人生最後の瞬間に何を着るか 断崖絶壁のファッション
第3回

アクセサリーが突然わかった日

人生最後の瞬間に何を着るか 断崖絶壁のファッション
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「あの服も、この服も納得がいかない……私がほんとうに着たい服ってなに?」
世間は色々な問題を投げかけてくるけど、どれもこれも肝心なこと、漠然とした問いかけの先にある根本的な問題には触れていないような気もする。今のファッションが退屈でしっくりこない、悩めるすべてのみなさまへ。
こちらは、まだ誰も言葉にしていない違和感を親切に言語化する“ポップ思想家”の水野しずさんによる、トレンドを追うよりも、納得のいくスタイルを発見していくためのファッション論考の連載です。「着るという行為」について、一緒に考えていきましょう。

既存在権益=一度存在が認められたものは存在していることそのものの是非を問われにくいという社会通念
粒ショップ=宝飾品店に対する筆者の偏見を含んだ感想
粒バレ=一般的にお求めやすい価格で流通する宝石のサイズ感に対する筆者の感想

アクセサリーがわからない

 衣服についてはわかるのに、アクセサリーっていうのはなんだかうまく飲み込めないまま気がついたら大人になってしまった。飲み込めないまま新社会人の年齢になったとき、同世代の人がこんなことを言っていた。

「今日はパーティーだからアクセサリーを付けた方がいいんだけど、ワンピースにスパンコールがついてるからなしでいいかなって」

なにを言っているのかわからなくて、胃の下が引っ込む感じがした。今なら大意は理解できるけど、当時はただでさえ理解できないものが、輪をかけて知らない領域で社会的なルールと紐づけられて運用されているという事実に直面して愕然とした。顎から下が全部抜け落ちるかと思った。世界のスピードについていけてない。どうしよう。とにかく考えるしかなかった。

 そもそも、なぜ私はアクセサリーを理解できないのか。理由を掘り下げてみると、根底には「宝飾品としてのジュエル」に対する動かし難い不信感が埋まっていたことがわかった。

粒売り場に集まる小市民

 私の母は、将来的にも宝石は不要ですと意見を言う幼少期の私に「大人になったらいくらでも欲しくなるよ」と、なにかが憑依したような顔つきで必ず成就する予言のように言って聞かせた。その意味での宝石への気持ちはいまだに生じてはいない。なぜならば、宝石に対する欲望は、それが「憧れ」という無尽蔵の揚力を得る前に、細分化されて社会的身分に見合ったちょうどいい小粒サイズになってしまうから。この程度があなたの身の丈ですよと突きつけられるのを見越して、あらかじめこちら側でときめきをサイズダウンしておかなければならない不条理を受け入れてさらに高額の料金を支払わなければならないなんて、意味がわからない。

 それに比べて、ストリートのファッションは、あらゆる歴史や階層の様式を引用したデザインの組み合わせで構築するものだから、どれほど大仰な夢を叶えようとしたって、まだどこにもない夢を実現したって構わない。お姫様でも宇宙飛行士でもパイレーツでもなんでも自由に夢を叶えればいいし、また夢以外の部分については、一向に無視してしまって差し支えない。ジュエルはやはり損だなと思った。こちらの夢のサイズ感をみくびって、手ぐすね引いて飼い慣らそうとしてくる敵対勢力みたいなものと感じた。

 そんなもの。大行列に並ぶだけ並ばせて、みそ汁くらいしか提供しない詐欺的なラーメン屋みたいじゃないか。ということを考えると、宝石店(粒ショップ)に売っているものは実は宝石ではなく正味「粒」であって、粒とはそのもっと背後にゆらめく「宝石」とかいう膨大な憧れのエネルギーに向けて意識を接続するための媒体に過ぎないのかもしれない。憧れの人のSNSを見るために使うスマートフォンのような。

 せめて雪国で平家の住宅より高く降り積もった雪を道なりにどかして、現れた壁面くらいの眩い、巨大なダイヤモンド塊を見せてくれたら少しはそれ自体への憧れや情熱も生じるかもしれない。それくらいでなければつまらない。今のところ粒ガムサイズのダイヤモンドに対して私が感じられる感慨は、知らないソシャゲの内部で配布されている詫び石程度へのそれでしかない。

永遠とか言われても

 「ダイヤモンドは永遠の輝き」というコピーにも、なんとかして少しでも多く小市民を騙そうというハッスルが伝わってきて当時はダサく感じた。人間という生命体の耐用年数は最初から見えているのだから、せめて装飾品くらいは永遠っぽさを追求したいという、見る角度によっては切実な願いが、私の視点からはいじましいというよりはさもしく思えた。人生の中には人間という生物がどうしたって単純に光に引き寄せられてしまう羽虫のように感じる哀しい瞬間があるけど、どうせそう感じてしまうなら、せめてまだその背後には個別的な事情を負っていたい。有象無象の中でそうなってしまうのは、悲しすぎるではないか。

