ゴーストタウン&スパイダーウェブ
第3回

断絶した街と、その法理

ゴーストタウン&スパイダーウェブ

政府から見放され、警察が去り、無法地帯と化した東京・町田。そこで暗躍するのは、当事者たちの間に立って事件を仲裁する「探偵」だった──。『布団の中から蜂起せよ』で注目を集めた気鋭のアナキスト/フェミニスト・高島鈴による新時代左翼小説。

第1回第2回はこちら

あの子の握ったタトゥーマシンの振動が私の皮膚を震わせている、はずなのに、声は聞こえない。ただ機械音だけが反響するなか、あの子だと確信しうる気配が私のそばに立って、私の背に何かを彫り続けている。私には見えない何かの絵。針は進んでいる、いつかこの作業は終わるのかもしれない、なら、いつまでこうしていられるんだろう。

「ずっと怖いんだ」

私は口に出している。気づけば施術室の中には幾人かがおり、私の話に耳を傾けていた。ある者は興味深そうに、ある者は退屈そうに。

「全部失ってる、失い続けてると思う。私もこの街も。修復しようと何度も試みてはいるし、それは別に失敗してるわけじゃない。ただ、失う速度があまりに速いんだ。だからずっと絶望に追い付かれるのが怖い。今目の前の現実を縫い合わせる手を諦めて止めてしまったら、一体何が起こるのか、それがずっと怖い」

すると施術台の下からにゅっと黒い〈影〉が伸びてきて、すかさず口を挟む。

「ああはいはい、また始まったよ。すぐネガティブなことばっかり考えて、自分に浸ってるんだ? そういうのが一番みっともないんだっていいかげん気付けよ。お前いまいくつだよ、言っとくけどソシュールだったらとっくに博士号取ってるからな」

〈影〉は私が調子に乗らないよう、いつも迅速かつ饒舌に私を否定する。そういう役割なのだ。ただしどこかで自意識を発揮してやろうとする部分があって、少し過剰な冗談を混ぜてくる。

「ソシュールの時代と今とを比べても意味ないでしょう、そもそもあなたはそんなこと目指してないものね?」

すると正面に控えていた〈レディー〉が、ハスキーボイスで柔らかに反論した。〈レディー〉は数少ない私の擁護者であり、躁のエンジンを司る存在だ。巡礼者の格好をした殺戮者で、常にその衝動を発散する理由を求めて彷徨っている。

「由良、あなたはじゅうぶん頑張っているわ。だって仕事を失ってもすぐに探偵さんがあなたを雇ってくれたし、現時点で十分暮らせているでしょう? 大丈夫、きっとこれからも、大きくはなくとも幸福が繰り返し巡ってくるに違いない。力を蓄えれば、きっといつかあなたを見捨てた人たちに復讐できるチャンスがやってくる」

「どうかなあ。……時代っていうのは、どんどん悪くなりますよ」

首を左に傾けると、ポーラーハットを目深に被った若い男性が、肩身が狭そうな感じで壁に寄りかかっている。近代詩人、大久保春庭である。この人だけは白黒写真しかイメージソースがないので、色がない。

「僕も少しばかりは幸福だったことがあるから分かりますがね、ああいうのは逃げるものです。やつらするりと我々のてのひらなんぞすり抜けて行ってしまう。まるで若い魚です。いや、今の比喩は僕が言うには凡庸だな。もう少しあなたには僕の作品を理解してもらいたいもんですが。まあ要するに、今から恐怖しているのは、妥当なんではないですかね。あなたは順当に不幸になりますよ。ええきっとそうです」

大久保春庭はプライドが高くて繊細なニヒリストで、私の意見に賛同する形で私を否定してくる。〈影〉が喜んで「そうだそうだ」とヤジを飛ばす。

「お前、今なんだかんだ仕事頑張ろうとか思っちゃってるみたいだけど、それもいつまで続けられるんだかわかんないぜ。またお前は見捨てられるかもしれない。そしてまたお前はどこかで諦める。またお前は孤独に堕ちる」

顔のない〈影〉だが、それでも背中を逸らして私を嗤っているのが分かる。〈レディー〉は長いローブの裾から一歩踏み出して、私の手を握りながら言う。簡素なブローチがいくつも留められたローブのデザインは、中学生が考えたにしては凝ってるな、と今の私は思う。

「由良をあまり責めないで。この子だって好きで苦しんでるわけじゃない。ちょっと過去の傷のせいで恐れが強すぎるだけなのよ。お仕事だって、検校さんはきっといい人。信じていいはず」

「そんなわけないだろ、あの刺青女はきっといい顔をするだけして、こいつが愚鈍であることに漬け込んでくるはずさ。それだけじゃない、何もかも崩れ去る、居場所なんか消える」

「そうですね、苦しみも痛みも全部天から降ってくるものでしょうから、誰を信じようが何を頑張ろうが、根本的にはどうしようもありません。終わらせるというのも選択肢でしょう。ちょうど僕みたいにね」

大久保春庭はそう言うとくるりとこちらに背を向けて、痩せた足でずんずん歩き出した。さっきまで施術室の壁でしかなかった場所にいつの間にか境川の景色が現れ、大久保春庭はずぶりずぶりそこへ足を踏み入れて二度とこちらを振り向かない。いっつもこうだ。こいつは思考を止めたくなるたびに自死で無理やり話を終わらせようとする。実際私もそれが発生する頃にはすっかり疲れているので、諦めて目覚めることにしていた。

背中を刺す振動が止まり、カーテンを貫いた真昼の太陽が、開いたばかりの瞳に直撃する。熱い。痛い。

「……ああくそ」

当然だがもう返事はない。上半身を起こすと、つい左腕をさすった。もうとっくに塞がり、絵柄だけが残った腕。背中に繋がる線が入ったその起点。

ベッドを抜け出し、着替えて事務所に出る準備をする。一日が始まる。

「……そう、だからそのとき初めて思ったんだよね……宮田さんってもしかして戦場カメラマンじゃなかったのかな?って……そのとき一緒にいた中原さん、中原さんはさっき話した風営法関係の裁判の判決文を歌詞にする専門のパンクバンドをやってる溝の口の吟遊詩人なんだけど、中原さんもなんかビビっちゃってさ、その人が席立った隙に『検校さん、宮田さんが見せてきたイラクの入国スタンプ、あれパスポートじゃないですよ。ラブライブ!のことりちゃんの学生証でしたよ』って言うのよ。でももうこれから例の元イタコのドラァグキングが入ってくるところだったから、席離れられなくて」

「すいません、あの、何に集中していいかマジで分かんなくなるんで、一回その話止めてもらっていいすか」

もうはっきりと夏の気配が近づいている町田シバヒロの片隅。私は今何を聞かされているのか、そして今何を見せられているのか。隣で濃ゆいエピソードトークを喋り続けているわが雇い主――〈私立探偵〉検校芳一を一旦黙らせつつ、こめかみに汗粒が流れるのをはっきり肌で感じる。こんな陽だまりに長く座り込んで意味不明なカロリーを使うハメになるなら、タオルのひとつも持ってくればよかったと後悔した。もう尻が痛い。

「はっけよお〜〜〜い……のこったァ!」

行司……でいいんだよな? これは縄というかロープというか……といった感じのあまりにゆるい土俵の上で、二人の人物――一人は明らかにレスリング用のユニフォームだと分かる服装の上からオレンジのまわしを締めており、もう一人は根本の黒い赤髪をなんとなく髷に見えなくもない形に結って、上半身にはバンドTシャツを身につけている――が向き合い、その間に立つ人がヨドバシカメラのうちわを振り上げる。途端に二人は掴み合い、素足を芝生に食い込ませるようにして踏ん張り始めた。しっかりと筋肉の陰影が出たふくらはぎから続く硬質な踵が地面を擦って、案の定土俵も形が変わる。だが周囲を取り囲む聴衆にとってはそんなん些事であるらしく、そのまま「オラいけ!」「やれ!」とまとまらないヤジを飛ばしていた。平日の昼間なのに、なんでこんなに人が集まっているんだろうか……とかは多分考えるだけ野暮なんだろう……いや、私にはこれの面白さはあんまり理解できないんだけど。

しばらく組み合ったまま一歩も譲らずにいた両者だったが、やがてじりじりと形勢が動き、赤髪の力士がオレンジ回しの力士を追い詰めていった。オレンジがどうにか打開しようとしたのか、片足を払おうと体勢をずらすと、赤髪はすかさず上半身を押し切る。

