政府から見放され、警察が去り、無法地帯と化した東京・町田。そこで暗躍するのは、当事者たちの間に立って事件を仲裁する「探偵」だった。Webライターとして生計を立てる左岸(さがん)は、州法では認められていない「私立探偵」を名乗る検校芳一(けんぎょうほういち)と出会い、取材を申し込むが……。『布団の中から蜂起せよ』で注目を集めた気鋭のアナキスト/フェミニスト・高島鈴による新時代左翼小説。
4
「喫茶室 嵐山」。芳一の名刺を頼りにたどり着いた「事務所」は、かけられた看板からして明らかに喫茶店の居抜きだった。カウンター席にもテーブル席にも誰もおらず、ただ芳一ひとりがカウンターの中で楽しそうにコーヒーを淹れている。
「ここ、が、仕事場なんですか」
おっかなびっくり尋ねると、芳一は「そうだよ!」と朗らかに応じる。
「もともと友達が身内から相続した物件でね。たまに本気でカフェだと思って入ってくる人もいるから、そういうときは何も言わずにコーヒー出したりしてる」
「それっていいんですか」
「さあ? いいんじゃない。……なんかきみ、そういうことばっかり聞くね」
そう言われて、はっと自分が恥ずかしくなるような気がした。ただ目の前にいるこの人の言葉を、私は素直に受け止めずに、何かと照らし合わせながら聞いているらしかった。でも何かって何? そういう考えになるのは誰しも当たり前じゃないの? 私が悪いのか?
私がひとりで百面相をしているのを、芳一は興味深そうに見つめ、「で、何を話したらいいのかな」と聞いた。
「あ、ああ、はい。何をってわけじゃないんですが……仕事の様子を、見せてほしいなって……」
「仕事ね。仕事か……仕事の話をするんじゃなくて、仕事が見たい?」
「え、はい……」
芳一はカウンターに両手を突っ張ったまま考え込む。そうこうしているうちにお湯が沸き、芳一はそのまま振り返ってコーヒーのドリップを始める。
「はっきり言ってうちの仕事は他人にほいほい見せていいものじゃない。対立し合っている双方の話を真摯に聞いて、お互いが妥協できるところまで状況を物語ること、それによってその後の補償や謝罪の段取りを導き出す。そういうことを可能にする要因には、その場に誰がいるのか、って問題が必ず関わってくる」
「そう、なんですか」
「考えてみてほしいんだけど、自分のお客さんは少なからず公立探偵に言えないことがあって私のとこに来てるんだよね。そういう人が報道機関がいる状況で自分の状況を語ってくれるとは、少なくとも私は思えないんだな」
とぽとぽとぽ、とコーヒーがサーバーに落ちる音を聞きながら、静かに会話の緊張感が上がるのをひしひしと感じる。うちが「報道機関」かというと微妙だとは思うが、基本的には芳一の言うとおりだと思った。これまでうちの媒体がやってきたことを思えばなおさら。
事務所まで来て、私は何をやっているんだろう。考えなしすぎないか? バカなのかな。
そう思うと急に込み上げてくるものがあって、私はぼたぼたと涙を流し始めた。他人事みたいに身体は勝手に働く。泣いたらよけいに迷惑に決まっているのに、私は何を。
ほかほかのコーヒーが入ったマグカップを持った芳一がこちらを振り向いてのけぞるまで、そう時間はかからなかった。
「え、なになになに、泣いてんの、どうしたどうした」
「す、すいません、これは、違くて」
「違うって何が。ああ、ちょっと待ってティッシュ……ごめんなんか私の言い方がなんか、ひどかったか」
「違うんです、そうじゃなくて、私が悪いだけなんです」
口に出すとよけいに泣けた。いつもそうだ。私はよけいなことばかりして、人の気を毎回損ねては取り返しのつかないところまで傷つけてしまう──いや、そこまでじゃないのは自分でもわかっている。だがそうじゃないよ大丈夫だよといくら言われても、私の中では「相手に悪いことをした」というひとつの事態が急速にふくらんで100になって、私は存在しないほうがいいってことに、なる。なってしまう。どうしよう。こんなところで泣くなんて最悪だ。
芳一が差し出してくれたティッシュで目を拭いて鼻をかむと、少し視界がクリアになる。芳一が心配そうにこっちを見ている視線を感じて、つい逸らす。
芳一は語る。
「あのさ、いいとか悪いとか、そういうのになんかこだわってるみたいだけど……世の中ってそうじゃないんだよ。完全にいい人なんかいないし、完全に悪い人もいない。これは何もかもが〈どっちもどっち〉、みたいな幼稚な話じゃない。起きていることとしてはどちらかに明らかに責任のある話っていうのは絶対にあるし、どうしようもない理由でやらかす人っていうのはいるんだけど。いるんだけど、そういう人みんなが本質的に悪なのかっていえば、絶対そうじゃないんだ」
