酒をやめられない文学研究者とタバコがやめられない精神科医の往復書簡
第10回

人はなぜ何かにハマるのか?(松本俊彦)

学び
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依存症は、現代人にとって、とても身近な「病」です。非合法のドラッグやアルコール、ギャンブルに限らず、市販薬・処方箋薬、カフェイン、ゲーム、スマホ、セックス、買い物、はたまた仕事や勉強など、様々なものに頼って、なんとか生き延びている。そして困っている、という人はたくさんいるのではないでしょうか。

そこで、本連載では自身もアルコール依存症の治療中で、数多くの自助グループを運営する横道誠さんと、「絶対にタバコをやめるつもりはない」と豪語するニコチン依存症(!?)で、依存症治療を専門とする精神科医・松本俊彦さんの、一筋縄ではいかない往復書簡をお届けします。最小単位、たったふたりから始まる自助グループの様子をこっそり公開。

「『ハイ』か『ヘイ』か」問題

最初の書簡で、「ヘイ、トシ?」と呼びかけられたとき、確かに、一瞬、「あれ? ハイじゃない?」って思いました。

でも、「ヘイ」は「ハイ」よりももっと親しみを込めたカジュアルな呼びかけです。だとすると、この呼びかけは、私とマコトとの関係は往復書簡という活字上だけの関係にとどまらないことを意味するのではないか、と考え直しました。

事実、この往復書簡の打ち合わせでも、オンライン上とはいえ、マコトはお酒を、私はタバコを摂取しながら、ちょうど飲み会の戯言のようにしてあれこれアイデアを出し合ったわけです。であれば、もはやその関係は「ハイ」ではなく「ヘイ」だろう――そう思ったのです。

そんなわけで改めて、ヘイ、マコト! 

今回の往復書簡、いろんな反響があるみたいですね。なかでも、「なんでもかんでも依存症は困る」的な意見があったとのこと。

ああ、この手の意見、ものすごく既視感があります。ちょうど10年前、ギャンブルやネットゲームの問題を初めて診断カテゴリーとして取り上げたDSM-5が世に出た時期に、同じ言葉をしばしば耳にしました。

特に大騒ぎをしていたのは、依存症臨床に携わることなく、薬物規制に関する政策提言と薬物乱用防止啓発によって学会での立場を築いてきた重鎮医師でした。曰く、

「物質と行為を一緒の次元にするな。依存性物質には、それ自体に依存性があって、一定期間使用していれば、10人中7~8人は依存症的な使い方になる。しかし、ギャンブルやゲームなどの行為はそうではない」

「物質には耐性を形成しながら使用様態をエスカレートさせる性質があり、その結果、使用中断時には手が震えたり、発汗したりといった離脱を引き起こすが、行為にはそれがない」

改めて「依存症の本質は何か」問題

いま考えても、妙な理屈だったなって思います。だって、「依存性物質を一定期間使用したら、使用経験者の7、8割が依存症になる」なんて、嘘もいいところですから。

まず、この理屈はアルコールという依存性物質の存在を無視しています。アルコールは、けっこう強力な依存性物質ですが、日常的に使用する人のなかで依存症になる人はごく一部にとどまっています。

それから、国連の「2016年版 世界薬物報告書」によれば、ヘロインやコカインなどの規制薬物経験者のうち、依存症の診断基準に合致する人は、わずか1割ちょっとだったそうです。もちろん、その数字だって決して小さくはないですが、さすがに7、8割ではない。少なくとも、「ダメ。ゼッタイ。」的な薬物乱用防止教室で連呼されている、「1回でも手を出したら人生は破滅」ではありません。

また、物質使用は耐性と離脱を引き起こすというのも、おかしい。だって、離脱は、アルコールやベンゾジアゼピン、ヘロインやモルヒネといった「ダウナー系」薬物に特徴的な現象であって、覚醒剤やコカインといった「アッパー系」薬物の場合、自律神経系の反応を伴う激しい離脱を生じない、というのが特徴だからです。

