今日までやらずに生きてきた
第5回

打ちっぱなしから始まる知らないことだらけの一日

暮らし
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今日までやらずに生きてきた。何度もその前を通っていたにもかかわらず、自分には縁がないと思っていたゴルフ練習場にいま向かっている。実際ゴルフをしたことはないがゴルフゲームならやったことがある。生まれて初めての打ちっぱなしを皮切りに、初めてづくしの一日が始まった。

初めてゴルフ練習場に向かい、2000円をチャージする

「午後から雨になるでしょう」と、テレビの天気予報で言っていた。外に出てみると、たしかに厚い雲が空を覆ってはいたが、雨は降っていない。南へ真っ直ぐ伸びた道路の左側にネットに囲われた一角が見えて、私はどんどんそこへ近づいて行く。

まさかここに向かう日が来るとは

桜宮ゴルフクラブ。ここはいわゆる“打ちっぱなし”のできるゴルフの練習場で、私の家からそう遠くない場所にある。その脇の道を、10年になる大阪暮らしのなかで、私は何度も歩いてきた。まだ小さい子を自転車に乗せて幼稚園へ向かったのもこの道だったし、天気のいい日に何のあてもなく散歩したり、酔った帰りにあやしい足取りで歩いたこともある。

営業時間中にこのあたりを歩くと、いつも「コーン!」とゴルフボールを打ち放つ硬い音が響いて、ネットの向こうに目を凝らすと、思った以上に多くの人が練習をしているのが見えるのだった。あれはなんなんだろう。楽しいものなんだろうか。それとも、本当のゴルフのコースに出たときに良い結果を出すため、辛いけど頑張ってああしているんだろうか。

どちらにせよ私には縁のないものだ……と、今日まで思っていた。しかし、今、私は桜宮ゴルフクラブの入口へ向かって歩いているのだ。建物の中に入り、受付で「初心者なんですがここで打ちっぱなしはできますか?」と聞いてみる。

天井が高く明るい雰囲気の桜宮ゴルフクラブ

スタッフの方が丁寧に説明してくださる。1球いくらと金額が決まっていて、あらかじめ専用カードにチャージした金額内で好きなだけ打てるコースと、90分でいくらみたいに時間に応じて決まった額を支払い、その時間内は打ち放題のコースとがあるようだ。カードにチャージする式のほうが気楽に利用できそうだったのでそうすることに。自分専用のカードを作ってそこに2000円をチャージする。クラブを1本レンタルすることにして、「1W」「FW」「7I」などと選べるなかから「1W」をチョイス。たぶんこれが最初に使う、飛距離のあるやつだろうと、実際にゴルフをしたことはないが、ゴルフゲームならやったことがあるから少しはわかる。

「1W」を借りた。思ったよりも軽かった

1階から3階まである打席の、2階の真ん中あたりを予約させてもらい、緊張しつつそこへ行く。階段をのぼると、前方に広い空間があり、向こうにゴルフ場のグリーンを模した地面があって、みんなそこに向かって打っている。球を打つ音と、ゴルフクラブを素早く振り下ろす際に出る「シュホッ」みたいな音がするだけの静かな場で、あとは、コーチをつけて教えてもらっているらしい人の会話が遠くかすかに聞こえるだけだ。

こういうことになっていたのか

打席に備え付けられた機械にカードを差し入れる。これから私は最大で92球も打っていいらしい。結構な数に思える。

球がここに自動で出てくる仕組みなのだな

何かを今から初めてしようとするとき、私は小心者なので、「このやり方で合っているのか?」と、そればかり気になってしまう。そもそも、これ、棒の上にゴルフボールがにゅっと自動的に出てきたのだが、これをこのまま打っていいのか? いや、その手前のスペースに球を置き直して打つのが正しいのか?

いや、こっちで打つのかな?

