雑誌連載の打ち上げに、まだ行ったことはないお蕎麦屋さんを何気なく担当編集者に提案した。その店を知ったきっかけは肉豆腐。ある日SNSで流れてきた「いくらなんでも黒すぎる!」という肉豆腐の写真を見て店名をメモし、行く機会を伺っていたのだ。仕事がひと段落した打ち上げがそば屋というのもなんだか大人っぽくていい気がする。
2年間限定で、というお話をいただいていた、月刊誌『ダ・ヴィンチ』の書評連載「4人のブックウォッチャー」への寄稿が、期間満了につき終了した。
歳を重ねるごとに1冊の本を読みきるための体力が減ってきてはいるものの、読書は趣味のひとつだ。ただ近年は、自然と飲み食いジャンルのエッセイものばかりを読むようになっていたから、この連載をきっかけに、書店に行くたびおもしろそうな本がないかを探す行為には、新鮮な楽しさがあった。
ちょっとした発見だったのは、たいていの場合まず、表紙や背表紙の色合いやデザインに自分が反応すること。ビビビとくるというやつだろうか。それから、タイトルや、帯の文章、さらに解説や前書きに目を通し、これぞという本を読んでみる。そうやって出会った本は、エッセイにしろ小説にしろ、目に飛び込んできた第一印象どおりに自分好みの確率がすごく高かった。
またそのあいだ、同誌で、さまざまなジャンルで活躍する方に、若かりし日々の迷走エピソードを実際に酒を飲みながら聴くという、「20代の失敗酒場」という連載をさせてもらっていた期間もあり、驚くべきことに一時期は、ダ・ヴィンチで同時にふたつの連載をさせてもらっていたことになる。
先日、その両方の担当編集者であったS氏と、ささやかな打ち上げをしようということになった。そこで僕が何気なく提案したのが、港区芝大門にある「ときそば」という店。
行ったことがあるとか、好きな店だからというわけではない。きっかけは肉豆腐。僕は無類の肉豆腐好きで、特に豆腐が真っ黒に煮込まれているタイプに出くわすと小躍りしてしまう。数日前にSNSで流れてきた「いくらなんでも黒すぎる!」という肉豆腐の写真を見て店名をメモし、行く機会を伺っていたというだけの理由だ。けれど、仕事がひと段落した打ち上げがそば屋というのは、なんだか大人っぽくていい気がする。S氏もぜひ! とのことで、その日がやってきた。
店は、大門駅近くの路地裏にひっそりと明かりを灯す、雰囲気のあるそば屋だった。ところが一歩店に入ると大盛況で、店員さんも多く活気にあふれている。つまみや酒の種類も多くて、蕎麦屋と居酒屋のハイブリッドな感じ。
まずは瓶ビール、「SAPPORO 赤星ラベル(中びん)」(税込880円)で、おつかれさまの乾杯!
ちなみにこの打ち上げには、ありがたいことにダ・ヴィンチ編集長の似田貝大介さんも同席してくださった。僕と同い年で『怪と幽』という、心霊や妖怪にまつわる雑誌の編集長もされてきた方でもあり、僕はこわがりながらもそういう話が好きだから、お話がとにかくおもしろい。3人いるから料理があれこれ頼めるのも嬉しい。
お目当ての「肉豆腐」(750円)はもちろん頼むとして、グランドメニュー以外にも、「本日の肴」と書かれた黒板メニューがまた魅力的だ。「かぶと白菜のオイル和え」(600円)、「蕎麦刺し」(900円)、「秋刀魚の梅しそ巻天ぷら」(950円)、「幸手 生鴨の炙り」(1700円)と、こういう場であることをいいことに、いつもよりちょっと贅沢な品々を頼んでしまう、日常のなかの祝祭感。
浅漬けやぬか漬けではなく“オイル和え”なところがおもしろいかぶと白菜は、しっとりとした食感のなかに野菜自体の甘みが広がって素晴らしい。短めのきしめんのように平打ちされたそばが整然と並ぶ蕎麦刺しをわさび醤油で食べると、これでもかと新そばの香りが口に広がる。秋刀魚の梅しそ巻天ぷらは、食べた瞬間に全員が「わ、さんまだー! これ、さんまですよ!」「本当だ! さんまですね!」と、語彙力を奪われた感想しか出てこないほどの絶品。焼き網のあとのついた生鴨の炙りにいたっては、しっとりとして香ばしく、ジューシーな旨味が炸裂し、絶句するしかなかった。
