける最初のひとかけらがあるから悪化するのだ。
それでもここにしがみつかなくてはいけない。
私は黙ってデスクを立って、上着を羽織って階段を降りた。外に出れば、押しつぶされそうに低い曇り空がのしかかってくる。
「死なない。死なない……」
小さな声でわざと口に出しながら、私は大通りに向かって歩き出した。
2
春先の空気は生ぬるく、スカッとしない。ここしばらくずっとそんな割り切れない天気だ。ただ街はいつもどおり、人通りはすかすかでありながら、ちゃんとギラついている。ビルを出て右に曲がれば、複数ある大通りのうちのひと筋に出る。
よくもまあ、こんなに人間が減ったのに、まだ店がこれだけ残っているもんだなあと思う。いまだに日本一売れているらしい巨大なブックオフはその象徴だ。電波通信の阻害が発生してからというもの紙メディアは一部地域でその地位を復権させたので、それなりに稼いでいるらしい。たしかにチェーンの居酒屋や喫茶店はかなり撤退したけれど、本屋はほとんど減らなかった。
ただもちろん景色は変わらなかったわけではない。明らかに美容院だったとわかるモデルの写真が使われた看板は、色褪せて誰かのグラフィティが上書きされている。一階が格安の古着屋であることは見ればわかるが、それより上の階のテナントは、名前を見てもわからない会社で占められていた。こういうのがとにかく多いというか、別に元からそこまで明快な街ではなかったけれど、長く続いた店がいなくなった空きテナントに怪しい会社が入って、結局何をしているかわからない、のっぺりとした雰囲気が生じている。自分が子供のころの町田はもっと自分の突き刺しがいがあったような気がする、と思う。思い出補正なのかもしれないけれど。
ノスタルジーから頭を切り替える。特に目的地がないので、とりあえず駅前に向かって歩を進める。昼時の町田駅前は、雑居ビルの前にいろいろとパックの惣菜を売る出店が並んでいる。昔は警察がいたから道に迫り出すなとかなんとか規制がかかっていたようだけど、今では誰もそんな注意はしない。誰かが嫌がって探偵でも呼べば別だろうが、実のところかつて警察が「迷惑だから」と言っていたような状況では、誰も迷惑なんかしていなかったのだ。
あちこちから漂ってくる食べ物の香りを嗅ぎながら、自分は何を食べたいのかを探る。いまいちイメージが湧かない。それより街の景色を見て、何かネタにできることがないかを探ってしまう。何か街に変化はないか毎日よく眺めて、なんでもいいから記事にできないかまず考えろ、というのが、石和さんのいつもの受け売りだ。……ううむ、脳内がごちゃごちゃしていればいるほど、ごま油とか醤油とかで涎を出すほどの余裕も失われていく気がする。
ネジが詰まったようなガチャガチャの頭を引っ提げて歩いていると、あちこちの張り紙や有線をだらだらと垂らしたサイネージが目に飛び込んでくる。そのほとんどが探偵事務所のものだ。
〈これって州法違反かも? そう思ったなら、ご相談ください。山科優希がお引き受けいたします。町田リス園連続殺人事件を単独で解決。安心の実績。山科優希にご用命を!!〉
このポスターの人はたしか昔うちの媒体で取り上げたことがある。来社してもらったが態度が横暴で、最初から最後までスタッフにタメ口だった。そして町田リス園連続殺人事件というのは、結局連続殺人ではないという結論だったはずだ。まだ連続とか言ってんのか。
〈ご近所トラブルなら津川探偵事務所。一五〇名を超える経験豊富なスタッフがご対応します。女性探偵多数在籍〉
ここは相当やり手の津川治孝とかいう探偵が立ち上げたチェーンの事務所で、町田と相模原に一〇カ所ほど存在している。津川は経営者としても名高く、メディア露出も多いが、本人は実のところほとんど現場経験がない、というのがもっぱらの噂だ。
〈Happy Birthday 由李架さん♡ ずっとこの街の名探偵でいてください♡〉
これはいわゆるバースデー広告、探偵のファンが金を出し合って看板を出すやつだ。目にまん丸い光が入ったアイドルみたいな写真が大きくあしらわれている。こんなに大きくて、いったいいくらくらいするんだろう。
みんな探偵が好きなんだと思う。どんなに関心がなさそうな人でも、最低限、うっすらと。
なんか怖いな。
ブルゾンのポケットに両手を突っ込んで、広告から目を逸らすために方向転換した、そのときだった。
「っぶねえなあ!」