「……」
「前にインタビューされたとき、きみのところの媒体を聞いて、調べて記事を読んだ。きみのメディアの中で、私の街は悪いやくざに牛耳られてて、それを美形で清廉潔白な公立探偵が懸命に食い止めてる、って話になってた。そりゃ、そういう立場からすれば自分みたいなのはいいネタだよね。叩きやすいと思う。だから今日は、記事化を断ろうと思ってきみの訪問を受けた」
「じゃあ、もう」
「違う。違うよ。最後まで聞いて」
そう語る芳一の目が猛禽類みたいに光っていて、私はつい目を合わせてしまう。黄色がかったブラウンが、夕方の影の中でもらんらんと光る。
「でも今のきみを見ていると、苦しそうに見えるよ。私を踏みつけにする記事を書こうとしている人間にしては、なんだか迷いが多そうにも見える。……なあ、仕事は見せられないって言ったけど、きみが困ってるなら話は別だ。……探偵の出番、だったりしないか?」
気づけばじわじわとカウンター奥の窓から西陽が差して、芳一の顔に光の線が浮かんでいた。私の目にも光が飛び込んできた。薄暗い部屋の中に埃が舞っているのが見えて、手元のマグカップからは湯気が静かに立ち上がっていた。芳一はわずかに目を細めて、そこに立っていた。その景色を見て、なぜか私は、今救われてもいいんじゃないかと思った。この人は探偵で、私は困っていて、なら、差し伸べられた手は。
5
「あのさあ、やっていいことと悪いことがあると思うんだよね!」
石和さんがこんなに怒っているのは初めて見た、という感想で怯えをごまかそうとしている自分に気づく程度には、私は激怒する石和さんに震えていた。やはり無人の土曜日のオフィスを選んでくれたのは、最低限の配慮なのだろう。
〈公立探偵に取りこぼされた人のために 〝私立探偵〟に聞いた本当の町田と、そこに生きるということ〉
LIFEのトップページには、私が勝手に書いて配信した記事がばっちり掲載されている。あれから何度かインタビューを重ね、本人の確認も経たものだ。本家の町田タイムスに載った元記事はすでに石和さんの判断で削除されているが、LIFEに一度配信してしまったものは基本的にもう戻せない。記事にはすでにとんでもない数のコメントがついている。
「違法業者まで跋扈してるの? 州政府に通報もしないでこの記者は何してるの?」「やくざに手貸してる時点でやばいに決まってるだろ」「反社と関わった上できれいにまとめてるの草 まとまってねーよ」「これは編集が悪い」「前から反社の話ばっかしてる媒体だったけど、なるほど媒体側が反社だったってオチ?」等々……。
私は思いきって勝手に記事掲載まで踏み切ったわりにビビり散らかしていて、記事が載った直後からずっとエゴサーチを繰り返した。見える感想にも恐怖したし、見えないところでもきっと何か言われているのだろうと勝手に想像してさらに恐ろしくなった。なにより石和さんがブチギレているのが本当に怖かった。途中からこれ以上見たら自分が壊れると思い、コメントを見るのはやめた。こんなことしなければよかったのかもしれないと何度か考えたが、それでも私は、これまで書いてきたものに対して贖いたかったのだ。私が像を歪めてきた町田に、真摯に向き合う人の姿を書いて示すことで、本当の街のありようを外に発信したかった。
だがその考えは、当然ながら黙って半泣きになっているだけでは石和さんに届かない。
「本当にどういうつもりかわからない。うちの媒体つぶしたいの? いつもと違う記事ならもっとほかにやりようあったよね。よりにもよって反社をこんな距離感で取材するって、もう何言っていいかこっちもわかんないよ」
「つぶしたいとかじゃないです、その、本当の、本当の町田の平和を守っている人を、紹介したくて」
石和さんはさらに眉間に皺を寄せた。まずいことを言ったんだ、とそれでわかった。
「本当の町田の平和!? そんなもんあると思ってんの? 危機感足りなさすぎるんじゃないの? 客観的に考えなよ。反社に絆されたのかなんだか知らないけど、そもそもあんたみたいな若造が〝本当の平和〟なんて体験してるわけないじゃん!?」
