芽々ちゃんはたぶんラメ入り
第2回

頬はたんぽぽ(前編)

芽々ちゃんはたぶんラメ入り
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恋をするって、人間だったら普通のこと? 静岡県の県立高校を舞台に、不器用で、情けなくて、かけがえのない恋が動き出す。注目の若手詩人・水沢なおが紡ぐ、高校生たちの青春群像劇。

高校二年生の穂帆は、同じクラスの園芸部のやのくんのことばかり考えている。毎日学校の花壇の手入れをして、いつも「ヤンヤンつけボー」を食べていて、人間にはあまり興味のなさそうな、やのくん。ついに個人LINEでやりとりができるようになった穂帆は、やのくんに小さな嘘をついてしまう。

 となりの席のやのくんが、植物図鑑をめくる。

 そのリズムに合わせて、わたしも小説のページをめくる。

 朝読書の時間、澄んだ池のほとりのように静かな教室。薄いカーテンの隙間から射すかすかに青い光は、枝から落ちたばかりの葉が震わす波紋のように、ゆっくりと白いページのうえに広がる。

 やのくん。

 やのくんの、手が好き。少し丸まった背中が好き。まっすぐな眼差しが好き。でもあなたが植物を好きだということが、なによりも一番好き。隣の席にいるあなたが、いつでも植物のことを愛していること。それだけで、さらさらと光のラメが降り注ぐ、わたしの世界は輝いてしまう。

 やのくんのめくる植物図鑑の、ほんの片隅に、わたしが収録されていたらいいのに。わたしという葉っぱ、わたしという茎、わたしという根、わたしという花、わたしという花粉、わたしという植物。わたしという名前を、存在を、そのやさしいまなざしでなぞってくれたらいいのに。

 そう祈りながら、わたしはわたしの選んだ本をめくる。

 光を見たばかりの、やわらかい葉に似た一日がはじまる。

 四限の終わりにチャイムが鳴ると、やのくんは家庭科の授業で作ったであろう青いナップサックを背負って教室から出ていってしまう。その姿を目で追いながら、ちよちゃんの机に昼食を持って集まる。昼休みは、いつも同じ吹奏楽部のちよちゃんと二人でご飯を食べる。今日はそこにカナカナも合流して、にぎやかなランチタイムだ。

「やんやん、また植物に会いに行ってんのかな」

 ちよちゃんが言う。やんやん、というのは、やのくんのあだ名だ。やのくんの存在を知ったとき、やのくんはすでにやんやんと呼ばれていた。

 コンビニで買った昼食を片手にみんなでベランダに出ると、三階から中庭が見えた。両手でフェンスを握って地上を覗き込む。遠くに見えるやのくんはサンドイッチを右手に持ち、そして左手に持ったぞうさんのじょうろで花壇に水を撒いている。

「やんやんって、園芸部の部長なんだよね。そんなにガチの部活なんだ」

 そう言いながら、ちよちゃんはおにぎりの半透明なパッケージを剥く。 

「いや、同じ中学校だった後輩が園芸部なんだけど、超ゆるいって」

「じゃあ、やんやんがガチってこと?」

「うん。やんやんだけがガチ」

 カナカナはコーンパンをかじりながら言った。ゆるい、という言葉に合わせて茶色いゴムで結ばれたポニーテールが揺れる。五月の心地よい風に撫でられて、そのまま明るいベランダに座り込む。窓の下に続く壁面に頭をあずけて、足をフェンスに向けて伸ばす。膝丈のスカートからのぞいたふくらはぎの真ん中あたりに陽があたって、透明な靴下を履いているみたいに見えた。

「うちの高校って、一年生は全員部活入らないといけないじゃん? 一番ゆるい部活が園芸部だから、帰宅部になりたいひとの受け皿みたいになっていて、名簿上は八十人くらいいるみたいだよ」

