酒をやめられない文学研究者とタバコがやめられない精神科医の往復書簡
第16回

つながり再考――依存症家族支援と強すぎないつながり(松本俊彦)

学び
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依存症は、現代人にとって、とても身近な「病」です。非合法のドラッグやアルコール、ギャンブルに限らず、市販薬・処方箋薬、カフェイン、ゲーム、スマホ、セックス、買い物、はたまた仕事や勉強など、様々なものに頼って、なんとか生き延びている。そして困っている、という人はたくさんいるのではないでしょうか。

そこで、本連載では自身もアルコール依存症の治療中で、数多くの自助グループを運営する横道誠さんと、「絶対にタバコをやめるつもりはない」と豪語するニコチン依存症(!?)で、依存症治療を専門とする精神科医・松本俊彦さんの、一筋縄ではいかない往復書簡をお届けします。

今回は、連載の前半で話題になった「ひととのつながり」と依存症の回復の関係を再考します。特に最も身近な他者――家族との関係について。

はじめに

マコト、お手紙ありがとう。

前回のマコトの手紙を読んで、「なるほど」と膝を打ちました。マコトは過集中を利用して執筆し、その際まさに「ゾーン」を体験しているのですね。だから矢継ぎ早に本が出てくるし、私の手紙に対するリプライがいつも「LINEレベル」の早さなんですね。

本当にすごいです。ふと自分の研究室を見回すと、マコトの著書が机の未読書エリアにどんどん堆積し、すでにかなりの高さになっています。関係各所から「書く書く詐欺師」として告発されかけている私としては、すごく焦ります。

ともあれ、いつもご著書をご恵送いただきありがとうございます。年末年始の休みに一気読みするつもりです。

さて、この連載も今回でもう16回目、依存症をめぐって好き放題書いてきましたが、自分なりには「つながりの大切さ」という軸はブレていないつもりです。つまり、人とのつながりは依存症発症に対して抑止的に、そして、依存症からの回復に対して促進的にはたらく――それが、私の一貫した主張です。

でも、今回はその主張を微修正します。曰く、「つながりは大事だけど、強すぎるつながりはやばい」。そんな話をしようと思います。

つながり再考

この往復書簡第6回で取り上げた、ラットパーク実験を覚えているでしょうか? 檻に閉じ込められた孤独なネズミはもっぱらモルヒネ水ばかり飲むのに対し、もう一方の、仲間たちとじゃれ合いながら過ごしているネズミたちはというと、モルヒネ水には見向きもせず、ふつうの水しか飲まない……というエピソードです。

このエピソードは、依存症の本質をわかりやすく、そして印象的に伝えてくれます。そんなこともあって、この話は講演における私の鉄板ネタとなっていて、実際、この話をすると、聴衆の多くは、「ほう」と驚きの表情を見せたり、「うんうん」といっせいに首肯したりしてくれます。

しかし、全員ではありません。必ず数人ほど、いかにも「ビミョー」といった複雑な表情を見せる人たちがいるのです。思うに、それは依存症者を抱えている家族の方々です。おそらくラットパーク実験の話を聴いて、「ということは、家族が依存症者本人をネグレクトし、家庭内で孤立させたことが依存症の原因」と早とちりしているのではないでしょうか?

事実、ある講演会の後、聴衆として参加していたあるご婦人から、次のような質問をされたことがあります。

「夫がアルコール依存症になったのは、私の愛情が足りず、淋しい思いをさせていたからなのでしょうか? つまり、その……夫にとって家庭は『檻』だったのでしょうか?」

無理もない話ですが、もちろん、そんなはずはありません。それどころか、そのご婦人こそ被害者です。だって、彼女は、連日、酩酊した夫の暴言や暴力を浴び、それにもかかわらず、「自分が妻として至らないから夫はこのような状態になってしまったのか?」と自責し、床に散布された夫の吐瀉物や排泄物をせっせと拭いてまわってきたわけです。

ですから、彼女の方こそ夫の胸倉をつかみ、「家庭を『檻』にしたのはおまえの方だろ!」と罵声を浴びせたいところでしょう。

孤立する依存症者家族

依存症者を抱える家族は孤立しています――そう、地域においても、そして親族においても。というのも、依存症という問題は、ご近所さんはもちろん、友人にさえ相談しづらい問題だからです。家族の多くがこの問題を「家族の恥」と思い込んでいて、自分に原因があるのではないかと考え、いつも自分を責め続けています。