今日、耐性や離脱(「身体依存」といいます)は、中枢神経作用物質をくりかえし摂取した生体にみられる生理的反応であってそれ自体に病的意義はない、と見なされています。病的なのは、「やめられない、止まらない」「わかっちゃいるけど、やめられない」という渇望、物質使用コントロールの喪失(「精神依存」といいます)の方です。

ついでにいっておくと、人類における「やめられない、とまらない」の歴史は、物質よりも行為の方が古いのです。歴史上最も古いアディクション関連の記録は、賭博に関するものだからです。すでに紀元前千年頃、古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』や叙事詩『マハーバーラタ』には、サイコロ賭博に勝って王となる者や、負けてすべて失う者の姿が描かれています。

一方、物質に関していえば、賭博に遅れること600年、紀元前4世紀頃におけるアレキサンダー大王の酒癖が最初だといわれています。彼は、中央アジア遠征中、夜な夜な酔い潰れて放蕩のかぎりを尽くしたばかりか、酔った勢いで征服した都市を火の海にし、腹心の重臣を殺害し、最後は大酒が原因で30代前半の若さで早逝しています。

「物質」よりも「行為」が重要だ

精神依存の本質については、前回マコトが触れていた、鈴木直著『アディクションと金融資本主義の精神』において、とても丁寧な検討がなされています。そのなかで、興味深い動物実験が紹介されていました。

その実験は、2匹のラットを用意して異なる条件下に置き、どちらの方が依存症的な物質摂取が生じやすいかを比較するものでした。第1のラットはボタンを押すたびに静脈へのコカイン注入を受けます。そして第2のラットは、自分ではボタンを押すことなく、第1のラットがボタンを押したときにのみ、同じタイミングで同量のコカインを強制注入される仕掛けとなっていました。

当然、2匹のラットにおけるコカイン血中濃度の変化はまったく同一に保たれます。違いは、コカイン摂取を自発的、能動的にするのか、それとも受け身的にコカインを投与されるのかだけです。そして実験の結果、依存症的な物質摂取行動が誘発されたのは、なんと第1のラットだけだったわけです。

この結果は次のようなことを示唆します。それは、物質の薬理作用よりも、「自分の力で気分を変えることができる」という、行為によるセルフコントロールの成功体験の方が、報酬としてはるかに強力であり、それゆえ依存症を引き起こす可能性が高い、ということです。

このことは私の臨床的経験とも一致しています。精神科で処方される抗不安薬や睡眠薬、あるいは、緩和医療で用いられる医療用麻薬では、これらの薬剤を医師の指示通り定期的に服用している人よりも、頓服として「つらいとき」「痛いとき」にだけ使用する人、あるいは、定期処方に加えて追加使用する人の方がはるかに依存症になるリスクが高いからです。

要するに、人を依存症にさせるのは、物質の薬理作用ではなく、行為を通じた自己効力感の体験――心身に何らかの刺激を与え、身体感覚の変容感を介して気分調節に成功する体験――の方ではないか、ということです。そして、身体感覚の変容感を引き起こすための行為は、一定の薬理作用を持つ物質の摂取でも、あるいは、スリルと興奮を引き起こすパチンコやゲームでもよいのでしょう。

なお、もしも物質摂取行為と非物質的行為とのあいで、それ自体が持つ依存性の強さに差があるとすれば、それは報酬発現までの時間の違いによるのだと思います。実際、一般に物質の方が行為よりも即時的報酬を与える傾向があります。

誰だって依存症の萌芽を抱えている

ところで、心身への刺激による気分調節成功体験――ここに依存症の萌芽があるとすれば、実は多くの人たちがその萌芽を持っていることになります。

物質による刺激としては、出勤前のコーヒー、仕事の合間の一服のお茶やタバコ、人によって甘いお菓子、そして仕事を終えた後の一杯のビールなどなど。行為による刺激としては、たとえばマコトならばサウナが挙げられるかもしれません。