そこで頭の中がぐちゃっとつぶれるような感じがして、二の句が継げなくなった。石和さんは私よりひと回り年上で、たしかに多感な時期に連邦化を経験して、私よりもずっと「古き良き東京」を知っているのだと思う。でもそれが、どうして私にとっての「平和」を否定できるんだろうか? 「客観的」という言葉が、私はどうしても嫌いだった。いつもその言葉に疎外されてきた。客観的に見れば、あなたの感じている恐怖は存在しないよ、と何度も他人に言われた。その「客観的」が私の見ている現実を否定しているということを、誰もわかってくれなかった。
私はよけいに泣けてきて、もっとしゃべれなくなった。えずいてえずいて、過呼吸になって、しゃべろうとしても言葉が出てこない。違うんです。検校芳一という人は。石和さんの想像とは。
誰か助けてほしい。
そのとき、背後のドアが開いた。
「お、いいオフィスじゃん」
やっと来てくれた、と思った。そこに立っていたのは、決定的に異様な、ただし一本の針葉樹のように屈強な、ひとりの私立探偵だった。
「検校さん」
「は? 誰? 左岸の知り合い? うちは部外者立ち入り禁止のはずだけどな」
石和さんは芳一のほうを見ずに、私のほうを睨んだ。私がまた縮み上がると、芳一は石和さんに向かって「穏便じゃないすね」と微笑んだ。
「はじめまして、検校芳一といいます。左岸さんが書いた記事の、インタビュイーです」
石和さんはさすがに驚いたらしく、過剰に瞬きをして「この人が例の?」と私に聞いてきた。私は急いでうなずく。石和さんはさらに私のほうを向いて怒り始めた。
「あんたさ、反社に会社の場所教えてどうすんの!? やくざ呼ばれたら本当にしゃれにならないんだけど!」
そもそも本当にやくざと芳一が「仲よし」なのであれば、芳一を好意的に紹介した記事で難癖をつけられるとは考え難いのだが、石和さんは反社に対する拒否反応でよくわからなくなっているらしかった。
芳一は石和さんを刺激しないよう、ある程度の距離を保ったまま、両手を大げさに掲げて見せた。
「誰も呼びませんし何も持っていません。落ち着いてほしいとは言いませんが、私はあなたと話がしたくて来ています、ということはお伝えします。それ以外の意図はありません」
「話……? 何? ぜんぜんこっちはついていけてないです、クレームですか?」
芳一の敬語に釣られて石和さんも敬語になる。これも芳一の戦術なのだろうか。私は静かに息を呑む。
「クレームでもないです。私自身としては、私のことを現実的に取り上げてくれる記事が現れたことを歓迎しています。もちろんコメント欄はそうはいかないみたいですが」
「全然意図が読めない。左岸、これは何?」
「え」
石和さんはまた私のほうを向き直る。あくまで私を通してコミュニケーションを取るつもりらしい。芳一はその間にわずかに前に進み出て、石和さんに近寄っている。芳一のほうを見ると、静かにうなずかれたので、私が話すべきなのかもしれないと思って口を開く。息を吸う。
「私、この記事を、出したかったんです。もっと言うと、この記事で、うちのメディアに変わってほしかったんです」
「……ナマ言うようになったね? うちがゲスいから清く正しく美しくなるべきだって? 反社の記事で? そんなことできると思ってんの? てかこれまでうちでやってきたんだから、左岸、あんたもじゅうぶん共犯なのに?」
石和さんははっきりと問題の核心に触れる。こういうときにしらばっくれる人じゃない、という点が、私が対話に臨んでもいいと思えた一因だった。この人はずっと自覚している。自分の生み出している言説の有害さを。自分がこの街の現実を編んでいるという事実を。
「お互い、わかってるじゃないですか……私も私で、償わなくちゃいけないことはあると思ってます。反省をするためにも、いいと悪いでぱっきり割れない話を、うちのメディアで、したかったんです」
「なんか偉そうなこと言ってんね……償う? あのさ、償われなきゃいけないのは私らの方なんだよ。街がめちゃめちゃになってるときに見捨てられてさ、人も減って食い扶持もなくなってさ、そんなの、それしゃぶって生きてけって言われてるようなもんでしょ!? しゃぶれるもんしゃぶって何が悪いの、私は悪いことしてるけど正当性あると思ってるから!」
償う、という言葉に反応して、石和さんの口からは堰を切ったように言葉があふれてきた。芳一はさらにもう一歩前に踏み出して、石和さんに近寄る。石和さんもそれに気づいて、「なんなの……」とつぶやく。芳一は微笑んで言葉を紡ぐ。
「石和絢さん。できればその話、ちゃんと聞かせてくれませんか」