と、そこでしばらく考え込んでしまった。「変なやり方をして恥ずかしい」ぐらいで済めばまあいいが、マナー違反だったり、機械や練習場に不要なダメージを与えるようなことは避けなければならない。

スマホで簡単に検索した結果、この、棒の上に球があるティーアップ状態で練習してもいいし、そこから手前に球をおろし、ティーアップしない状態で練習してもいいらしい。よく考えてみれば、実際のゴルフって、最初の1打目はティーに球を乗せて打って、2打目からはコース上に落ちた球を直接打っているもんな。なので、そこは練習したいクラブや、練習のスタイルに応じて選べばいいようだ。私が借りた1Wはティーアップ状態で打つのが主流だろうから、そうしよう。と、まだ1球も打ってないのにちょっと疲れた。

いよいよ打ってみる。周りの人をちらっと見ると、プロゴルファーのように、クラブを高く振りかぶって打っている。一瞬、ゆっくりその真似をしてみたが、そんなふうにしたら絶対に球に当たりそうもないことがわかった。まずは、小さな振りで、とにかく球に当てることを意識してみよう。

よし、と、振ってみる。スッ。思いっきり空振りする。照れ隠しに「ははは」と小さく笑い声を出してみるも、静か。もう一度だ。コーン! と今度は当たって、ただ、球はあまり高く上がらず、ライナーっぽく、右へ切れるようにして飛んでいった。こんなんじゃだめなんだろう。もっと正しい打ち方で正しい場所に当たれば、高く飛ぶはず。何球かを立て続けに打ってみる。たまにちょっといい当たりがある。振りを意識せず、まずは球をしっかり見て当てること。飛距離は気にせず、そこに集中する。いい場所に当たると、手ごたえが違う。バシッと、芯を捉えた! という感触がある。ネットの向こうの道を歩いている人が見えた。あの歩道から聴こえる音のひとつを、私が発生させているのが不思議だ。

もっとうまくなりたいと思った

続けて打って疲れた。自販機でお茶を買って飲み、さっきスマホで録画した自分の打ち方を見て「周りの人と全然違う」と思う。めっちゃ不格好。コーチつけたい。それで悔しくなって、今度はスイングがぶれないように意識して打つと、また空振りしたり、力が入らなかったりする。難しいものだな。スタート時は92球も打てるかなと思っていたが、気づけば残球数がほとんどなくなっていて、最後はちょっと物足りない気持ちでやり終えた。これは、かなり楽しい。いい当たりになったときの爽快さが頭に残ったまま、クラブを返却して外へ出た。手が痛い。

初めてLUUPを借りて、歩道を押して歩く

夕方、森ノ宮で人と待ち合わせをしていた。それまでまだ3時間もあるが、家に帰るのもなーと、そのまま歩いた。すると「LUUP」という、最近よく街で見る乗り物が何台も停めてある場所があって、「一度乗ってみようか」と思った。

このキックボードみたいなやつ、よく見かける

この連載で前回体験した「アフタヌーンティー」を私に教えてくれた編集者のYさんが、最近、ちょっとした移動にLUUPを使っているそうで、その話も頭にあった。

看板に利用方法が書いてあって、それを読むに、まずは専用のアプリをインストールする必要があるらしい。そこから、代金を支払うためのクレジットカード番号を登録したり、身分証の画像を撮影してアップロードしたりという工程があった。さらに、私が乗ろうとしているキックボード式のLUUPは、交通法規についての11問の問題に全問正解しないと利用できないようで、その問題に取り組むことになる。幸い、一発で全問正解することができたが、こうして、実際に乗れるまでは少し時間がかかった。

必要な処理がすべて終わるとアプリ上で乗りたい車両を選ぶ段になり、目の前の車両の番号を選んでみると、自動で電源が入った。これで、もう乗れてしまうのだな。スタンドを上げ、車両を道路上まで引っ張ってきて、片足を乗せてみる。

「片足を前方に乗せ、2回ほど地面を蹴って初速をつける」「初速がついたら両足をボードに載せる」「アクセルをゆっくりを押して加速する」と、アプリに説明があった通りにしてみた。アクセルは右手側のハンドルについていて、親指で出っ張りを下に押し込んだらそれでスピードが出る。加速が予想以上に速くて「おっ」と思ったが、電動自転車に初めて乗った時に驚いたあの感じに近いと思った。いきなりスーッと進んで、重心が持っていかれる。なるほど、こういうものか。