自分自身についていえば、特に診療がハードだった日の深夜、ココイチで激辛カレーをよく食べる傾向があります。うまい、マズいの次元では語れない、もはや痛みしか感じられない味覚の彼岸にある刺激です。これが、カプサイシンという物質摂取行為なのか、それとも自傷的な行為なのか、もはや自分でもわからないですが、店を出て汗だくになった顔に涼しい夜風が当たる頃には、モヤモヤは霧散しています。

さいわいこの行為には、ココイチの店舗に足を運ぶという煩雑な手続きが必要であり、翌日、下腹部痛と下痢に悩まされるという弊害から、私の報酬系を「ハイジャック」するほどの強度はありません。したがって、私はココイチのせいで仕事や家庭生活に支障を来すことなく、コントロールしてココイチと付き合うことができています。少なくとも「仕事をさぼって隠れココイチ」といった事態にはなってはいない。

しかし、もしもこうした心身への刺激が、もっと手軽かつ迅速に実行できるものであったらどうでしょうか? リストカットやむちゃ食い、爪かみ、抜毛、それから、もしかすると強迫的な自慰行為もそれに含まれますね。これらの行為は、速効性において物質の薬理作用に劣りながらも、手軽さと刺激強度いう点において報酬の即時性を担保しており、人を依存症的にさせうる性質があると思います。

遊びが持つ依存性と治療的機能

一見すると、報酬の即時性や簡便さでは劣りながらも、強力に生活に侵食してくる行為もあります。かつて私は、いい年をしてゲームセンターの「セガ・ワールドラリーチャンピオンシップ」(以下、セガラリー)にハマり、いつもそのことが脳裏から離れなかった時期があります。

あのゲーム、四半世紀前の水準としては見事な出来映えでした。スクリーンに映し出されるラリーコースの映像と音響はとてもリアルで、ステアリングやシートの震動を介して、路面の凹凸やタイヤのグリップ状況までが伝わってきて、たちまち私を飲み込み、その世界に没入させるのでした。私は、毎日、病院勤務を終えると急いでゲームセンターに駆け込み、汗だくになりながら片手でステアリングを激しく操作し、もう一方の片手でHパターンのマニュアルシフトやハンドブレーキを駆使して、未舗装の悪路を高速ドリフトで駆け抜けていたものでした。

セガラリーには、カイヨワが主張する「遊びの4類型」の全要素がそろっていました。ご承知のように、カイヨワは、人類が行ってきた遊びを次の4類例に分類しています。第1が「アゴン(競争: 将棋やチェス、競技スポーツ津)」、第2が「アレア(偶然: ギャンブル)」、第3が「ミミクリー(模擬: 子どものごっこ遊びやおままごと、演劇)」、そして最後が「イリンクス(めまい: ブランコやジェットコースター)」です。

セガラリーに含まれるアゴンの要素としては、くりかえし練習することでスキルが高まり、タイムが短縮され、ランキングを駆け上り、ライバルを打ち負かすことで得られる自己効力感、達成感があります。アレアの要素としては、選択するラリーコースと車種の相性があります(ゲーム上のものなので、実車のスペックとは微妙に異なり、予測が実に難しいのです)。ミミクリーの要素としては、鮮明な映像や音響で世界を現実以上の精度で再現し、そのリアルさが自身をコリン・マクレー(もしくは、藤原拓海)と錯覚させ、自我を誇大的に膨張させることです。そしてイリンクスの要素としては、高速ドリフト時にすごいスピードで眼前の風景が流れていく、何ともスリリングなめまい感があります。

思うに、すべての遊びには、興奮と刺激によって心身に変容をもたらし、現実の憂さを忘れ、気分を切り替える効果があります。同時に、条件さえそろえば、それはいともたやすく私たちの報酬系をハイジャックし、実生活を侵食していく危険性があります。

このゲームにハマった当時、私は依存症臨床駆け出しの頃で、思うに任せぬ日々の臨床に無力感を覚え、精神科医としての自信を失っていました。こうした、さえないリアルの自分を慰撫するには、自己効力感とまやかしの誇大感と、めまい感が必要だったのでしょう。