行司がうちわを振り上げるのと、オレンジが縄の外で尻餅をつくのは、ほとんど同時だった。

「勝負あり! バルバトス赤富士の勝利ィ!」

あ、そういう四股名だから赤髪なんだ。いや、赤髪だから四股名が赤富士なのか? どっちでもいいことに思いを馳せていると、行司がバルバトス赤富士の片手を掴み、天に振りかざす。これって本当に相撲ですか?と言いたくなるのをぐっと堪えて、とりあえず周りの様子を見ながら控えめに拍手をした。汗で湿った手のひら同士が触れ合う。ほどよいタイミングで抜け出してトイレで手を洗いたい。だがすぐにスタンバイしていた次の力士が土俵入りし、客もまた次々にタオルを振ったり名前を叫んだりし始めるから、私はどうしていいかわからなくなって、数ミリ浮かせていた尻をもう一度硬い土に預ける。ちょっとうざいので確認したくないが、検校さんがこっちをうずうずと伺っているのが分かる。

「……それでさ、どうしようどうしようってしてたらドラァグキングの人が踊りながらこっち来てさ、宮田さんの方指さして『蛇を殺したことがありますね?』って聞くわけ。そしたら宮田さんが急に泣き始めて」

「あの、別に試合決まったら続き話していいシステムじゃないんですよ」

マジで検校さんの話は、ツッコミどころが分からないうえ、長い。

 

 

「いや、わざわざ来てくれてありがとう。やっぱあたしのこと手っ取り早くわかってもらうなら、取組見てもらうのが一番いいかなって。どうでした」

夕方、喫煙者の増えた喫茶店。ちょうど斜向かいの席に、汗を流した直後らしいバルバトス赤富士が腰を下ろした。アメコミらしきイラストの入ったTシャツの下に、筋肉がはっきり隆起している。先ほどまで結われていた赤髪は下ろされ、肩下あたりで揺れていた。どうでしたと問われても、さすがに何が面白いのか全然分かりませんでしたとも言いづらいし、何と答えるのが正解だろう、と迷っていると、先に検校さんが軽やかに口を開く。

「いやーなんか、ちゃんと座って観戦したのは初めてでしたけど、近くで見てもかなり謎でしたね! 私そもそも相撲もよく知らないですけど、これ相撲か?みたいな感じで」

あんた喋ってばっかでろくに見てなかっただろ、と言いたくなる気持ちを飛び越えて、検校さんがあまりにもストレートに「分からなさ」を語るので、小さく「え」と声が出てしまったが、この感想をバルバトス赤富士は気に入ったらしく、「ぎゃはは、そうなんです、意味わかんないでしょ。でもあれが町田のストリートなんですよ」と笑いながら応じている。気さくである。検校さんも笑いながらボディバッグをごそごそ漁って名刺入れを取り出すと、バルバトス赤富士ははたと気がついたように背筋を伸ばす。

「あ、そう、まず自己紹介すよね。あらためまして、赤嶺日向です。今はバルバトス赤富士って四股名で力士やりつつ、実家の不動産屋で働いてます。よろしくどうぞ……名刺とかなくて、すいません」

「不動産ですか、今いろいろ大変でしょう」

「そうですね、景気はまあ、よくないです。でも安くなってる今だからこそ町田に来るって人も意外といるもんですよ」

そう言いながらバルバトス赤富士こと赤嶺さんはパフォーマティブに力こぶを作って見せる。説得力のある山がそこに現れる。検校さんも笑いながら、そのまま探り出した名刺を手渡す。

「ご挨拶遅れました、探偵の検校芳一です、耳は奪われてないし男性でも琵琶法師でもなくて紛らわしいんですが、こういう屋号でやっております。よろしくお願いします……で、こっちは」

あ、やっぱ検校芳一って名前、本名じゃないんだ、というのを私がうっすら察知したのと同時に、検校さんが薄く唇を開いたままこちらを見やり、自己紹介いける?と目で訴えかけてくるので、私も慌てて前のめりになった。

「あ、はい、あの、検校さんの助手、じゃないや、雑用?をしてます、左岸由良です。あの、今日は、ご招待もお声がけもありがとうございます」

私も私で特に渡すものがないので、とりあえず軽く立ち上がってお辞儀をすると、赤嶺さんは「左岸さんも、こちらこそよろしく」としなやかに笑う。ちょっとした声であっても、丹田から出ているみたいに太い。身体の使い方が分かっている人の雰囲気がある、という意味では、わりと検校さんに似たオーラがあると言えるかもしれない。

知り合って数時間の印象だけで他人の事情を推し量るのは本当に下品なことだ、と思いつつ、私は考えている――本当にこの人が、われわれに頼まなければいけないような依頼を抱えているんだろうか? つまり、行政の管轄内で動く公立探偵の手に余るような、ピーキーな案件を。

私はやや身構える、と同時に、赤嶺さんはすぐに何かを察したように言う。

「別に、危ないこと頼みたいわけじゃないんです。ただ……行政と繋がってる探偵に頼むと、どうしてもその……役所に残っちゃうじゃないですか」

「されますね。公立探偵の助手が書く捜査記録は公文書扱いですから」

内心「あ、そうなんだ」と思ったが、ここは最初から知っていたかのような顔をして頷いておくことにする。赤嶺さんは「ですよね。それがネックというか……不憫で」と言い、目の前のグラスに差されたストローを所在なさげに触った。

「父の話なんです。相談したいのは」

赤嶺さんが始めたのは、確かに「奇妙な話」だった。

「熊がいる、って、言うんですよね」

「熊」

「そう、熊」

検校さんの猫目が丸くなる。

「うちってあの、えー、なんて説明すればいいかな、原町田幼稚園の方、分かります?」

「あーはい、勝楽寺さんの方の」

「そうそう、あの近くです。一軒家で、そのまんま一階が店舗なんですけど」

原町田幼稚園は町田でもかなり昔からあるキリスト教系の幼稚園だ。駅からは若干歩くので近くを通る機会はさして多くないが、寺の真向かいに教会があるので印象的な場所ではある。

「で、熊がいるから俺が追わないといけないって言って、なんか急にエアガン持って家の周りを見張るようになっちゃったんですよ。半年くらい前からかな? 一人で猟友会みたいな格好で」

「ほお……?」

検校さんが話を聞きつつ、ジェスチャーで「メモ頼む」と指示してくる。私ははっとしてカバンからノートを取り出し、「家 原町田幼稚園そば 熊がいる?」と記入した。

「なんかね、前はしゃんとした人だったんです。不動産屋は父から継いだんですが、毎日スーツ着てちゃんと働いてた。でも、えー、五年前に母が亡くなったんですよ。それくらいからちょっと、メンタルが弱くなっちゃった感じで」

赤嶺さんは視線を行き場なく彷徨わせる。なんとなく察するところはある――誰にとっても、近しい人が苦しい状況にあると説明するのは楽しいことではないだろう。検校さんも微笑みを消して、静かに頷きながら続きを促している。

「あんな市街地で熊なんか出るわけないでしょって、何度も説明はしたんです。でも父は見たんだ、いるんだって言って聞かない。そうなるともう話は平行線というか、父は父で誰も信じてくれないなら俺がやるしかないみたいな感じになってって、どんどん意固地に」

「なるほど」

検校さんは少し間を置きながら、質問を投げる。

「一応なんですが、医療のケアは受けてますか? そっち方面の話はうちだと専門知識がないから、対応できないことが多いんだけど」

「そうすね。そっちも一応、一回二回は通ったかな。でも最初に行ったところが、あんまりいいお医者さんじゃなかったんだよね。入るなり『何の薬がいりますか?』なんて聞いてきてさ」

「あ、それでどこの病院か分かりました」

「まじすか」

赤嶺さんはさすがですねと笑うが、私も内心で、あの病院がやばいのは町田の精神疾患持ちには常識なんですよ……と頷かざるを得ない。

「まあとにかく、なんか病院回るのも大変でしょ。認知症外来も別の病院でかかってみたけど、そっちは問題なかったし、それに父もあんまり医者にかかりたくないって言って、なんかやたら頑固だし……まあ一緒にいる分には、記憶や行動ははっきりしてるのもあって、ちょっと今は諦めてますね」

「なるほど。了解です。……となると、われわれには何を頼みたい感じですかね」

こういう質問が現れるとき、私はいつもわずかに緊張している。赤嶺さんではなく、赤嶺さんの前に置かれたグラスの中で、融解していく氷を意識的に眺めている。

ふとそのグラスが、少し左にずらされる。爪が短い。

「なんというか、疲れてるんです。私も父も。だから、どうにかこのまま地域で問題が起きないようにしてほしいというか……まあ本当は父がエアガン持って出歩くのをやめてくれたらいいんだけど、まあ、それよりはあれかな、地域の人に説明してもらうとか……そっちの方かな」

赤嶺さんはやや不安げにそう口にするが、検校さんはそれを聞いてむしろはっきりと頷き、「分かりました」と口にした。

「それならわれわれにもできることがあると思います。とりあえずお父さまにお話聞いて、周りの状況確認をするところからかな。それでいいですか?」

「はい、そうだね、それでお願いします」

赤嶺さんが頭を下げ、そこで話はまとまった。メモをしまって席を立つとき、なんだか尻が汗ばんでいるような感じがして、まだ自分が客先に出る緊張に慣れていないのだと分かる。まだ何があるのか、自分に何ができるのかは、正直分からない。それでもこうやって目の前に困っている人がいて、その人に頼られているのなら、できる限りのことをしなくては、と、素直に思う。そう思えている自分には、少しほっとする。