いけそうだと思ったが……

私がLUUPの車両を借りた場所は、幸い、人通りが少なく、道幅にも余裕がある場所だったので、最初に練習をして動きに慣れることができた。これならいけるかもと思ったのだが、車通りの多い大きな道路に出たら、怖くて到底そこに進み出ることはできなかった。

こんな道に出ていくのは無理

LUUPのキックボード式の車両は歩道を走行してはならず、車道のいちばん左端を走るのがルールになっている。とはいえ、そんなにスピードが出るわけでもないから(出たらそれはそれで怖いのだが)、後ろからそれを追い越すことになる車にとってはやっかいな存在であろう。そう思うと車道に出ていく勇気はなく、ルール上、車両を手で押しながら歩道を通行するのは問題ないとのことだったので、そうすることにした。

京橋駅あたりから森ノ宮駅まで、結局はほとんど車両を押して歩いた。10分150円という金額を支払い、ちょっと重たい車両を押して行く。堂々と乗りこなせる人はいいのかもしれないが、私にとっては、いつも通り歩くほうが気楽だなと感じた。

車も人も通らない広い道があったらいいんだろうけどな

アプリを立ち上げてLUUP車両を返却できる場所を探す。返せたとき、少しホッとした。これで身軽だ。ここからは酒を飲んでもいいのだ。森ノ宮駅は大阪城公園のすぐ近くで、公園へ向かえば広場があり、ベンチもある。入口近くにキッチンカーが停まっていて、ビールも売っているようだったので購入。おつまみもつけてくれた。

LUUPを無事返却できた解放感を胸に立ち寄った
妙に美味しかったビール

ベンチに座ってビールを飲む。打ちっぱなしをして、LUUPに乗って、慣れないことを立て続けにしてこわばっていた心がほぐれていく感じがする。しばらくぼーっとしていると、待ち合わせの時間が近づいてきた。

初めてNさんとふたりで飲んだ立ち飲み屋で、常連の会話に耳を傾ける

駅の改札前でNさんと会う。Nさんとはこれまで何度も会ったことがあるが、それはいつも大勢の人がいる場で、ふたりで飲むのは初めてのことだった。森ノ宮周辺に詳しいNさんが、最近よく通っている店に連れて行ってくれることになっている。駅から少し歩いた場所にある「さかもと」という立ち飲み店が目的地だという。

Nさんが連れていってくれた「さかもと」

それほど大きな店ではなく、カウンターの前に10人も並べば満席だろうか。カウンターの向こうには優しそうな雰囲気のご夫婦がいて、その前に、小鉢の料理やおでんの入った鍋が並んでいる。

どれも美味しそうで目移りしてしまう

最初はおでんをもらうことに。やっと気候が涼しくなってきて、つい最近始めたのだとか。冬場は四角い、大きなおでん鍋で作るが、今はまだお試し期間で、小さな鍋に入る分だけ作っているそう。味がしっかりしみていて美味しい。

Nさんとゆっくり話すのも、この店に来たのも初めてで、やはり今日はどこまで未体験のことばかりだ。Nさんのお仕事のこと、この辺りに詳しくなった経緯、最近取り組んでいることなど、楽しく聞く。瓶ビールを2本、グラスに分け合って飲んで、その後はNさんが焼酎のロックを、私はレモンサワーを飲む。「今日、打ちっぱなしに初めて行って来たんです」と打ち明け、顛末を話すと、「とりあえず、手袋はしたほうがいいですわ」とアドバイスをもらった。

私たちがこの店にたどり着いたのは17時を少し過ぎた頃だったのだが、店内は盛況で、みんな常連さんばかりのようだった。Nさんと歩いているときにすでに雨がポツポツと振り出したのを感じていたが、それがいよいよ本降りになってきたようで、強い雨の音が店内まで聴こえてくる。

お会計をして帰り支度を始めた常連さんのひとりが、「なんや、雨降ってきたんか。出遅れたわ」とぼやく。それを聞いた別の常連さんが「少しぐらい雨に当たっても死なんやろ」と笑う。そんな会話を聞きながら、Nさんが注文したイワシの煮つけを箸先でほぐす。

私たちが来たときにいた常連さんがみんな帰っていき、そのかわりにまた別の常連さんがひとりまたひとりと現れる。ワイシャツ姿の方もいて、聞こえてくる話からするに、近所の大きな企業でお仕事をされている方らしい。