「へえー。吹奏楽部なんて、三学年合わせて十八人しかいないのに」

 そう言って、眉尻を下げながらちよちゃんと見つめ合う。

「わたしたち南高吹奏楽部は、ちいよわだから」

「なに、ちいよわって」

「弱小ってさ、ちいよわって呼んだほうがかわいくない? ちいかわみたいに」

 ふたりで声を合わせてそう言うと、カナカナは少し笑った。

 わたしも、強制加入の決まりがなければ、吹奏楽部には入部しなかったかもしれない。そういった部員はほかにもいるような気がする。近隣に吹奏楽部の強豪校があるから、本気で音楽に打ち込みたい人は、わざわざこの高校には来ない。でも、わたしもちよちゃんも初心者のまま入部して、それでもやさしく楽譜の読み方から教えてもらえる、この吹奏楽部が好きだ。

「やんやんも、毎日、植物の世話してえらいね」

「昼休みに必ず会いに来てくれて、一緒にごはん食べてくれるとか、彼氏だったら超いい彼氏だ」

「そうだね」

 ぱく、とサラダチキンにかぶりつく。肉を奥歯で噛み潰して、飲み込む。中庭に一本だけ生えた背の高い木の葉がざわざわと揺れている。

「はぁ、やのくんが好き」

 気がつくと、そう口から出ている。だから、クラスのほとんどの女の子には、わたしがやのくんを好きだってことはバレている。

「それは、推しみたいなこと?」

「うーん」

「もし、やんやんに告白されたらどうする?」

「そんなの、超付き合うに決まってる!」

「ってことは、やのくんへの好きは、ライクではなくラブなんだね」

 カナカナは指で宙にハートマークを描いた。ハート、つまりは心臓。それだったら、とっくにやのくんに捧げてしまっている。やのくんのことを考えると、心臓がどきどきして止まらなくって、自分のものだと到底思えない。

「うん。ラブだと思う。でもさ、だれかのことをこんなに好きって思ったの、はじめてだから。よくわかんない」

 わたしはフェンスに身を乗り出し、土をいじるやのくんの背中を眺める。制服のままやわらかい土のうえにしゃがみこんで、ズボンの裾が汚れないのかな。白いシャツから伸びる腕が、たんぽぽにふれる。枯れた葉をもぎると、じょうろで水を注ぐ。その水の一粒一粒が、ガラスのようにきらきらして見える。

「植物になりたい」

「急にどうした」

「やのくんに、あんなふうに大事にされたい」

 ちよちゃんとカナカナはちょうど食べ物を口に入れていたのか、しばらく黙っていた。

「大事って言ってもさ、園芸部が管理している花壇って、校門とか裏庭とか、ものすごい量じゃん。植物になったとしても、たくさんの中のひとりっていうか、一対一の関係じゃないっていうか、大事にはされるだろうけど、特別ではないじゃん?」

 ちよちゃんが言う。

「それでもいいよ。やのくんに大事にしてもらえるなら」

「でも植物になったら、やんやんに好きって言えないじゃん。付き合えないじゃん。恋人同士になれないじゃん。せっかく人間として生まれたんだから、人間同士でしかできないことがしたいじゃん!」

 ちよちゃんの叫びが、ペールグリーンに塗装されたかわいいベランダに響いた。

「人間同士でしかできないことってなに」

「手つないだりとか?」

 カナカナはそう言いながら首を傾げる。

「わたしはべつに、植物になったら、植物なりのコミュニケーションをしたいよ。葉っぱとか、たまに撫でてもらったら嬉しいし、たくさん光合成して、ぴかぴかの花とか咲かせるし」

