酒をやめられない文学研究者とタバコがやめられない精神科医の往復書簡
第17回

依存症を引き起こすのは、トラウマ?ADHD?それとも?(横道誠)

学び
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依存症は、現代人にとって、とても身近な「病」です。非合法のドラッグやアルコール、ギャンブルに限らず、市販薬・処方箋薬、カフェイン、ゲーム、スマホ、セックス、買い物、はたまた仕事や勉強など、様々なものに頼って、なんとか生き延びている。そして困っている、という人はたくさんいるのではないでしょうか。

そこで、本連載では自身もアルコール依存症の治療中で、数多くの自助グループを運営する横道誠さんと、「絶対にタバコをやめるつもりはない」と豪語するニコチン依存症(!?)で、依存症治療を専門とする精神科医・松本俊彦さんの、一筋縄ではいかない往復書簡をお届けします。

今回は、マコトのギャンブル狂騒曲と物語の力、希死念慮について。

マコト版ギャンブル狂想曲 

 トシ、これまでにも増して気合いの入ったお手紙を、ありがとうございます。今回私はまずは、最近の出来事から書いておこうと思います。

 最近、私たちの共通の知りあい・二村ヒトシさんが私の新刊『発達障害の子の勉強・学校・心のケア──当事者の私がいま伝えたいこと』(大和書房)のために読書会を開いてくれたのですが、二村さんと話しているあいだに雑談になって、「阿佐田哲也に対する横道さんの評価を聞きたい」と頼まれました。阿佐田哲也は「麻雀小説」を開拓した伝説的作家ですね。

 私は返答しました。「私が20歳前後のとき、福本伸行がブレイクして、ものすごくのめりこみました。『カイジ』(第1部)がメインですが、麻雀マンガの『アカギ』(まだそんなに巻数が進んでない頃)やその本家『天』を夢中で読んでいきました。そのあとと、阿佐田哲也の小説に出会ったので、あまりピンと来ないところがありました。おそらく福本のマンガは阿佐田の小説を換骨奪胎しながら派手にしたようなものじゃないかなと思います。私が一世代か二世代ほど早く生まれていたら、阿佐田哲也と適切な出会い方をしたんだと思うのですが」

 私のこの阿佐田=福本関係に関する見解が正しいかどうかわからないままなのですが、いずれにせよ学部時代の私は、ギャンブルをテーマとして扱った福本のマンガに心酔していました。現在までにも、彼が発表してきた作品の大半を読んでいます。薄く引きのばしつづけている第2部以降の『カイジ』や、20年に渡った鷲巣麻雀編を含む『アカギ』も、我慢して読みました。『天』の最後のほうで、天才・赤木しげるがアルツハイマー型認知症にかかって、仲間との語らいを経た上で自殺を図る展開には、感動しました。麻雀のルールがわからなくなっても、麻雀の天才のまま死んでいく赤木。私は麻雀をやったことが一度もなく、ルールすらほとんど理解していないのに、興奮して読みました。

 私たちの往復書簡の1回目で、私はいろんなものに対してアディクションの傾向があると書きましたが、ギャンブルにはぜんぜん手を出してこなかったんです。ひとり暮らしを始める前、じぶんの父親が競馬、パチンコ、宝くじなどに挑戦しては無駄金を失っていくさまを冷たく眺めていました。父は一日中飲んだくれているアルコール中毒の人ではありましたが、ギャンブル方面ではアディクトと言えるほどではなかったようです。ですが私は、この分野には関わらないでおこうと強く意識していました。それは何よりも、私には自閉スペクトラム症の収集癖があって、人生のほとんどの時期には夢中で集めている対象があり、ギャンブルでその購入資金を失う可能性に耐えられなかったんです。若い私は収集というアディクションに耽るために、ギャンブルを避けるようになり、それが良き習慣として定着したと言えます。安上がりの酒には救いを求めつつ、ギャンブル的な行為とは無縁でいました。