ぶつかった?と思った瞬間にはもうすっ転んでいて、私は地面に手をつけられずにしたたかに半身を地面に打ちつけた。逆光の中で相手を見上げると、そこには明らかに堅気ではなさそうな人が立っていた。
「ご、ごめんなさい」
どっちが悪かったのか、を精査する前に謝罪が口をついて出る。とりあえず土埃を払って立ち上がれば、自分よりかなり背の高い、サングラスをかけた人物が肩をいからせていた。こんなにわかりやすいことってあるんだ。やくざや半グレを見た経験は職業柄何度もあるけれど、こんな間近で絡まれるのは初めてかもしれない。そう思うとおもしろくて、ついちょっと笑ってしまった。それが仇だった。
「てめえなんだ、にやにや笑いやがって」
「え」
「バカにしてんのか、バカにしてなかったらんな顔しねえよな」
え、やばいやばい、と思うほど顔は笑顔のまま硬直して、それがますます相手を逆上させている。相手は拳を握ってすらいないが、自分は勝手に悪い想像をふくらませてしまう。つまり、ここで殺されちゃったら、私は被害者になれて、いろんなことから逃げられるんじゃないかな、とか。
そう思ったら急に頭より先に口が回り出した。
「なんとか言えコラ」
「え、あの、あなたどこの組のご所属ですか?」
「は?」
「このへんを歩いてるってことは三島会系だったりします? 事務所すぐそこですもんね」
「……姉ちゃんよく知ってるなあ」
「はい、ありがとうございます、あの、調べてますので、そういうこと! あの、先月あった相模原の大学生暴行事件、あれって三島会の下っ端の方がやったって本当ですか? もちろんあの、噂ですけど、噂にしてはずいぶん広まってますから、肯定にしろ否定にしろ明言していいんじゃないかなって」
あれ、何言ってるんだろう。よく考えたらさっきの「よく知ってるな」って別に褒め言葉じゃ絶対なかったな。やくざの顔色が変わっていくのを見ながら、私はそれでもしゃべり続けていた。ついにゆるんでいた相手の拳に力がこもり、青白い血管が浮き出た腕が振り上げられるのを眺めながら、それでも私は他人事みたいに「こういう血管が好きな人ってけっこういるよね」と思っていた。
そのとき、背後から声がした。
「ちょっといいかな?」
ハスキーな中音域、かっこいい、とぼんやり考えながら視線を向けると、そこに立っていたのは、ちょっと見たことのない格好の人物だった。
最初はそういう服かと思った。だがそうではなかった。まくったジャージの下にのぞく腕、首、額から鼻先まで、見える範囲はほとんどすべてごく小さな漢字の羅列で埋め尽くされている。絶対にタトゥーシールではないデザイン。首のあたりで直線的なボブカットが揺れていた。この人は、何だ?
そう思っている間にその人は、骨っぽい身体をしっかりと私と相手との間に滑り込ませて、やくざのほうに向き直った。
「一回止まりましょうか。今これ必要ある?」
拳を掌(てのひら)で押し返されたやくざは、私と同じく状況がよくわからないようで、「んだ、てめえ……」と反射的に拳を押し返そうとする。
「質問変えますね。今この人を殴って、あなた、自分ひとりでその責任取れますか? たぶんこの程度のことで堅気を殴ったら、組の方は何も擁護してくれないですよ」
「わかったような口を……」
「わかったような、ていうかわかってるから。あなたのその靴、見覚えあるんだけど、たぶん中嶋さんのとこにいたんでしょう? 中嶋さんが履いてたアルマーニも靴の先にそういう傷があった。私あの人とはちょっと知り合いでね」
「中嶋さんの……?」
やくざが動きを止めた。その拍子にその人は私のほうを向き、「きみもよくないね」と言い放った。
「初対面の人に明らかにセンシティブなこと聞いていいとは、私は思わないですね。相手が誰だろうと、聞かれたくないことってありますよね。知らない人に聞かれたくないこと急に聞かれたらだいたいの人って怒るか怯えるかするよね」
「は、はい……すいませんでした」
私がつい謝ると、その人はもう一度やくざに向き直る。
「謝ってる堅気を殴るって、中嶋さんならどう思うだろうね。中嶋さんのお墓の前で同じことできますか?」
「……」
「もうわかってますよね。引いたほうがいいよ。人がいっぱい見てる」
たしかにあちこちの建物から人が出てきて、こちらを窺っているのが見えていた。あきらめざるを得なくなったやくざは「クソがよ」とだけ吐き捨てると、踵(きびす)を返して足早に去って行った。
何が起きたんだ?