 そういうことじゃない、と今にも言い出しそうなカナカナよりも早く、ちよちゃんは叫んだ。

「対等でいたくないの? やんやんと。人間と植物になったら、無条件に愛してもらえて幸せかもしれないけど、対等じゃない」

 対等とか、そういうのよくわかんない。

 わたしは一方的にやのくんのことを知りたいだけだし、やのくんには無条件にわたしのことを愛してもらいたい。植物になりたい理由なんて、本当にそれだけだ。わたしのことを理解するより先に、わたしのことを好きだって、そう思ってほしい。ふと触れてしまったあつあつのやかんのように、目に向かってまっすぐ飛んでくる虫のように、やのくんがわたしを認識した瞬間、反射的に、好きのシグナルを身体じゅうに送ってほしい。

「だって、人間のわたしになにをされても、やのくんはうれしくない気がする」

「それは自己肯定感低すぎるって」

 どうだろう。植物になりたいって、わりと欲深い願いだと思うのだけれど。だって、わたしは風とかじゃ満足できないよ。やのくんの前髪をやさしく撫でるだけじゃ、シャツのふくらみをつくるだけじゃ、満たされない。植物になって、わたしのことを一番に好きになってもらいたい。

「てか、明日からゴールデンウィークだね」

「うん……」

 うれしそうなふたりとは対象的に、わたしは少し浮かない気分だ。

「やんやんとしばしの別れだ」

 カナカナが、ぽんとわたしの肩をたたく。今年のゴールデンウィークは八日間もあって、一週間以上、やのくんに会えない。それだけで、日光不足の植物のように、わたしの心はしなしなと枯れていく。別に、毎日学校に行きたいってことでもないのだけれど。

「でも、連休中にちょっと冷静になろうよ」

「どういうこと?」

「穂帆には人間でいてほしいから」

 ちよちゃんは、みかんゼリーを食べながら、そうぽつりとささやいた。

 なんてやさしい友人なんだろう。

 風が吹く。春のやわらかさと、新緑の水っぽさが混ざったような心地よい風だ。色のないゼリーが、プラスチックのちいさなスプーンのうえでふるえる。

 昼休みも残り五分だ。歯を磨くため廊下にある水道へ向かうと、やのくんとすれ違う。蛇口をひねって歯ブラシを濡らし、ドア越しに教室内を見やる。やのくんはナップサックを机のフックにひっかけて、椅子に座る。リュックからヤンヤンつけボーを取り出して、蓋をあける。前の席に座っている石川くんが振り向いて、やのくんに話しかける。石川くんがなにか冗談でも言ったのか、やのくんはうつむきながら少し笑う。石川くんのために、チョコとスプレーがかかった特別な一本をつくってあげる。石川くんはそれを受け取って、躊躇いもせずぱくりと食べる。やのくんは、自分のぶんをまた、食べる。

 口をゆすぐと、排水溝に向かって泡が流れる。ハンカチで口元を拭い、リップクリームでくちびるを保湿する。廊下に壁に並んだ窓にうっすらと反射した前髪を、手ぐしで整える。なんか、今日は前髪の調子がいい。天気もいい。廊下も春の光でつやつやしている。明日からゴールデンウィークで、最悪、変なことを口にしても、反省したり、傷を癒す時間もある。

 今日だったら、話しかけてもいいような気がする。

 やのくんと隣の席になって、今日で約一ヶ月。いままで、必要最低限の会話しかしたことがない。プリントって二枚でいいんだっけ、とか、消しゴム落としたよ、とか、そんなありきたりで些細なことをすべて覚えている。

 わたしは静かに決意を固めた。

 やのくんのとなりの席の、椅子をゆっくりと引く。スカートがシワにならないよう、撫で付けてから座る。

「やのくんってさ」

 声をかけると、やのくんはつけボーを食べながら、こちらをちらと見た。

 心臓が、ハートが、もう自分から飛び出して透明になっちゃっているんじゃないかってくらい、どきどきしてうるさい。

「ヤンヤンつけボー、毎日食べて飽きたりしないの」

「うん」

「ずっと気になっていたんだけど、土日も食べてるの?」

「うん、食べてる。多分、五歳くらいから、ほとんど毎日食べてる」

 そうなんだ。

 新しいやのくんの情報が頭の中で駆け回って、細胞の一粒一粒が、星やハートやニコニコマークに変形しているんじゃないかってくらい、湧き踊っている。やのくんと会話している。やのくんが、わたしのために、言葉と時間をわけてくれる。

