ミュージアム研究者・小森真樹さんが2024年5月から11ヶ月かけて、ヨーロッパとアメリカなど世界各地のミュージアムを対象に行うフィールドワークをもとにした連載「ミュージアムで迷子になる」。
古代から現代までの美術品、考古標本、動物や植物、はては人体など、さまざまなものが収集・展示されるミュージアムからは、思いがけない社会や歴史の姿が見えてくるかもしれません。
ロンドン中心のストランド地区には王立裁判所やロンドン・スクール・オブ・エコノミーがあって、パブでは法曹界の裏話やエリート学生の愚痴が耳に入ってきて面白い。
この近くにはサマセット・ハウスがある。テムズ川沿いにある文化教育複合施設で、「一般からの寄付は受けない独立した慈善事業です。」と、アピールするようにその趣旨が謳われている。寄付者にはバンク・オブ・アメリカやロスチャイルドなど錚々たる企業や資本家の名が並ぶ。北の回廊には印象派の作品が人気のコートールド・ギャラリーが入っている。
冬はスケートリンクになることで知られる中庭を挟み、南のギャラリーで行われているのが「ルクスをつくる!(Making a Rukus!)」展だ。2013年に始まった世界初のアフリカ系のコンテンポラリー・アートフェア「1−54」の企画の一部で、同時期に開催したフリーズ・アートフェアとの共催でもあった[1]。
この展示がユニークなのは、アーカイブス資料自体を展示の中心として見せている点だ。いかにすればアーカイブス資料を効果的に展示できるかを模索する意欲的なキュレーションで、ロンドン・アーカイブス所蔵の「ルクス!(rukus!)」というブラック・クイア・ヒストリーのコレクションを紹介している。アーカイブス(記録資料群や保存機関)に収められた歴史資料を展示によって現代の文脈で活用して社会的な意義を持たせる。ミュージアムを通じて過去の記録は生きた歴史として再解釈され新たな価値を与えられているのである。
ルーツ、セクシュアリティ、ポピュラーカルチャー:ルクス!連邦
「ルクス!連邦(rukus! Federation)」は、映像作家のトファー・キャンベル(Topher Campbell)と写真家のアジャムX(Ajamu X)によって2000年に結成されたアーティスト・コレクティブ(グループ)だ。
二人の制作上のコラボレーションと、ブリクストンをベースにする私生活には、ジャマイカ系かつ同性愛者という彼らの属性が色濃く反映されている。パーティやイベント、展覧会などを企画し続けた彼らの制作活動はロンドンのブラック・クイア・カルチャーの起点となった(過去記事:「カルチャーが再生するアフロ=カリブ系イギリス人の街と歴史――ブリクストンのブラック・カルチュラル・アーカイヴス」)。
本展の企画趣旨では、歴史の記録とは静的で固定的なものではなく、今まさに起こっているものだと強調されている。アーカイブスに集められた文書や物品とは、見せるために作られたものではない。展示という形式で人々の眼目を集めることで、それらの歴史資料にいわば「見せ物」としての魅力をつけて現代社会に開いていこうというのである。
コレクションのテーマである「ブラック(黒人)」「クイア」の歴史は、ともにメインストリームの歴史から排除されてきた領域である。例えば黒人LGBTQ+の存在は、主流メディアで黒人人権問題が取り上げられるときにその語りからは排除される傾向がある。一方ゲイ男性やレズビアン女性がLGBTQ+問題の文脈で論じられる際には、白人を中心として語られるなどここでも語りから排除されてきた。つまり二重のマイノリティ性をもち、インターセクショナルな負荷がかかっている。このバイアスのかかった歴史を、社会への「政治的・芸術的介入」によって取り戻そうというのである。
彼らが2005年に、ロンドン・アーカイヴスでコレクションを立ち上げた際にも、最初提案した「クイア」という言葉を使うことに対して反対を受け、今の「ルクス!連邦」という名称に落ち着いた。これは資料を見つける際のインデックスとしてもLGBTQ+に関わるものだとは分からないことになり、つまり歴史の影に隠れてしまうことになる。