「なんか、結局なんでわれわれが呼ばれたんすかね。不憫で、とか何とかおっしゃってましたけど、お父さんの記録が残るのがそんなに何かまずいんでしょうか」

すっかり日の暮れた帰り道、事務所に戻る最中にそう尋ねると、検校さんは片頬に空気を溜めるような感じで口をもごつかせて、「そうだねえ……」と魔を置いた。

「赤嶺さん自体は、すごくいい人そうでしたけど。まあ、何してるんだか、あの相撲みたいなやつはよくわかんなかったですが……」

「……そうだねえ」

検校さんの返事はやはりどこか煮え切らない。てっきり赤嶺さんへの印象はいいものだと思っていたから、何にひっかかっているかが見えてこず、私はなんだか落ち着かない気持ちになる。仲見世商店街の中を通り、一本入った薄暗い路地裏、バーに似た佇まいのわれらが事務所の鍵を開けていると、後ろから検校さんの呟きが追ってくる。

「……左岸さ、わかるよね、〈頭にアルミホイル巻く〉みたいなミーム」

急に心臓がびくついて、鍵穴に刺そうとした鍵が右にずれた。かちゃ、とおもちゃみたいな雑音が鳴って、手の震えがわかる。

「え、はい、あの、思考盗聴、的な……」

知っている。かなり古い、そして極めて悪質な、精神疾患を揶揄するネタだ。もとは自分の頭の中を覗かれているのではないかという極端な不安に対し、当事者が必死に抵抗しようとした結果行っていた行動を、ネットがおもちゃにして広まった話だと認識している。ネットがあまり普及していないこの街でも、ネットがあった頃から冗談にされてきたミームだから、十分すぎるほど通じてしまう。

平静を装ってもう一度刺す、と、やっと鍵穴に鍵が入ってぐるっと回る。古いドアが軋んで開く。中の空気は湿度が篭って熱っぽい。

検校さんはまた一拍置いて、話を続けた。

「よくある……ひどい話だね。本当に不愉快な擦られ方をしすぎたせいで独り歩きしてる。まあでも実際、私が動くときでも、同業者、まあ広い意味でのだけど、に、話聞くときでも、よく出てくる」

「何が……」

「誰かに見張られてる、みたいな意識を持っている人のこと、みんなすぐ分かったような感じでああはいはいメンタルの問題ねって片付けようとするんだけど、それなりの確率で、〈マジで見張られてる〉パターンがある」

「ああ……」

そういうことか、とどこかで胸を撫で下ろしている自分がいる。このまま話が「メンタルヘルスが大変な人の相手は難しいね〜」的な方向に行く可能性を、いくら検校さんを信じていたとしても、どこかで身構えざるを得ないから。

「信じてもらえないのは、悲しいことだよね。……今回がそういうやつかは分からないけど、少なくとも私は、本当に熊がいる可能性を排除せずにやっていきたいと思ってる。実際、町田に熊がいないって言い切れる証拠はないからね」

「はい。……それでいきましょう」

私はなるべく力強く頷く。私もそれでちゃんとつかえが降りた。

ただ、検校さんの顔はまだ晴れていない。顎の下に指を当てて、椅子に腰掛けもせず、もう片方の手で静かにカウンターをなぞる。短めの爪が木目に沿って立てられている。

「まだ何か……あります?」

おそるおそる聞くと、検校さんはわずかに苦味の残る笑顔で振り返った。

「何もないことはないよ。マジで懸念が何もない案件だったらウチに来ねえから」

「それはマジでそう」

なんか、あんまり考えすぎない方がよさそうだ。

「あれかあ〜〜……」

とてもじゃないが「尾行」ではない。遠目で見てもバチバチに刺青だらけの検校さんが、特に隠れもせずに道に立って、一人の老いた男性を見つめていた。不自然に出っ張った登山リュック、ハンチング、ワークマンで見たことある感じのベスト。さっきからしきりに街路樹の影や建物の裏側を気にして回っている。赤嶺直之さん。赤嶺日向さんのお父さんだ。

「あの出っ張りがエアガンなんですかね。さすがに丸出しにはできないか」

「なんか一回近所の人から苦情が来て、それから一応かばんにしまうようになったらしいよ。弾はBB弾を持ってるみたいだけど、本体からは日向さんが毎晩こっそり抜いてるって」

「ああ、なるほど……」

私は頷きながら、聞いていた話ほどやばそうな感じはしないな、と思う。確かに山歩きみたいな格好をした人が住宅地でうろうろしているのはちょっと浮いているけど、別にそれくらいだ。人にエアガンを向けるとか、誰かに付き纏っているとか、そういう行動は見て取れない。何なら通りすがる人とも挨拶していて、朗らかですらある。

「どうします? ご本人に声かけて聞いてみますか?」

「いや、それはもうちょっと先かな。一応家に帰るまで見守ってようか、そこ座ってりゃいいし」

そう言って検校さんが指差した先には、誰かが勝手に設置したらしい簡素な椅子が数脚あった。この街でこういう光景はよく見る――町田は人が減ってから長く居られる飲食店が減り、必然的に路上に出てきた人たちが、こうやって勝手に「溜まり場」を形成しては去っていくのだ。

赤嶺直之氏も幼稚園前の空き地からしばらく動かなさそうだったので、われわれは並んで椅子に腰掛け、様子を見ることにした。

スチールのパイプで作られた柵の向こうに、細長い草が繁茂している。もう初夏、とか言ってる間にすぐ夏になるだろう。いやだな、と思う。汗をかく季節は嫌いだ。いい思い出がない。

ふと視界に入った検校さんの腕を見た。ジャージの袖口からはやはり細かな経文がびっしりと刻まれている。夏になればこの先、肩ぐらいまでは見えるのだろうか。やはりこの先も、すべてが刺青に覆われているのだろうか。そもそもこの刺青はどういう理由で入っているのだろうか……。

ぼんやりひとりごちて、赤嶺さんからすっかり視線を外していることに、検校さんの視線ではたと気付いた。

「あ、すいません……」

「……そんなに気になる? これ」

「え、いや」

「まあまあまあ、分かるよ、こんだけ入ってるのはそりゃ珍しいわな」

そう言って検校さんは一気にジャージを捲り上げた。思わず「わ」と声が出る。マジで腕全体、すべてが真っ黒いと見紛うほどに、小さな小さな漢字がぎっちりと彫り込まれていた。

「すごい」

「まあね。顔以外、見えないとこも全部入ってる。本当に全部」

目が三日月みたいに細められて、息が吐かれるのが分かる、せいで、なんだか急にウェットな空気を感じてしまう。「痛そう、ですね」とやっと絞り出すと、隣からケラケラと軽やかな笑いが溢れた。

「そんな緊張して聞く話でもないけど。まあいろいろあって入れることになって、一年半くらいかかったかな、死ぬほど痛かった。傷が治らない間身体からやばい匂いのする体液、なんか血だけじゃない、細胞液?なのかな?なんか違う汁も出るもんで、死体みたいな匂いがしてさ、ずっとなんかしら垂れてるから、電車乗るときなんかどうしようもなくて腕にペットシーツ巻いてたんだよね」

「ペ、ペットシーツ……」

壮絶な話に絶句していると、検校さんが急に私の膝を叩いた。

「動いた」

「え」

見ると、先ほどまで所在なげに立っていた赤嶺直之氏が、突然身構えるようにしゃがみ、リュックサックを下ろしているところだった。ちょうど植え込みの影に隠れるようにして、エアガンを取り出そうとしている。

「ちょ、これ……」

「誰か来たっぽい。左岸、見すぎるな」

「へ、」

見すぎるなと言われるとつい見てしまう。視線の先にいたのは、今まさにこちらに向かって歩いてくるスーツ姿の人物……一人、それだけなら別に何でもないのかもしれない、だが、何かが浮いている気がする。

何がおかしい?

そう思ったとき、その人はこちらを見た。

「あ〜……」

検校さんがそう漏らす。私がヘマをしたのか? ちょっと見ただけで? 