親やきょうだいといった親族ならば安全な相談先かといえば、通常はその反対です。「だから私は最初からあの人との結婚には反対だったのよ」とか「妻ならば我慢しなさい」、あるいは、もしも当事者が自分の子どもであれば、「あなたの育て方が悪い」などと説教するからです。いずれも、いまさらいわれてもタイムマシンがなければ解決できない「くそったれアドバイス」で、人の援助希求能力を根こそぎ阻喪させます。

こうして家族内の依存症問題は、「決して外では話してはいけない家族の秘密」となります。そして皮肉にも、秘密にすればするほどその問題は意識の中で大きくなり、家族の人生を翳らせ、侵蝕していきます。

その結果、どこで何をしていても、「いま頃あの人はどこかで酔いつぶれているのではないか」と、いつも気が気でなくなります。以前だったら楽しいひとときであったはずの趣味にも没頭できなくなるでしょう。休日、繁華街を歩いていても、楽しげな家族連れを見かけるたびに、朝から泥酔してだらしなくソファに身を横たえる夫の、まるで気絶した(とど)のような姿を思い出し、憂鬱な気持ちになります。久しぶりの旧友との再会のときでさえ、楽しい語らいに集中できず、メッセージ着信を知らせるスマホの震動を感じるたびに、「また何かやらかしたのか」と心臓が破裂しそうなほどドキッとします。

意外に看過されていますが、依存症者家族は相談支援現場のいたるところに出没しています。たとえば、精神科や心療内科に通院する患者、あるいはカウンセリングルーム、はては占いの館を訪れる人々のなかに紛れ込んでいます。自身の臨床経験をふりかえってもそうです。いくら抗うつ薬を服用しても一向に改善しないまま年余を経過した女性患者に、あるときふと気になって配偶者のことを尋ねてみると、さんざん躊躇した末に重い口を開き、夫のアルコール問題が明らかになる……なんて話は、枚挙にいとまがありません。

家族支援の重要性と課題

依存症者家族の支援は、依存症者本人の治療と同じくらい重要です。その理由はいくつかありますが、何よりもまず、依存症は本人よりも先に家族から笑顔と生きる気力を奪うからです。ひとたび家族の誰かが依存症に罹患すると、家族はあっという間にその渦に巻き込まれ、心身状態が悪化していきます。

同時に、本人の治療という点でも重要です。家族への相談対応こそが依存症治療のスタートだからです。依存症は、本人が気づきにくく、本人が困るよりも先に周囲が困る病気です。だから、大抵の場合、治療は家族の相談から始まります。

依存症問題を家族だけで解決しようとするのは危険です。依存症への対応は世間に流布する一般常識とはちょっと異なる点があるからです。たとえば、家族がよかれと思って「転ばぬ先の杖」を出すことが、皮肉にも本人が抱えている問題をこじらせることがあります。いわゆる「イネイブリング」です。二日酔いによる無断欠勤を避けようと本人の代わりに職場に連絡したり、泥酔し、吐瀉物にまみれたまま廊下で昏倒する本人をベッドまで運んであげたりすることなどが、それにあたります。こうした家族の努力は本人の記憶にはまったく残りません。したがって、家族は、本人がアルコールによって引き起こした失態の尻拭いをやめないと、本人は永遠に自分の問題に気づけないのです。

アルコール依存症者家族の自助グループ『アラノンAl-Anon』では、「家族は本人の依存症に対して無力である」という認識が重視され、家族が本人の飲酒行動をコントロールしようとするのをやめ、強い愛(tough love)をもって「手を放す」ことが推奨されています。「人の行動は変えられない、変えられるのは自分だけ」として自身の人生を優先し、ときには別居や離婚という選択肢も辞さない姿勢さえ求められます。

とはいえ、これを実践するのは容易なことではありません。そりゃそうです。自分の大切な人が酩酊し、方々で数々の失態をくりかえしているのに見て見ぬふりなんてできません。もちろん、なかには、愛なんてとっくに消え失せているという人もいるでしょうが、もしも専業主婦ならば、夫から離れるには経済的自立が必要となります。子どもを抱えている女性ならば、実行のハードルは一気に高くなります。