やくざのうしろ姿を見送りながら、その人は私に向かって、「大丈夫?」と聞いてきた。
「は、はい……大丈夫です……あの、ありがとうございました」
「大変だったね。あんな程度で拳が出てくる時点で全然本職らしくないと思うんだけど、明らか本職だったし……やっぱ今この街ちょっとおかしいね。……とにかく、無事でよかったです」
それじゃ、と言ってその人はその場を去ろうとするので、私はまた頭より先に口を動かしてしまう。
「あの! ……あなたは、いったい」
「え?」
「いや、ええと、私その、WEBメディアの記者で。その……今起きたようなことを、記事にしてるんです。だから、その」
かなり先走っている自覚はあった。だが同時に、中嶋さん、とやらの謎のコネから、やくざと一般人の間に入る根性まで、私は目の前の人にすっかり興味を惹かれていたのである。何か街に変化はないか毎日よく眺めて、なんでもいいから記事にできないかまず考えろ。石和さんの言葉がはっきりとよみがえってくる。今がそのときではないか。
その人は切れ長の目をぱちくり瞬かせてから、はっと気がついたような顔で、「ああ、取材?」と尋ねた。妙に慣れた雰囲気があった。
「え? あ、取材、それでもいい、というか、個人的にも話を聞きたい、というか、あ、それって取材か……はい、取材です」
私があまりにテンパっているので、その人はけらけらと笑い出した。
「落ち着いてよ。話ならできる。けど、匿名で」
「匿名。大丈夫です。伏せます。写真も撮りません」
探偵は半分以上人気商売なので、匿名希望というのはかなり珍しい。何かうしろ暗いことがあるのだろうか、と勘ぐりながら、とっさにOKする。OKはしたが、普段写真家を呼んで顔まで載せることにこだわっているうちの媒体が、匿名の謎の人物に関する記事を掲載させてくれるのか、不安にもなってくる。あまりにもいろいろ急だったかな、とぐるぐる考えている私をよそに、その人はにこやかに対応してくれた。
「あはは。じゃあ名刺あげちゃおう。どっかに落としたりしないでね、マジで」
その人はポケットから財布を出すと、カード入れに挟まっていた小さな紙切れを手渡してきた。
〈合意形成専門 私立探偵 検校芳一(けんぎょうほういち)〉
そう刻まれた文字の下に、小さく電話番号とメールアドレスと住所の記載があった。探偵にしてはシンプルすぎる名刺だ。ここからそう遠くないところに事務所があるらしかった。だが重要なのは、そこばかりではない。
「しりつ……たんてい」
物語以外の中でも私立探偵なんているんだ、というのが新鮮な感想だった。私が知っているのは、メディアの中で微笑みながら自分の業績を誇る、いわゆる公立探偵だけだ。それは顔に出ていたようで、芳一は「そうそう」と自嘲するように頭を掻いた。
「まあさ、積もる話はまた今度で、本当に興味あったらまた連絡してよ」
じゃあ、またね。
それだけ言うと、三本線のジャージの袖を直しながら、芳一はその場を立ち去った。背中を見送る最中も、首筋に見え隠れする経文のタトゥーが、私の目に焼きついて離れなかった。
3
〈於・町田レンタル会議室第二 二〇××年三月七日一五時二〇分〉
──じゃあ、ご職業の説明から……。
検校 ええーと、私立探偵、と名乗ってますね。あちこちで起こる地域的な諍いに介入して、合意できるところまで持っていく、みたいな仕事です。そんな感じ。
──私立という部分を、もうちょっと伺いたいです。
検校 ああ、はい。ええと……普通の探偵と言われる人たちは、一応探偵と助手とがそろった状態で州政府に届出をして、それで初めて公共事業として問題を受託できるというか、まあ、要するに行政からの業務委託なんだよね。これが公立探偵ですよね。
──そうなりますね。