いや、違う、と分かったのは、相手が話しかけてきたからである。接近、逆光、顔がちゃんと見えない……ふいに現れた光と光の線の間に、枯れ木のように水気のない瞳が佇んでいる。

前職で磨いたアンテナが急に働く。

明らかに、「本職」だ。

「あれまあ、誰かと思ったら」

「……東さん……」

情報が少ない。分かるのは、二人が知り合いであること、そして検校さんにとってこの邂逅が緊張を強いられるものであること。それくらいだった。

「あんたも懲りないね。今は検校だっけ」

「まあ、そういう屋号ですね。東さんも、お噂はずっと耳に入ってますよ」

「へえ……そりゃあ光栄だ」

なんか、入れる雰囲気じゃない、し、入りたくない。のだが、東と呼ばれた人物はふっとこちらを見て、「こちらは?」と尋ねた。

「うちの雑用係です」

検校さんの背中が視界で揺れて、私を少し庇うような姿勢になってくれているのだと分かる。東は「ふうん」と鼻を鳴らしながら私を一瞥し、すぐに検校さんへ視線を戻した。

「お前さんが他人と働くとはね。余語が泣いて喚くぞ」

「……本当に冗談じゃないですよ」

「はは、ビビってんのか、面白いね」

「今は検校」って何? 「余語」って誰? 何の話なのか把握しきれずに目を白黒させていると、東は「さて、こんなとこで油売ってる場合じゃねんだ」と言って会話を打ち切ってくる。

「じゃあな、“探偵”。俺の邪魔にならない程度に、頑張れよ」

「……」

意味深な強調が耳に残る。東はその一言を置いて、ひらひら手を振りながら歩き去った。視界から東が外れる、と同時に、道路を挟んで斜向かい、植え込みの影にいた赤嶺直之が目に入る。

「あ」

そのときわれわれは、こちらに向いていた銃口が、下げられる瞬間を見た。どういうことだ、と思ったとき、検校さんが「うわ」と漏らす。

「え?」

無言で指を指す、その先には、赤嶺不動産――すなわち赤嶺家へ入っていく東の背中があった。

一体誰と誰との間で、何が起きているんだ?

「ちょっと整理していいすか」

「どうぞ」

机の上にプリントアウトした聞き込みの書き起こしやメモ類を並べて、私と検校さんは向かい合っていた。

「われわれって赤嶺直之さんを見てましたよね」

「そうだね」

「赤嶺さんは熊を追いかけているはずですよね」

「そうらしいね」

「でも赤嶺さんは、東さんという人が来た瞬間、エアガンを出しましたよね」

「そうだね」

「そして東さんに、銃口を向けてましたよね」

「そうなるね」

「……東さんが熊ってことですか?」

「東さんは、人間だね」

「……」

そりゃそうでしょ、とは言えず、そこで妙な沈黙が流れる。検校さんはこっちを見ない。中身のたっぷり入ったコーヒーカップを顔の手前で止めたまま、視線を横に流してなにごとか考え込んでいる。

「東さんは、人間、ですけど、どういう人間なんですか。ていうか、お知り合いなんですか」

「……まあ、古い知人、いや、知人……まあ知人か……」

煮え切らない返事だ。おそらく友好的な関係性ではないのだろう、ということくらいは私にも推察できる。私が黙ってそのまま見つめ続けると、検校さんは躊躇いがちにこちらに視線を戻して、観念したように話し始めた。

「東さんはあ……東臣会っていう、まあ、一言で言うと町田のヤクザだね。そこの会長の、東さん」

「東臣会は知ってます、けど、え? 東って、東頼倫?」

東頼倫。前職時代にちらほら名前を聞いている。今から二十年近く前に起きた大規模通信障害――通称〈擾乱〉――のタイミングで関西に拠点を移したヤクザ、日臣会の二次団体だ。

「よく知ってるね、さすが……あの東頼倫で間違いないよ」

「いや、てか、なんで……」

そんな人とあなたは「旧知の仲」なんですか、という疑問が、喉奥でぐえっと潰れていく。いつもなら固有名詞から意味不明なエピソードがどんどこ飛び出してくるこの人の口が遅い、ということは、どこまで聞いていいのか分からない。

検校さんもそれを察知したのか、口角をあえて緩めながら、「私の話は一旦いいとして」と続ける。

「今重要なのは、あっちの世界ではそれなりに上の立場の人間が、たった一人で赤嶺家に入ってったってことの方だね」

「あ……」

「何が目的だったかはまだはっきりしないけどね。でも赤嶺直之さんが銃を向けてたのは、まあほぼ確実に東さんだった。それとこれとが繋がらないとは、まあ、言えないだろう」

検校さんの目が、湯気越しにも分かるほどにぎらつく。静かに対象を射止めようとする、これは、狩人の目だ、と思う。

「ま、とりあえず聞いてみようか。話はそれからだ」

赤嶺家に何かありそうだ、という予測のもと、われわれは二手に分かれて聞き取り前の事前調査を行った。私は中央図書館へ地元新聞のアーカイブを探りに、検校さんは周辺住民への聞き取りに。なんか昔話みたい、と思いつつ、私はようやく「探偵の雑用係」らしくなってきた仕事に勤しむ。こういう調べ物は嫌いじゃない。なんてったって、元Webライターなので。

PCを思う存分使える環境に懐かしさを覚えつつ、データベースに固有名詞を打ち込んでは該当件数を確認していく。赤嶺、だと、さすがにひっかかるものが多すぎる。赤嶺不動産……二件。いずれも地域で頑張る老舗の紹介という建て付けで、日付は二〇〇三年だから、二十一年前、〈擾乱〉前の記事だ。「新生活を応援して十周年 街の人の笑顔を励みに」。ごく小さなコラム記事の枠内に、今の様子よりかなり若々しい赤嶺直之さんが、看板に手をついて微笑んでいる。もう一件は写真が一緒だったので、どうやらさらにローカルな町内報――情報誌「まど」だ――にそれを転載したものらしい。まど、懐かしいな。今もあるのかないのか、家に紙の新聞を取らなくなってからめっきり見ていない。

「東頼倫」でも検索をかける。一応古めではあるが二桁の記事がひっかかってきた。しかしヤクザを実名報道している媒体というとやはりどれも下世話寄りの週刊誌で、町田市立中央図書館の館内検索で読める範疇にはないようだ。さすがに前の職場でもそこまで危ない橋は渡らなかったしなあ、と思いつつ見出しを斜め読みする。「日臣会分裂の真相 組長の「懐刀」がまさかの左遷」「『こんなん島流しじゃ』……東臣会関係者が語る南関東勢力図」「姥捨山か、金鉱山か 新たな“南関東利権”の可能性と日臣会分裂」……。

知らず知らずの間に口の中に溜まっていた唾を少し飲み込む。こういう取材はある程度慣れているはずだが、やはり震えるものはある。

東頼倫。私の知る範囲では、日臣会現会長の従兄弟だ。血縁もあって長らく組長の右腕扱いを受けていたが、日臣会の後継を決める段階になって会長が養子を迎えたことで内部は分裂。会長の養子を推す声と東を推す声で二流派が発生してしまった。その後、組長の意向と〈擾乱〉が都合よく重なり、結局日臣会は拠点の変更を理由にして組を分け、人がごっそりいなくなった関東のシマは東頼倫の手に任された。それから表だった抗争などは起きておらず、トップ同士の取り決めもあって、日臣会と東臣会との間は一応「円満」に済んでいる、らしい。

「これだけじゃないんだろうな」

自然と自分の口からそんな言葉が出てきて、思わず二の腕をさする。前職からの癖で、土曜にPCを触っているとどうしても自分しかその場にいないような気がしてしまうのだった。やばい。

でも、どうしてそう思ったんだろう。

そう思ったとき、間違えて「戻る」をクリックしてしまい、画面は赤嶺不動産の検索結果に遷移していた。あ、やべ、と思ったとき、ふと二件目の記事――一件目と同じ写真を使った、地域情報誌の転載――の日付が、ややずれていることに気付く。

「……ん?」

これ、もしかしてまるっきり違う記事なのか?

気になって開いたとき、私は思わず髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜていた。バカ、こういうときに系列媒体から写真を借りてくるなんて、よくある話だ! 一件めの記事は二十一年前、二件めは二十年前。ほぼまる一年違う。

息を呑んで本文に目を通すと、そこには看過できない一文があった。

〈数ヶ月前、赤嶺さんは自宅兼店舗で指定暴力団の抗争に巻き込まれ、自身も怪我を負った。一時はお店を畳むことも考えたと言う〉

「これじゃん」

何かが繋がる音がする。こういうのって分かる。東臣会が、絶対に噛んでいる。

実際、すぐに「日臣会 不動産」で調べると、それらしき記事も見つかった。「日臣会内部で分裂の危機か 町田市白昼の組員殺害事件」……。どおりで出てこなかったわけだ――だって事件が起きたのは、日臣会から東臣会が分裂する前だったんだから。

私はそれらを懸命に保った真顔でプリントアウトし、事務所への帰路を急ぐ。

なんだろう、血生臭い話に首を突っ込んでいるはずなのに、自分で見出した点と点が繋がる瞬間ほどの快感を、私はほかに知らない。

周辺地域への聞き込みを済ませてきた検校さんと情報をすり合わせ、赤嶺不動産に何が起きたかがざっくりと見えてきた。

今から二十年前の冬、赤嶺不動産は偶然日臣会の小競り合いの現場になり、そこで銃撃戦があった。組員一名がその場で死亡、殺害した組員は現行犯逮捕。日臣会側は構成員同士の口論が発展した結果だと説明しているが、詳細は不明……。赤嶺不動産はそこから数ヶ月の間休業を余儀なくされたという。

