虐待、売春、強姦、ネグレクト……沖縄の夜の街で働く少女たちの足跡は、彼女たちを取り巻くざまざまな問題を示している。『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』は、沖縄出身の教育学研修者・上間陽子が、2012年夏から2016年夏まで、沖縄独自の問題や、身近な誰かにも起こりうる問題、それらから受けた傷や苦悩を背負いながらも懸命に立ち上がり、自分の居場所を作り上げるため歩み続ける少女たちに、自ら寄り添った4年間の記録である。ここでは各エピソードの冒頭を一部ご紹介する。
キャバ嬢になること
沖縄への赴任が決まったときに、先輩の研究者にいわれた言葉がある。土地勘のあるところで仕事をするということは、よい仕事をするための大事な条件になると思いますよ。憧れの研究者にそのようにいわれて、がんばりますがんばりますとへらへら笑って、私は沖縄に帰ってきた。
東京で調査をしていたころは、よく迷子になって街をさまよった。でも、子どものころから知っている街を歩くことの多いこの調査では、私は取材相手の指定する待ち合わせの場所に、ほとんど迷わずたどりつく。
風俗店のオーナーに初めて電話をかけたときに、取材するんだったら夜9時半にひとりで店に来て、まぁ、ひとりが怖いんだったら、新聞記者とか大学生とかを連れてきてもいいけど、といわれたことがある。あ、あのビル、知っているよ、駐車場どうしようかな、いったん店の前にとめてもいい? と尋ねると、突然敬語になって、待っています、気をつけて来てくださいといわれたりした。
女のひとたちが働いている店と、住んでいる家との移動時間もほぼ正確にわかる。そしてその移動時間が、地元との距離をどのようにとりたいと思っているかのあらわれであり、女のひとたちと地元コミュニティとの関係が体現されたものであると気がつくのに、そう時間はかからなかった。
東京でもずっと調査をしてきたが、こうしたことは、そのときの感覚とはまったくちがうものだった。あぁ、これが土地勘ってやつだと、東京を離れるときにいわれた言葉を思い出した。
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優歌とは、2012年の盆夏に知り合った。
初めて会ったころ20歳だった優歌は、数日間キャバクラで体験入店をしてお金を稼ぐと仕事をやめて、そのお金がなくなると別の店で働くことを繰り返していた。自分のことを「スーパーニート」と称し、キャバ嬢という自覚はほとんどないし、実家で暮らしているのでそんなにお金がかからないと話していた。
優歌の家族は、建築業の父親と清掃業をしている母親と、兄と義理の姉とその子どもと優歌の6人だった。一家は6人で2DKのアパートに暮らしていたが、優歌はほとんどその家にいなかった。優歌は、好きになった男性がいるとすぐに相手の家に転がりこみ、別れると実家に戻る生活を繰り返していた。
実家に戻ったら、部屋の片隅で毛布にくるまって携帯電話をいじりながら過ごすという優歌に、「あれー、優歌、自分の部屋あったっけ?」と尋ねると、「お父さんとお母さんと眠る部屋が、優歌の部屋。でも、まぁ、どこであっても、そこで眠ることができる」と優歌は話し、いまの生活を、「毎日、自由で楽しい」といった。
優歌には以前、子どもがいた。16歳で妊娠して結婚し、17歳で男の子をひとり産んだのだという。子どもが生まれたあと、つくったご飯を目の前で夫にゴミ箱に捨てられ、夫の仕事着を洗うと舌打ちをされ最初から洗濯のやり直しをさせられる日々のなかで、あるとき、包丁を取り出して夫に斬りかかろうとして離婚された。
それまで優歌がひとりで面倒を見ていた子どもは優歌が引き取るはずだった。だが、夫の母親が自分の親族のユタ(沖縄の民間信仰の司祭)と連れ立ってやってきて、優歌の家に子どもがいると一族に問題が起こると神様のお告げがあったといって、8カ月になったばかりの優歌の子どもを連れて行ってしまった。だから優歌は、ひとりで実家に帰った。
優歌が18歳のときのことだ。