常連さんに愛される店、さかもと

少しあとから店に来た人がワイシャツ姿の方の顔なじみらしく、「○○さん、来てたの! うれしいです」と声をあげる。白いポロシャツを来たその人は中国の方で、1週間ほど日本に滞在しているという。日本語がとても上手だ。ワイシャツの人とはかなり昔から一緒に仕事をしているようで、ふたりは気軽に冗談を言い合う仲らしい。そのふたりのやり取りが面白くて、いつのまにかお店にいる全員が聞き手としてそこに参加しているような雰囲気になっている。

ワイシャツの人が「昨日、お昼食べましょう言うてたのに約束すっぽかしたやないか!」と言うと、ポロシャツの人は「どうしても行けなかったよ」と返す。「嘘や! 寝坊やろ! 中国人、噓つきか!」とワイシャツの人の強めの言葉に、「私はマシなほうですよ」とポロシャツの人が言い、笑いが起きる。ふたりの仲が深いからこそ成り立つやり取り。いいなと思う。

「お新香、食べる?」と、隣の方からおすそ分けをいただく。うまい。ここは、本当にいい店だ。Nさんに「最高な店を教えてもらってありがとうございます」とお礼を言う。

中国から来たポロシャツ姿の人がお酒のおかわりを注文すると、常連さんのひとりが「しかし、元気やなー! よう飲むわ」と言い、周りのみんなも「ほんま元気や」「すごいわ」と声を出す。ポロシャツ姿の人はグラスを高く掲げ「私、元気でしょう。まだまだ飲めますよ」とノリノリだ。そして、口をイーッと開き、「見て! この歯! すごいでしょう」と言うのだ。

「昔の人は兵隊を選ぶとき、歯を見たそうですよ。なぜかわかりますか。歯を見ると、全部わかるんです。元気な人はみんな歯が丈夫ですよ。私の歯、見て! 全部、自分の歯。ニセ歯、1本もないでしょう」

ワイシャツの人が「なに、ニセ歯? 日本人でもそんな日本語知らんわ」とツッコミを入れると、ポロシャツの人が「なんで! ニセ歯、みんな言わない?」と笑い出した。それにつられて店内の人が口々に「ニセ歯って! なにそれ!」と笑い出し、横で聞いていた私もなぜか笑いが止まらなくなる。「にせば」という言葉の響きが、なんとも面白くてたまらない。「ヒーッ! やめて! お腹痛い!」と、先ほど我々にお新香を分けてくれた人も身をよじってしばらく笑い続け、なんといい夜かと思った。

店を出ると雨は強くなっていて、折り畳み傘をリュックから取り出して広げた。「入りますか?」と、傘をささずに歩くNさんに言ってみる。「いや、帽子かぶってるんで、大丈夫です」とNさんは言い。それ以上強くすすめるのも変かと思い、自分だけ傘の下に入って私は歩く。高架下の、そこも初めて入る店で、さらに少し飲んで解散した。

雨の森ノ宮を歩く

今日体験した色々なことを思い出しながら歩く帰り道、コンビニに寄る。なんだか小腹が空いたぞと思い、少し迷った末、食べたことのないカップ麺を手に取った。

*       *       *

スズキナオ『今日までやらずに生きてきた』は毎月第2木曜日公開。次回第6回は11月14日(木)公開予定。

筆者について

スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』を中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』、『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』、『「それから」の大阪』など。パリッコとの共著に『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ”お酒』、『酒の穴』などがある。

  1. 第1回 : 疲労の果ての酵素浴
  2. 第2回 : 薬草風呂でヒリヒリした日
  3. 第3回 : ジムに2回行った
  4. 第4回 : ホテルの40階でアフタヌーンティーを
  5. 第5回 : 打ちっぱなしから始まる知らないことだらけの一日
  6. 第6回 : ずっと放置してきた足の痛みと向き合ってみる
連載「今日までやらずに生きてきた」
  1. 第1回 : 疲労の果ての酵素浴
  2. 第2回 : 薬草風呂でヒリヒリした日
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  7. 連載「今日までやらずに生きてきた」記事一覧
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