『日本エロ本全史』『日本AV全史』など、この国の近現代史の重要な裏面を追った著書を多く持つアダルトメディア研究家・安田理央による最新連載。前世紀最後のディケイド:90年代、それは以前の80年代とも、また以後到来した21世紀とも明らかに何かが異なる時代。その真っ只中で突如「飯島愛」という名と共に現れ、当時の人々から圧倒的な支持を得ながら、21世紀になってほどなく世を去ったひとりの女性がいた。そんな彼女と、彼女が生きた時代に何が起きていたのか。彼女の衝撃的な登場から30年以上を経た今、安田理央が丹念に辿っていきます。(毎月第1、3月曜日配信予定)
※本連載では過去文献からの引用箇所に一部、現在では不適切と思われる表現も含みますが、当時の状況を歴史的に記録・検証するという目的から、初出当時のまま掲載しています。
茶色に染めた髪、真っ黒に焼けた肌、そしてあの感動的なTバック。巷に〝飯島愛モドキ〟が氾濫するほど、その影響力は絶大なものがあった。しかしモドキはモドキ、飯島愛(21)は一人しかいない。〝本家〟は今やバラエティ番組の超売れっ子である。茶髪と日焼けは健在だが、お尻はここのところご無沙汰の様子。もうTバックは卒業なのか、彼女のバラエティ三昧の日々を追ってみると——–。
こんな書き出しで始まるのが『FOCUS』(新潮社)1995年1月25日号の「Tバック卒業『飯島愛』バラエティ三昧の日々」と言う記事だ。1995年1月6日から14日までの9日間の飯島愛の動向を追ったもので、そのスケジュールの過密さには驚かされる。
暮れの12月も大晦日まで休み無しで仕事が入り、元旦も生番組に出演。2日から5日までの4日間だけ、ようやく休みが取れたようだ。
正月休み明けの一発目は、テレビ朝日の『まっ昼ま王!!』の収録。前年の10月から始まったお昼のバラエティ番組で飯島愛は金曜日のレギュラー出演者だった。
朝9時半に集合し、メイク、リハーサルを経て12時から生放送。この日は料理教室、ダイエット教室のコーナーに出演。
『まっ昼ま王!!』が終わると新幹線で大阪に向かい、関西テレビの深夜番組『花のNEMOTO組』の収録。この日から「愛の勝手にしやがれ」というコーナーが始まったと言う。その後、最終ののぞみで東京に戻る。東京駅に到着したのは深夜零時だった。
9日はフジテレビの特番、10日はまた大阪で三つのテレビ局を回り、『紳助のサルでもわかるニュース』などの3番組に出演。11日は大阪から戻ってテレビ番組に出演。12日もラジオ出演、テレビ出演。
14日は、大阪で朝の番組に生出演後に東京に戻って夜の番組に生出演。その間に少し空いた時間を利用して日焼けサロンへ……。
1992年に『ギルガメッシュないと』でTバックを売りにしたお色気要員としてデビューしてから、わずか3年でこれほどの売れっ子タレントへと成長したのだ。
なりきり飯島愛コンテスト
前回書いたように、1993年頃から盛り上がり始めた初期の「コギャル」ムーブメントにおいて、飯島愛はカリスマ的な存在であった。『FOCUS』記事の冒頭にもあるように、彼女のファッションを真似る女の子が続出し、人気テレビ番組『浅草橋ヤング洋品店』(テレビ東京系)では、「なりきり飯島愛コンテスト」という企画まで放映され、そこで優勝した16歳の女子高生、飯島メメが注目されたりもした。
地ベタに座り込む飯島愛、サロン焼けの肌を露出する飯島愛。街に繰り出せば、ここかしこに飯島愛もどきが歩いている。すでに女子高生の間で、ファッションリーダーとして不動の地位を獲得した飯島愛。彼女の外見だけでなく、生き様、物腰すべてを手本にしようとする若いコは後を絶たない。「愛さんは頭がイイ」、そう語る飯島メメちゃんは、飯島愛を師と仰ぐ16歳のフツーの女子高生。『浅草橋ヤング洋品店』のなりきり飯島愛コンテストで、強烈なキャラクターを武器に優勝。しかしジックリ見ると、飯島愛に全然似てないというのもヘン。(中略)女子高生市場が花盛りの今、時代が生んだ必然的カルトアイドルの登場だ。(『週刊SPA!』1994年12月7日号「マイナーなコほど親近感という満足を生む」)
そして、飯島愛はコギャルだけではなく、一般の女性にとっても憧れの存在になりつつあった。
