異性愛者(ストレート)はかわいそう? 同性愛者の視点でまなざす、新時代のパートナーシップ論『異性愛という悲劇』発売

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同性愛者の視点から、異性愛者(ストレート)の文化が抱えている問題を提起した書籍『異性愛という悲劇』が、11月21日(木)より発売されます。著者はジェーン・ウォード、翻訳は安達眞弓。ブックデザインは水戸部功。

販促ポップも水戸部功が担当しています!

著者のジェーン・ウォード教授は、男性との交際経験があり、現在は同性のパートナーと暮らすダイク(レズビアン)。異性愛・同性愛の両方の経験を踏まえ、「異性愛」という世界中で「当たり前」とされている性愛の形が、いかにいびつなものになってしまっているのか、異性愛者の中で人気を博している映画・ドラマ、恋愛指南書の変遷、そしてナンパ教室でのフィールドワークなどを通じて、その哀しい歴史をひもといていきます。また、クィアの仲間たちへのインタビューを通し、“異性愛”という悲惨な異文化の正体をまなざす、新時代のパートナーシップ論です。

本書ではクィアの立場から異性愛のありようを検討し、最終的には異性愛者の女性をミソジニーから解放することが目指されている。社会的に見れば、マジョリティがマイノリティに手を差し伸べるべきところを、本書はマイノリティがマジョリティ(の一部)に手を差し伸べる形になっているのが特徴的である。と同時に、それって主客が転倒しているのではと感じるのは、わたしだけではないはず。マジョリティの悲劇なんて、マイノリティのそれに比べれば、ずいぶんと生ぬるいものなのではないのか。心配してくれるのはありがたいが、あなたたち自身のことはよいのか。権力勾配に敏感な読者ほどそう感じてしまうと思うが、本書を読むほどにクィアから見た異性愛のヤバさが伝わってきて、とにかく先を読まずにはいられなくなるし、この主客転倒の効果というものが、じわじわと、そして確実に諒解されるのである。
(トミヤマユキコによる巻末解説より抜粋)

異性愛者の人たちが心配だなんて、私は考えすぎだろうか?

本文冒頭では、レズビアンである著者やクィアたちが、“異性愛者が心配になるシーン”をたびたび見てきたことが伺えます。異性愛者のみなさんはたしかに……と、身をつまされ、クィアのみなさんは「あるある!」と共感してしまうのでは……?

異性愛者の皆さんが心配だ。これは私ひとりだけの意見ではない。私たちクィアは、以前から異性愛者の文化に危うさを感じていた。異性愛者が同性愛者を忌み嫌い、暴力を振るい、クィアなサブカルチャーをなかったことにしようとするなど自分たちに被害がおよぶのを怖れるだけではなく、異性愛者の女性を抑圧する異性愛の文化に困惑し、頭を抱え続けてきた。
性的にそそられないとか生意気だとか、稚拙なメディアや自己啓発プロジェクトが作った女性を貶める陳腐なイメージが長年にわたってまかり通っている。男性が女性を性のはけ口にして、自分たちの不満を解消するようなセックスは、どう考えても理にかなっておらず、クィアの多くが異性愛者の文化に戸惑いを覚え、もっとはっきり言えば、吐き気を催すほど嫌悪している。
しかし、私たちが異性愛者の文化を心配したり、異性愛者が異性に欲情するのを否定したり、人類のあらゆる性的指向を論じたりすることは、異性愛者たちからすればわずらわしいだけだとよく知っているので、クィアがあえてこの問題に口を出すことはない。
異性愛者の人たちが心配だなんて、私は考えすぎだろうか?(本文より)

異性愛者が“普通”だと思っていた日常は、こんなに歪んでいたのか……と思わされること間違いなし。とはいえ、最終章の第5章では「異性愛」自体を否定するのではなく、もっとお互いをいつくしみ、愛し合い、男女ともに幸せになるための道「ディープ・ヘテロセクシュアル」を提示します。抑圧を受けている異性愛者(特に女性)に寄り添い、ジェンダーギャップに気づきを与えてくれる一冊です。

おもな目次
第1章【異性愛/ヘテロセクシャル】を定義する
第2章 そんな彼なら捨てちゃえば?――【女性嫌悪/ミソジニー】のパラドックス
第3章 ナンパアーティスト――モテ講座に潜入する
第4章 吐きそうなほど退屈な毎日――クィアの目から見た異性愛という悲劇
第5章 包容力のある異性愛――これからの【異性愛者/ストレート】の姿

私は、異性愛の悲劇に解決策などないと、あきらめてはいない。

考え方を変えれば、きっとうまくいくから。(本文より)

『異性愛という悲劇』は、2024年11月21日(木)より順次発売開始。

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