フルネームで呼ばれた石和さんは眉をぴくりと動かした。あれ、ていうかなんで石和さんの下の名前なんて知ってるんだろう。
「は? なんの話?」
「石和さんが生きてきたこと、この街の話です。あなたがどういうふうに、何を経験してきたのか。それが、今のあなたの本心にもつながっている気がする」
「なんで見ず知らずのあなたにそんな話しないといけないんですか……」
「聞くのは私だけじゃありません。左岸さんがいます」
石和さんの表情が怒りから怪訝そうなものへと融ける。そこにわずか、扉が開いたような感触を得る。
「石和さん、われわれ、あまりに話さなさすぎたんじゃないですか。私がなんでこの仕事を任されてるのか、なんでこういう方針の下で仕事してるのか、それがわかれば理解できることもあると思ったんです。インタビュアーは検校さんですけど、聞きたいのは私です。……それに」
「何……」
「これ、記事になりませんか?」
6
〈於・中嶋ビル二階「町田タイムス」オフィス 二〇××年三月一二日一六時四〇分〉
──ご出身はどちらなんですか。
石和絢(以下、石和) ……町田。生まれてから今までずっとね。
──連邦化のころには、おいくつでしたか。
石和 高校生だった。さすがにいろいろものがわかる年齢だったから、あの電波障害が起きたタイミングで連邦化っていうのは、やっぱりおかしいって思って……明らかに政府の責任逃れ、トカゲの尻尾切りだったじゃないですか。今こそ地方分権を、とか聞こえのいいことを言って、その時期はやたら女性首長が持ち上げられたりして、一番厳しい局面を、手軽に切れる人に押しつけようとしてるのは明白だった。今でもおかしいと思ってる。金のあるやつだけが京都に逃げてさ。
──石和さんも京都に行きたかった?
石和 ……それは屈辱的な質問かもね。答えはイエス。でも私はこの街のことを愛してるよ。
──センシティブなことを聞いてしまって申し訳ありません。かなり葛藤があったんですね。
石和 そりゃあね。生まれ故郷ですから。最初は何があってもこの街から離れないって思った。でもどんどん憧れてた大学が京都や大阪に拠点を移していった。高三に上がる直前で、通ってた高校、都立のわりと進学校だったんだけど、そこの特進クラスがなくなるって言われた。クラスメイトも、〝ちゃんとした大学〟(指でダブルクォーテーションマークのジェスチャーをする)に行こうとしてる子たちは、家族ごと西に行くって人がけっこういて。なんか……それでちょっと、さすがに何か崩れたような気がした。
──石和さんに西に行く選択肢はなかった?
石和 なかったね。貧乏じゃなかったけど、お金ある家じゃなかったから。
──どんなご家庭だったか、無理のない範囲で教えてください。
石和 うーん……別に、なんでもない、よくある家だと思うけど……まあなんか、父親がわりと職を転々としてて、トラックの運転手とか、保険の営業とか、なんかいろいろやってた記憶がある。母は派遣のエンジニアだったんだけど、私が高校のときに会社ごと仕事がなくなって、それ以降は知り合いのつてでプログラミングの教材を書くバイトをしてた。あと下に妹がいて、そいつは高校卒業したらすぐ美容師になるって言って京都に行った。あの子にはもうしばらく会ってない。
──そうなんですね。石和さんは高校卒業後は?
石和 まあ大学には行こうと思ってて、でも親はなんていうか、実学優先というか、まあもっと専門とか、大学行くにしても理系で手に職つけたほうがいいんじゃないか、みたいなことは言ってきたんだけど、私はそのへんにあんまり興味なくて。結局受験して、秀明館大学の文学部に滑り込んだ。
──優秀だったんですね。
石和 まあ……勉強だけはね、って感じですかね。ただ進学したら、入学前に調べてたような先生はあらかた関西のサテライトキャンパス、まあサテライトという名の本キャンだったけど、とにかくそこに籍を移してて、授業は非常勤の先生が回してたのね。別に非常勤の先生も必死で授業してくれてたしおもしろかったけど、ゼミの先生が毎年変わるとかざらで、体制として全然うまくいってなかった。教育現場崩壊、みたいなニュース、あのころけっこうあったでしょ。
──ありましたね。全然改善されないまま放置されていると思いますが。
石和 まあ、今のちょっとできるけど関東から動けない子は、みんな関西の大学の通信制に行くよね。私のころはまだ今ほど通信制がメジャーじゃなくて、そんな選択肢あるって考えなかった。
──大学では何を?
