酒場と生活
第16回

青井「橙橙」の「鯛のうす造り」

暮らし

古くからの飲み友達である漫画家の清野とおるさんと9年ぶりに東京都足立区の青井に出かけた。清野さん曰く、最近複数の知人から青井の話が出て「なんだか呼ばれている気がして」とのこと。前回ふたりで訪れたときはふらりと寄ったカラオケスナックである事件が起きた。人生二度目の青井、今回は何が起こるのか。

東京都足立区にある「青井」という街に、古くからの飲み友達である漫画家の清野とおるさんと初めて飲みに行ったのは、2016年のことだった。

当時やっていた雑誌連載で、清野さんの代表作のひとつである『東京都北区赤羽』シリーズにちなみ、「赤」以外の色がつく駅名の街にあちこち出かけていって飲み歩き、それをレポートするという企画があった。ある回で、路線図を眺め、何気なく選んだのが青井だった。

どちらかというと静かな街で、駅からすぐの「兵和通り」という商店街に個人経営の飲み屋がぽつぽつとある。その街の風景に、僕の住む練馬区とも、清野さんのホームである赤羽とも違うぞわぞわとした違和感を感じつつ、1軒目、2軒目と楽しく飲んだ。

そして運命の3軒目。もう一杯だけ飲んで帰ろうと、ふらりと寄った小さなカラオケスナックで事件は起きた。しばらく飲んでいると、常連と思しきじいさんふたりがなにやら小競り合いをはじめ、やがてそれが店内全体に波及し、店にいる全員がなぜか大げんかをはじめてしまったのだ。で、僕らはそれを眺めながら飲んでいるという、それはそれはカオスな夜だった。

詳細は写真とともに、清野さんとの共著『赤羽以外の「色んな街」を歩いてみた』に収録されているので、ご興味があれば参照してみてもらいたい。

当然、青井は我々にとって非常にバイオレンスな街として記憶され、以来、ふたたび足を運ぶこともなかった。ただ、青井の名誉のために書いておくと、その夜、スナックのママは「こんなことはお店がはじまってから一度もなかった」と言っていた。むしろあの日は、僕らが訪れたことが、青井という街になんらかの悪影響を及ぼしてしまったのかもしれない。

ところで清野さんから先日「久しぶりに、青井に飲みに行きませんか?」と連絡をもらった。曰く、最近急に複数の知人から青井の話が出たりして「なんだか呼ばれている気がして」とのこと。清野さんが呼ばれていると言うならば、行かない理由はない。というわけで1月初旬、青井でふたり、ささやかな新年会がてらの飲み歩きをすることに。

駅前で清野さんと待ち合わせ、約9年ぶりに訪れた青井の街を、懐かしむように歩きはじめる。雰囲気は当時のままだ。兵和通り商店街には、前回は入らなかったけれども気になる店がちらほらとある。そのうちのひとつ、横道で静かに光を灯す「橙橙(だいだい)」という店がなんだか気になった。

小さなビルの1階に突然入り口だけがあるという感じで、店内の様子は伺えない。格式高い料亭の可能性も、意外と雑多な大衆店の可能性も、両方ある。入り口に近づいてみると、店内からはなんの物音もしない。つまり、情報量があまりにも少なすぎる。そこに惹かれ、まぁ、合わなければ1杯と1品で失礼すればいいし、と、入ってみることにした。

からりと戸を開けると、雰囲気は前者。居酒屋よりも日本料理店に近い空気感で、左手側に長いカウンターがある。反対側にはゆったりとしたテーブル席。扉は閉まっているものの、その奥に座敷席もあるようだ。カウンター内の厨房には、白い板前服をびしっと着こなす店主さんがひとり。我々と同世代くらいだろうか。これで料理にこだわりがなかったら逆に笑うってくらい、隙がない。

ただ、先客のいないカウンターに着いてメニューを見ると、料理は意外なほどにリーズナブルだ。メイン級の「刺身三点盛り」が1100円(税込)、「牛肉たたき風」が770円。他にも品揃えは幅広く、「とうふサラダ」(350円)、「フライドポテト」(400円)、「そうめん」(500円)なんていう気どらないメニューもある。

こだわりを感じるのが、鯛を使ったメニューの多さ。すべて書き出してみると、「たい刺」(700円)、「鯛うす造り」(800円)、「鯛サラダ」(800円)、「鯛チーズ」(700円)、「鯛すし」(700円)、「土鍋鯛めし 2合」(1800円)。どう考えても、鯛ものは食べておくべき店であると考えられる。なかでも、刺身があるのにそれとは別に用意されている、うす造り。これは気にならざるをえないだろう。「大根サラダ」(350円)と合わせ、お願いする。

この日の乾杯は「レモンサワー」(420円)から。過剰すぎないちょうどいい甘みに癒される。続き、まず出てきた、身がたっぷりの魚のアラをぎゅぎゅっと煮しめたようなお通しが、すごくいいつまみだ。

すぐに大根サラダ到着。これがまたとてもいい。ガラスの器に敷かれたレタスの上に、みずみずしい細切りの大根がたっぷり。海苔とごま。独自に調合されたであろう和風のドレッシングにやたらと深みがあり、添えられたマヨネーズがアクセントを加える。こんなにていねいで、ひと口ごとに満足感のある大根サラダは初めて食べたと、ちょっと大げさなくらい感動してしまった。

そして、鯛のうす造り。高台のついた皿に薄切りの鯛が美しく盛り付けられている様子は、まるでふぐ刺しだ。2枚ほどとって、細ねぎを巻き、自家製と思われるぽん酢につけてぱくり。口に入れた瞬間はまさにふぐの感覚だけど、徐々に鯛ならではの旨味と柔らかさが広がりだし、ひたすらうっとりする。ぽん酢がまたまたやたらとうまい。鯛って、こういう食べかたもあったのか。