それに、腐っても「家族」なのです。ふだん「いっそ死んでくれたらいいのに」と念じていても、いざ本人が危機に瀕すると血が騒ぎ、脊髄反射でつい「転ばぬ先の杖」を出してしまいます。

それでもなお、腹を括って本人から離れようとする人もいます。しかし、そのような場合、未練を振り払おうとする心情的無理が極端な対応を誘発してしまいがちです。たとえば、そっと「愛をもって手を放す」べきところを、「もうあいつなんかどうなってもいい」と、力んだ助走で勢いをつけて「突き放す」のです。しかし、そのような乱暴な方法は後に家族に罪悪感を覚えさせ、本人への冷酷無比な対応を後悔させます。そればかりか、「やっぱり私にはあの人が必要、そしてあの人にも私が必要」と、より強力な共依存に舞い戻ってしまいかねません。

「手を放す」「突き放す」以外の選択肢は?

共依存――この言葉は、依存症業界ではネガティブな意味合いで使われています。「共依存警察」みたいな援助者もちらほらいます。つまり、何かにつけて、患者の婚姻関係や親子関係を「それって共依存よねぇ」と得意満面で批判し、「境界線を侵犯してない?」と警鐘鳴らしまくりの人たちです。個人的には、依存症者をとりまく関係性を、すべからく「共依存」というメガネを通して病理的に捉えることには慎重でありたいと心がけています。

忘れてはならないことがあります。共依存やイネイブリングという言葉は、かつて米国において、アルコール問題を扱うソーシャルワーカーが支援実践を通じて発見した現象です。いいかえれば、共依存やイネイブリングは、支援につながった依存症者とその家族の特徴であって、家族があっさりと本人に見切りをつけたケース、あるいは、本人が支援にたどり着く前に自殺や事故死、あるいは病死したケースの特徴は反映されていない可能性があります。もしかすると、共依存やイネイブリングは一時的にはポジティブな機能をはたしていたのかもしれません。つまり、「共依存とイネイブリングのおかげで、本人は生き延び、治療につながった」といった具合に。

2010年代初頭に新たな依存症者家族支援法として、Community Reinforcement and Family Training(CRAFT)が紹介され、依存症者家族の支援で実践されるようになりました。これは、家族を介して間接的に本人の行動変容を促す介入方法です。CRAFTにおいては、依存症者家族を「最も優れた本人の観察者にして、最も本人に対して影響力を持つ存在」と捉えます。これは、「家族は本人に対して無力である」というアラノンの教えとは真逆です。

CRAFTの詳細は成書を読んでいただくとして、ここではごく簡単に紹介しておきます。CRAFTの目標は、本人との衝突を極力回避し、同時にまた家族自身の安全を確保すること、そしてもう1つは、依存症者本人とアルコールや薬物の問題について率直に話せる関係を維持し、影響力を行使しやすい状況を作り出す点にあります。そのために、家族には様々な「小技」を修得してもらいつつ、間接的に本人の行動を誘導するわけです。

でも、誤解しないでください。私はCRAFTこそ最高の家族支援法などというつもりはありませんし、アラノン方式がダメとも思いません。状況によって臨機応変に使い分ければよいのです。たとえば、まず手始めにCRAFTのやり方でいろいろと試し、万策尽きれば、心おきなくアラノン方式で「手を放し」、自分の人生を優先する。こう言い換えてもよいでしょう。CRAFTは後悔しないための下準備である、と。

もっとぶっちゃけていえば、CRAFTかアラノンかといった方法の違いはさほど重要ではないのです。大切なのは、家族だけで解決しないことです。まずは、依存症に関する専門知識を持ち、守秘義務を課せられた第三者と一緒に考えるのがよいでしょう。

そのような第三者として最初にアクセスすべきなのは、都道府県政令指定都市に設置されている精神保健福祉センターです。そこは依存症家族を対象とした個別相談や家族教室を提供していますし、家族の自助グループに関する情報も集まっています。できれば、ぜひ自助グループにもつながることを願います。というのも、自助グループには、依存症支援に関する膨大な経験が蓄積されていて、家族としてとるべき行動を決断する際に大いに参考になるからです。

とにかく、依存症というモンスターの好物は秘密と孤立です。そして、人生において最悪なことは、ひどい目に遭うことではありません。一人で苦しむことなのです。

主治医は誰の味方?