「わたしも、やんやんつけボー、好きなんだよね。子どもの頃、お母さんとスーパーに行くと、一人百円までお菓子買っていいよって言われてさ、つけボーは大体、百五十円くらいするから、予算オーバーで買えないんだよね。いつだって特別で手が届かない存在じゃん。だから、次に買い物行った時はお菓子我慢するから、今日はつけボー買ってって、そう言って交渉して買ってもらったりしてさ」

 ひとりでどんどん喋ってしまっていることに気がついて、顔が赤くなる。

「なんか、わかるかも」

 やのくんは、そんなわたしの焦りなど視界に入っていないようで、そっと頷いた。

「ヤンヤンつけボーの、チョコといちごだったら、どっちが好き?」

「チョコ」

「どうして?」

「チョコの方が甘いから」

 パッケージに描かれたパンダみたいに、白黒はっきりしていて、そういうところも大好きだ。そっか。甘いものがすきなんだ。かわいい。やっぱり、ベーシックが一番だよね。

「ヤンヤンつけボーって、どれだけがんばっても、スティックで掬いきれなくてさ、容器にチョコが残るじゃん」

「うん」

 やのくんが、頷く。

「そういうの、どうしたらいいんだろうって、いつも考えてる」

 わたしは、嘘をついていた。そんなこと、一度だって考えたことない。

 考えているのは、いつもやのくんのことばかり。

 部活が終わると、地平線が橙色に燃えていた。そのゆっくりと変わっていく空の色を眺めながら、自転車を駅まで漕いだ。鳥の群れのように、白いシャツをはためかせながら学生たちが道を往く。春と夏の薄着の間は、学校ごとの制服の境目は淡くなり、わたしたちはやすやすと混ざりあう。海沿いの校舎から、内陸にある駅に近づいていくにつれて、風はかすかにガソリンと土の匂いに変わる。

 駐輪場に自転車を置くと、わたしは駅前に唯一存在するショッピングモールの、くだりエスカレーターに乗った。水色の手すりをつかんで、人差し指をそのうえで弾く。鍵盤を弾いているみたいに。中学生の頃は、こんなふうに、放課後に寄り道することなんて考えられなかった。自分の足で歩いていける範囲に、こんなにもたくさんのお店があるなんて。コンビニも、雑貨屋も、ドラッグストアも、いままでは親の運転する車が無いとたどり着くことはできなかった。ただ、駅前を通るたびに、十年前まではこの街に百貨店があったんだよ、とママは言う。当時の記憶はほとんど無いけれど、たまに、百貨店のパン屋でおいしいチョコクロワッサンを買ってもらった。サクサクの生地の中に、甘くて硬い板チョコが入っている。たまに食べたくなるけれど、ほんとうに、たまにだから大丈夫。

 ほとんど無意識のうちに、わたしは地下にあるドラッグストアのお菓子売り場に向かっていた。店内は青いくらいに清潔な光で満たされている。他校の女の子たちが、コスメ売り場の前で、チークとスマホを見比べながら何かを話している。

 バッグがぶつからないように狭い通路をくぐり抜けて、お菓子売り場にたどり着く。新作のグミ、駄菓子、韓国で人気のお菓子、ファミリーパックのお菓子など、カラフルなパッケージがたくさん並んでいる。そんな中、ラックに大量のヤンヤンつけボーが陳列されているのを見つけた。その近くに、蛍光イエローのPOPが貼ってある。

《特売! ヤンヤンつけボー 本体価格100円》

 100円。ヤンヤンつけボーが、100円。

 130円とかでも、感動するくらいに安いのに。

 世界はわたしのためだけに動いているんだろうか?