前回青井を訪れた際は、行き当たりばったりの街歩き取材のなかで「なにかおもしろいことが起こってくれたらありがたい」という気持ちが、少なからずあったことは否めない。そして、もしかしたら街が、そんな我々の想いに対してサービスをしてくれたのかもしれない。が、今日はお互い、ただ心穏やかにゆるりと飲みたいだけだった。そうしたら実際に、なんて豊かな時間を過ごせているんだろうか。あらためて、僕らの大好きな街というものには、無限の表情があることを実感させられた。

ところで我々の目の前には、実はレギュラーメニューには載っていない、日替わりらしき短冊メニューが5つ並んでいる。左から順に「ふぐ唐揚」「穴子天ぷら」「えび天ぷら」「えび塩焼」「牛肉ステーキ」だ。どうしたって気にならないだろうか? 和の真髄を極めたような橙橙の店主さんが焼く、ステーキが。1000円とこの店にしては高級品の部類だが(今思うとじゅうぶん安いのに、だいぶ感覚が狂いはじめていた)ここはいっちゃおう。おかわりの、「サントリー角 ハイボール」(500円)とともに。

そうしてやってきた牛肉ステーキは、口に入れた瞬間にとろけてしまうほど柔らかいのに、しつこさはなく、赤身っぽい肉の旨味もぞんぶんに感じられる。醤油ベースの和風ソースとたっぷりのとろとろねぎがその味を引き立てる。ただひたすらに、絶品だった。

このあともさらに2軒の店をハシゴしてみたところ、どちらも驚くほどの名店で、清野さんと「青井っていい街だったんですね」と何度も言い合った。ちなみに、例のスナックにも行ってみたんだけど、残念ながら営業終了後で、ただ、マスターとママに挨拶だけはすることができた。

とにかくこれで完全に青井のトラウマは克服したというわけで、今後は、足繁く通う街のひとつになってしまいそうだ。

*       *       *

『酒場と生活』毎月第1・3木曜更新。次回第17回は2025年2月6日(木)17時公開予定です。

筆者について

パリッコ

1978年、東京生まれ。酒場ライター、漫画家、イラストレーター。酒好きが高じ、2000年代より酒と酒場に関する記事の執筆を始める。著書に『酒場っ子』『つつまし酒』『天国酒場』など。ライター、スズキナオとのユニット「酒の穴」名義をはじめ、共著も多数。

  1. 第1回 : 秋津「もつ家」の「モツ煮込み」
  2. 第2回 : 大泉学園「あっけし」の「火の鳥」
  3. 第3回 : 西荻窪「をかしや」の「練り切り」
  4. 第4回 : 赤坂「赤ちょうちん ぶらり」の「角こんにゃく」
  5. 第5回 : 新宿「モモタイ」の「ミニカオマンガイ」
  6. 第6回 : 池袋「梟小路」の「天ぷらそば」
  7. 第7回  : 上井草「やしん坊」の「馬さし」
  8. 第8回 : 大阪・鶴橋「よあけ食堂」の「エビエッグ」
  9. 第9回 : 京都・西大路御池「髙木与三右衛門商店」の「国産牛モモビフカツ」
  10. 第10回 : 大阪・新大阪「松葉」の「串かつ」
  11. 第11回 : 大門「ときそば」の「辻がそば」
  12. 第12回 : 荻窪「カッパ」の「ゾートゥー」
  13. 第13回 : 三軒茶屋「ebian」の「メンチ」
  14. 第14回 : 和光市「濱松屋」の「肉汁ハンバーグ」
  15. 第15回 : 立石「ゑびす屋食堂」の「生揚げ煮」
  16. 第16回 : 青井「橙橙」の「鯛のうす造り」
  17. 第17回 : 吉祥寺「戎ビアホール」の「エルビスサンド」
  18. 第18回 : 保谷「丸越」の「ソーセージ入りおにぎり」
連載「酒場と生活」
  1. 第1回 : 秋津「もつ家」の「モツ煮込み」
  2. 第2回 : 大泉学園「あっけし」の「火の鳥」
  3. 第3回 : 西荻窪「をかしや」の「練り切り」
  4. 第4回 : 赤坂「赤ちょうちん ぶらり」の「角こんにゃく」
  5. 第5回 : 新宿「モモタイ」の「ミニカオマンガイ」
  6. 第6回 : 池袋「梟小路」の「天ぷらそば」
  7. 第7回  : 上井草「やしん坊」の「馬さし」
  8. 第8回 : 大阪・鶴橋「よあけ食堂」の「エビエッグ」
  9. 第9回 : 京都・西大路御池「髙木与三右衛門商店」の「国産牛モモビフカツ」
  10. 第10回 : 大阪・新大阪「松葉」の「串かつ」
  11. 第11回 : 大門「ときそば」の「辻がそば」
  12. 第12回 : 荻窪「カッパ」の「ゾートゥー」
  13. 第13回 : 三軒茶屋「ebian」の「メンチ」
  14. 第14回 : 和光市「濱松屋」の「肉汁ハンバーグ」
  15. 第15回 : 立石「ゑびす屋食堂」の「生揚げ煮」
  16. 第16回 : 青井「橙橙」の「鯛のうす造り」
  17. 第17回 : 吉祥寺「戎ビアホール」の「エルビスサンド」
  18. 第18回 : 保谷「丸越」の「ソーセージ入りおにぎり」
  19. 連載「酒場と生活」記事一覧
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