依存症の薬物療法から見えてくるもの

さて、マコトからの前回のお手紙では、依存症に関する薬物療法にも言及がされていましたね。確かにシアナマイドやノックビンといった、「お酒を飲むとひどく不快な気分になる」という治療薬は、やはり懲罰的で前時代的な発想の薬剤だなと思います。

しかしそれらに比べると、セリンクロは、本来は「不快感」を体験させるのではなく、アルコールがもたらす「快感」を減じる、という点で、明らかに目指すところが異なる治療薬です。ざっくりいうと、内因性オピオイド受容体を軽く刺激しながらそれ以上の刺激に反応しないようにする治療薬です。

このタイプの薬は、最近の依存症治療薬開発のトレンドといえます。有名どころとしては、ニコチン依存症に対する禁煙補助薬チャンピックスがまさにそうです。チャンピックスは、脳内に分布するニコチン受容体に結合して、禁煙に伴う離脱やタバコ渇望を軽減するとともに、ニコチンの新たな受容体結合を阻害して、喫煙から得られる満足感を抑制します。

しかし、こんなことをいうと禁煙推進派から叱られそうですが、私は、精神科治療中の患者(明らかに一般人口よりも喫煙率が高い)がチャンピックスを服用することに懐疑的です。禁止こそしないものの、「あまりお勧めしないなぁ」と婉曲に反対することが多いです。というのも、けっこうな確率でうつ状態が悪化したり、精神状態が悪化したりするからです。実際、海外ではうつ状態の悪化や自殺行動の増加に関する報告があります。

おそらく「喫煙による満足感」を抑制することで、喫煙が持つ自己治療的効果を消去してしまっているのではないでしょうか?

人はなぜ何かにハマるのか?

要するに、私はこう考えています。確かに依存症は人を死に追いやる危険があるものの、その萌芽的なものは誰しも抱えていて、それがあるからこそ「しんどい今」を生きていられる面もある、と。

本稿前半で私は、人類最初の「やめられない、止まらない」は物質ではなく行為――賭博――である、といいました。植島啓司は、ギャンブルに関する文化人類学的考察のなかで、「創世の頃より人間の最も根源的な欲望は未来を知ることにあり、だからこそ、人間は、予測不能な未来を予測可能なものにしようとして、木の枝や小石や骨片を投げて吉凶を占いはじめたのではないか」と指摘しています。慧眼です。思わず膝を打ちました。

おそらくその儀式は、象徴化と通俗化を経て、財産をかけた「賭博」へと姿を変え、さらに、そこに個人の能力や技術によって結果を左右できる要素が付加されて、決闘や戦争のミミクリーとしてのスポーツ、はてはチェス、囲碁、将棋までを含むゲームへと発展したのでしょう。そしてやや遅れて、そこに、イリンクス(めまい)を人工的に引き起こす作用を持つ物質も加わり、ようやく現代の依存症アイテム勢揃いとなった――私はそんな風に考えています。

こう言い換えてもよいでしょう。依存症の根源には、制御不能な〈現在〉を何とか乗り越え、予測不能な〈未来〉を少しでも可視化したい、というあまりにも人間らしい、人類全体の欲望が横たわっている、と。

〈担当編集より〉

今回はトシから、精神依存の本質は「物質」よりも「行為」であり、「遊び」には元来、実生活を侵食する力がある、ということが指摘されました。ちょうど私にもここ最近、思い当たる節があります。任天堂Switchの「スイカゲーム」にハマったのです。

任天堂のゲームには、凝りに凝ったグラフィックや壮大なストーリーを採用した名作ゲームが数多くあります。「スプラトゥーン」「ゼルダの冒険」「ポケモン」「マリオ」シリーズ…… 数千円という決して安くない金額で売られており、どれも新製品が発売されればファンが大熱狂。常に新たなチャレンジが盛り込まれており、制作者の並々ならぬ熱意が感じられるものばかりです。

