駅から徒歩数分の静かな通り沿いにあるはっきり言ってあまり目立たないタイプの店。一見では入りづらい店だが、数年前に入ってみたらあまりの名店ぶりに驚いた。特徴を端的に表現するならば、安くてうまくてホッピーのナカが地元でいちばん濃い店。寡黙で一見コワモテのご主人が作る料理や、店全体を包む居心地の良い空気感には、言葉で説明しきれない底知れなさがある。
僕の住む東京都練馬区にある石神井という街の氏神様は「石神井氷川神社」。ここの宮司さんが非常にオープンマインドで、地域活動にも協力的な方だ。
毎年5月に行われる「井のいち」というお祭りは、地元民の楽しみで、大いに盛り上がる。境内に所狭しと屋台などが並ぶが、よくある夏祭りの出店ではなく、地元の個人商店やクリエイターの出展が中心。神楽殿ではミュージシャンたちがライブをし、こもれびの庭というスペースでは絵本の読み聞かせ会があり、あちこちでワークショップが開催され、もちろんフードやお酒も満載。それはもう、夢のように楽しい空間だ。今年で15回目を迎えたこのイベントを発足したのも地元の有志の方で、それが文化としてきっちり根付いていることに、石神井民として誇りを感じる。
ありがたいことに2025年、それまでただ遊びに行くだけだった僕が、一応“地元在住の作家”であるということでお声がけをいただき、ブース出展をさせてもらうことになった。ざっくりとした依頼内容は「パリッコの本棚」。自室の本棚にある酒関連の本をそっくり持っていって展示しつつ、オリジナルのZINEやグッズも販売させてもらうというような感じ。当然、僕の井のいち史のなかでも忘れられない一日になった。
そんなことから一部中心メンバーの方々との繋がりができ、ありがたいことに、たまに飲み会にお声がけをいただくようになった(実はそのなかには、当連載の担当編集者である森山裕之さんもいる)。先日も機会があり、「どこかいいお店はないですか?」と聞かれ、提案したのが「やぎちゃん」だった。
やぎちゃんは、駅から徒歩数分の静かな通り沿いにぽつりと赤ちょうちんを灯す、はっきり言ってあまり目立たないタイプの店だ。一見でふらりと入る人はあまりいないだろう。が、僕はそういうタイプの店が大好きだから、数年前にふらりと入ってみたら、あまりの名店ぶりに驚いた。
特徴を端的に表現するならば、安くてうまくて、ホッピーのナカが地元でいちばん濃い店。ある一定の酒飲みには、これだけでじゅうぶんに魅力が伝わるだろう。が、寡黙で一見コワモテのご主人が作る料理や、店全体を包む居心地の良い空気感には、言葉で説明しきれない底知れなさがある。なので、僕が文章でうまく伝えきれる自信も、正直あまりないんだけど……。
小さな店で、カウンターが少しとテーブルが少し。加えて、奥に最大で6人ほどが座れる、まるで誰かの家の居間のような小上がりの座敷席がある。ここが特等席で、先日の飲み会のメンバーが5人だったので、やぎちゃんのお座敷チャンス! とばかり選ばせてもらったのだった。
メニュー表はなく、料理はカウンター上の日替わりの黒板から選ぶ。ひとつ豆知識としては、座敷からはそのメニューが見えないので、まずスマホなどで写真を撮っておくとスムーズだ。
この日は堂々34種類。いちばんいい場所には「くじらベーコン」「刺盛」「いわし刺し」「ブリ刺し」「牛タタキ」「カレイ唐揚」「牛スジ煮込み」と、主役級の品の数々が並ぶ。これだけでもひとりで提供できることが信じられないくらいだ。なのに他にも「ホルモン炒め」「ポテト塩から」「カレーライス」「塩焼そば」「ナポリタン」「鳥の唐揚」「ミックスピザ」「銀ダラ西京焼」「うなぎ蒲焼」「なす味噌炒め」「アスパラとトマトサラダ」「納豆オムレツ」と縦横無尽。ご主人、一体何者なんだ……。
この日は人数ぶんのおまかせ刺身盛り合わせ(値段もおまかせ)から始まり、「ホルモン炒め」(税込550円)「銀ダラ西京焼」(700円)「なす味噌炒め」(550円)「塩焼そば」(650円)「ニラ玉」(500円)と景気良く頼んでゆく。どれもボリューム満点で絶品。特に印象に残ったのがニラ玉で、ここのは刻んだニラを厚焼き玉子のように包み込んだスタイル。つい先日、大阪の「松久」でこれとは真逆の“ほぼニラだけ”ニラ玉を食べたばかりだったから、よけいに興味深く、今後研究していくべき対象をまたひとつ見つけてしまった。それにしてもこのニラ玉、油たっぷりで、ホッピーがすすんで困る。
そういえば、ここでは初手からずっと飲んでしまいがちなホッピー。先ほどナカが濃いと書いたが、僕が1杯目を注文しようとするとご主人が「大人数ならボトルのほうがお得だよ」と、金宮のボトルを提案してくれた。単品注文を重ねていったほうが確実に客単価は上がるはずで、効率化という側面もあるのかもしれないけれど、あらためてなんと良心的な店だと大げさながら感動してしまった。

また、この店ではマストとも言えるメニューがひとつあり、それが「ハンバーグステーキ」(700円)。大ぶりでごつごつとした手ごねハンバーグの横に、ソテー野菜、それから、カリッとしっかりめに揚げられたポテトが添えられる。ハンバーグ自体が肉肉しくてうまいのはもちろん、とろりと絡むソースもたまらない。デミグラスっぽい味わいがベースながら爽やかな酸味があり、やぎちゃんにしかない味わいで、完全に洋食の名店レベルだ。
この日初めて頼んでみたのが、「うなぎ蒲焼」(700円)と「ガーリックパン」(500円)。これがどちらも素晴らしかった。
うなぎは1/4尾の蒲焼で、ふっくらと香ばしく幸せとしか言えない味。この値段からして国産ということはないだろうが(もし国産だったらすみません)、それにしたってスーパーでもこの値段では買えない豪華さで、本当にどうなってるんだこの店は。
続いてやってきたガーリックパンがこれまたインパクト大。こんがりとトーストされた巨大バゲットがお皿に山盛りで、届いた瞬間、一同爆笑してしまったほどだ。見た目の想像と違ってふわりと柔らかく、にんにくの風味と塩気が利いてそのままでいいつまみになる。
取り皿に余裕がなくなり、“一時置き場”といいう感じでその上にうなぎをのせたら、期せずして「うなぎガーリックパン」が誕生してまた笑う。せっかくだからと合わせて食べてみたら、なかなかにおもしろい味わい。そしてまた、たまらなく白米が恋しくなる味でもあった。
地元石神井の街は、ここ10年ほどですっかり様変わりしてしまい、なくなってしまった個人店を数えるときりがない。が、こうやって地域に根ざした名店がまだ健在なのは嬉しいことだし、街を代表する酒場として、できるだけ末長く、酒飲みたちの心のよりどころであり続けてほしいと思う。

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『酒場と生活』毎月第1・3木曜更新。次回第32回は2025年9月4日(木)17時公開予定です。
筆者について
1978年、東京生まれ。酒場ライター、漫画家、イラストレーター。酒好きが高じ、2000年代より酒と酒場に関する記事の執筆を始める。著書に『酒場っ子』『つつまし酒』『天国酒場』など。ライター、スズキナオとのユニット「酒の穴」名義をはじめ、共著も多数。