せっかくの機会なので、依存症専門医として、ここで依存症者家族のみなさまに謝罪しておきたいと思います。

いつも失礼な態度で申し訳ありません。診察室で本人と家族が一触即発的な対立をすれば、私たち精神科医は、きまって「まあ、そうはいいますけれど」と本人の肩を持ち、家族が本人抜きで主治医と話をしたいと訴えても、本人の許可なしにはその希望には応えようとしません。

なぜか? 言い訳させてください。それは、主治医は家族ではなく本人の味方だからです。決して「正しいのは本人、家族はまちがっている」とか、「家族のせいで本人が依存症になった」などと考えているわけではないのです。自発的に通院してもらえるような治療関係の構築には、まずもって本人に「味方」と思ってもらわなければならない――ただそれだけです。

逆に、主治医が家族の側に立ち、「いますぐ何とかして」という家族のニーズを優先するならば、一体どんな治療になるでしょうか?――それはまちがいなく収容・隔離でしょう。

実は、かつてわが国ではそのような医療が横行していました。私が依存症臨床にかかわりはじめた四半世紀前、とりわけ薬物依存症分野では、閉鎖病棟への強制的入院というやり方が主流でした。たとえ幻覚・妄想もない患者でも、単に「いま退院させたらまたクスリを使う危険がある」という理由から強制入院でした。当然ながら、患者はそうした処遇に不満を抱き、病棟内で反発し興奮します。すると、この正当な抵抗を、主治医は「薬物への渇望が高まっている」と解釈し、大量の抗精神病薬で脳を麻痺させて、長期間の強制入院を維持していました。そのような隔離に薬物再使用防止効果などないことは、すでに覚醒剤取締法事犯者の再犯率の高さから明らかであるにもかかわらず、です(そもそも、力づくで本人の物質使用をコントロールすること自体、境界線侵犯、アラノン的にアウトなんですよ)。

当時、私は、患者本人の意向を尊重し、開放病棟かつ自発的入院で薬物依存症の治療をする、という少数派の病院に勤務していました。ですから、家族が入院を求めていても患者本人が拒めば入院させませんでしたし、せっかく入院した患者が途中で翻意すれば、退院後の通院を交換条件として、わりとあっさり退院させていました。このやり方は家族から評判が悪く、「患者の人権ばかり尊重しているが、家族の人権はどうなるのだ」という抗議を何度となく受けたものでした。しかし、病院は刑務所ではありませんし、治療の本番は入院ではなく通院です。それも嫌々ではなく自発的な通院でなければ、治療になりません。

くりかえしますが、私は「家族なんかどうでもいい」とは断じて思っていません。すでに述べた通り、依存症本人が治療につながるきっかけ作るのは家族ですし、また本人の移ろいやすい意欲を支え、治療を継続させるためにも、家族支援が必要です。

問題は、主治医は本人と家族、両方の味方はできない、ということなのです。依存症は両者を葛藤させ、対立させ、分断します。だからこそ、家族が精神保健福祉センターや家族の自助グループにつながり、自分たちの味方を持つことが重要なのです。

おわりに

30年目の精神科医として痛感していることがあります。それは、「家族は病気の温床」ということです。人々が物理的に密になって暮らせばそこは感染症の温床となりますが、心理的にも密となれば、今度はメンタルヘルス問題の温床となります。思えばコロナ禍初期、私の診察室には、リストカットや市販薬オーバードーズをくりかえす十代の患者がどっと押し寄せました。みんな、「Stay Home」の美名のもと、密になった家庭の息苦しさに喘いでいました。

家族とは不思議なコミュニティです。お互いの希望や期待、恨みや嫉みが深く入り組み、いささか下品なたとえですが、相互に相手の急所を掴みあって均衡する変態的関係、あるいは、一方の傷を他方の傷で塞ぐような、傷を介してつながる境界曖昧な関係――それが家族です。その意味で、家族は本質的に共依存的要素を孕んでいます。