これに対して彼らはアーティストらしく、ウィットに富んだ名づけ戦略で対抗しているようにも見える。ruckusとはジャマイカの言葉で「騒動を引き起こすこと、音を立てること」を意味する。そこに言葉遊びを加え、綴りをちょっといじって、10インチの巨大な男性器で有名なポルノスターRuckusの名を重ねた。それにSFシリーズの『スタートレック』に登場する惑星連邦(United Federation of Planets)のパロディで味をつけてコレクティブ名にした。
つまり、「ルクス!連邦」の名は、ブラック・ジャマイカの言語文化、ゲイカルチャーとナードなファンカルチャーに由来している。ルーツ、セクシュアリティ、ポピュラーカルチャーという要素で構成されているのだ。これは、ブラック・クィアが正統な歴史から隠された事態に対抗して現代社会に開こうとするプロジェクトのねらいをなんともうまく表している。これら三つは、まさしく祭りの領域だ。性やSFや民族ルーツというサブカルチャーから「騒ぎ」を起こし、メインストリームへと介入する“祭り”をつくる――「ルクス!」のコレクションと展覧会はこうした企てなのだ。
アーカイブスを見せる、魅せるアーカイブス
展示は四つの部屋で構成されている。第一室目に入るとそのコンセプトが視覚的に伝わる。展示室のインスタレーション(展示物の配置)が、「資料室」というよりは「美術展」なのである。
室内空間の設計は注意深く作られているとわかる。照明は暗めのピンクで統一されている。スポットライトが作る影は、三角形のデザインだ。展示パネルはこれらの色と形に対応させてある。
それは古典様式のインテリアと相待って効果的だ。16世紀のサマセット侯爵邸宅に由来するハウスの建築は古風で高級感があふれ、部屋には暖炉が残されている。それはホワイトキューブとして展示をつくるなら邪魔な存在だが、むしろここでは現代的なビジュアルとのコントラストとして効いている。つまり、「歴史の更新」という物語を感じさせるのだ。
展示の見せ方の工夫は他にも見られる。目を引く展示物をアイコンとしてデザインして本展のキーヴィジュアルにしている。例えばルクス!が開催したパーティのフライヤーのデザイン。2000年にロンドン・マルディグラ・フェスティバルの企画されたものだ。これが第一展示室で壁面のアイキャッチとして活用されている。
展覧会名rukus!のタイトルと同時に目に入るこの壁面展示は、人々が展覧会を記憶することに貢献していくことだろう。アイコンは展示室の各所でもたびたび登場し、効果的に活用されて記憶に残るものとなっている。単なるギミックのようだが、「目を引く展示物をつくる」ことは展覧会というビジュアルカルチャーで「祭りをつくる」のに不可欠な要素である。
ヒューモアで「人種」と「クイア」をさかなでする
「奴隷契約書」というギョッとする文書が最初の部屋にある。そこにはこう書かれている。
奴隷の契約
私(■■■■黒塗り)は奴隷になるためにここにいます。
(手書き:1996年9月29日の1時間)この間、私は無条件で主人に従い、いつでもなんでも彼の願いを実行します。
この期間、私は次の基本的な三つのルールを守ることを理解しています。
1 別の言い方で許可されるまで、私はペニスを触らない
2 太ももをできるだけ広く広げる
3 常に正しい話し方をするこれらのルールのいずれかに従わない場合には相応の罰を受けることを理解し、感謝の気持ちで罰を受け入れます。
私は”スパーズ(刺激する)”というセイフワードを使うことが許されていることを理解しています。NB私があなたに与える楽しくて快楽のあるいかなることも、それは私の好意からくるものであると、あなたはそれを認めなければなりません。契約書に署名する前には、このことについて感謝を持って留意していただきたい。
我々は、この署名を交わしたことにおいて、ゆえにこの契約書を確認したことを誓います。奴隷の署名 (■■■■黒塗り)
――奴隷はこれらの条件の下で訓練を受けました。
マスターの署名 (署名:アジャム)
開始時間 10時 終了時間 11時[2]
1996年にアジャムが作成したものだ。一方この横にはキャンベルが元夫とスターバックスのトイレで逢瀬を重ねたという記事がある。こうしたごく私的で性的な歴史の記録が公開されている。