石和 まあ、一応英文学。でも私大学最後まで行ってないから、卒論とかは書いてないですよ。
──中退されたんですか。
石和 そういうことだね。大学入ってから、母の職場から仕事もらってバイトしてて、そこが教材作ってる会社だったんだけど、文章書くの楽しいなってなって。それで仕事してるうちに、WEBメディアにも出入りできるようになって、久々にがっつり触れたインターネット環境がおもしろくて、そっちに夢中になっちゃったんだよね。三年生の春学期で辞めちゃった。
──夢中になれるものがほかに見つかったんですね。石和さんにとってWEBメディアは何がどのようにおもしろかったんですか?
石和 なんだろう、やっぱレスが早いことと、……なんか小っ恥ずかしいんだけど、良くも悪くも人とつながれるところ。ただでさえみるみるうちに街から人が減ってくのを間近で感じてきた人間としては、ネットの「いろんな人間がたくさんいる」感じがとにかく、すがりたくなるようなものだったんだよね。ネットもこのへんで自宅に引くってなるとちょっと現実的じゃない値段になるから、それなら仕事でネットやるっていうのが一番よかった。
──すがりたくなる……。
石和 検校さんだっけ? あなたはずっと町田?
──町田ですね。同じく生まれたころから。
石和 じゃあこの感覚もわかるんじゃない? 幼なじみといえる人が、軒並み遠い土地に行って、自分より明らかにいい暮らしをつかみ取っていく状況への、まあ、なんだろう、悔しさまでいかないけど、虚しさ、寂しさみたいなもの。
──私はちょっと事情が違うので、そのお話にはあんまり共感できないんですが、状況自体はお話から察することができます。
石和 ああ、そう……。まあね、そりゃ経験は簡単にシェアできないよね。まあでもずっと、自分の中には「取り残された」って感覚がすごいあるわけ。嫉妬といえば単純だし、しょうもないんだけど。
──そう思っていても無視できない感情というのは、あると思いますよ。
石和 ……そうだね。そう思う。二〇年近く経っても忘れられないんだから、それはそうなんだよね。
──その「取り残された」感覚と、今のお仕事ってつながっていると思いますか。
石和 ……それって今回の核心に近い質問なんじゃない?
──そのとおりです。
石和 言っていいのかな……。まああとで編集すればどうにでもなるか。
──好きに話してください。
石和 取り残されたっていうか、見捨てられたっていうか……そういう気持ちが、まあ、あって。別にさ、今は望めば京都に移ることだってできなくはないんだ。それでもそうしないのは、関西に行った人たちを見返してやりたい、ここでちゃんと稼げるって証明したい、って思ってるから、かもしれない。いや、そんな単純にいえることでもないんだけど。
──なるほど。今町田タイムスで取り扱っている内容と、そのスタンスはどう関連しますか。町田タイムスは、私が読む限り、町田の治安の悪さを誇張して書いて、それに対処する公立探偵を美化して伝えるメディアだ、という印象ですが。
石和 ……まあ反論はできないね。私は、自分が書いてるものって基本ダークツーリズムだと思ってるわけ。いわくつきの場所をいわくつきの場所として紹介する。自宅でネットができるような地域の人やお金がある人は、町田の状況を読んで、なるほどこういう悲惨な場所があるわけね、って勉強する。もちろんそこには下世話な興味があるんだろうし、その点で私は悪いことしてると思うけど……街を見捨てられるよりいいと思う。探偵を持ち上げるのは町田も治安悪いだけじゃないんだよって伝えるために必要なこと。探偵制度がここまで普及してる地域はたぶん少ないから、珍しい話として売れるしね。それにみんな「荒れた街に立つ正義の味方」なんてイメージ、大好きでしょ。それをかっこよく見せれば読者は喜んでPVを増やしてくれる、探偵は宣伝になってうれしい、私はお金になってうれしい。三方よしとはこのことじゃない? ……あーあー、こんなこと載せていいのかな。
──まあ、あとからカットしたらいいですよ。
石和 うん、そうね……でもまあ根本的には、町田のこと見捨てないでほしかったんだと思う。半分は見捨てないでってなりふり構ってない気持ち、で、あとの半分は、見捨てられた土地で稼いで見返してやるよっていう、なんだろう、復讐心、までいくかわからないけど、そんな感じ……。
──それが、町田タイムスの原動力だったんですか?