 ところが、最近じぶんでも驚くべきことにギャンブル的な行為への没入が発生しました。それはヤフオク(Yahoo!オークション)への入札です。じぶんの好み通りの美術品が出品されていて、1000円から始まり、終了の数時間前、240万円ほどになっていました。そんな高価なものを買おうと思うこと自体が私の人生にはかつて一度もなかったことですが、その数日のあいだ鬱屈していた私は「300万円くらいまでなら出してみよう」という思いに頭を占拠され、入札しました。終了時間が近づき、数人の入札合戦となりました。私は「500万円を超えたら撤退」「700万円以上はダメ」と何度もじぶんに言い聞かせつつ、最終的に一騎打ちになって899万円まで入札し、ついには900万円を入札した相手に競り負けました。

 悔しいと思いつつも、負けて良かったというのが正直なところです。私は富裕層ではなく、たいした稼ぎも資産もないし、実家が太いわけでもないから──というか両親は生活保護を受けています──、美術品を買うとしても数十万円レベルのものを一年に一作くらいが身の丈に合っています。しかし入札中は脳がハイジャックされてしまって、圧倒的な興奮状態がありました。落札に成功することによって、人生の新しいステージが開けていくんじゃないかという幻想に心身が支配されました。私が今後、同じような(擬似)ギャンブル行為にふたたびのめりこむんじゃないかと、いまでも不安です。一騎打ちで負けた相手をあとから𝕏(旧Twitter)上で発見できたのですが、資産が約10億円という投資家でした。「これは勝てるわけがない」と思いました。そして私は、「私も美術品購入の資金を得るため株式投資を始めよう」と思うようになっています。おそらく私が株をやったら、きっとギャンブル的なデイトレーディングに夢中になったり、同じくギャンブル的な要素が強いFX(外国為替証拠金取引)に手を出したりして、貯金をすべて溶かしてしまう可能性が高いため、戦々恐々としている最近です。

 依存症治療の主治医にこの出来事について話して、「どこまでがADHD的な過集中のせいか、あるいはアディクションの問題なのか、わかりませんでした」と感想を伝えました。すると私の主治医は「PTSD的な心の傷を癒そうとしてのめりこんだのならアディクションで、そうじゃないんだったらADHDの問題だろうね」と答えてくれました。なるほど、それなら私のオークションへの狂騒はやはり複雑性PTSD的を背景としたアディクションの問題のような気がします。入札しているあいだ、ふだんの暗鬱とした世界観がきれいに霧散して、私を含みこんだ宇宙空間はきらめきつつ脈動していましたから。

 そして、私はちょうどトシが前に書いてくれて、前回もふたたび話題にしていたラットパーク実験を思いだしていました。檻のなかで孤独に生きるネズミはモルヒネ水でアディクション状態になり、仲間たちと楽しく過ごしているネズミたちはそうならないという実験。私がオークションの入札に夢中になっているあいだ、私は確実に孤独でした。孤独だからこそ、人生が変わるという幻想に取りつかれ、全宇宙が輝いていたのです。私は10種類もの自助グループを主宰していますが、それは結局は無駄だったのか? と自問しました。答えはノーです。今回のようなことはあったにせよ、それだけ自助グループを主宰して、仲間と繋がっているからこそ、なんとか無事で済んでいるという可能性が高いです。私は900万円以上を入札せずに、一応は撤退に成功しました。900万円を入札していたとしても、私の貯金にはかなり余裕がありましたから、破滅にはいたりませんでした。つまり、900万円を超えない段階で、なんとか理性を取りもどし、ハイジャック状態を制圧できたわけです。最悪の事態に陥らなかったのを妨げたのも、ふだんから自助グループに支えられているからではないかと私は思っているのです。

フロー、アディクション、物語

 前々回、私が「ゾーン」にどっぷり耽りながら生きていることを書きましたね。トシの前回の手紙にあった、私の往復書簡への応答が「LINEの返信なみ」のスピードというのは、さすがにユーモアたっぷりに誇張されていますが、私のふだんの執筆速度がとりわけ早いことは確かだと思います。数日前は、330ページの近刊の初校、きのうは200ページの近刊の初校に朱を入れる作業をしていたのですが、いずれも郵送されてきたゲラ(校正刷り)を受けとってから、すぐに作業を始め、半日くらいで返送しました。2021年5月に最初の単著単行本『みんな水の中──「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』(医学書院)を出してから2年半のあいだに単著単行本を11冊、編著単行本を3冊、頭木弘樹さんとの共著の本を1冊出しました。2年半のうちに自著の商業出版15冊は国内(あるいは世界でも?)有数の速度ではないかと自負しています。これは私が「常時ゾーンに入りっぱなし」だからできることです。