「いや、それは家族ではなく、家父長制の問題では?」という反論があるかもしれません。否定はしませんが、それだけではない気がしています。むしろ家父長制以前に、「誰かとパートナーシップを結んだり、群れたりすること」自体の影響も無視できないように思うのです。霊長類学者の山極寿一さんによれば、雌雄の別なく、サルの攻撃性は群れを守るという「仲間愛」に由来するそうです(『暴力はどこから来たか』, NHK出版, 2007)。だとすれば、私たちが内と外とのあいだに線を引く瞬間、愛情/憎悪の熱量、あるいは、束縛/排除の力学が生じている可能性はないでしょうか? そしていうまでもなく、愛情はありがたいものですが、だからといって束縛の苦しさを相殺することはありません。

さらに肝に銘じておくべきは、人は強いつながりを持つ大切な相手には正直にはなれない、ということです。だって、「死にたい」といったら相手を悲しませますし、逆に、「絶対に死なないと約束して」と無理な約束を強要されたり、「次に『死にたい』と口走ったら絶交する」と脅されたりする懸念もあります。つまり、本音を語ると、大切な人との関係性が変化するばかりか、下手をするとその人を失う危険性さえあるのです。

なお、強すぎないつながり(もしくは、ゆるいつながり)の意義は、自殺予防の観点からも考えることができます。岡檀さん(『生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由がある』, 講談社, 2013)や森川すいめいさん(『その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く』, 青土社, 2016)のフィールドワークによれば、自殺稀少地域では、赤い羽根の共同募金の集まりが悪かったり、親切ではあるが相手の話を適当に聞き流す人が多かったりする、という特徴があるそうです。

まとめましょう。つながりは大切だが、強すぎはいけない。それが今回の結論です。

〈担当編集より〉

本連載はありがたいことに、依存症者家族のみなさんに大変よく読んでいただいています。この連載を始めてから、かねてより付き合いのある知人・友人から「実は親が……」「配偶者やパートナーが……」と打ち明けてもらうことも度々ありました。そのたびに身が引き締まる思いがしています。

今回のトシの論考は、そうした人との交流を通じて、私がずっと疑問に思っていたことを率直にトシにぶつけてみたところから生まれました。つまり、「イネイブラー」と呼ばれている人たちは本当に依存症者にとって「悪」なのでしょうか? という問いです。むしろ今にももっと悪い結末へと「スリップ」してしまいそうな患者をギリギリで食い止めている「ゲートキーパー」なのではないか?

とはいえ、実際の問題はもっと複雑です。簡単に想像できてしまうことですが、依存症者のご家族だって依存症者に付き合い続けることで、心身の調子を崩してしまい、共倒れになる可能性は十分にあります。今時点で「ゲートキーパー」として機能しているからといって、明日もそうである、という持続性はとても保障できない。だからこそ、依存症者には主治医、依存症者家族には精神保健福祉センターや家族の自助グループ、それぞれの味方が必要になるのでしょう。

本連載が、依存症の最大の敵である「秘密と孤立」に対抗する武器として、当事者、そして当事者家族の利益に寄与することを願っています。

本連載も残すところあと一往復! そこで次回は、最後の一往復前に、往復書簡特別編としてトシとマコトの対談記事をお届けします。2月8日(木)17時更新予定。楽しみにお待ちください。

筆者について

まつもと・としひこ 1967年神奈川県生まれ。医師、医学博士。国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部部長。1993年佐賀医科大学医学部卒業。神奈川県立精神医療センター、横浜市立大学医学部附属病院精神科などを経て、2015年より現職。2017年より国立精神・神経医療研究センター病院薬物依存症センターセンター長併任。主著として「自傷行為の理解と援助」(日本評論社) 、「アディクションとしての自傷」(星和書店)、「自傷・自殺する子どもたち」(合同出版)、「アルコールとうつ、自殺」(岩波書店, 2014)、「自分を傷つけずにはいられない」(講談社)、「もしも「死にたい」と言われたら」(中外医学社)、「薬物依存症」(筑摩書房)、「誰がために医師はいる」(みすず書房)、「世界一やさしい依存症入門」(河出書房新社)がある。

