『日本エロ本全史』『日本AV全史』など、この国の近現代史の重要な裏面を追った著書を多く持つアダルトメディア研究家・安田理央による最新連載。前世紀最後のディケイド:90年代、それは以前の80年代とも、また以後到来した21世紀とも明らかに何かが異なる時代。その真っ只中で突如「飯島愛」という名と共に現れ、当時の人々から圧倒的な支持を得ながら、21世紀になってほどなく世を去ったひとりの女性がいた。そんな彼女と、彼女が生きた時代に何が起きていたのか。彼女の衝撃的な登場から30年以上を経た今、安田理央が丹念に辿っていきます。(毎月第1、3月曜日配信予定)
※本連載では過去文献からの引用箇所に一部、現在では不適切と思われる表現も含みますが、当時の状況を歴史的に記録・検証するという目的から、初出当時のまま掲載しています。
飯島愛が、デビューした1992年の段階で「CGを勉強したい」とインタビュー記事で発言していたことは前述したが、以降もことあるごとにCGへの思い入れを語っている。
この当時はまだ女性がコンピューターを使うということが珍しく、それが飯島愛のようなキャラクターの若い女性ともなれば、かなりミスマッチで面白いと受け取られて、編集者側も毎回そのくだりを強調していたとも考えられる。
「私、NYに留学したいんです。コンピューターグラフィックの勉強をしたいの。すごく興味があるし、これからもっともっと需要が高まってくるジャンルだと思う」(『DANSEN』1992年11月号)
家田(荘子) いいわね。それで今でもNYに行きたいの?
飯島(愛) 行きたい。私、制作サイドのことにすっごく興味があるんです。それで誕生日に社長からコンピュータ・グラフィックスの機材、買っていただいたの。するとやっぱり映像的なものを勉強したいなと。一応、横文字系で説得力あるかなと思って、親に「コンピュータ・グラフィックスを勉強したいからNYへ行きたい」って言ったら、やっぱり全然ダメでした(笑い)。(『女性自身』1993年10月5日号)
(前略)でも、わたし、芝居も歌もどうも才能ないみたいですからね。いまのうちコンピューターの勉強しようと思ってるんです」
プロダクションの社長から先日、パソコンをプレゼントされたという彼女、ゆくゆくはコンピュータ・グラフィックのデザイン関係の仕事をしたいのだと語る。(『アサヒ芸能』1993年10月21日号)
まだ時間が余ったので、事務所でパソコンをいじる。写真でいじっているのはマッキントッシュの上位機種だが、自宅にも「2ランク下のマック」を所有。「メモリを増設したかったから、全部で100万円くらいかかったかな。月2回くらい家庭教師に来てもらって、教わってます。4、5時間はアッという間ですね」。用途はもっぱらコンピュータ・グラフィック。ニューヨークに留学して、本格的に学びたいという。(『FOCUS』1995年1月25日号)
長めのインタビューの終わりの部分では、必ずと言っていいほどに、「ゆくゆくはニューヨークに留学してコンピュータ・グラフィックの勉強をしたい」という夢が語られている。
彼女にとっては、CGへの思い入れとニューヨークには密接な繋がりがあるようだ。
『宝石』1995年2月号の「飯島愛の大胆トーク 私をバカとは言わせない!」では、そのあたりについて、かなり深く語っている。
とくに感激したのは、ユニオンスクエアの近くにある有名なディスコ『パラディアム』で、観光客が大勢来てました。その、音楽も素晴らしいんですが、天井に映し出されたCG(コンピュータグラフィックス)の映像がそれは凄い。そこにいると音楽とCGが一体になって押し寄せてくる感じで、私なんかふわーっと浮き上がるみたいというのかな、しびれるというよりもうトリップ状態になってしまった。新宿のディスコにはCGなんてなかったから、えらいショックで……。