「こんなことあったかなあ。まあ二十年前の話なんか覚えてないか……」

検校さんは頬を膨らませながらそう言う。そういえばこの人は、いったい何歳なんだろうか。

「しかし、なんで二十年前の話が今繋がってきてるんですかね?」

「そこだよね。近所の人に聞いてみた感じ、東さんらしき人物が赤嶺不動産に頻繁に来るようになったのはここ半年の話らしい。これは赤嶺直之さんが熊を見たって言うようになった時期と一致してるわけで……その前後から何かが、新しい問題として浮上してるってことだ……」

検校さんは視線を彷徨わせながらカウンターに入り、おもむろにお湯を沸かし始めた。視線は斜め上を彷徨かせたまま、ドリッパーにフィルターをセットする。豆を取り出し、袋から直接ミルへ豆を突っ込む。

「スプーン、使った方がいいすよ」

「……」

返事がない。手元を見ると袋を振るわせていた指先が静止して、豆が溢れている。

「検校さん、それ、豆が……」

「……分かった」

「は?」

「分かった。なんで今の今まで忘れてたんだろう」

検校さんは溢れた豆には目もくれず、カウンターにどんと手をついて目を見開いている。私はついていけずに「はえ?」と情けない声が出た。

「〈墓所の法理〉だ」

「……何すかそれ?」

 

〈墓所の法理〉。

その聞き慣れない単語は、どうやら中世に実在した一つの理屈を指すらしい。

「自分の身内が他人の土地で殺されたとき、その人が死んだ土地を〈墓所〉にするという名目で引き渡すよう要請できる。要請された側は、基本的には落とし前としてそれを了承せざるを得ない。簡単に言えば、そういう仕組みだね」

「なるほど……?」

「その仕組みを、なぜか町田のやくざたちは引き継いでいる。いや、引き継いでいる、と言うには断絶がありすぎるかな。彼らは自分たちの歴史を自分たちなりに創造しながら、この街に根を伸ばし続けてる。その過程のどこかで、この仕組みが再発見されたんだろう」

「分かるような、分からないような、って感じっすね……」

「実のところあの人らは、本当に昔からあったことをそのまんま続けてるんじゃないんだ。自分たちがいかに古い歴史を持っているかを周囲にアピールして、よりこの街に侵入しようとしている。そのために歴史上の慣習を好んで持ち出して、自らの指針にしてるんだ。やり方はかなり恣意的だけどね」

あの人たち頼朝とか大好きだから、と検校さんは笑う。そこまで言われて、ようやく少し納得がいく。歴史を利用すること。伝統とは常に権威だ。それを身に纏うことが、警察も暴対法も消えて〈仁義〉が強固に復権している今の町田のアンダーグラウンドにおいていかなる意味を持つのか、想像できない私ではない。世情が不安定であればあるほど、そこで優越するには、筋が必要になる。できる限り長く、できる限り太い筋が。

「すごく簡単にまとめると……この街の裏社会の人たちは、歴史上の理屈を引用して振りかざして、同業者を威嚇しつつ、地域を取り込もうとしている、ってことですかね」

「話が早くて助かるね!」

検校さんはアイドルみたいにぴんと立てた指先でこちらを指す。

「あの人らの歴史の『使い方』は、誰が正統にこの街に立つべきか、っていう戦いのための計略なんだ」

「……町田のルール、ってやつですか」

数年前、「町田のルールを破った」という理由で半グレの青年がリンチされた事件が起き、町田の内外でかなりネタにされていたのを覚えている。実際人が傷つけられているわけで、笑い事ではなかったのだが、私の元勤務先でもばっちり煽りつきのニュースにしたので、正直コメントできる立場にない。

私が微妙に渋い顔をしていると、検校さんは歌うような声音で付け加えた。

「ま、でも、それだけじゃないんだろうね。〈擾乱〉以降、ここにいる理由が欲しくなったのはみんな同じだ。……その中でもアンダーグラウンドの人たちにとっては、それが余計に切実だったというだけで」

思わず息を呑む。それは、その通りなのかもしれなかった。この無線通信不可能になった不便すぎる街に、本当に居残るべきなのか。それが言葉にできるのも、もしかしたらひとつの特権なのかも、と思うと、むしょうに唾が苦い。喉が変に乾いているような気がして、紛らわすようにわざと舌先を噛む。

「……この街って、いろいろ一回断絶しましたからね。〈擾乱〉以降」

検校さんは確信するようにうなずく。

「人が消えて、歴史が損なわれた。それは、小さなことではないね。場所にとっても、そこに残る者にとっても」

必ずしも、そのすべてが傷だと言い切らないのが検校さんらしいと思い、そして同時に、「検校さんらしさ」に気がついている自分にも驚く。私、意外とこの人のこと、興味持って見ているらしい。

その小さな気づきを知らない検校さんは、さっき溢れた豆をようやく拾い上げてミルへ戻しながら、話を続けた。

「それでもうひとつ、肝心な話。……私の知る、町田のやくざが持ち出すもう一つのルールがある。それが〈二十年年紀法〉だ」

「……それは?」

「やくざ同士の揉め事の時効を、二十年に定めてるってこと。つまり」

そこで急速に私の頭の中で答え合わせが発生し、すべてが線になって繋がる。

「……二十年前の抗争の時効が来る前に、東臣会は赤嶺不動産を〈墓所〉にしようとしてる、ってことですか?」

「ビンゴ!」

ばちん!と検校さんは音が鳴りそうなウインクをキメてくる。こちらに招くような形で向けられた人差し指を前にして、なんか探偵みたい、いや探偵じゃん、と思う。

「これで一応、対話の準備は整ったって言えるかな。まださすがに不明瞭な部分が多いけど、まあ、おっとりしてられるほどの猶予がないのは確かだ……」

東さんな、あんま話したくない相手だけどな……と言いながら伸びをする検校さんを見て、私は思わず口を挟んだ。

「ていうか、日向さんも人が悪くないですか?」

「何が?」

「え、東臣会が絡んでるってこと……言ってくれたら、もっと早く動けたはずでしょう」

「あのね左岸、間違えちゃいけないぜ」

ひゅうう、かたん、と音を立てて、後方に置かれた電気ケトルのランプが消える。

お湯が沸いた、けれど、検校さんはそちらを振り向かない。

「われわれに話が来るのは、おおっぴらに言えないこと、言いたくないことが噛んでるからだ。……依頼人がわざと言わなかった、あるいは言いたくなくても言えなかったって事実そのものを汲むのも、仕事だよ」

「あ……」

「沈黙の意味を考えるんだ。……話を聞くってまずはそこからだと、私は思うね」

検校さんはそれだけ言うと、すぐに身を翻して、コーヒーの準備を続けた。それから淹れてもらったコーヒーの味は、正直、よく思い出せない。

それから一週間、検校さんは連絡を絶っていたが、昨日になって急に「明日赤嶺不動産に行こう。アポは取ってあります。一五時現地集合」と手紙をよこしてきた。本当に何もかも嵐みたいで、いつも意味が分からない。それでもつい、この人の言動の引力には動かされてしまう。

当日、私と検校さんは、向かいに赤嶺日向さん、赤嶺直之さんが座った状態で、赤嶺不動産の窓際に備えられたローテーブルを囲んでいた。目の前には紙コップのコーヒーが湯気を立てているが、私はまだそれを啜る気にはなれない――「これから東さんが来るっぽいから、一応言っとくね」という、出所が聞きたいような聞きたくないような情報を、検校さんから受け取ってしまっている以上は。

「聞き取りが遅くなってしまってすみません。いや、ちょっと準備に手間取りました」

「いや全然、お疲れさまです。それで、何から話しましょうか」

日向さんの顔にブラインド越しの光が入って線を作る。私は覚悟を決めて、レコーダーを机の上に載せる。

 

――直之さんとお話しするのは初めてですね。初めまして、検校芳一です。

赤嶺直之(以下、直之) ええ……初めまして。娘が何かお世話になっているようで、どうもありがとうございます。

――最近、熊を追っておられると聞いて、ちょっとお話をうかがいたかったんです。

直之 熊、ええ、日向は、娘は信じないのですが、いるんです。ずいぶん前からそうです。ほら、もう三十年も前ですが、大地沢の方のキャンプ場でも、人が襲われた事件があったでしょう。本当に、被害が出てからじゃ遅いんですよ。

赤嶺日向(以下、日向) ……お父さん。[ここで手を組み直し、わずかに唇を噛む]

――そうなんですね。直之さんはこの辺りで熊をご覧になった?

直之 熊ですか。すごく残忍な顔ですよ。あれはきっと、人も襲います。ご存じですか、ツキノワグマみたいな本州にいる熊も、一度人里でいい思いをすれば、すぐ味を占めるんです。ちゃんと山に追い返さないといけない。人を襲えば生きていけるって学習したら、とんでもないことです。

――なるほど。直之さんがこの辺りを警戒し始めたのは、ここ半年のことだと伺いました。それはどうしてですか?