一方、「スイカゲーム」はたったの250円。テトリスとぷよぷよを合わせたような単純なルールとアニメーション、気の抜けるようなまぬけな音楽ですが、数ある名作ゲームを押しのけて、任天堂ストアで人気ランキング1位を獲得しているというから驚きです。私もこのゲームに触れて以来、毎日、会社のトイレの中で「あぁ……スイカゲームやりたいな……」と思いを馳せています。こんなにできない時間が苦しくなるゲームは人生で初めてです。

ただ上から降ってくる果物を同じ種類並べると大きくなる、ということを続けるだけのゲームなのですが、果物がくっついて大きくなる時の「ぽよん!」という音に報酬系が心地よく刺激されるのか、あらゆる思考がシャットダウンされて現実の苦痛から逃れることができます。週末はほとんどの時間をこの「スイカゲーム」で過ごしながら、ふと気が付いたことがありました。

話が長くなってしまってすみません。いま、うちには子猫が来ています。生後2か月の小さくてふわふわのはかない生き物です。毎日数時間ゲージの中で鳴いては「出してくれー」とせがみます。

まだあまりに小さいので誤飲やどこかの隙間に挟まって出られなくなってしまったり、先住猫とトラブルになることもあるから、私の目の届く時間でないとケージからは出してあげられません。でも、目が届くなら出してあげればいいわけですよね。でもそんな時……家事や仕事が落ち着いて、さぁひと休みという時間に、子猫のいたいけな声よりスイカゲームをやりたい欲が買ってしまうことがあるんです。

そこで私はふと毎夏ニュースになる「パチンコをやっていて子どもを高温の車中に置き去りにしてしまう」親のことを思い出しました。もし私にもっと仕事のストレスがかかっていたら? 家族からDVを受けていたら? 子猫をよりもっともっと手のかかる人間の赤ちゃんの夜泣きに毎日悩まされていたとしたら? 周囲に悩みを聞いてくれる人が誰もいなかったら?

もちろん冷静に、客観的に考えれば、どんな理由であっても高温の社内に子どもを置き去りにするのはあまりに愚かで、無責任な行為です。とはいえ、もしかしたら彼らは、ギャンブルという快楽のためではなく、現実の痛みを忘れるためにスロットに夢中になってしまい、気が付いたら数時間を溶かし、愛する子どもすら危険に晒してしまうことがありうるのではないか。今回のマコトさんとトシさんの原稿を読んで、そんな想像をしてしまいました。

次回の更新は、11月9日(木)17時予定。マコト(横道誠さん)からのお返事です。

筆者について

まつもと・としひこ 1967年神奈川県生まれ。医師、医学博士。国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部部長。1993年佐賀医科大学医学部卒業。神奈川県立精神医療センター、横浜市立大学医学部附属病院精神科などを経て、2015年より現職。2017年より国立精神・神経医療研究センター病院薬物依存症センターセンター長併任。主著として「自傷行為の理解と援助」(日本評論社) 、「アディクションとしての自傷」(星和書店)、「自傷・自殺する子どもたち」(合同出版)、「アルコールとうつ、自殺」(岩波書店, 2014)、「自分を傷つけずにはいられない」(講談社)、「もしも「死にたい」と言われたら」(中外医学社)、「薬物依存症」(筑摩書房)、「誰がために医師はいる」(みすず書房)、「世界一やさしい依存症入門」(河出書房新社)がある。

よこみち・まこと 京都府立大学文学部准教授。1979年生まれ。大阪市出身。文学博士(京都大学)。専門は文学・当事者研究。単著に『みんな水の中──「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』(医学書院)、『唯が行く!──当事者研究とオープンダイアローグ奮闘記』(金剛出版)、『イスタンブールで青に溺れる──発達障害者の世界周航記』(文藝春秋)、『発達界隈通信──ぼくたちは障害と脳の多様性を生きてます』(教育評論社)、『ある大学教員の日常と非日常――障害者モード、コロナ禍、ウクライナ侵攻』(晶文社)、『ひとつにならない──発達障害者がセックスについて語ること』(イースト・プレス)が、編著に『みんなの宗教2世問題』(晶文社)、『信仰から解放されない子どもたち――#宗教2世に信教の自由を』(明石書店)がある。