契約書の文脈などを説明したキャプションはない。もしこれを一種のパロディ的アート作品と読むのなら、次のようにも解釈できる。
これは愛情を抱く者同士の「契約書」だ。奴隷制の時代に使われた「マスター(主人)」は現在でも極めて強い意味を持ち、文脈によってはかなり差別的に響く言葉だ。しかし敢えてこうしたタブーを使うことで、植民地主義に由来する暴力的な主従関係を、パロディ的にダーク・ヒューモアで表現し、愛する者同士の “主従”関係に準えて文書化した。こう解釈するなら、「白人から黒人への奴隷制度」の意味を換骨奪胎したとみることもできる。
さらに、これが同性愛者の性愛関係の宣言であることもまた、社会批評的な意味をもつ。イギリスではロンドン市で同性カップルに対して登録制度が導入されたのが2001年のことで、今からわずか20年ほど前のこと。これには法的効力もなかった。シビル・パートナーシップ制度がその後作られていき、ようやく2014年になって同性婚が法的に認められた歴史を思えば、家父長制的な婚姻制度と社会意識に対する鋭い批評にもなっている。
この作品の隣を見ると、オープンレターが展示してある。こちらは企業への公開陳情書だ。これも何かのアート作品なのだろうかと思って読んでいくと、どうもそうではなさそうである。
こちらは、カリブ海系のルーツをもつ劇作家のマイケル・マクミリアンによる1998年の演劇〈ブラザーからブラザーへ〉[3]を見たキャンベルが、その黒人男性性の描写について批判する公開質問状である[4]。劇作の題になっている用語を創案したアーティストの名を列挙しながら、黒人男性の愛に関する彼らの主張についてこの作品は誤読していると批判している。
筆者は劇作を見ていないためその妥当性について判断はできないが、男性として生まれ黒人コミュニティで育った人々は、「ゲイ、バイセクシュアル、ストレート、あるいはその中間」――その性指向にかかわらず「男性らしさ」を押しつけられているという、黒人コミュニティに特有のものとして、いわゆる有害な男性らしさ(toxic masculinity)の問題について問うているようである。
黒人男性同士の愛=ブラザーの愛とは性指向によらずより広いものとして捉えるべきで、だからこそ、対抗するのではなく愛し合うべきではないかとキャンベルは主張する。普通に暮らしているだけで銃の被害に遭ったり、黒人同士での暴力や憎しみも蔓延するなかで、「結局のところ、タフであることこそが最も男らしいことではないか」と問いかけている。
これらの展示から鑑賞者は何を持ち帰るだろうか。「奴隷契約書」に文学やアートの力を見て、自身の違和感や苦境を表現しはじめるだろうか。「オープンレター」でなるほどと思い、表現への違和感について公的に意見しようとする人々が現れるだろうか。そう考えると、この展示はアーカイブスという「収集された過去」の使い方のレッスンとなっている。
アーカイブを見える化して、歴史をリ・クレイムする
「我々の歴史をリクレイムすることは政治的な行為だ。」――第二展示室の壁に掲げられているキャンベルの言葉である。
「リクレイム(reclaim)」という言葉には、本来あった場所にあるべきだと主張する、という意味がある。「我々の歴史をリクレイムする」を「歴史を自分たちの元に取り戻す」と言い換えれば、政治的な行為だということは明白だろう。
このアーカイブスに集積されているのは、ブラック・クイアの歴史である。これまでの主流の歴史とは、「白人・同性愛者」をその中心にして語られてきた。そこでは、ブラックやクイア、そしてその他の有色系・女性・障害者といったマイノリティの歴史は脇に追いやられてきた。歴史における「中心と周縁」とは、歴史的なプロセスの中で特定の価値観にしたがって構築された序列に過ぎない。これを「リ・クレイム」して、本来ここにあるべきものだ、と主張しているのである。
紹介されるのはルクス!が排除された事件だ。2006年の黒人史月間を記念してルクス!が黒人活動家ボールドウィンへオマージュを捧げた作品を発表したが、汎アフリカ・リバイバル運動の新聞『つむじ風(The Whirlwind)』は保守的な立場から同性愛を許さず「ソウル(魂)が汚れる」と反発して批判記事を載せた。このように黒人権利運動の内部でも性的マイノリティは排除されてきた。