直之 ああ、それは、やけにこの半年、恐ろしいのがうろつくようになったからです。

――恐ろしいの?

直之 これまでの熊は、そんなに大したことありませんでした。もともと、熊だって里山の生き物ですから、ある程度は人間と持ちつ持たれつ、同じようなものを食べて暮らすようなところがあるでしょう。それがね、近頃のは、ひどいですよ。人のものを奪って奪って、それで居場所を増やそうとしている。まあそれが熊の本性なのだろうし、人の側にも問題がないわけじゃないんだろうし、ある程度は仕方ないんですが。でも、来たら追い返さないといけないですよね。

――そうなんですね。……日向さんは、どう感じておられますか?

日向 え、どうもこうも……熊とか、こんな街中にいないので、普通に。……というか、今日ってどういう感じなんですか? もう、あの、父がいる前で言うのもあれですけど、あんまりその話を深掘りして聞いてもらうよりは、何か別の方法で……具体的にどうしろってわけでもないけど、何か対処してほしかったんだけど。

――すみません、その点に関しては説明不足で。ただちょっと、この件に関してはわれわれの側からも気になることが多かったんです。

日向 ……何か?

――ほら、ちょうど来ました。

日向さんが息を呑む気配がして、私もとっさに振り向く。

影だ、と思う。ガラスのドアに書かれた「赤嶺不動産」のゴシック体、その向こう側にある、背の高い痩せぎすの男。検校さんの持つ頼もしい巨樹のような気配とはまた違う、何か密林でしたたかに枝を伸ばして光を奪い取ってきた、それゆえに幹を歪ませてきた木のような、強い存在感。

「……あらあら、みなさんお揃いで……」

東頼倫だ。

ドアをガタンと音を立てて押しながら、その男はするりと店内に入ってきた。途端に直之さんが立ち上がろうとする。

「お父さん!」

途端に日向さんがそれを静止した。何かに怯えるように瞳孔が見開かれている。直之さんはそれでも腰を浮かせて指をさす。

「また、また奪いに来た、お前が! 日向、銃、銃を……」

「お父さんやめて、お願いだから!」

「やだなあ、お話ししに来ただけでこの仕打ちかあ。ちょっとひどくないかな」

その人はにこりと微笑む。目尻こそ下がっているが、背負っている空気は冷え冷えと止まっているので、私も身構える。そのとき、検校さんが電気自動車みたいに静かに私を追い越して、身体を壁にするように前に出た。

「最近よく会いますねえ、東さん。こっちはこっちで取り込み中なんですが、今日はどうしたんですか」

「なんか饒舌だね、そっちも。仕事モードってことかな」

「そりゃまあ、仕事しに来てますから。あなたと話すことも含めてね」

「へえ。……じゃあ、座らせてもらっていい?」

東さんはそう言うと、もう座る場所のない窓側の応接セットに、カウンターに備えられていた丸椅子を引き寄せると、そこにどかっと足を開いて座る。ソファよりやや高い位置、いわゆる「お誕生日席」に当たる場所に――本当に、手を伸ばせばすぐ触れられる位置に――陣取ったその人は、あらためて検校さんに目をやった。

「俺はあんまりお前さんがたには用がない、というか、面倒そうだから喋りたくないんだけどね」

「光栄っすね。天下の東さんにそう言っていただけるとは」

「褒めてねえよ。……で、何」

そこで検校さんは半分以上が怯えているその場全員の顔をぐるっと見回して、検校さんは確かに笑っていた。唇は三日月の形に開かれ、はざまから犬歯がのぞく。

愛嬌、それもある、でも違う、これは多分、闘志だ。

その瞬間、私はこの人の戦場が今ここにあるのだという確信に襲われて、思わず膝の上で拳を握りしめた。

まだランプが赤く点灯したままのレコーダーを、検校さんは黙って切り、みなに見えるように持ち上げてからポケットにしまった。ここから先はこの小さな明かりひとつで引っ込んでしまうような言葉を交わすことになるのだと、私はそこで理解したのだった。

口火を切ったのは検校さんだった。

「東さん、ちょっと前からここにちょっかいかけてませんか?」

「ちょっかいってさあ、ガキじゃねえんだから、そんなこと言わないでほしいね。大人の交渉ごとだよ。あんたらの仕事と一緒」

東さんは背もたれのない椅子なのに背を逸らしてそう答える。検校さんは「そうですか」と答えてから顔の向きを変え、落ち着いた声色を作りながら、日向さんに向き直る。

「日向さんから見て、それは正しいですか?」

「……ええと……あの、ちょっかいというと……何だろう……違う、のかな……」

「では、交渉だった?」

「……」

下を向いて唇をきゅっと結ぶ日向さんに、東さんが「おいおい」と声を上げる。検校さんはそれをしっかりと無視し、身体の向きを変えないまま、沈黙して言葉を待った。

日向さんは静かに考え込んだあと、困ったように「交渉……」と口に出す。

「東さんと何か取り決めを交わすために、対話をしていたのか。それを確認させてもらっても、大丈夫ですか」

それを聞くと、日向さんはおずおずと顔を上げ、まだ怯えた表情は保ちつつ、とても小さな声で応じる。

「対話、では、ない……と思います」

「あーあー、なんか勘違いしてんなあ」

東さんの眉間に深い皺が刻まれ、日向さんがそこからまた目を伏せてしまう。が、検校さんはやはり東さんを無視する。お前の話は今聞いていない、というふうに。

「日向さん、それはつまり、一方的に話をされていた?」

「……そういうことになるんですかね。……そういうことかな」

「おい、いい加減にしろよ。迷惑こうむってんのはこっちの方なんだ」

東さんが文字通り前のめりになってそう言うと、日向さんの身体がびくりと震えた。思わず私が「大丈夫ですか」と尋ねると、日向さんは黙って小さく頷く。大丈夫じゃなさそうだ。

今度は検校さんが、宥めるように東さんに向き直る。

「大きな声を出さなくても、こっちでもある程度は調べています。東さんが赤嶺不動産に近頃しょっちゅう顔を出しているのは、日臣会時代の抗争を根拠に、〈墓所の法理〉でこの店を貰い受けようとしているから、という認識は、合ってますか?」

いつもより遅い声だ。東さんは一瞬目を見開いてから、観念したように頭をかいてみせる。その仕草は何か演技っぽいものを感じさせた。まだ舐められている。それくらいは、分かる。

「……腕はなまってねえんだな、探偵さんよ。それは間違ってない。あの事件、死んだのはもともと俺がいた事務所の若い衆だった。生きてりゃ俺とほぼ同じ歳だよ。その弔いがしたい。そのためにこの店をもらいたい。町田のルールに従うなら、それは当然だろ」

「ありがとうございます。しかし〈墓所の法理〉は、基本的には殺害相手が属する集団のシマが殺害場所だった場合に、償いとして現場が割譲される仕組みだったはず。日臣会内部の抗争で赤嶺不動産が奪われるのは、ちょっと意味がよく分からないなって」

東さんが片眉をぴくりと動かす。何かが剥がれるような感じがする。

「……何もかんもお前に説明するの、俺嫌なんだけど。関係ねえやつが入ってきていきなりなんだかんだ首突っ込んでくるの、おかしいよな、なあ赤嶺さんよ」

視線を向けられた直之さんが眉間に皺を寄せた。

「そもそも俺はこっちのお父さんと喋ってたのに、お嬢さんの方が出張ってきてさ、それで次は何、探偵? 目障りだって言わないと、分からない感じかな? お嬢さんは俺をどうにかするためにこの人たちを呼んだわけ?」

「……直接的には……違います」

日向さんの唇がわずかに震える。東さんの話に、私は反論が思いつかない。明らかにおかしい、だってどう見たってそこでは不均衡な対話が強いられていて、直之さんも日向さんもそれに耐えかねている。でも、日向さんのお願いは「東さんと代わりに交渉すること」ではないし、東さんから見て第三者の介入が不愉快なのも、気持ちである限り否定しがたい。そして気持ちを無視するのも、われわれの仕事ではないような気がする。

私が硬直していると、検校さんの身体はゆらりと揺れた。その人はまだ、きちんと笑っていた。

「われわれが頼まれたのは、直之さんと日向さんが地域でうまく暮らせるように、直之さんの恐怖の対象に対処すること、特に地域の人たちと交渉することだと認識してます。そうですよね、日向さん」

「あ、……そうです。そういう依頼です」

「じゃあ、どうでしょう、東さんは地域の人なんじゃないんですかね?」

「……は?」

東さんが虚をつかれたように目をわずかに見開く。

「東臣会は町田で動いてる団体だし、実際ここに干渉してるってことは地域社会の一部じゃないですか。だったら今回われわれが話す相手に東さんは含まれてると思うんですよね」

「てめえ……」

これはうまい、と思った。東臣会が歴史を持ち出してまで地域に入り込もうとしているのであれば、自らが地域社会を貪る存在ではなく、地域社会の一部であるという建前を崩せないのは明らかだからだ。それなりに詭弁、だが、効果はある。