 「ゾーン」は心理学の世界では「フロー体験」と呼ばれていますね。フローとは「流れ」のこと。大きな流れに運ばれていくような感覚があるから、そのように名づけられました。私は最近、じぶんがなぜ文学研究者になろうとしたのかについて、かつてよりも自己理解を深められるようになっています。小さい頃は自然科学者になろうとし、中学時代に数学で挫折したあとは歴史学者になろうと調整したのですが、大学受験が迫ると、古文書解読や遺跡調査に興味を持てそうにないと感じました。私が歴史を好きなのは「歴史の物語的なうねり」のようなものが好きだからだと考えて、物語の研究をするのが良いはずだと思案するようになったんです。「物語のうねり」を味わうときの快感とは、結局は「フロー」の快感とそんなに変わらないものです。いま私は「当事者」として精神療法的な「当事者研究」に打ちこんでいますが、「専門家」としての本質的関心も、「当事者研究」とそんなに遠いものではなかったのだ、と遅ればせに気づきました。

 29歳で常勤の大学教員として就職して、私がすみやかにアルコールへのアディクションへと導かれていったのも、その観点から説明できそうな気がします。私にとって研究者になることは、子どもの頃からの願望の決定的成就でした。自然科学者、歴史学者、文学研究者と方向性を漸次的に調整したものの、おおむね野望を達成できたわけです。しかも私の分野(ドイツ文学)だと、当時40歳を超えても就職できない人は稀でなかったのに、私は20代のうちに就職に成功しました。それでどうなったでしょうか? 待っていたのは目標の喪失でした。私は従来、発達障害の特性のために就職後の仕事がうまく行かず、鬱状態になって、アルコールに溺れたという説明様式を好んできたのですが、そしてこの説明を撤回するつもりはないのですが、合わせて起こっていたのは目標の喪失と、それにともなう物語の脱落だったのです。今後の人生をどのように設計していけば良いのかがわからず、それを酒で誤魔化すようになっていました。

 アルコールを飲むことによって、精神的な麻痺作用を得られることができます。思考停止をすることができ、ADHDの「多動脳」が静まります。それによって、あれこれととりとめもないことに煩わされることがなくなる。自閉スペクトラム症的なフラッシュバック(杉山登志郎さんが「タイムスリップ現象」と呼んだ何気ないことの連続的想起)も、複雑性PTSDのフラッシュバック(私が「地獄行きのタイムマシン」と名づけた日常的なトラウマ再体験)も静まります。コレクション癖も性的体験(セックスとオナニー)も過食も1日に何杯も飲むコーヒーも私の支えになりましたが、やはりアルコールがいちばん効きました。

 加えて言えば、アディクションの対象は、麻痺だけをもたらすのではなく、物語ももたらしてくれたのです。とりわけ飲酒のアディクションに溺れていると、最近のオークションのときと同じように、穏やかな幻想的空間に包まれた上で、なんとなく未来がだんだんと良くなっていくんじゃないかという予感が、天啓あるいは異世界からのテレパシーのように送信されてくる。私がアディクションを生きたのは、それによって物語を生きられるからだった。このことが私の最近の大きな気づきでした。

 そしてさらに言うならば、自助グループもまた「物語」を再起動させる場所だということです。仲間の話を聞き、それらを参照しながらじぶんの体験談を語り、近況を語り、未来への展望を語ることでじぶんの人生の物語を再活性化させていく。生きながら死んでいた人生が物語の力によって息を吹きかえす。アルコホーリクス・アノニマスなどのには「12ステップ」が備わっていて、そのステップを踏むことで人は新生の物語を生きることができます。しかし私がやっている自助グループのように、当事者研究やオープンダイアローグ的対話実践を通じても、基本的な機能は同じです。仲間と語り、物語を共有しながら共同体の物語をこしらえていく。そうやって人は新たに生きることができるのです。

当事者支援は家族支援から 

 私に家族がいないことは、ひとつの地獄ではあったのですが、ひとつの救済でもありました。実家の家族とは絶縁状態で、新しい家族を築くにも至らなかった。自閉スペクトラム症の男性で、結婚することができるのは約1割だという残酷な噂を聞いたことがあります。私は自閉スペクトラム症の男性として平凡な9割の側に属しています。