また、実は先に紹介したキーヴィジュアルは、公的予算がついたイベントにもかかわらず広報にこのイラストの掲載を拒否された曰くつきのものだった。今回の展覧会は、壁面で大写しにしてその排除されてきた歴史の存在感を主張する。サマセット・ハウスという慈善事業がこの歴史を救った構図になり、結局のところ、文化的な非対称性や歴史の語りとは経済的な構造によってしか守られないのかという気もしてくる。だが一方で、クラシックで高級な暖炉の上にお茶目に配してハイソな文化もちょっと茶化しているのが、制度に乗っかりつつ抵抗するアーティストの心意気のようで面白い。
このように第二室ではアーカイブスにある資料によって、歴史は誰のものなのかと問いかける。
つまり、歴史記述における公共性と主体性が問われているのだ。ここから展示を読んでいくと、「私的なものを公的にする」と「歴史を書く」という二つのテーマが浮かび上がってくる。展示構成から読み解けばその意味はより明快になる。例えばこうした説明がある。
ルクス!アーカイブスは私たちから始まりました。アジャムは、イベントのチラシ、ポルノコレクション、そして亡くしてしまった彼の親友の黒い人形を持っていました。私は数十枚のクラブのチラシを持っていました。それらは親密な思い出を呼び起こすアイテムなのです[5]。
こうした極めて私的なコレクションだったものを、ロンドン・アーカイブスという公的研究機関へ収蔵し、公的な空間であるミュージアムで開いて/展いていく。「目に見えることが社会変革に影響を与える最も破壊的で創造的な方法だ」[6]と彼らは言う。
さらに私的なものと並べて、HIVにまつわる同性愛者差別、黒人LGTQIA+組織ハウス・オブ・レインボウへの抑圧に関する記事、イギリス初の黒人ゲイカップルのパートナーシップ制度に関する資料など、公的な領域の資料が展示される。この並置した配置にもまた、私的なものと公的なものは同じくらい政治的なものだ、という展示インスタレーションを使ったメッセージを読みとれる。
歴史は見えるだけではいけない。自ら書けなくてはならないのだ。「オードレ・ロードが述べたように、私たちは自分自身を歴史に書き込めなければなりません。」[7]キャンベルの言葉だ。展示には90年代に始まったブラックLGBTQ+関連の出版運動の資料がある。人々が自らのアイデンティティについて語るために出版したものだ。その横にはアーティストのミシェル・マルティノーリの肖像と作品解説がある。この配置もまたメッセージを語っている。これは作品展示であるが、同時に、出版物の隣で見せられることで「アイデンティティを自ら表現し、歴史を書いた」展示の例として示されているのだ。
しかしながら、出版や芸術制作、これらは一種特別な人々の領域とみなされるものかもしれない。では市井の人々はどう歴史を書くのか。こうして浮かぶ疑問をすぐさま払拭するように、さらにその隣には「追悼するために書く」というテーマの展示があった。
ここにはブラック・クイアの著名人の追悼に関する資料とともに「追悼帳」が置かれ、参加型の展示となっている。来館者は失ってしまった大切な人のことを書き込める。それによってこの展示は、「来館者が歴史を書き足していく」アーカイブスにもなっている。
「展示する」という表現それ自体もまた、歴史を書く行為である。つまりは、この展覧会もブラック・クイアの歴史の記述だ。キャンベルは言う。「ルクス!アーカイブスは、ここに名前をつけられた人々や他の多くの人々から寄贈された2,000以上のコレクションに基づいており、私たちの〔過去の〕展覧会The Queens Jewelsを通じて初めて公開されました。つまり、私たち自身の手で書かれた歴史なのです。」[8]
「歴史を書く」方法の例を社会に示し、歴史を書く行為を広げていく。そしてこの展示によって歴史を書く。本展は二つのアプローチで、ブラック・クイアの歴史をリクレイムしようとしている。
書けないものを「書く」