「で、どうなんですか? どういう理屈で今ここに手を出そうとしてるのか、教えてくれないですか。直之さんも日向さんも納得してないなら、どっちにしろ説明する義務があると思いますよ」

「……昔っからめんどくせえよな、お前が出てくると……」

「いやー、東さんにそう言われるとうれしいなあ」

「だから褒めてねえよ。……しょうがねえ、全く……」

東さんはくたびれたように背中を掻いて見せる。苛立ちと諦めが、だんだん目に見える形で表面に現れてくる。

「単純な話だ。ありゃ確かにうちの内部抗争だが、実際は日臣会と、その下の下、もう解体しちまった三次団体との対立だった。殺されたのは日臣会の人間。そんで、そこの赤嶺さんらは、その三次団体の関係者だ」

「関係者、ね」

検校さんは首を傾げ、ちらりと直之さんを見る。直之さんは視線を受けて、わずかに声を絞り出す。

「……馬鹿息子です。家を出て行ったと思ったら、とんでもないところに入って、とんでもない形で人を傷つけて帰ってきた……」

「兄とはもう縁を切ってます。東さん、何度も言ってます、もううちは関係ない。あれからどこにいるのかも知りません。連絡も来ていません」

日向さんの声が悲痛に歪む。それを掻き消すように東さんが低く唸る。

「だからおたくに責任取ってもらおうとしてんじゃないですか。責任は消えない。果たされないといけない。いくらルールがあるからって、逃げられると思わないでいただきたいね」

急遽明らかになったいくつもの経緯で、場は荒れていた。加害者は赤嶺家の所在不明の兄。被害者は東さんに近しい日臣会の構成員。理屈の上では〈墓所の法理〉は成立してしまう。私は今すぐ立ち上がって、このドアを開け放ちたくなるような衝動に駆られた。この密室を満たす緊張を、外にぶちまけてしまいたかった。

どうするんですか、とすがるような目で検校さんを見る。だが検校さんは、珍しくその日携えてきていたショルダーバッグを、場違いに漁っていた。

「……検校さん?」

「ちょい待ち……これこれ、準備してきたんすよね、それが」

取り出されてきたのは、書類封筒だった。糸をくるくる巻くタイプの留め具がついている、ちょっと重要な書類を入れる、あれ。

東さんはそれを見て目を細め、不機嫌そうに「何だそりゃ」と呟く。

「ま、見りゃ分かります。東さんにもご理解いただけるはずですよ。ええ、間違いなく」

検校さんはみんなに見せるように高い位置でくるくる紐を解くと、一枚の紙を取り出した。何だこれ? 文字、いや、文字だけじゃない、何かで埋め尽くされている。

これは、何だ?

「文面と文書はこっちで準備しました。これ、〈義絶起請文〉です」

「はあ……?」

全員の頭上に「?」が浮かんでいたと思う。あの東さんすら鳩が豆鉄砲をくらったような顔で小さく「は?」と漏らしていた。検校さんだけが満面の笑みで、急に私の方をぎゅんと向いた。

「左岸はこれ知ってたっけ? 知らない?」

「え? あ、え?」

「知らなかったよね?」

無言の圧を感じる。あ、そういう「役」をやる時間なのだ。

私は慌てて答える。

「あ、知らない、です」

「オーケー、説明してしんぜよう」

そう言うと検校さんは文書を赤嶺親子の前に置き、それを指差しながら私に向かって話し始めた――という体裁で、全員に聞かせ始めた。

「ざっくり言うと〈墓所の法理〉とほぼ同時代にあった仕組みだね。義絶は親子関係筆頭に切っても切れないような縁を切ること。そしてそれを成立させるのが、この〈義絶起請文〉なんだよねえ。ここ見て」

「はあ」

指さされたのは文書の後半、文字が特にぎちぎち詰まっている部分だ。漢字がいっぱいで意味がうまく汲み取れないが、なんたら大明神、みたいな名前がつらつら並んでいる。

「起請文は人に誓う文書じゃない。神様に向かって誓うんだ。ここに並んでいるのはみんな町田に祀られている神仏の名前で、もし義絶の誓いを破れば神仏からの報いを受けることになる」

「おお、なんか怖いっすね……」

「まあほら、それくらい重いことだから、義絶って。じゃ」

そう言うと検校さんはカバンからさらに筆ペンを二本取り出して、赤嶺親子にそれぞれ手渡す。

「これにサインすれば、理屈の上では赤嶺潮さん、つまりお兄さんとの縁は切れることになります。つまり、この文書が日向さんのお話を証明するものになる」

「おいおい何してんだよ探偵」

どん、と音がして、反射的に身体が震える。東さんが机を拳で殴ったのだと数秒遅れて気付いた。その声からはさっきまでの余裕が完全に剥離して、怒りが全面に押し出されている。

「こんなことして何になるんだよ、責任取らせるのはこっちの話だ、こんな紙切れ一枚で縁切るなんて、そんなうまい話あるわけねえだろ」

さすがに怖い。だが検校さんは、東さんが余裕をなくせばなくすほど、妙に活き活きと反駁していく。

「うーん、東さんがどう考えているかは分かりましたが、今それは関係ない気がしますね。これは赤嶺さんたちが、神仏に向かって縁を切ると誓っているだけなので。……そこに東さんって関係できないっすよね」

「……あのさあ、勘違いするなよ」

東さんの肩に強張りの気配はなく、変わらず大股開きでゆったりと腰掛けた姿勢からは、まだこの人には余裕があるらしいと分かる。いや、そういう「技術」として、そういう振る舞いができるだけなのかもしれないけれど。ただ、今この場では、身体的な態度から滲み出るムードのようなもの――それは私にも分かる形で発露されている――が、やはり何か他人を呑むための力として、「在る」のだ。

「俺は〈義絶起請文〉なんか知らない。それは俺たちの世界に通用するルールじゃない。お前がどうしてそれを決められると思うんだ? どこまでも介入できると思ったか?」

「……」

「あんま舐めんなよ。お前はこっち側の人間じゃない。そんなんでヘラヘラ口出されると、ウチも無視できなくなって、困っちゃうね」

口調は軽い、が、内容が軽くないのは明白だった。何も口を出せない自分が歯痒い。緊張で脳が軋むような感覚すらある。

それでも検校さんは、いっさい退いていなかった。

「まあそうでしょうね。〈義絶起請文〉じたい、決してメジャーな慣例ではないですし、ましてやこの街で利用された話も聞いたことがない」

「じゃあなんでそれが通用すると思った? バカにしすぎだろ」

「ま、だからこそですよ」

検校さんはわざとなのか何も考えていないのか、まるでファミレスで駄弁る高校生みたいに机に頬杖をついて、にやっと笑った。

「〈義絶起請文〉の仕組みそのものは、おたくが新しいルールとして取り込むに値するものなんじゃないんですか?」

「……は?」

「紙一枚で、相手の意思と関係なく、親子の縁を切れるんです。……そういう仕組み、欲しいんじゃないですか。あなたの世界では、特に」

「……ふうん」

なるほどねえ、という低く枯れた声が、隙間風みたいに小さく響く。

私は図書館で見たこと、前職で知ったことをつなぎ合わせて、その息遣いの意味を考える。東頼倫。日臣会の現会長の従兄弟。後継者と目されていたが、その地位は会長が養子を引き取ったことで失われ、今はまるで左遷のようにして町田の東臣会にいる……。

「あ」

そこで思わず少しだけ声が漏れた。「盃」という言葉が、やっと頭に去来したからである。

私も知識として知っている――ヤクザの組織図は一次団体、二次団体と重なり合っていて、二次団体の長は一次団体の長と盃を交わす。そこには血縁があろうとなかろうと強烈な家族の論理が働いており、それを破るのは、極めて難しい。

東頼倫という人が、実際のところどのような人生を歩んできて、何に苦汁を舐めさせられてきたのか、私はそのリアルを何も知らない。だがこの人にとって「家族」が常に味方だったのかと言えば、きっとそうではないのだろう。それは私が見聞きしてきた話からも、そして今東さんが検校さんの視線から顔を背けていることからも、想像ができた。

「そういう入れ知恵を、俺にしてやろうってわけ。お前が」

「それがどっから出てきたかなんて、気にするあなたじゃないでしょう。もうちょいシンプルな話ですよ。今〈義絶起請文〉をあなたが一度飲み込んでくれれば、前例ができて、この仕組みは町田のルールになる。どっちの利益を選ぶかってことです」

「……取引か」

「ええ、やっとね」

気付けば、話は脅迫から交渉へ変わっていたのだった。鮮やか、と言うには、泥臭いやり方なのかもしれない。だが検校さんが、おそらくは長い時間をかけて知ったこの街についてのあらゆる知恵が、今ここで力強い追い風みたいに現れている。場違いな表現かもしれないが、それはとても美しいことかもしれない、と、ふと思った。