石和 それだけじゃないけどね。私は文章を書くのが好きで、読者からレスポンスをもらうのも好きだから。でも、そういう気持ちから始まってるっていうのは、否定できないですね。うん。
──それを踏まえてですけど、左岸さんが書いた私の取材記事は、どうして出せないと判断されたんですか。
石和 ……これまでのメディア・イメージを裏切ることになるから。
──左岸さんの記事がどのようにメディア・イメージを裏切るのか、詳しく聞かせてほしいです。
石和 そんなに複雑な話じゃないよ。うちは公立探偵の紹介記事とか、お金もらって作るPR記事もやってるから、違法業者を好意的に取り上げるわけにはいかないってだけ。
──違法業者に好意的な媒体では、公立探偵のPRをする場所足り得ないと。
石和 申し訳ないけどそうだね。うちの読者はアウトローの話が大好きだけど、それは自分にとってリアルじゃないからで、アウトローがどういうふうに人間として生きてるのかって話には興味がない、ていうか……もっと言い方悪く言うなら、法律破ってる人が普通に生きてるってことに拒絶反応を起こすと思う。あー、ほんとにこんなこと書けない、記事には載せらんないけど。いや、なんか申し訳ないな、言葉が悪くて。
──言葉が悪いとかそういう問題じゃない気もしますけどね。さすがに私も「普通に生きてる」んで。拒否されようがなんだろうが、ここにいますよ。
石和 それはもう、本当に、あなた個人には申し訳ないと思いますよ。うん……すみませんね、そういう仕事で……。
──うーん、納得はしませんが……。というか、さっきの話、町田タイムスの読者にとって町田の状況はリアルじゃないってことですよね。
石和 まあ、敷衍すれば。
──それって、石和さんの考えてる「見返す」ことから離れていってはいませんか。町田が外の人におもちゃ扱いされるのを推進することになりませんか?
石和 ……そうかもね。でも、それでも……町田って場所があるって、忘れられるくらいなら、まだいいかもって……。
──記憶されるのは大事ですよね。でも、どのように記憶されるか、ってことも、大切なんじゃないですか。
石和 ううん……。
7
私は息を呑みながら対話を見つめていた。石和さんがどんな人生を歩んできたか、どんな思いで街を見つめてきたか、こんなにはっきり聞いたことはなかった。町田を複雑に愛していること。見捨てられたと感じていること。見返してやりたいという復讐心に似た何か。これまで私の側からは「お金のため」以外の理由があるとは思えなかったことが、もっと複雑な動機で行われているのだと、じっくり暴かれていくのを見た。私も私で、石和さんをきちんと認めようとしてこなかったのかもしれないと思った。悪い記事を作る悪い編集部の、お金が大好きな編集長。そういう認識に相手を留めておくことで、自分は違うとどこかで思おうとしてきたような気がする。
いい/悪い。明快な基準に見える。私の0/100思考にもがっつり噛み合ってしまう。でも、世の中はそのようには動いていない。数字で示せるものはごくわずかしかない。
私は黙り込む石和さんを前にして、机に配置していたボイスレコーダーを手に取った。録音はまだがっつり回っている。石和さんが眉をめて尋ねる。
「それ、記事にするの? ……言っとくけど、私、OK出す気ないから」
「しません。勝手にネットに上げることもできますけど、それもしません」
「……何が目的」
「代わりに、私が書いた検校芳一という人の記事を、もう一度アップしてくれませんか」
声が震える。芳一は事務椅子にもたれかかったまま、静かにこちらを見つめている。
「別にうちにアップするもなにも、LIFEにアップされたやつがあるでしょ」
「LIFEの記事は数カ月で消えます。そうじゃなくて、私は、町田タイムスを選んでわざわざ読みにくる人にこそ、この記事を読んでほしい。だから、うちの本番環境に載らないと意味がないんです」
どんな人がうちの媒体を読みに来ているのか、それはある程度単純化したペルソナでしかわからない。ただ少なくとも、町田という場所に関心を持っているってことは、わかる。そういう人がちょっとでもこの街の、曖昧な場所で「普通に」生きている人の存在を知ってくれたらいい。