 つい、そんな勘違いをしてしまうほど、ヤンヤンつけボーの山が光り輝いて見えた。

 わたしは、すかさずスマホで撮影すると、カバンに入るだけのつけボーを手にとって、レジへ向かった。

 自分の部屋のベッドに寝転がり、スマホをひらく。

 クラスのグループLINEにいる、やのくんのアイコンはやんやんつけボーのパンダ。

 ユーザー名は《やの》。

 やのくんは、LINE以外のSNSをやっていない。

 わたしは、意を決して、やのくんに個人ラインを送ってみる。

《となりの席の穂帆です!》

《やんやんつけボー、駅ビルの地下にあるスーパーに100円で売ってたよ》

 そして、さっき見つけたやんやんつけボーの値札の画像を送信する。

 瞬間、トーク画面をスワイプして、スマホをひっくりかえした。

 じっと天井を見つめる。なんだかわからないけれど、泣きたくなる。瞬きをしても、シーリングライトの平たくて丸い光が、目の中に残って、なにを見ても丸く光っている。

 三十分ほどして、恐る恐るLINEをひらくと《ありがとう》というスタンプが返ってきていた。実写のたんぽぽに、ありがとう、と初期設定のゴシック体の文字が雑に貼り付けられた、手作り感満載のスタンプ。

 作者はyanyan0518という名前で、多分、やのくんだ。

 しゅわしゅわと、ソーダ水にようにうれしさがいくつもはじけていく。やのくんのことが、大好き。大好きで、大好きで、大好きで、なにがきれいで、なにを汚く思うのか、もっと知りたい。

 休日の学校は、いつものはりつめた緊張感がほどけて、どの教室もやわらかい光で満ちている。音楽室の壁面に並んだ陽に灼けた音楽家のうち、ヘンデルと今日はやけに目が合う。いつもつるんとしたつむじの部長にねぐせがある。わたしはスカートの後ろで手を組んで、少しだけつめたい壁に触れながらその話を聞く。

 ミーティングの後、パートごとの練習がはじまる。十八人いる部員のうち、ゴールデンウィーク初日の今日、集まったのは十二人くらい。クラリネットは全部で三人。三年生の山野先輩。二年生のわたし。一年生の弓ちゃん。パート練は音楽室ではなく、空き教室で行う。クラリネットを背負い、楽譜と楽譜台を持って、音楽室から一年B組の教室まで移動する。旧校舎と新校舎をつなぐ渡り廊下を歩いていると中庭が見える。だれもいない。わたしは、ふと立ち止まり、窓の外にひろがる緑を眺めた。

 中庭にはおおきな円形花壇がある。レンガを組んでつくられた輪のなかに、たくさんの花がきれいに並んで植えられていて、土の色まで鮮やかに見える。やのくんは、昼休みになるとだいたいこの円形花壇の世話をしていて、そうでない時はたぶん、裏庭の畑の世話をしている。

