全国に広がるTSUTAYAフランチャイズ店、SHIBUYA TSUTAYA、代官山 蔦屋書店、武雄図書館等、数々の企画を生み出した蔦屋書店創業者・増田宗昭と、喜多川歌麿を育て、山東京伝を世に出し、謎の絵師・東洲斎写楽をわずか十ヶ月で時代の記憶に焼きつけた江戸の名版元・蔦屋重三郎。
当代きっての「企画マン」であり、「人たらし」であり、「商売人」だった二人の蔦屋の歩みをたどると、驚くほどシンクロする。時代を超えた「二人の蔦屋」の物語を通して、「文化を届けるとはどういうことか」という本質的な問いに対する答えを探った一冊が『二人の蔦屋』(2025年9月刊行)だ。
蔦屋重三郎の波乱万丈な人生を描いたNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の最終回放送を受け、『二人の蔦屋』の著者・川上徹也さんに特別寄稿をいただいた。
NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』が、ついにその幕を閉じた。横浜流星演じる蔦屋重三郎(蔦重)の波乱万丈な人生は、単なる時代劇の枠を超え、現代のベンチャー起業家の成功と挫折を見ているような興奮を視聴者に与え続けてきた。
私自身、制作発表の時から並走するように『二人の蔦屋』という本の取材を始め、ずっと追いかけてきた作品だ。個人的には大河ドラマ史上NO1と思うほど見応えがあり、完結を迎えた今は非常に感慨深い。
毎回「そう来たか!」と唸らされる脚本だったが、特に舌を巻いたのが、物語の最終盤、最大の山場として描かれた浮世絵史上最大のミステリー「東洲斎写楽」プロジェクトの扱いだ。
「べらぼう」が提示した「チーム写楽」というメディア戦略
東洲斎写楽。1794年5月から翌年の1月まで、わずか10ヶ月という短い期間に約140点もの浮世絵を世に送り出し、忽然と姿を消した謎の絵師だ。その正体については長年議論が交わされており、現在は「阿波藩のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛」説が最有力とされている。しかし、それ以外にも葛飾北斎説、喜多川歌麿説、あるいは蔦屋重三郎自身であったという説まで、ミステリーは尽きない。
今回の大河ドラマ『べらぼう』が採用したのは、非常にユニークかつ納得感のある「蔦屋チーム説(歌麿中心説)」だ。劇中では、蔦重のディレクションのもと、喜多川歌麿を中心とした複数の絵師や彫師、摺師が一体となり、既存の美意識を破壊する「写楽」というアイコンを創り上げていく様子がスリリングに描かれた。これは、歴史的な謎に対する脚本家・森下佳子の鮮やかな回答と言えるだろう。なぜなら、無名の新人がわずか短期間にこれほど大量の版画を出版することは、物理的に考えて単独では不可能に近いからだ。分業制のチームであれば、その製作スピードにも説明がつく。
さらに、「第1期」と「第2期以降」で作風が微妙に変化していく点についても、「チーム編成が変わった」「中心人物(歌麿)が抜けた」という解釈であれば辻褄が合う。
無名の新人を短期間でスターダムに押し上げるための「徹底したコンセプト設計」と「分業制による圧倒的なアウトプット」。蔦重がいかに優れたプロデューサーであり、戦略家であったかを象徴する演出だった。
「早すぎた革新」写楽プロジェクトの敗北
しかし、私たちは歴史の結末を知っている。 商売として見た場合、蔦重の「写楽プロジェクト」は大失敗に終わっているのだ。史実におけるその結果は非情だった。商売として見た場合、蔦重の「写楽プロジェクト」は大失敗に終わったのだ(ドラマでは松平定信からの入銀(出資)のおかげで損はしていない設定だったが)。
写楽の役者絵は、あまりにも革新的すぎた。役者の特徴を極端にデフォルメし、鷲鼻や受け口といった欠点すらも隠さずに描き出した。今まで誰も見たことがないほど斬新で、一部の知識人や芝居通のあいだでは評価されたものの、それは江戸の一般大衆にとって「求めていたもの」とは違っていた。。町人たちが求めていたのは、役者の理想化された姿だった。今でいえば「アイドルの写真」を買うようなもので、写楽の表現は、多くの庶民にとって「見たくない現実」だった。
プロデューサーとして計算しつくしたプロモーションを実施したはずなのに、写楽の役者絵はまったく売れなかったのだ。これまで「大衆の求めるもの」を追い求めてきたはずの蔦重が、なぜここまで大きく読み違えてしまったのか? このわずか3年後、蔦重は脚気がもとでこの世を去る。もしかすると、健康の悪化を感じながら、焦ってこの勝負に出たのかもしれない。
蔦重の仕掛けは、あまりにも時代を先取りしすぎていたのだ。大衆の欲望(美化した絵が欲しい)と、作り手の情熱(真実を描きたい)が乖離した時、どれほど優れた企画であっても商業的には失敗する。
平成の蔦屋・増田宗昭が見せた「狂気」
時を隔てて現代。江戸の蔦屋重三郎とは血縁も直接の関係もないが、その屋号「蔦屋」を現代に蘇らせた男がいる。TSUTAYA、そして蔦屋書店を展開するCCCの創業者、増田宗昭だ。
二人の蔦屋の共通点は単なる屋号の一致だけではない。常識外れの企画を通すための「胆力」と、そのプロセスにおける狂気じみた執念において、二人は驚くほど似通っている。その象徴と言えるのが、2011年にオープンした「代官山 蔦屋書店」プロジェクト(代官山T-SITE)である。