検校 それに対して自分がどう考えているかっていうと、市民の間で起きたトラブルに対して、まあ探偵と助手っていう存在を媒介してはいるけど、結局州政府みたいな大きな権力体が介入してるのは問題だよね、っていうスタンスなんですね。それはさ、警察と変わんないじゃん。せっかくなくなったのに。
──せっかくなくなった、って感じなんですね。
検校 いやまあ、若い人からしたらあんまわかんないかもしれない、って言うとなんか世代論っぽくて嫌なんだけど、私はまだ警察いたころの町田を覚えてる左翼だから、やっぱ連邦制になって警察解体されて、ってなったときは泣くほど喜んだんですよ。ケーキ買ったからね。「祝!警察解体」でチョコプレート書いてくれっつって、画数多すぎるってケーキ屋に嫌がられましたからね。内容はいいのかよと思ったけど(笑)。
──いや、自分も覚えてはいるんですけど、なんか親とかはすごい戸惑ってて、そういうふうに喜んでる人はまわりにいなくて。
検校 まあそれもそうか……。
──でもなんか、いい思い出みたいですね、ケーキ。
検校 それはそうね。やっぱ連邦化と警察解体のタイミングでこのあたりの地域に期待して逆に流入してきた人らっていうのもいたしね。そういう不良、いや不良っていうとなんかあれか。なんか何してんのかわかんない人たちが集まってきて、けっこうあの時期はアツかったんだよね。今もわりとその時期に町田来た人っていうのは、まだこのあたりをうろついてたりする。
──なるほど……。それですいません、話を元に戻すと、私立っていうのは……。
検校 ああ、はい。ええと、とにかく私は、市民が市民の間で問題を解決する術を持てばいいだけなのに、そこに行政がお墨つきを与えることで介入してくる、っていう権力の振るわれ方が、本当に嫌だったんだよね。警察はなくなったけど、まだ司法は生きてるし。そういう公権力じゃなくて、もっと率直な市民の対話で、解決できる領域ってあるよねって思って。それで、まあ、登録なしに、言ってしまえば違法に、探偵をすることにした。
──……それっていいんですか?
検校 まあ「よく」はないですよね。自分的にはいいと思ってやってる、とだけ。
──探偵自体は、連邦になる前から?
検校 そうですね。まあ、なんでしょう、なんかそんな感じですかね。うん。
──なんかそんな感じ、とは。
検校 ええー、説明しにくい。まあ、なんだろうな、今でこそ、いろんな相手と渡り合って交渉で事を収めるスペシャリストとして、「探偵」ってものが制度的に確立されてるじゃないですか。
──はい。
検校 連邦化前はね、そんなんなかったわけですよ。いやいなくはなかったけど、探偵は小説やらマンガやらのおかげで名前だけがひとり歩きしていて、実際は浮気やら他人の身辺やらをまさぐるのが主な仕事だった。私みたいな存在は名前もなくて、ただちょっと人の顔を覚えるのが得意だとか、口が回るからって理由で、警察に持っていけない話をどうにか丸く収まるように調整する。そういう存在だったわけね。
──それって今でいう公立探偵みたいなことを、連邦化前は検校さんがやってたってことですか?
検校 それは半分あたりで半分はずれって感じだなあ。やっぱり公立探偵って州政府から給料が出てるわけで、やくざの方とかが依頼するってことはまず不可能じゃないですか。
──それは普通に考えられないですね。
検校 そうでしょ。でも私は連邦化前も今も、身分に関係なく仕事を受ける。公立探偵の手からこぼれ落ちる人たちは私みたいな人間のところに来てくれる。だからやってることは変わってないんだよね。ただ名前だけ、今は公立探偵っていうのがいて、それにカウンターを打ちたいから、私立探偵って名乗ってる。それだけ。
──え、それってどっからお金もらって生活してるんですか?