 トシが書いていた、アルコールに溺れた人の後始末をする家族の動向。「メッセージ着信を知らせるスマホの震動を感じるたびに、「また何かやらかしたのか」と心臓が破裂しそうなほどドキッとします」。「床に散布された夫の吐瀉物や排泄物をせっせと拭いてまわってきたわけです」。私のアルコールへのアディクションは、その水準までに(少なくとも現時点では)深刻化していませんが、私にも他者への加害的な行為が──加害という言葉が強すぎるなら迷惑行為的なものが──まったくなかったわけではありません。発達障害の診断もアディクションの診断も受ける前に、じぶんが何者でどういう状況に生きているのかもわからず、絶望してアルコールに酔っ払い、知りあいに不愉快なメールを送ったり、飲み会で鬱陶しい絡み方をしたりしたことは、いくらでも経験があります。おそらく家族がいたら、もっと状況は悪くなっていたと思います。それを考えれば、自己完結できる生活を送ってきたことによって、私はずいぶんと救われました。

 こんな私が、自助グループで参加者の家庭生活の相談によく乗っているのは、思えば不思議なことです。前回トシが書いていたようなこと、つまり「大切なのは、家族だけで解決しないことです。まずは、依存症に関する専門知識を持ち、守秘義務を課せられた第三者と一緒に考えるのがよいでしょう」とか、「できれば、ぜひ自助グループにもつながることを願います。というのも、自助グループには、依存症支援に関する膨大な経験が蓄積されていて、家族としてとるべき行動を決断する際に大いに参考になるからです」といった発言は、私自身がじぶんの主宰する自助グループで、毎回のように訴えていることです。いつかじぶんでも家族か家族めいたものを持って、それでもこういうことを平気で言うことができるか、検証してみたいものです。

 実家の父と母は、明らかな共依存状態にありました。アルコールに溺れて一日中ずっと飲みつづける父と、じぶんもカルト宗教に溺れながら、父の尻拭いをしてまわる母。ですが、私はふたりを見ていて、そのふたりがしょっちゅう言い争いをしながらも離婚する気配がないのに、いつも強い印象を受け──その理由の一端は、母の信じるカルト宗教で、離婚が原則として禁止されているからではあるのですが──共依存状態はひとつの解決になっているんだ、ということを経験的に理解することができました。ですからトシが書いていた「共依存とイネイブリングのおかげで、本人は生き延び、治療につながった」という事例がたくさんあることは、容易に想像がつきます。いろんな本を読んでいても、最近では「共依存」に関する言説の解体が盛んになっていますね。「共依存」を美化するのは禁物でしょうが、多様な言説がたくさん紡がれるようになると良いなと思います。宇佐見りんさんの『くるまの娘』という2022年の小説は、文学的な問題として、主人公の家族を「共依存」として断じる世間への抵抗の書でした。

 発達障害の子どもの支援に関わっている私の仲間のひとりは、よく「発達支援は親支援から」という標語を口にしています。発達障害の子どもを助けようと思ったら、その子どもの環境を調整するのが最大の鍵になるわけですから、そして誰かの「環境」の本質とは人間関係にあり、発達障害の子どもの環境に決定的に関与している人間関係とはその子の親にほかならないので、親の問題をなんとかしないと、子どもの支援はどうにもならないという意味合いです。アディクションの問題も包括できるように一般化するならば、「当事者支援は家族支援から」とテーゼ化できるでしょう。従来の自助グループでも、たとえば当時者会の「アルコホーリクス・アノニマス」に対して、家族会の「アラノン」が定着しているわけですから、むしろアディクション治療の現場では常識なのかもしれません。それでも当事者を治すには、その「つながり」を回復しなければならず、その「つながり」とは第一に生活を共にする家族とのつながりだということは、しばしば当事者の意識からも、その人の家族の意識からも脱落していることが多そうです。改めて、注目されて良い論点だと思います。