よこみち・まこと 京都府立大学文学部准教授。1979年生まれ。大阪市出身。文学博士(京都大学)。専門は文学・当事者研究。単著に『みんな水の中──「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』(医学書院)、『唯が行く!──当事者研究とオープンダイアローグ奮闘記』(金剛出版)、『イスタンブールで青に溺れる──発達障害者の世界周航記』(文藝春秋)、『発達界隈通信──ぼくたちは障害と脳の多様性を生きてます』(教育評論社)、『ある大学教員の日常と非日常――障害者モード、コロナ禍、ウクライナ侵攻』(晶文社)、『ひとつにならない──発達障害者がセックスについて語ること』(イースト・プレス)が、編著に『みんなの宗教2世問題』(晶文社)、『信仰から解放されない子どもたち――#宗教2世に信教の自由を』(明石書店)がある。

  1. 第1回 : へい、トシ!(横道誠)
  2. 第2回 : ヘイ、マコト(松本俊彦)
  3. 第3回 : 自助グループと地獄行きのタイムマシン(横道誠)
  4. 第4回 : 「ダメ。ゼッタイ。」よりも「回復のコミュニティ」(松本俊彦)
  5. 第5回 : 無力さの受容と回復のコミュニティ(横道誠)
  6. 第6回 : 「回復のコミュニティ」に必要とされるもの――周回遅れのアディクション治療(松本俊彦)
  7. 第7回 : 当事者イメージの複雑化と新しい自助グループを求めて(横道誠)
  8. 第8回 : 「困った人」は「困っている人」――自己治療と重複障害(松本俊彦)
  9. 第9回 : ヘイ、トシ(再び)(横道誠)
  10. 第10回 : 人はなぜ何かにハマるのか?(松本俊彦)
  11. 第11回 : 紳士淑女としての”依存”のたしなみ方(横道誠)
  12. 第12回 : 大麻、少年の性被害、男らしさの病(松本俊彦)
  13. 第13回 : 自己開示への障壁と相談できない病(横道誠)
  14. 第14回 : ふつうの相談、そしてつながり、集える場所(松本俊彦)
  15. 第15回 : 依存症と共同体、仲間のネットワークへの期待(横道誠)
  16. 第16回 : つながり再考――依存症家族支援と強すぎないつながり(松本俊彦)
  17. 特別編(前編) : 『あなたも狂信する』刊行記念! 往復書簡特別編(前編)を公開
  18. 特別編(後編) : 『あなたも狂信する』刊行記念! 往復書簡特別編(後編)を公開
連載「酒をやめられない文学研究者とタバコがやめられない精神科医の往復書簡」
  1. 第1回 : へい、トシ!(横道誠)
  2. 第2回 : ヘイ、マコト(松本俊彦)
  3. 第3回 : 自助グループと地獄行きのタイムマシン(横道誠)
  4. 第4回 : 「ダメ。ゼッタイ。」よりも「回復のコミュニティ」(松本俊彦)
  5. 第5回 : 無力さの受容と回復のコミュニティ(横道誠)
  6. 第6回 : 「回復のコミュニティ」に必要とされるもの――周回遅れのアディクション治療(松本俊彦)
  7. 第7回 : 当事者イメージの複雑化と新しい自助グループを求めて(横道誠)
  8. 第8回 : 「困った人」は「困っている人」――自己治療と重複障害(松本俊彦)
  9. 第9回 : ヘイ、トシ(再び)(横道誠)
  10. 第10回 : 人はなぜ何かにハマるのか?(松本俊彦)
  11. 第11回 : 紳士淑女としての”依存”のたしなみ方(横道誠)
  12. 第12回 : 大麻、少年の性被害、男らしさの病(松本俊彦)
  13. 第13回 : 自己開示への障壁と相談できない病(横道誠)
  14. 第14回 : ふつうの相談、そしてつながり、集える場所(松本俊彦)
  15. 第15回 : 依存症と共同体、仲間のネットワークへの期待(横道誠)
  16. 第16回 : つながり再考――依存症家族支援と強すぎないつながり(松本俊彦)
  17. 特別編(前編) : 『あなたも狂信する』刊行記念! 往復書簡特別編(前編)を公開
  18. 特別編(後編) : 『あなたも狂信する』刊行記念! 往復書簡特別編(後編)を公開
  19. 連載「酒をやめられない文学研究者とタバコがやめられない精神科医の往復書簡」記事一覧
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