検校 え、いやあ、それはさ、まあ、カンパ。カンパだよ。あはは。
「……」
検校芳一の話をまとめながら、これをどう記事にしたものか、私は完全に図りかねていた。今なら匿名希望写真NG、と言われた理由がわかる。芳一の存在は明らかに州法に反していて、たとえ公開したとしても、うちの読者は絶対に抵抗感を示してくるだろう。結局みんなどこかで警察の解体に不安と喪失感を覚えていて、探偵に対しても警察であってほしいと思っているからだ。読者のほとんどは、素朴に州法違反を忌避している。読者のほとんどは、町田の「惨状」を見て「うちの街はこうでなくてよかった」と胸を撫で下ろしつつ、自分の街が「こうなる」可能性に危機感を持っている。読者のほとんどは、素直に「悪」が厳しく取り締まられるのを望んでいる。
……わかっている、こうやって自分が感覚的に理解したことを、大きな主語で語るのはよくない。もっと読者一人ひとりに話を聞けば、違った感想が出てくると思う。でも長い間LIFEのコメント欄を見続けていると、ここに書き込んでいる人が世界のすべてなんじゃないか、自分が日々すれ違っているあらゆる人も、LIFEに悪質なコメントをしている/し得るんじゃないか、という気がしてくるのだ。そしてそのように肌で察している自分の感覚が、まるっきり不正確だとは、どうしても思えない。いくばくかは間違っているかもしれないけれど、少なくともうちの媒体の読者に関していえば、私の見方で数字が出ているのだ。昔夕方のテレビで流れていたような「かっこよくて優しい法律の守護者」像を、読者は求めている。そして私たちも、自分の街をめちゃくちゃに貶してまでそれに応じてきた。
この文脈に照らして芳一の話に見出しをつけるとしたら、「無許可で探偵業、財源は「カンパ」……住民トラブルに個人で介入する違法業者のリアル」といったところだろうか。こういうのが瞬時に思いついてしまう時点で私は媒体の言語に侵されている。実際そのように提案すれば、石和さんはOKを出すだろう。それは目に見えていた。
しかし、いざ筆を走らせてみれば、いつもの下世話な記事にはできないのではないかと感じ始めた。芳一が街に投げかけている視線は、いつも接している公立探偵のそれとは違っている。上からでもなく、自嘲することもなく、ただまっすぐに今の混乱を見つめ、自分にできることを一つひとつ拾おうとしている。そして自分の仕事について、誇示も卑下もせずに語り……なんと言っていいかわからないが、必要以上のものを求めるような気配が一切なかった。これまでPR記事を頼んできた公立探偵たちの顔が脳裏に過ぎる。あの人たちから隠しきれずに滲み出ていた自己顕示欲の香りを、私はどこかで嫌悪してきたのだと、初めて気づいた。検校芳一という人の果たしている役割やその存在感は、これまで会ってきた誰とも似ていない。私はとんでもない人に出会ってしまったのではないか。私は何か、自分にしか見えていないものと目が合ってしまったような責任感を感じ始めていた。
この人の仕事はもっと知られたほうがいいような気がする。
だが果たして、それをどう発信すればいいのだろうか?
隣の席をちらりとのぞき見る。石和さんはいつものファッションにヘアバンドと分厚い眼鏡を足した風貌で、モニターに齧りついたまま小さな声で「はあー……」「まじかよ」「これはないわ」とつぶやいている。何が起きているのかはよくわからないが、話しかけられる雰囲気ではなさそうだ。
私は迷う。なんとなく振り返る。別の社員──野中さん──が当たり前のように別の公立探偵についてグラビアつきのゴシップ記事を編集している。LIFE向けに「【顔写真あり】あの名探偵の素顔」という画像リンクを挿入しているところだ。
これでいいのか?
私はしばらく迷う。迷うけれど、答えはもう出ているような気がする。
ちらと隣を見る。石和さんは相変わらず「くそー」などと言いながら作業しているばかりで、こちらが何をしでかそうとしているのかには関心を示さない。私は上着を取り、静かに席を立った。
とりあえず、取材を重ねること──私の選択はこれだ。
第2回につづく
筆者について
高島 鈴
- 1995年、東京都生まれ。ライター、アナーカ・フェミニスト。「かしわもち」(柏書房)にてエッセイ「巨大都市殺し」、『シモーヌ』(現代書館)にてエッセイ「シスター、狂っているのか?」を連載中。ほか、『文藝』(河出書房新社)、『ユリイカ』(青土社)、『週刊文春』(文藝春秋)、山下壮起・二木信編著『ヒップホップ・アナムネーシス』(新教出版社)に寄稿。初エッセイ集『布団の中から蜂起せよ アナーカ・フェミニズムのための断章』(人文書院)で「紀伊國屋じんぶん大賞2023」1位。