検校さんは畳み掛けるように、さらに話を続ける。

「選択肢があると言いつつあれですけど、こちらが申し立てている〈義絶起請文〉を無視するなら、今回〈墓所の法理〉を使う根幹も揺らぐと思うんですよね」

「説明してみろよ」

まだ高慢、だが、確実に東さんは「聞く」態度に変わっている。

「〈墓所の法理〉を使いたいのは、亡くなった方を弔うためなんですよね。私もここ一週間で調べて回りましたよ。仲井匡さんのこと」

「……」

「お墓は多摩霊園で、ご実家が熱心な浄土宗。当然ながらお葬式は仏式で、組でも正式に人を出して参列したとうかがっています。弔い、という理屈で場を奪おうとするなら、そこで神仏の存在が無視できるものでしょうか?」

「……」

「考えてみてください。今ここで、不条理な形で〈墓所の法理〉を押し通すのがいいのか、あるいは〈義絶起請文〉を味方につけたうえで、筋を通すのか。どっちが東さんにとって必要な状況ですか」

「……ひでえな」

東さんはもはや笑っていた。妙な茶目っ気すら感じさせるその笑いは、先ほどまでの他人に立場を理解させようとするパフォーマティブなそれとは違い、なんとなく化けの皮が剥がれたような和らぎを帯びている。

一連の会話を聞いていた日向さんは、覚悟を決めたようにペンを握り、「名前、ここですよね」と尋ねた。検校さんが頷くのを見て、丁寧に名前を書き入れる。

直之さんはわずかに狼狽していたが、娘が腹を括ったのを見て、静かにキャップを取った。きゅぽん、という小さな音がこちらまで聞こえる程度に、もう誰も口を開いてはいなかった。

赤嶺日向。

赤嶺直之。

それぞれの筆跡で、義絶起請文が完成する。

「あーあ、やめだやめ」

東さんが沈黙を破り、わざとらしい大きな声を出して席を立った。

「お帰りいただけるんですね」

検校さんが立ち上がり、見送ろうとするのを、東さんが手を出して止める。

「もういいよ。……〈義絶起請文〉、もらってやる。お前、うまくやったね」

「いやー照れるなあ」

「その感じ、本当にだるいよ。……ま、今後はもう少し静かにしといてくれると助かるけどね」

そう言うと、東さんはドアに向かい、ガラスを押す。外のぬるい風がふっと入ってきて、部屋の中の緊張がゆっくりと解ける。

「お前とはまた会う気がするよ。『検校』」

「……そりゃどうも」

それだけの会話で、その男は去っていった。

あとに残されたのは、すっかり虚脱した赤嶺親子と私、それと、雑誌で見た屋久杉みたいに根を張って立つ、一人の私立探偵だけだ。

「本当に、何から何まで、ありがとうございました」

そう言って深々と頭を下げる日向さんに、検校さんは「いーえ、全然」と微笑んで返事をする。

「うまくいってよかったです。なんかいろいろ首突っ込んじゃったけど、事後報告になってごめんなさい」

「いえ、私も……いろいろ言わなさすぎた、というか、言えなくて、すいませんでした。自分でもどうしていいか分からなかったんだと思う。でもおかげで、どうにかなりました」

「よくあります。慣れてるんで、大丈夫です、そういうの。それより」

検校さんはそこで言葉を切り、直之さんの方を見た。

「直之さん、大丈夫でしたか。怖くなくなりました?」

「……息子は」

「うん」

「息子とは、もう、一生会えないのでしょうか」

直之さんは落ち着いているが、自分が先ほど書いた〈義絶起請文〉に、静かに手をついている。指は少しだけ震えていた。

検校さんは直之さんの前に座ると、「大丈夫です」と口にする。

「さっき言いましたよね。あれは町田のルールだって。〈義絶起請文〉が有効なのは、せいぜい町田のヤクザとその影響下だけです。それで、これ」

検校さんはカバンからもう一枚プリントアウトした紙を取り出して、起請文の隣に置いた。

「名簿ですか?」

「ま、とある筋からもらったやつ。瀬戸内の方の半導体工場で、どうやら潮さん、元気に働いているみたいですよ」

「……」

「西には西の人がいますからね。町田のルールを気にする人は、まあ、極めて少ないか、存在しないでしょう」

「……生きてると分かっただけで、十分です。ありがとう……」

直之さんが静かに起請文をどける。どけた場所に雫が落ちて、泣いているのだと分かった。日向さんが静かに笑って、背中をさする。

その光景を見て、私も口を挟みたくなった。

「あの、熊が、って話。私、分かったかもしれないです」

「え?」

日向さんが目を瞬かせる。

「直之さん、インタビューでおっしゃってました。三十年前に、大地沢のキャンプで熊に人が襲われた事件って。調べてたんです、町田周辺の熊出没情報。そしたら、あったんです。……赤嶺さん、あのとき、キャンプ場にいたんじゃないですか?」

それは「町田 熊 出没」で検索してやっと見つかった、数少ない「町田に熊が出た事例」の一つだった。本町田の不動産業の男性Aさんと、その息子がテントを襲われた。それだけの記述だったし、AさんというのはABCのAだと思ったのだけど、やはり引っかかっていた。今やっと、繋がった。

直之さんが遠くを見ながら、ぽつりと口を開く。

「何があったか、覚えていないんです」

どこか遠く。山の斜面を歩く生き物の影を見極めているような。

「気がついたら、息子を抱きしめながら走っていました。……相対した瞬間があったはずですが、何も、覚えていない。でも、息子は、震えていた。それだけ、怖い思いをさせてしまった。私が、何もできなかったから」

「……何その話、知らなかった……」

「お前が生まれる少し前だよ。だから母さんもその場にいなかった」

「だから熊って……」

「熊は、熊だ。私の大切なものに害をなすもの。次こそは立ち向かわなければと思った。……また何もできなかった。申し訳ないよ」

空間の湿度がやけに気になる。また何か別の緊張が発生している。

そう思ったときに、検校さんのやたら明るい声が場に飛び出した。

「でも、生きてますよ、みんな!」

「はあ……?」

「お子さん二人は、まあそれぞれ怖い思いはしたかもしれませんが、でも、生きてます。それって、普通にすごいと思う。熊にも東さんにも目えつけられて、結局生き延びてる。すごくないですか」

なんかこの声、言いくるめられちゃうんだよな。日向さんもちょっと視線を宙に彷徨わせて、なるほど?みたいな顔をしているし、直之さんは直之さんで、唇をわななかせて、また少しばかり涙している。

「そうですかね」

「そうですよ。何もできなくなんかない。みんなそうです」

「そうですか……」

「そうですよ」

嘘だ、と思ってしまう。人間には何もできないときがあると、私は知っている。それに生きてればいいんだと言うなら、赤嶺不動産が失われたって「でも、生きてますよ」と言える。それではだめだったから、それではあまりにも奪われすぎてしまうから、赤嶺さんは助けを求めて、探偵が動いたのだ。だから本当に、検校さんが言うことはまるっきり詭弁だ。

それでも今、この場に必要なのはその頷きだった。検校芳一という一人の私立探偵が、目の前の相手の存在に同意すること。それそのものがこの場を和らげていたのだ。

物語り、場を紡ぐこと。それは確かに恣意的で暴力的に強引で、でも、それがどうしようもなく必要とされる瞬間は、ある。

「探偵って」

「うん?」

「何する仕事なのか、ちょっと分かった気がします。今日」

「……そう? じゃ、よかったのかな」

「うん、よかったです」

「そっか」

「はい」

何かをきちんと確認するわけでもない曖昧な会話で、名状しがたい時間が流れる。でもこういうのも悪くないな、と思っている自分が、すでにいる。

(続く)

参考文献
笠松宏至『日本中世法史論』東京大学出版会、一九七九年
※執筆にあたり、現代魔女の円香さんとお話しするなかでうかがった刺青に関するエピソードを参照させていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

筆者について

高島 鈴
1995年、東京都生まれ。ライター、アナーカ・フェミニスト。「かしわもち」(柏書房)にてエッセイ「巨大都市殺し」、『シモーヌ』(現代書館)にてエッセイ「シスター、狂っているのか?」を連載中。ほか、『文藝』(河出書房新社)、『ユリイカ』(青土社)、『週刊文春』(文藝春秋)、山下壮起・二木信編著『ヒップホップ・アナムネーシス』(新教出版社)に寄稿。初エッセイ集『布団の中から蜂起せよ アナーカ・フェミニズムのための断章』(人文書院)で「紀伊國屋じんぶん大賞2023」1位。
  1. 第1回 : 見捨てられた町
  2. 第2回 : 「普通に」生きている人
  3. 第3回 : 断絶した街と、その法理
連載「ゴーストタウン&スパイダーウェブ」
  1. 第1回 : 見捨てられた町
  2. 第2回 : 「普通に」生きている人
  3. 第3回 : 断絶した街と、その法理
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