一週間足らずの旅行でしたけど、中学のころに新宿に住みたいと思ったように、こんどはどうしてもニューヨークに住みたいと思いつめるまでに。そこで親にニューヨークでCGの勉強をしたいって切り出したら、例の向こうっ気の強い母親が「おまえなんかあんな危険な所でひとり暮らししたら、ドラッグに溺れて、レイプされて、エイズで死ぬのがオチだ」って猛反対するんですよ。
そこでニューヨーク留学の資金を貯めるために、AVデビューを決意することになる(このインタビュー記事では、AVではなくてタレントになるということになっている)。
そして、タレント引退後には、CGデザイナーになりたいという夢を語っていく。
こんなふうに少し落ち着いてきましたから、マック(マッキントッシュ)を使ってCGの勉強を始めたんですよ。じつは先生について個人授業を受けてる。最初は静止画からスタートして、少し腕が上がり、先生は「こんどはアニメーション(動画)だ」とおっしゃってくれるんですが、私は納得いかない。基礎が大事だがら、もっと静止画の勉強をしたほうがいいんじゃないかと、以外にマジメに悩んでるんです(笑)。
(中略)もしタレントをやめたら、こんどはCGデザイナーになれたらなと思ってるんです。これまで八回ほど遊びに行きましたが、そのためにはどうしてもCGの本場のニューヨークに行き、こんどはアートスクールに通って、本格的に勉強をしなければならない。ソーホーのロフトに住んで、コンピュータをいじってる、これが夢なんです。
1994年に発売された飯島愛初の著書である『どうせバカだと思ってんでしょ!!』(徳間書店)では、ぬいぐるみやクレヨン、缶や紙風船といったグッズの写真をコラージュしたカバーを担当。奥付には「カバーCG 飯島愛」と誇らしげにクレジットされている。

1995年のWindowsと電脳アイドルたち
90年代半ばから後半にかけてはコンピューター、そしてインターネットが一気に普及した時期でもある。
1995年11月に日本でも発売されたOS「Windows95」は、その発売日の深夜に秋葉原で大行列が出来て、テレビや新聞で報道されるなどの騒動にまでなった。
それまで、会社で仕事で使われるもの、あるいは一部のマニアのもの、という印象のあったコンピューターが社会的にも大きな注目を集めるようになり、テレビや新聞、そして雑誌などの一般マスメディアでも取り上げられることが増えた。
そうした流れの中でコンピューターを扱う若い女性をクローズアップする企画も増えていく。
『週刊宝石』1994年10月27日号には「作曲からCGデザインまで 田村英里子、千葉麗子… 女性タレントたちはパソコン・フリーク!」という記事で、田村英里子、千葉麗子、谷山浩子、紺野美沙子、桃井かおり、そして飯島愛を紹介している。
もっとも、紺野美沙子や桃井かおりは原稿をパソコンで書いているというだけで「パソコンフリーク」扱いされているなど、現在の常識からすれば、その基準はずいぶんと甘い。
そんな中で、この後に「電脳アイドル」として頭角を現していくのが、千葉麗子だった。『恐竜戦隊ジュウレンジャー』への出演で注目され、ドラマやCMなどで活躍していた千葉麗子だが、この時点でパソコン関係の雑誌に4本の連載を持ったり、毎日新聞主催の「デジタル文化を語る」というシンポジウムで筑紫哲也らと共にパネリストを務めるなど、デジタル方面での活動も盛んであった。
1995年には芸能界から引退し、ソフトウェアを扱う会社を起業するなど、まさに「電脳アイドル」として一斉を風靡した。
そしてこの時期、飯島愛もまた千葉麗子に負けず劣らずの「電脳アイドル」として活躍していたのである。
「“ゲーム文化”という文脈で、世のハイテク事象を横断する『ポストテクノ』の情報ページ」をうたう「Hi-Tech Hippies」という『週刊SPA!』の連載に登場したり(1994年4月6日号)、『宝島』でのマッキントッシュの大特集「Macintosh秘宝館」のイメージモデルをつとめるなど、様々な雑誌に「電脳アイドル」的な立ち位置で登場していた。 さらにインターネットの普及が進み、芸能人も個人ホームページを開設するようになってくると、その一人として紹介されることも増えていく。
