とんでもなく成績が優秀な子どもに向けて「あいつは神童だ」と言ったり、自分で「私は昔、神童と言われるほど成績が良かった」と自慢したりと、その形はさまざまだが、世の中には確実に「神童」は存在する。総理大臣と言えば、幼少の頃から一目置かれた神童ばかりだが、戦後の歴代総理の中でもっとも頭が良かったと言われているのが、宮澤喜一元首相だ。『神童は大人になってどうなったのか』(小林哲夫・著 太田出版)では、宮澤氏のエピソードを紹介している。
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宮澤喜一は、武蔵高等学校、東京帝国大学を経て1942年に大蔵省へ入った。同省秘書官時代、日本がアメリカとサンフランシスコ講和条約を結ぶという場面に立ち会っている。宮澤は、アメリカの高官と交渉するために、英語のラジオ放送を聞く習慣を身につけ、英語力を磨いた。
学生時代、日米学生会議でアメリカに出かけて英語で議論したが、あまり使い物にならなかったことを反省し、帰国後は敵性語扱いされた時代であっても、日々、英語を勉強し続けた。大蔵省に入ってからもその姿勢は変わらず、戦後は通訳、翻訳で引っ張りだこだった。
1953年の衆議院議員選挙で初当選。2003年に引退するまで50年間、落選を経験することなく赤絨毯を歩き続けた。大蔵大臣、外務大臣、通産大臣、経済企画庁長官などの要職を経て、1991年に首相となる。いまでも、歴代の首相の中でもっとも英語に堪能と言われている。
帰国学生でなく、留学経験もないのに、宮澤の英語堪能神話が伝えられるのは、努力型の天才だからであろう。国会内で英字新聞、洋書を読む宮澤を、先輩の議員が「日本の国会ならば、日本の新聞や雑誌を読め」とたしなめることがしばしばあった。
政治家としての能力はどうだったのか。官僚出身だけあって事務処理能力は抜群で、頭のよさをいかんなく発揮してくれた。首相時代、テレビで選挙制度改革を「やります」と公言しながら先送りしてしまい、「うそつき」のレッテルを貼られてしまう。このとき、野党から内閣不信任案を突きつけられて、身内からも造反者が続出したことによって可決してしまった。55年体制の崩壊である。
頭のよさは、党内調整能力には生かされず、そのまま退陣してしまう。だが、財政に対する知識、事務処理能力を評価され、頭のよさの面目躍如というべきか、総理を辞めた後でも大蔵相、財務相をまかされる。
だが、年をとるほど、無邪気な東大信仰が現れてしまう。同僚や記者に最終学歴を聞きまくっていたことがある。宮澤の「何年卒ですか?」というのは、東京大学法学部を前提とした話で、相手が他大学と知れば、「ふ~ん、そうですか」と小バカにする態度を示してしまう。本人にそのつもりはないが、不愉快な思いをした人は少なくない。
もともと、勉強ができる、知識を十分に兼ね備えていることを鼻にかける傾向があったので、なおさらだった。まわりを気遣える頭のよさは不十分だった。神童はこんなところで評価を下げてしまう。政治家としての経歴に水をさしてしまい、もったいない。
◆『神童は大人になってどうなったのか』(小林哲夫・著 太田出版)
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・神童は大人になってどうなったのか-太田出版
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