  1. 第1回 : へい、トシ!(横道誠)
  2. 第2回 : ヘイ、マコト(松本俊彦)
  3. 第3回 : 自助グループと地獄行きのタイムマシン(横道誠)
  4. 第4回 : 「ダメ。ゼッタイ。」よりも「回復のコミュニティ」(松本俊彦)
  5. 第5回 : 無力さの受容と回復のコミュニティ(横道誠)
  6. 第6回 : 「回復のコミュニティ」に必要とされるもの――周回遅れのアディクション治療(松本俊彦)
  7. 第7回 : 当事者イメージの複雑化と新しい自助グループを求めて(横道誠)
  8. 第8回 : 「困った人」は「困っている人」――自己治療と重複障害(松本俊彦)
  9. 第9回 : ヘイ、トシ(再び)(横道誠)
  10. 第10回 : 人はなぜ何かにハマるのか?(松本俊彦)
  11. 第11回 : 紳士淑女としての”依存”のたしなみ方(横道誠)
  12. 第12回 : 大麻、少年の性被害、男らしさの病(松本俊彦)
  13. 第13回 : 自己開示への障壁と相談できない病(横道誠)
  14. 第14回 : ふつうの相談、そしてつながり、集える場所(松本俊彦)
  15. 第15回 : 依存症と共同体、仲間のネットワークへの期待(横道誠)
  16. 第16回 : つながり再考――依存症家族支援と強すぎないつながり(松本俊彦)
  17. 特別編(前編) : 『あなたも狂信する』刊行記念! 往復書簡特別編(前編)を公開
  18. 特別編(後編) : 『あなたも狂信する』刊行記念! 往復書簡特別編(後編)を公開
  19. 第17回 : 依存症を引き起こすのは、トラウマ?ADHD?それとも?(横道誠)
  20. 第18回 : アディクションと死を見つめて(松本俊彦)
連載「酒をやめられない文学研究者とタバコがやめられない精神科医の往復書簡」
  1. 第1回 : へい、トシ!(横道誠)
  2. 第2回 : ヘイ、マコト(松本俊彦)
  3. 第3回 : 自助グループと地獄行きのタイムマシン(横道誠)
  4. 第4回 : 「ダメ。ゼッタイ。」よりも「回復のコミュニティ」(松本俊彦)
  5. 第5回 : 無力さの受容と回復のコミュニティ(横道誠)
  6. 第6回 : 「回復のコミュニティ」に必要とされるもの――周回遅れのアディクション治療(松本俊彦)
  7. 第7回 : 当事者イメージの複雑化と新しい自助グループを求めて(横道誠)
  8. 第8回 : 「困った人」は「困っている人」――自己治療と重複障害(松本俊彦)
  9. 第9回 : ヘイ、トシ(再び)(横道誠)
  10. 第10回 : 人はなぜ何かにハマるのか?(松本俊彦)
  11. 第11回 : 紳士淑女としての”依存”のたしなみ方(横道誠)
  12. 第12回 : 大麻、少年の性被害、男らしさの病(松本俊彦)
  13. 第13回 : 自己開示への障壁と相談できない病(横道誠)
  14. 第14回 : ふつうの相談、そしてつながり、集える場所(松本俊彦)
  15. 第15回 : 依存症と共同体、仲間のネットワークへの期待(横道誠)
  16. 第16回 : つながり再考――依存症家族支援と強すぎないつながり(松本俊彦)
  17. 特別編(前編) : 『あなたも狂信する』刊行記念! 往復書簡特別編(前編)を公開
  18. 特別編(後編) : 『あなたも狂信する』刊行記念! 往復書簡特別編(後編)を公開
  19. 第17回 : 依存症を引き起こすのは、トラウマ?ADHD?それとも?(横道誠)
  20. 第18回 : アディクションと死を見つめて(松本俊彦)
  21. 連載「酒をやめられない文学研究者とタバコがやめられない精神科医の往復書簡」記事一覧
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