今やこれを知らなきゃ生きていけないといった勢いのインターネットブーム。
(中略)敏感な芸能アイドルの面々も黙って見ているわけはなく、今年に入って、続々と芸能アイドルたちがホームページを開設している。
という『週刊ポスト』1996年4月12日号の記事では、早見優、酒井法子、西村知美、後藤久美子といった人気アイドルのホームページ事情を紹介しているのだが、見出しは「飯島愛 インターネットでエーッ、『尻出し』?」であり、彼女たちに負けない飯島愛の注目度の高さを物語る。
『週刊文春』1996年9月26日号の「秋の夜長はパソコンで遊ぶ 各界著名人のホームページを探検する」では、立花隆、筒井康隆、村上春樹、小室哲哉、星野仙一、マイケル・ジャクソンらと並んで飯島愛のホームページが紹介されている。
最近では、タレントのホームページも目立って増えてきた。例えば飯島愛ちゃんの「frenetic ai」。
彼女が描いたプロはだしのコンピュータ・グラフィックスや、日常の写真が載せられている。そのせいか、ファンからかなりの電子メールが来るという。
「アメリカ、香港、それにノルウェーのファンからも電子メールを貰いました。ファンレターには、画像付きの返事を出しています。英語は事務所の人が訳してくれるから、金髪の男の子からメールを貰えたら嬉しいな」
ちなみにそのページの紹介文には「ただし、Tバックの写真が掲載されていないのは残念無念」と書かれている。
基本的にこうした記事のほとんどで「意外なことに」といった前フリが書かれ、飯島愛とコンピューターグラフィックというミスマッチな組み合わせを単純に面白がっているという姿勢も垣間見える。
しかし、それほどまでに思い入れのあったCGに対しての発言が、90年代末になると、パタリと無くなってしまう。
2000年発売の『プラトニック・セックス』においても、ニューヨークでの体験の中に、かつてインタビューで何度と無く繰り返して語られてきた『パラディアム』でのCGへの感動は全く登場しない。
AV女優になることを決意した理由も、CGを学びにニューヨークへ留学する資金を貯めるため、ではなく単に「ニューヨークに行きたい」から、となっている。
2003年に発売されたエッセイ集『生病検査薬≒性病検査薬』(朝日新聞社)に至っては、「ニューヨークでDJになりたい」という夢がAV出演につながったと書かれている。
そして2007年に芸能界を引退した後も、90年代半ばのインタビューでの定型ともいえる「タレントを辞めたらCGアーティストになりたい」という夢については一切触れられることがなかった。堀江貴文やサイバーエージェントの藤田晋といったIT系の業界人との親交は深かったようだが……。
90年代半ばまでの、あの熱量が突然全く消え失せてしまったのには、何か大きな理由があったのではないかと、つい邪推したくなってしまう。
そんなこともあり、飯島愛が一時期「電脳アイドル」的な立ち位置でもあったことは、現在ではすっかり忘れ去られている。著作での歴史の書き換えを見ると、彼女は自分が「ニューヨークにCG留学したい」という夢を抱いていたことを、「AV出演」以上の黒歴史だと思っていたのかもしれない。
筆者について
やすだ・りお 。1967年埼玉県生まれ。ライター、アダルトメディア研究家。美学校考現学研究室卒。主にアダルト産業をテーマに執筆。特にエロとデジタルメディアの関わりや、アダルトメディアの歴史の研究をライフワークとしている。 AV監督やカメラマン、漫画原作者、イベント司会者などとしても活動。主な著書に『痴女の誕生―アダルトメディアは女性をどう描いてきたのか』『巨乳の誕 生―大きなおっぱいはどう呼ばれてきたのか』、『日本エロ本全史』 (以上、太田出版)、『AV女優、のち』(KADOKAWA)、『ヘアヌードの誕生 芸術と猥褻のはざまで陰毛は揺れる』(イーストプレス)、『日本AV全史』(ケンエレブックス)、『エロメディア大全』(三才ブックス)などがある。