「穂帆さん、どうしたの?」

 顧問の、津留先生の声がした。空き教室に散らばった部員たちの様子を見るために、巡回をしているようだった。

「庭、見ていました」

「そっか」

「中庭のペチュニア、もうすぐ咲きそうだなって」

「ね、蕾がふくらんできて、わくわくするよね」

 津留先生は窓のサッシをなぞりながら言った。

「園芸部って、すごいですよね」

「うん、すごい。園芸部のやんやん君って、穂帆さんと同じクラスだよね?」

「はい、そうです」

 津留先生も、やのくんのことを知っていた。もしかしたら、一年生の頃、やのくんは音楽を選択していたのかもしれない。

「やんやん君が入学してから、南高の花壇はよりきらきらしているなって思う。それまでは、毎日気にかけてくれるひとなんていなかったから」

「そうなんですか?」

「花壇の整備、堆肥づくり、植え替えとか、花壇をよくするために一生懸命がんばっていたみたいだよ」

 一年生の頃、わたしはやのくんの存在を知らなかった。だから、中庭の花壇のことも目にはしていたのだけれど、特に印象はない。きれいな花がそこにあって、だれかがそれを大切にしていることなんかにも、思いが及ばない。だから、いつも日常を彩ってくれていた思い出の花壇を実はやのくんがつくっていた、とか、そういう運命の恋ではなかった。むしろ、いまのわたしは、世界のなにもかもがラメをまぶしたように輝いてしまって、花壇も、植物も、同じ学年色の上履きまで、すべてが特別に見えるんだ。

「すごいですね」

「穂帆さん、クラリネット隊が教室で待ってるんじゃない?」

 津留先生はそう言い残して、ふたたび巡回をはじめた。わたしだけが、透明な糸で縫い止められたように、その場から離れられないでいた。

 やのくんにメッセージを送ってから、あっという間に三日が経っていた。ゴールデンウィーク中も、園芸部のだれかが水やりをしているのか、花壇の土はつねに濡れていた。

 シーツのなめらかさを両足で感じながら、やのくんとのトーク画面をひらいて、見つめる。前回は、ヤンヤンつけボーの特売、という大ニュースがあったから、こうやって話しかけることができた。他愛のない会話をしている姿が、いまはまだ、思い浮かばない。どうやって声をかけたらいいのか、なにを話したらいいのか、まるでわからない。

 人間同士でしかできないことがしたいじゃん、という、ちよちゃんの言葉がよみがえる。こうしたメッセージのやりとりも、きっと、人間同士でしかできないことだ。スタンプが帰ってきたときは、たしかにありえないほど幸福だった。でも、やのくんは? 人間と人間のままで、わたしたちはこれ以上通じあえるのだろうか。

 やのくん。やのくんは、どのくらい人間に興味があるんだろう。教室ではいつもひとりで、自分から誰かに話しかけているところを見たことがない。悲しくて、でも、その絶望に少しだけほっとしているような気もする。わからない。やのくんが人間になんか興味がないと思っているから、こんなに純粋に一生懸命に、好きって言えるのかな。ありのままのわたしを好きになってもらえる自信なんてひとつもない、と言いながら、諦めるための理由を勝手に見つけて、傷つかないようにしているだけなのかな。

 でも、やのくんのことが大好きで、やのくんの全部をしりたくて。やのくんの笑顔を一番近くで見たいって、そう願ってしまう。やのくんが植物に注ぐような愛を、わたしにも注いでほしい。

 だとしたら、答えは多分、ひとつしかない。

《あのさ》

《相談したいことがあって》

《やのくんが、園芸部だから言うんだけど》

《どうしたの?》

 既読、が黄緑色の吹き出しの隣に表示されてから五分後。

 白い吹き出しに、メッセージが表示される。

《わたし、ほんとうは人間じゃないんだ》

《どういうこと?》

《光合成しないと、生きていけない》

《ほほさんって、葉緑体があるの》

《うん》

《わたし、本当はたんぽぽなんだ》

 ついに、わたしは人間ではなくなってしまった。

 初恋が、わたしをたんぽぽにした。

頬はたんぽぽ(後編)は10月22日(火)配信です

筆者について

みずさわ・なお 1995年、静岡県生まれ。詩人。2019年刊行の詩集『美しいからだよ』で中原中也賞受賞。2023年、初小説集『うみみたい』(河出書房新社)を刊行

  1. 第1回 : ぼくは光合成
  2. 第2回 : 頬はたんぽぽ(前編)
連載「芽々ちゃんはたぶんラメ入り」
  1. 第1回 : ぼくは光合成
  2. 第2回 : 頬はたんぽぽ(前編)
  3. 連載「芽々ちゃんはたぶんラメ入り」記事一覧
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