翻って、本展の意義を一般の美術館や博物館の展示と比較して考えてみよう。アーカイブスとは何を収集対象としているのか。何を素材に歴史を残すのだろうか。こうして扱うメディアに着目すれば、アーカイブスが集めているのは、文書資料を中心とした物的証拠である。この意味において、文書館たるアーカイブスが描く歴史とはどうしても文字で残されたものを中心にしたものとなる。つまり、「歴史を書く」行為には、テキスト中心主義というメディア論的な制約があるのだ。
こうした課題に応えようとするものだろう、次の部屋には部屋を丸ごと使った体験型作品がある。ガラスや鏡、テクノサウンドや朗読などを併せたインスタレーションでミュージックホールを再現した、エヴァン・イフェコヤ(Evan Ifekoya)の作品だ。
なぜこれが歴史を伝える際の資料的制約に応えるものなのか。それは、この作品のねらいが、形としては残らない感覚を残すという点にあるからである。
「紙やパンフレット、雑誌や新聞では表現できない感情や気持ちをどうやって残しますか? 初めてキスをしたときのこと、初めて気になる人と体を密着させて踊ったときのこと、どうやって保存しますか? 初めての暗い部屋に入ったときの高揚感、初めての大人のおもちゃを使ってパートナーと遊んだときのこと、どうやって記録しますか?」[9]――こうしたキャンベルの問いかけに明白なように、ファーストキスやダンスホールで肌が触れ合った時のドキドキをどう歴史として残すことができるのか、という問題をアーティストは提起しているのである。
セクシュアリティとは、ブラック・クイアのこのアーカイブスが重視する歴史観において欠かせないテーマである。ただし、この作品自体は実際の資料収集というよりは象徴的に問題提起をするにとどまってはいた。
歴史をリ・ビールすることへの目配り
アーカイブスを社会に公開していくこと。歴史がいっそうアクセシブルになること。これらを目指して本展示は作られている。しかしここで気をつけるべき課題も頭に浮かぶ。私的な歴史、それも、これまで差別されてきた人々の歴史を公開することは、安全なことなのだろうか?
こうした点に対しては、展示の説明のなかでは言明はなかった。一方でその回答のように見えたのは展示の設計である。以下は展示についていた注意書きである。
この展覧会は、官能的なアイデンティティと生きた経験に関する重要な問題に取り組んでいます。コンテンツには、ヌード、強い言葉、HIVとエイズ、差別、性的に露骨なイメージ。/展示会は16歳未満の訪問者には適していません。さらに詳しい情報が必要な場合は、来館者経験チームのメンバーにご相談ください[10]。
入館前の展示にこう記され、鑑賞の年齢制限と内容についての注意喚起がなされている。
そして展示の終盤には、展覧会を通じて問題が起きたと感じたとき際の相談窓口が各種掲載されている。その五件の窓口には、LGBTQ+、HIVや性にまつわる健康問題、さらにはヘイト一般の支援団体まである。注意喚起の看板やこうした支援情報を提示する展示に関してこれほど丁寧な展示は初めてみた。それほど大きくない展示内にこれを三度も掲示してある点もまた、展示の制作チームがこの点について目配りし強調していることを表している。
歴史を社会で生きたものにすることとは、様々な情報を公にすることだ。つまり「明らかにする=リ・ビールする」ことであり、言い換えればそれは「暴露する」という面もある。今まさにこの社会で生きている人たちを傷つけるおそれもあり、クイアや人種という主題であればなおさらである。ブラック・クイアの歴史を開く/展くときのリスクについて、企画はこうした工夫で応えているようだ。
*
筆者も歴史家の端くれで、調査の際にはアーカイブスに閉じこもって文書資料を探索することもある。しかしながら、研究すべき主題に出会い、調査の問いが定まり、それをより具体的に検証するべき資料やそれらを保管するアーカイブスを見つけることは、けっこう難しい作業だ。コツがいる。「歴史家」とは、これを体得した研究者のことだと私は考えている。
近年では、資料のデジタル化や電子公開、利活用の工夫が進んでいる。デジタル人文学の時代などとも言われる。とりわけコロナ禍を経て質量ともにこの状況はかなり進んだ。だがそれでもなお、あるアーカイブスに何があるのかを知るには、手間と工夫、才気と運が不可欠である。