来てよかった……。心の底からそう思わせてくれる本当にいい店で、提案した僕としても、初来店のくせに鼻が高い。
肝心の肉豆腐がこれまたすごかった。本気で“漆黒”としか言いようのない絹豆腐一丁の上に、牛すじと小ねぎ。似田貝さんがそれを見て「ピータンみたいですね」と言っていたが、まさに言い得て妙で、そのくらい、黒いだけでなく艶めかしさもあるテクスチャーだ。
ところがこれ、メニューに「15分ほどお時間いただきます」とあって、そこまで長時間煮込まれたものではないらしい。なので、表面は真っ黒ながらあっさりともしていて、それがとろとろの牛すじと合わさり、なんとも小粋な味に仕上がっている。まるで魔法。豊富な地酒のなかから合わせてみた長野県の「大信州 掟破り生詰」との相性にもうっとりだ。
じゅうぶんに楽しんだら、当然シメはそばだろう。しばらく前からメニューは眺めていて、「せいろ」か「田舎せいろ」のどちらかかなとは思っていた。僕はそば屋に来て田舎せいろがあるとそれを頼んでしまいがちなので、ほぼそれかなと。
ところが、当然他にもさまざまなそばがあって、そのなかにひとつ、聞き慣れない「辻がそば」(1,250円)というメニューがある。注文の際に気になって店員さんに聞いてみると、この店オリジナルの、大根の千切りを混ぜたせいろそばだそう。ここでしか食べられないとなれば気になる。よし、今日のシメはそれにしよう。
やがてやってきた辻がそばが、あまりにも美しかった。色が濃く、細くて角の立った自家製の石臼挽き手打ちそば。それと寸分違わぬサイズの、透明感のある細切り大根が混ぜて盛ってある。そばと大根、3対1くらいの割合だろうか。色の対比がいい。
きりっとしたつゆにつけて食べると、まずはそばの香りがふわりと広がり、続いて大根のしゃきしゃき食感とほんのりとした辛さが追いかけてくる。大根おろしをたっぷりと加えた辛みそばとはまた違う、清涼感。生まれて初めて食べたけど、これほど飲みのシメにぴったりのそばもないんじゃないだろうか。食べながらにして、日々の暴飲暴食で疲れた胃腸がリカバリーされてゆくようだ。
帰り際、店主の森田敏規さんにお話を聞いてみたところ、辻がそばは、古典的なメニューとかではなく、完全にオリジナルらしい。
そのルーツは、かつて新橋にあった「辻そば」。客として来店し、その味に惚れこんだ森田さんが店主に師事。辻そばが千葉県に移転(現在は閉店してしまったそう)してしまう際、その味を受け継いで、居抜きで店を始め、2023年に現在の店舗に移転した。そんな辻そばの時代から続く名物メニューが、初代が生み出した辻がそばというわけだ。
森田さんは、辻そば時代の常連客たちも大切にしたいと、メニューや雰囲気も極力当時のままを受け継いだのだそう。ただ店名だけは、有名な古典落語であり、そば屋が客に損をさせられるシーンもある「時そば」からとられている(と思われる)のが、なんともいい。
気取らず飲めて、絶品のつまみとそばが楽しめる店。老舗の味を未来に受け継いでいってくれる点も頼もしい。
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『酒場と生活』次回第12回は2024年11月21日(木)公開予定です。
筆者について
1978年、東京生まれ。酒場ライター、漫画家、イラストレーター。酒好きが高じ、2000年代より酒と酒場に関する記事の執筆を始める。著書に『酒場っ子』『つつまし酒』『天国酒場』など。ライター、スズキナオとのユニット「酒の穴」名義をはじめ、共著も多数。