爪が食い込む痛みで拳を握りしめていると気づく。変な汗をかいていた。石和さんにこれまでへらへら追従してきた自分が、初めて自分の意見を貫こうとしている。そう思うと急に、背後に巨大な穴が空いているような、途方もない心細さに襲われる。
そのとき、静かに手に何かが触れた。冷たい。
芳一の指だった。
芳一は私の拳を静かに解き、開かせる。妙な緊張感があった。ただ触られているだけなのに、お互いの体温の差で強く皮膚の境界線を意識してしまう。違う人間、他者がそばにいると強く知らされる仕草。こんなふうに人に手を触れられたのは久しぶりで、思わずびくっと身体を震わせる。
芳一は振動に気づいてすぐに指を離した。そして、石和さんに向き直る。
「もう大事なことは全部左岸さんが言いましたから、私からはもう特に補足することもないんですが……どうでしょう、LIFEのほうに、こんなコメントも一応ありましたよ」
芳一はジャージのポケットからおもむろに折りたたんだ紙を取り出してきて、私と石和さんに渡した。そこに並んでいたのは、LIFEという場所からは信じられないような、丁寧で好意的なコメントだった。
〈町田タイムスさん、見直しました。これまで露悪的な記事ばかりの媒体だと思っていましたが、見えない場所で街に向き合っている人の現実を伝える詳細なインタビューで、非常におもしろかった〉
〈こういう記事、もっと載せてほしい。連邦化で町田は特に行政がひどい状況に陥った街だと理解しているけど、それを逆手に取って活躍している人がいるのだと知って、興味深く思った〉
〈町田。自分の故郷です。自分は電波障害があると働けない職種で、生きるためにやむを得ず関西に移住しました。あれから街から人が減って、柄の悪い人も増えたと聞いて、帰りたくても帰る気になれなかった。でも、この記事を読んで、また帰ってもいいような気がしてきました。どんな場所にも、生きている人は当たり前にいて、工夫して暮らしているんだと思いました〉
私が見ていないうちに、こんなコメントが来ていたなんて知らなかった。驚いて芳一のほうを見れば、芳一はこちらに視線を投げてにやりと笑う。
「まあ、私と意見の異なる人もいますけど、でも見ている人は見ているんだな、受け取るべきものを受け取ってるんだな、って感じがしませんか。こういう読者こそ、大事にすべきじゃないかと思うんですが。どうでしょう」
町田を見捨てないでほしい、と話した石和さんは、コメントに目を通し、静かに紙をつかんでいた両手の力を抜いた。視線は天井を向いていた。
「……別に、これまでが間違ってたとか、そういう反省はしたくない。あれはやっぱり、私なりの復讐だったから」
芳一は微笑みながら、「うん」とフランクにうなずく。
「でも、もしかしたらもう終わってたのかもしれないね。……私のやり方は、あんまり意味をなしてないのかもしれない……」
「そう思うなら、そうかもしれないですね」
「……記事は再掲する。ただ、但し書きをつける。これはライターの私見が多分に含まれた記事であって、犯罪を推奨する意図はないと」
「……あなたはそれでいい?」
芳一がこちらを向いて聞く。私はすぐに首を縦に振る。
「それでいいです。それでも、わかってくれる人はいるはずだから」
なるべく強く発話しようとして、思っていたより大きな声が出た。
「……はあ……」
石和さんは目元に手を当てて、近くの椅子にしぼむように座り込む。一気に脱力したようだった。
「……左岸」
「は、はい」
「ほんとに、とんでもない人を連れてきたね」
「いや、それほどでも……?」
どう答えていいかわからずにそう言うと、石和さんはくくく、と静かに笑い始めた。
「左岸」
「はい」
「あなた、もう来なくていいや」
「え?」
これがけじめというやつか、と身体をこわばらせると、石和さんはこちらの目をしっかり見据えて、言う。
「うちはまだしばらく今の路線の記事を出すと思う。これまで取り引きしてきたライターさんを切るわけにはいかないから。……でもあなたは、もう好きなことを書いたほうがいいと思う。うちじゃなくて、もっと自由な場所で」
「……石和さんは」
「私は……これからどうするか、もう少し考える。……それでいいんでしょう。検校さん」
そう言って、石和さんの視線は芳一を刺す。芳一は事務椅子から立ち上がり、両手をおどけたように広げた。