『女性セブン』(小学館)1994年12月8日号には「W飯島のおしゃれテクを盗め!」という記事が掲載されている。
かつてトレンディードラマ全盛期の時代に、W浅野といって浅野温子と浅野ゆう子が何かと話題を呼んだが、最近はWといえば飯島直子と飯島愛なのである。
あるティーン誌の好感度調査でも、飯島直子はベスト10にはいっており、飯島愛も中学生男子の人気ナンバーワンタレントに選ばれるとともに女性の間でも徐々に好感度が高まっている。そしていま、そんなふたりのファッションやヘアメークに、注目が集まっているという。
そして記事は、二人のファッションや髪型、メイクなどを細かく分析していく。
当時は犬猿の仲と言われていた二人が一緒に語られているのは、当人たちにとっては複雑な気持ちだったであろうが、以前ならば同性からは嫌悪感を持って見られたであろう存在の飯島愛が、女性誌でこうした扱いをされるようになったことは、彼女を取り巻くムードがデビュー当時とは大きく変わっていたという証明だ。
さらに、当時の女性のトレンドをリードしていたともいえる『アンアン』(マガジンハウス)1995年2月24日号の「真似したい、有名人の春の髪型」という特集にも、中山美穂、篠原涼子、中谷美紀などの錚々たる女性タレントたちと並んで飯島愛が登場した。
カラーリングといえば飯島さんというくらい〝茶髪〟のトレードマーク的な存在。それもそのはず、彼女は中学1年生の頃から、さまざまな方法で髪を染めたという経歴の持ち主。10年選手なのだ。(中略)
ファンレターのほとんどは女性からのもの。飯島さんのように髪を染めたい、という声も多いとか。
「なんか不良を増やしているみたいですごく申し訳ない(笑)。でもきれいに上品に染めるのなら…ね」
もちろんその一方で、彼女を非難する女性からの声もあった。
(前略)元AV出身でTバックでお尻出してメジャーになった彼女は、コギャルの生き方を肯定してくれるいいお手本になってるわけで、そこが問題だと思う。普通の子は、セックスを売りにしない教育を受けているし、そういう安易な生き方に陥らないために、その部分で苦労しているじゃん。(中略)
好きなように生きるのが正義で我慢することなんてバカバカしいと思ってる。まして長い人生をどうやって飽きないで楽しむかがわからないから、いつまでも子供のまんま。(中略)
そんな人たちが子供を育てるんだからコワイわ。今のうちに愛ちゃんに憧れる浅はかさを捨てて欲しいわ。(『週刊女性』主婦と生活社 1995年7月4日号)
「気になる女を叱る」という特集の中で、このように「飯島愛」的な生き方を全面否定しているのは、作家・エッセイストの横森理香だ。
しかし、横森のそんな「心配」をよそに飯島愛はどんどん世間に受け入れられていく。
1994年5月17日には、リーダーを志す青年経済人の社会活動を目的とする団体である日本青年会議所の講演会の講師として飯島愛が登場した。
社団法人・日本青年会議所(JC)と言えば、青年のボランティア団体。十七日、吉祥寺のホテルで開かれたJCの東京ブロック協議会・会員研修室合同委員会が主催した講演会でも、真剣な討論が繰り広げられる—-と思いきや、超ミニに身を包んだ茶色い髪の女性が登場し、
「私は学歴がございませんので、不適切な発言をするかもしれません」
のっけからブチ上げたのは、Tバックをはいたセクシーアイドルとして売り出した飯島愛チャン。この講演会の講師サマなのである。(中略)
大きく「講師・飯島愛先生」とある看板を前にこのセンセイ、
「先生と呼ばれるのにもっとも相応しくない人間です。ホステスの話を聞いてやってると思って下さい」
と、言いながらも約十分の講演とその後のディスカッションを無事こなした。
ツボを得た話し振りは、なかなか痴性、いや知性を感じさせ、取材陣からは「今後はニュースキャスターに転向?」という質問まで飛び出したのであった。(『週刊新潮』1994年5月30日号)
さらに1995年1月には、新宿区主催の「平成6年度 環境問題スペシャルトーク」で環境庁国立環境研究所の後藤典弘社会環境システム部長と共に講壇に立っている。
この時期の飯島愛は、いわゆる「固い」層にも、支持される存在になりつつあったのだ。
「その外見の印象とは違って、実はしっかりした子である」というキャラクターとして飯島愛は受け入れられ始めていた。