今でこそ、代官山T-SITEは東京のランドマークとなり、世界で最も美しい書店の一つに選ばれるほどの成功を収めている。しかし、計画当初、このプロジェクトは周囲から「正気の沙汰ではない」と思われていた。
当時の状況を振り返ってみよう。出版不況は加速し、書店は次々と街から姿を消していた。Amazonなどのネット通販が台頭し、「本はネットで買うもの」という常識が定着しつつあった時代だ。 そんな逆風の中、代官山の、しかも駅から少し離れた広大な土地を取得し、巨大な書店複合施設を作る。誰がどう計算しても、採算が合うとは思えなかった。
全員反対なら、会社ごと買い取る
このプロジェクトを巡る増田の行動は、蔦重以上にドラマチックだ。
増田はこの場所に何を建てるか、徹底的に考え抜いた。彼が導き出した答えは、若者向けのCDレンタルショップや単なる書店ではない。「プレミアエイジ(団塊の世代)」たちが、ゆっくりとコーヒーを飲みながら文化に触れられる、森のような空間だった。
増田は顧客の視点になりきり、代官山の住人が何を求めているかを突き詰めた。そして、コンセプトが固まった後も妥協はしなかった。建物の設計には、なんと60社以上が参加する建築コンペを実施。世界的な建築家たちを競わせ、自身のイメージする「森の中の図書館」を具現化しようとした。
しかし、経営合理性の観点からは、このプロジェクトはあまりにリスクが高すぎた。 CCCの役員会では、増田以外の全員が反対に回ったという。上場企業として、株主の利益を守るためには、不確実な巨大投資は認められない。至極真っ当な判断だ。
ここで増田が取った行動が伝説的だ。「役員も株主も理解してくれないなら、自分一人でやる」。彼はMBO(マネジメント・バイアウト)を決行し、自社株を買い取って上場廃止を選んだのである。 たった一つの店舗、たった一つの企画を実現させるために、上場企業の看板を捨てまでリスクを取る。起業家としての「業(ごう)」を感じさせるエピソードだ。
写楽と代官山、明暗を分けたもの
江戸の蔦屋(写楽)は失敗し、平成の蔦屋(代官山)は成功した。 この二つのプロジェクトの明暗を分けたものは何だったのか。
『二人の蔦屋』という視点で分析すると、非常に興味深い対比が見えてくる。
蔦重の写楽プロジェクトは、ある種「プロダクトアウト(作り手主導)」の極致だったと言えるかもしれない。「これまでにないリアリズム絵画を見せたい」「歌麿たちと新しい表現を作りたい」という、クリエイターとしてのエゴと情熱が先行していた。それは芸術史には残ったが、当時の顧客(大衆)のニーズとはズレていた。
一方、増田宗昭の代官山プロジェクトは、一見すると独善的に見えるが、その根底にあったのは徹底的な「マーケットイン(顧客視点)」だった。 「本を売るのではなく、本のあるライフスタイルを売る」。 ネットで本が買える時代だからこそ、リアルな場所には「居心地」や「発見」という体験価値が必要だと見抜いていた。そして何より、ターゲットとした団塊の世代が、退職後に過ごすべき「上質な居場所」を渇望しているという、潜在的な欲望(インサイト)を正確に捉えていたのだ。
代官山蔦屋書店がオープンした時、人々は「こんな場所が欲しかった」と気づかされた。かつて書店に通わなくなっていた大人たちが、再び本を手に取るようになった。 「あんな場所に誰も来るわけがない」という前評判を覆し、代官山は大繁盛した。その後、この「蔦屋書店モデル」が全国各地、さらには海外へと広がっていった事実は周知の通りだ。
企画の本質とは「欲望」の形を見つけること
写楽の失敗は、「早すぎる革新は理解されない」という冷徹な事実を私たちに突きつける。どんなに優れた技術や芸術も、受け手の準備ができていなければ空回りする。
対して代官山の成功は、「企画の熟成」と「生活者の欲望」がカチリと噛み合った時、非常識なアイデアも社会を変えるスタンダードになり得ることを証明している。
増田宗昭は、蔦重の生き様をなぞるようにリスクを取り、しかし蔦重が越えられなかった「市場との対話」という壁を、現代的なマーケティング感覚(顧客への憑依)で乗り越えたと言えるかもしれない。
私たちがビジネスや企画を考えるとき、この「二人の蔦屋」の対比は大きなヒントをくれる。 自分たちのやろうとしていることは、独りよがりの「写楽」になっていないか? それとも、まだ誰にも見えていないが、誰もが心の奥底で求めている「代官山」なのか?
大河ドラマ『べらぼう』は終わったが、蔦屋重三郎が命を懸けて蒔いた「文化の種」は、増田宗昭という一人の男の手によって形を変え、今も現代の街角に息づいている。 時代を超えて響き合う「二人の蔦屋」が、その生涯をかけて貫いた商いの執念。それは、何かを成し遂げたいと願うすべての現代人にとって、時代に流されない本質を説く最強のビジネス教本となるはずだ。
筆者について
コピーライター。湘南ストーリーブランディング研究所代表。大阪大学人間科学部卒業後、大手広告代理店勤務を経て独立。数多くの企業の広告制作に携わる。東京コピーライターズクラブ(TCC)新人賞、フジサンケイグループ広告大賞制作者賞、広告電通賞、ACC賞など受賞歴多数。著書は『ストーリーブランディング100の法則』(日本能率協会マネジメントセンター)『キャッチコピー力の基本』(日本実業出版社)、『物を売るバカ』『1行バカ売れ』(いずれも角川新書)、『ザ・殺し文句』(新潮新書)、『高くてもバカ売れ!なんで?』(SB新書)など多数。海外にも6か国20冊以上が翻訳されており、台湾・中国などでベストセラーになっている。