 小学生時代の私は、カルト宗教の教義に沿った暴力を日常的に母から受けていました。何回か前に書いた私が「女性が怖い」という心理は、端的に言えば、この問題に直通しています。ですから、男性が加害者側で女性が被害者側という論調が一般化されている場面で、私はいつも絶望しています。権力を執行できる側にあれば男性だろうが女性だろうが加害者性を帯びやすく、権力の支配下に置かれる側にあれば、男性だろうが女性だろうが被害者性を帯びやすいという事実が、しばしば看過されます。母との関係に由来するトラウマに苦しみつづける私は、いつもそのことに暗澹たる思いをしているのです。

 私は母から暴力を受けるたびに、母の世の中に対する恨みつらみを聞かされました。母のためのある種のヤングケアラーだったわけで、距離感の近さゆえに、長男なのに長女になったような気がしました。夫(つまりじぶんの父)が浮気をしていることへの悔しさについても、たくさん聞きました。性の問題に関する呪詛も、子どもの私にたくさん浴びせられました。私の両性愛的性的指向やノンバイナリー的性意識(男でも女でもないという「無性」ではなく、男でも女でもあるという「両性」の感覚があります)の、どこからどこまでが先天的なもので、どこからどこまでが母の人格を一部であれ強制的にダウンロードせざるを得なかった結果なのか、じぶんでも判断がつきません。

 私がじぶんのアディクション的傾向で、いちばん気にしているのは、じつはアルコールよりも過食の問題です。人生のだいたいの時期を軽度の肥満状態で過ごしてきました。そして、じぶんの体型について、女性たちのようにいつも後ろ暗さを感じているのです。私が摂食障害を診断されていないのは、私が男性だから、つまり摂食障害を診断されにくい側の性別だからということがあるのかもしれない。もちろん、精神疾患というのはサラダボールみたいなものですから、いろんな精神疾患が重複して併発するのが普通なので、いちいち細かい診断をおろしていくことに意味がないということもあるのかもしれませんけれども。

希死念慮

 だんだん寒くなってきて、例年どおり冬季鬱に囚われるようになりました。自助グループの仲間が、暖かくなると希死念慮をテーマに選ぶ人が減り、寒くなると逆にテーマに選ぶ人が増えると言っていましたが、まったくそのとおりです。

 同じ人が言っていたことですが、自殺未遂した人に話を聞くと、気がついたら転落していたとか、意識が戻ったら病院のベットの上だった、という状況なのだそうです。それに対して彼は自殺をするかどうかで悩んでいるから、そういう状況では死ねないんだろうなということでした。私も基本的に同じようなメンタリティで、気がついたら後戻りができない状況になっていた、という段階に至っていませんが、それでも冬季鬱が深まると、高いところから飛びおりようかと思う気持ちに突きあげられる瞬間が出てきます。それは要するには、「死んで解放される物語」という「流れ」に巻きこまれているのではないかな、と思いました。私の人生の幸福の大半は「流れ」とともにありましたが、私の人生の終わりもまた「流れ」とともにあるのかもしれません。

次回は、いよいよ最終回。トシ(松本俊彦)からのお返事です。3月28日(木)17時更新予定。楽しみにお待ちください。

筆者について

まつもと・としひこ 1967年神奈川県生まれ。医師、医学博士。国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部部長。1993年佐賀医科大学医学部卒業。神奈川県立精神医療センター、横浜市立大学医学部附属病院精神科などを経て、2015年より現職。2017年より国立精神・神経医療研究センター病院薬物依存症センターセンター長併任。主著として「自傷行為の理解と援助」(日本評論社) 、「アディクションとしての自傷」(星和書店)、「自傷・自殺する子どもたち」(合同出版)、「アルコールとうつ、自殺」(岩波書店, 2014)、「自分を傷つけずにはいられない」(講談社)、「もしも「死にたい」と言われたら」(中外医学社)、「薬物依存症」(筑摩書房)、「誰がために医師はいる」(みすず書房)、「世界一やさしい依存症入門」(河出書房新社)がある。

よこみち・まこと 京都府立大学文学部准教授。1979年生まれ。大阪市出身。文学博士(京都大学)。専門は文学・当事者研究。単著に『みんな水の中──「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』(医学書院)、『唯が行く!──当事者研究とオープンダイアローグ奮闘記』(金剛出版)、『イスタンブールで青に溺れる──発達障害者の世界周航記』(文藝春秋)、『発達界隈通信──ぼくたちは障害と脳の多様性を生きてます』(教育評論社)、『ある大学教員の日常と非日常――障害者モード、コロナ禍、ウクライナ侵攻』(晶文社)、『ひとつにならない──発達障害者がセックスについて語ること』(イースト・プレス)が、編著に『みんなの宗教2世問題』(晶文社)、『信仰から解放されない子どもたち――#宗教2世に信教の自由を』(明石書店)がある。