「別に、私からは何も。……「いい」って断言できるような場所には、私はいませんから」
それを聞くと、石和さんは何かをあきらめたような、ほっとしたような表情で息を長く吐いた。身体の中の淀んだ空気を入れ替えるような、長い深呼吸だった。
すーっとわずかな音が続いて、止まる。
それを聞き届けると、芳一はひと言「行こう」と告げた。
「は、はい」
慌ててあとを追う。ドアが閉まる前に振り返れば、石和さんは何かつきものが落ちたような顔で笑い、こちらに小さく手を振っていた。
8
気持ちはすっきりしたが、仕事は失った──いろいろな気持ちが渦を巻くのを感じながら、私はオフィスをあとにした。これでよかったんだろうか。よかったんだよな。いや、そんないい悪いの二元論で言えることでもないか……とぐちゃぐちゃ考えていると、芳一が私をリズミカルな大股で追い越してきた。
「お疲れ」
「いや、こちらこそ、なんか巻き込んじゃってすいませんでした」
「ううん。巻き込まれんのが仕事だから、私」
その答えがあまりに軽やかで、こちらを責めない響きを持っていて、私は自責していない自分に気づく。風に煽られた髪が、私の視界をふと遮る。
これでいいのか、もしかして。人間って。
何かがわずかに解放された。その感覚に新鮮なものを感じて、私は芳一を見る。大きく伸びをした背中に、力強い肩甲骨が浮かぶ。本当に、何か、いいたとえかわからないけど、樹齢千年の木みたいだ、と思う。
そこでハッと気づいた。
「そう、仕事、ていうことは、お金」
今あんま持ち合わせないですけど、分割なら、てかいくらですか、とテンパる私を見て、芳一はケラケラと笑った。
「あはは。カンパだって言ったじゃん、別にこんくらいで、仕事ない人からわざわざもらわないから。安心して」
「いやでも、さすがに、ここまで付き合ってもらって何もないって」
芳一はやや首を傾げる。ボブカットがさらりと揺れる。首筋のタトゥーがのぞく。
この人のことをもっと知りたい、と不意に思った。さっきの石和さんのインタビューみたいに。この人は何を見て、どこを歩いてきたのか。何を考えて、何が原体験になったのか。その全貌。
そして芳一の口から出てきた答えは、何か心を悟る能力があるのかと思えるような提案だった。
「じゃあ左岸さん、うちで働く?」
「は?」
「仕事なくなったよね。うちも今人手足りてないから。公立探偵がいうところの助手ってやつかな? まあうちなら雑用だよね」
「え」
芳一の笑顔がどんどんうさんくさくなってくる。
「うん、ちょうどいいと思う。まずは試用期間で三カ月から行こう。給料は変わらないから安心してね」
「私、まだ何も」
仕事? 私立探偵の? そもそも探偵業なんか私にできるのか? それも私立? やくざと渡り合ったりするの? 私が? いやそれだけじゃないのか? 何すればいいの? てかいくらもらえるの?
私があたふたしていると、芳一は「え、何か断る理由ある?」ととぼけて見せる。
「ま、私は本気だから、考えておいて。とりあえず今はさ、交渉成立を祝って、何か食べに行こう!」
芳一は両手をがばっと上げると、飲食店の集まるエリアに向かって方向転換し、大股で歩き始めた。歩調はまるでちょっと浮いているみたいだ。私はその奔放な歩みにどうにか合わせつつ、不意に街を漂うごま油や醤油の香りに気づく。それから、その香りで素直に空腹を感じている自分にも。
まだ戸惑っている。けど、それだけじゃない。
「中華がいいです。中華!」
そう叫びながら、私は芳一の背中を追った。なんとなく、私はこの人の背中を長く眺めることになるかもしれない、という予感がした。
吹いている風の生温かさが、今日はやけに気持ちいい。
第3回は8/28(水)更新です
筆者について
高島 鈴
- 1995年、東京都生まれ。ライター、アナーカ・フェミニスト。「かしわもち」(柏書房)にてエッセイ「巨大都市殺し」、『シモーヌ』(現代書館)にてエッセイ「シスター、狂っているのか?」を連載中。ほか、『文藝』(河出書房新社)、『ユリイカ』(青土社)、『週刊文春』(文藝春秋)、山下壮起・二木信編著『ヒップホップ・アナムネーシス』(新教出版社)に寄稿。初エッセイ集『布団の中から蜂起せよ アナーカ・フェミニズムのための断章』(人文書院)で「紀伊國屋じんぶん大賞2023」1位。