何度か会ううちに、優歌は自分の生い立ちや結婚生活を少しずつ語るようになっていった。いま、いとこたちと一緒に走り屋のチームをやっていてそれが楽しみであること、そのいとこたちとは子どものころからいつも一緒にいて、自分には女友だちが小学生のときからひとりもいないこと、家に帰るとランドセルを置いてすぐに近所のいとこの俊也の家に行っていたこと、初めてのセックスのあとはいとこの玲斗に話したこと、16歳のとき、妊娠したかもしれないと思って真っ先に相談したのはやっぱり玲斗だったこと、妊娠検査薬で調べたら妊娠していて結婚することが決まったこと、新婚生活は夫の祖父母宅ではじめたこと、アル中になっていた祖父がお風呂をのぞきにきたこと、その家が嫌でしょうがないといってアパートを借りて夫とふたりで暮らすことが決まったこと、ふたりで暮らしはじめたアパートの家賃は3万6000円で部屋が2部屋もあったこと、立ち会い出産させたけど育児に協力してもらったことはなかったこと、子どもの名前はミズキにしたこと、夜泣きするミズキをいつも自分のおなかの上に乗せて眠っていたこと、ミズキは女の子にしか見えなかったから、ピンク色のキティちゃんの洋服しか着せていなかったこと。
一緒に産婦人科に行ったときに、そばにいたはずの優歌がいなくなり、探しまわると新生児室の前で口をぽかんとあけて立ち尽くしている優歌を見つけたことがある。
「優歌」と声をかけると、窓を隔てたところにいるたくさんの新生児を前にして、「やばい、かわいい、連れて帰りたい」と優歌はつぶやいた。少し迷ってから、「ミズキは小さかった?」と尋ねると、「産まれたときはあれくらいだった」と優歌はひとりの子どもを指差した。
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子どもの話を優歌が泣きながらしたのは、秋になってからだ。打越さんが沖縄に戻ってきていたので3人で会うことになり、一緒にランチを食べていた店で、「先週、ミズキの誕生日だったわけ」と、優歌は突然話しはじめた。「起きたら、お義母さんがいて、今日、ミズキの誕生会だから、あんたも来なさい」と、誕生日パーティーに優歌を招待し説教をはじめたのだという。
なんでそこに(お義母さんが)いるかもわからない。何をいわれているかもわからない。誕生日に来なさいっていわれたけど、お母さんだけ行くことになって。
――優歌は行かんかったの?
寝てた。
――だれが写メ撮った?
お母さん。(中略)お母さんに(ミズキの写真を)「撮ってきて」ってメールいれてそれでなんか撮ってもらった。……ご飯食べながらひとりで泣いた。
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この続きは『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』本書にてお読みいただけます。上間陽子『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』特設サイト
筆者について
うえま・ようこ。1972年、沖縄県生まれ。琉球大学教育学研究科教授。 1990年代から2014年にかけて東京で、以降は沖縄で未成年の少女たちの支援・調査に携わる。『海をあげる』(筑摩書房)で「Yahoo!ニュース|本屋大賞2021ノンフィクション本大賞」他受賞。ほかに「貧困問題と女性」『女性の生きづらさ その痛みを語る』(信田さよ子編、日本評論社)、「排除II――ひとりで生きる」『地元を生きる 沖縄的共同性の社会学』(岸政彦、打越正行、上原健太郎、上間陽子、ナカニシヤ出版)、『言葉を失ったあとで』(信田さよ子と共著、筑摩書房)など。2021年10月から若年ママの出産を支えるシェルター「おにわ」を開設、共同代表、現場統括を務める。おにわのブログは、https://oniwaok.blogspot.com。『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)が初めての単著となる。