書き換えられる過去
『宝石』(光文社)1995年2月号掲載の「飯島愛の大胆トーク 私をバカとは言わせない」は、そうした方向性に沿って構成されたインタビュー記事だ。
私がこういう生徒でしたから、最近よくマスコミから「ディスコ浸りのコギャルをどう思うか」「ブルセラの店にパンツを売る中学生を叱ってやって」といったコメントを求められるんですね。でも、とてもじゃないけど批判なんかできません。ディスコ通いだってそのうち飽きてくれるだろうし、パンツにしても、オバサンになったら買ってももらえない。私自身そうだったけど、不良してる中学生に何をいってもむだだと思いますね。そのうち自分で気がついて、それなりの生き方を選ぶようになると思うんです。
ただ最近になって、授業で最低限の勉強だけはしておくべきだったなぁと後悔してます。
ブルセラやコギャルといった十代少女の性の暴走が問題になっていたこの時期に、彼女たちを理解できないオトナにとって、間を繋いでくれる貴重な存在として飯島愛は絶好のキャラクターだったのだ。
このインタビューでも、インタビュアーは「実はちゃんとしている」飯島愛に感心してみせる。
彼女はエッセイ集『どうせバカだと思ってんでしょ!!』を出し、またしばしば「私ってバカだから」と口にする。しかしそれは、受験勉強や偏差値教育には馴染めなかったということで、このインタビューからもわかるように頭の回転がよく、神経も細やかだ。しかも一度も膝を崩すことなく、正座したまま話つづけるのだった。いまどきの若いタレントにはめずらしい。
この時期の飯島愛は、AV出演の過去を完全に無かったものとしている。インタビューの中でも、初めての写真集(1992年に英知出版から発売された『愛・MY・ME』)の撮影について触れた箇所でも、まるでお尻しか見せていないかのように語っている。
いちばん嫌だったのは雪の上に寝転がって、お尻を見せるシーン。これだけは恥ずかしくて、いくら仕事と割り切ってもすんなりとはできませんでした。でも、私がやんないとスタッフに迷惑をかけてしまうわけで、最後には思い切ってお尻を出しましたけどね。
いくら新宿で遊んでいたとはいえ、自分の好きな人としかつき合わなかった。それなのにお尻を出してる写真集は、見ず知らずの大勢の人たちに見られるわけでしょ。女の子として絶対にやってはいけないことをしてしまったのではないかと、それからしばらくは、鏡で自分の顔を見るのも嫌だったくらい。
もちろん『愛・MY・ME』では、尻だけではなく陰毛までチラリと露出したオールヌードを披露している。そしてこの写真集の前にAV撮影も経験している。
このインタビューの前年にも最後のヌード写真集である『SHAKIN’』(光文社)のプロモーションとして雑誌にヌードグラビアも掲載されている(『SHAKIN’』自体は1993年12月発売)。まだ過去のAV作品も出回っている。
飯島愛が、AVや写真集で何もかもさらけ出していたというのは、誰もが知っている状況だった。それでも、彼女はTバックまでの露出であったと自分の歴史を書き換え、マスコミもそれに倣った。
90年代半ばというこの時期においては、「その外見の印象とは違って、実はしっかりした子である」というキャラクターで世間に受け入れられるためには、AVに出演していたという事実は、まだ厳しいものがあったのだろう。
Tバックでお尻を出していた、というあたりがギリギリの許容範囲だったのだ。
筆者について
やすだ・りお 。1967年埼玉県生まれ。ライター、アダルトメディア研究家。美学校考現学研究室卒。主にアダルト産業をテーマに執筆。特にエロとデジタルメディアの関わりや、アダルトメディアの歴史の研究をライフワークとしている。 AV監督やカメラマン、漫画原作者、イベント司会者などとしても活動。主な著書に『痴女の誕生―アダルトメディアは女性をどう描いてきたのか』『巨乳の誕 生―大きなおっぱいはどう呼ばれてきたのか』、『日本エロ本全史』 (以上、太田出版)、『AV女優、のち』(KADOKAWA)、『ヘアヌードの誕生 芸術と猥褻のはざまで陰毛は揺れる』(イーストプレス)、『日本AV全史』(ケンエレブックス)、『エロメディア大全』(三才ブックス)などがある。