まして学者としてのトレーニングを受けていない人々にとっては、アーカイブスの中身を理解するだけで一苦労だと思う。「歴史をリクレイムすることは政治的なこと」なのに、そのために必要な素材へのアクセシビリティは制限されている。こうした状況にあると言えるかもしれない。
その観点からみるとルクス!展の試みは、プレビューやハイライトという形でアーカイブスを公に広げるひとつのモデルとなっている。「知のアクセシビリティ」を念頭において、資料の見本をチャーミングに魅せる/見せる。関係各位のみなさま、こうした意識でアーカイブスやライブラリの展示を企画するのはいかがでしょうか。
Making a Rukus!
Black Queer Histories through Love and Resistance
会期:2024年10月11日〜2025年1月19日
会場:Terrace Rooms and Courtyard Rooms, Somerset House
住所:Somerset House, Strand, London, WC2R 1LA
開館時間:10:00〜18:00(木金〜21:00)
料金: Pay What You Can(無料・ドネーション制)
展覧会URL:https://www.somersethouse.org.uk/whats-on/making-a-rukus
[1] アートフェア「1−54」公式サイト。https://www.1-54.com/london/
[2] Slave’s Contracts, 1996.
[3] 劇作「ブラザーからブラザーへ(Brother to Brother)」公式サイトhttps://www.michaelmcmillan.uk/brothertobrotherzebracrossingmichaelmcmillan#:~:text=%E2%80%9C%20Brother%20to%20Brother%20explores%20the,they%20never%20miss%20a%20beat.%20%E2%80%9D&text=%E2%80%9CThree%20actors%20shine%20in%20Michael%20McMillan’s%20Brother%20to%20Brother%E2%80%A6%E2%80%9D
[4] Oh Brother! An open letter to Michael McMillian and company regarding their play Brother to Brother from Topher Campbell, 1998.
[5] Making rukus!展キャプション。
[6] 同上。
[7] 同上。
[8] 同上。
[9] 同上。
[10] 同上。
筆者について
こもり・まさき 1982年岡山生まれ。武蔵大学人文学部准教授、立教大学アメリカ研究所所員、ウェルカムコレクション(ロンドン)及びテンプル大学歴史学部(フィラデルフィア)客員研究員。専門はアメリカ文化研究、ミュージアム研究。美術・映画批評、雑誌・展覧会・オルタナティブスペースなどの企画にも携わる。著書に、『楽しい政治』(講談社、近刊)、「『パブリック』ミュージアムから歴史を裏返す、美術品をポチって戦争の記憶に参加する──藤井光〈日本の戦争画〉展にみる『再演』と『販売』」(artscape、2024)、「ミュージアムで『キャンセルカルチャー』は起こったのか?」(『人文学会雑誌』武蔵大学人文学部、2024)、「共時間とコモンズ」(『広告』博報堂、2023)、「美術館の近代を〈遊び〉で逆なでする」(『あいちトリエンナーレ2019 ラーニング記録集』)。企画に、『かじこ|旅する場所の108日の記録』(2010)、「美大じゃない大学で美術展をつくる vol.1|藤井光〈日本の戦争美術 1946〉展を再演する」(2024)、ウェブマガジン〈-oid〉(2022-)など。連載「包摂するミュージアム」(しんぶん赤旗)も併せてどうぞ。https://masakikomori.com