  1. 第1回 : へい、トシ!(横道誠)
  2. 第2回 : ヘイ、マコト(松本俊彦)
  3. 第3回 : 自助グループと地獄行きのタイムマシン(横道誠)
  4. 第4回 : 「ダメ。ゼッタイ。」よりも「回復のコミュニティ」(松本俊彦)
  5. 第5回 : 無力さの受容と回復のコミュニティ(横道誠)
  6. 第6回 : 「回復のコミュニティ」に必要とされるもの――周回遅れのアディクション治療(松本俊彦)
  7. 第7回 : 当事者イメージの複雑化と新しい自助グループを求めて(横道誠)
  8. 第8回 : 「困った人」は「困っている人」――自己治療と重複障害(松本俊彦)
  9. 第9回 : ヘイ、トシ(再び)(横道誠)
  10. 第10回 : 人はなぜ何かにハマるのか?(松本俊彦)
  11. 第11回 : 紳士淑女としての”依存”のたしなみ方(横道誠)
  12. 第12回 : 大麻、少年の性被害、男らしさの病(松本俊彦)
  13. 第13回 : 自己開示への障壁と相談できない病(横道誠)
  14. 第14回 : ふつうの相談、そしてつながり、集える場所(松本俊彦)
  15. 第15回 : 依存症と共同体、仲間のネットワークへの期待(横道誠)
  16. 第16回 : つながり再考――依存症家族支援と強すぎないつながり(松本俊彦)
  17. 特別編(前編) : 『あなたも狂信する』刊行記念! 往復書簡特別編(前編)を公開
  18. 特別編(後編) : 『あなたも狂信する』刊行記念! 往復書簡特別編(後編)を公開
  19. 第17回 : 依存症を引き起こすのは、トラウマ?ADHD?それとも?(横道誠)
  20. 第18回 : アディクションと死を見つめて(松本俊彦)
連載「酒をやめられない文学研究者とタバコがやめられない精神科医の往復書簡」
  1. 第1回 : へい、トシ!(横道誠)
  2. 第2回 : ヘイ、マコト(松本俊彦)
  3. 第3回 : 自助グループと地獄行きのタイムマシン(横道誠)
  4. 第4回 : 「ダメ。ゼッタイ。」よりも「回復のコミュニティ」(松本俊彦)
  5. 第5回 : 無力さの受容と回復のコミュニティ(横道誠)
  6. 第6回 : 「回復のコミュニティ」に必要とされるもの――周回遅れのアディクション治療(松本俊彦)
  7. 第7回 : 当事者イメージの複雑化と新しい自助グループを求めて(横道誠)
  8. 第8回 : 「困った人」は「困っている人」――自己治療と重複障害(松本俊彦)
  9. 第9回 : ヘイ、トシ(再び)(横道誠)
  10. 第10回 : 人はなぜ何かにハマるのか?(松本俊彦)
  11. 第11回 : 紳士淑女としての”依存”のたしなみ方(横道誠)
  12. 第12回 : 大麻、少年の性被害、男らしさの病(松本俊彦)
  13. 第13回 : 自己開示への障壁と相談できない病(横道誠)
  14. 第14回 : ふつうの相談、そしてつながり、集える場所(松本俊彦)
  15. 第15回 : 依存症と共同体、仲間のネットワークへの期待(横道誠)
  16. 第16回 : つながり再考――依存症家族支援と強すぎないつながり(松本俊彦)
  17. 特別編(前編) : 『あなたも狂信する』刊行記念! 往復書簡特別編(前編)を公開
  18. 特別編(後編) : 『あなたも狂信する』刊行記念! 往復書簡特別編(後編)を公開
  19. 第17回 : 依存症を引き起こすのは、トラウマ?ADHD?それとも?(横道誠)
  20. 第18回 : アディクションと死を見つめて(松本俊彦)
  21. 連載「酒をやめられない文学研究者とタバコがやめられない精神科医の往復書簡」記事一覧
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