 永遠が崩壊する瞬間については言及されない欺瞞的態度にも反感を抱いた。言葉を選ばずに申し上げるなら、武田鉄矢の格言のような「ありがたそうだけど別に求めてはいない言霊」が横溢しているような気がした。指輪のリングにに小さなダイヤモンドがいくつもちりばめられて高級そうな雰囲気を出している努力・工夫の規模感も受け入れ難かった。地道な努力をがんばっているが、並べたところでもうすでに「粒バレ」はしているのではないだろうか。

 一粒が指先で光るまでに、あまりにも多面的な世俗事情が張り付いている。とても欲しがる気にはなれない。あるいは、目が二つくらい取れたらそう思える日だってくるのかもしれないが。

 そういう感じ。夢を見る前に世俗的事情のクギを入念に打ち込まれて「既存在権益」ばかりを意識せざるを得ない世知辛さがアクセサリーの全般に張り付いているように感じてしまって、猜疑心を抱いた。せっかくの夢を、ひとつの身体では背負い切れないくらいに甚大な、膨大な、平行宇宙の全部を埋め尽くす勢いて広がっている夢を勝手に減らさないで欲しい。自分の中で、ジダイヤモンドに喜んでいる大人と武田鉄矢の格言に喜んでいる大人がいつからか等号で結ばれていた。今考えると尋常ではない等号だ。

アクセサリーが突然わかった日

 永遠より、永遠が崩壊する瞬間の方がクールだと思う。いわゆる「理想」の本番も、まずは当座の理想が破綻し終わってから始まるのではないか。そういう意味で、均整が取れていないアクセサリーについては話がわかるような気がした。予感は現実の前触れとしてすでに鳴っていた。だからある瞬間、唐突に、話がわかるというときがきた。

 その日、私は意味もなく百貨店のファッションフロアをウロウロしていた。そうしているうちに、なんの変哲も無い一角に見覚えのない急拵えの出店があることに気がついた。他はどの店舗も最大限シックな雰囲気を醸しているのに、出店のようなショップだけは妙に蠱惑的な、修学旅行の夜に見たシルバーアクセを売る露店商じみた怪しさを放っている。しかも、その一角だけやたらお客様が群がって、近寄ってみるとブーム時のタピオカくらいに商品がバカスカ売れているではないか。なにを売っているのかと見ると、それは天然石のアクセサリーであるようだった。それらはしかし、なんだか歪で新鮮味があった。ほとんど削り出したままの歪な天然石が、歪なまま、指の形状に合わせて変形する弾性をもった金属のリングにはめ込まれている。ためしに一つを指先にとってはめてみると、台座は、私の指の太さに合わせて自在に変形した。それは付けてみると意外にも脆さを感じた。気に入って、すぐに3つか4つ購入した。値段も一つ数千円程度と安価で、これだったら無くしてしまってもそこまで心が痛まない。他の客も私以上に爆買いをしていた。とにかく景気が良くて愉快な場だった。そうして歪な石を指先に複数あつらえて、手先を開いたり閉じたりしているうちに、アクセサリーは硬いが、しかし私の身体より脆いのでないかということを感じた。

 一見耐用年数が限られているように見える私の身体というものは、代謝を繰り返して燃焼をし続けることで常に鮮度が保たれている。それ自体が環境であることで、強度としてはひとまとまりの物質を凌駕している。私の生命というものが、そのサイクルの中で保たれているという事実は、実は指先のひとつのアクセサリーより強靭なのだ。いつか終わる日は来るにせよ、硬質な装飾品よりそれは強い。生きる力がある。そういうことに気がついたときに、アクセサリーの形状をひとつの形に留めようとする志向性の塊のような現れが、初めて尊重すべきもののように感じられた。それはいつか破損する。あるいは崩落して、いつの間にか無くなってしまう。宝石にもそれぞれに硬度があり、耐え切れなければ砕け散る。無敵の強度を誇るように思われているダイヤモンドにも「へき開」という性質があり、ある方向に力を加えた時には、いとも簡単に割れ落ちる。やはり永遠は(宝石の中には)ない。硬いものとは、柔らかいものより、ある視点に立ったときには、ずっと脆い。

意志は常に崩壊する(してもよい)

 脆くて硬い、それは思想を結晶化したところに現れる強靭な意志のようだなと思う。決意は硬いほど脆くも崩れ去る。だからといって、柔らかいものだけが優れているとも思わない。崩壊して崩れ去ることがわかっているからなお輝いてしまう思想の強度ってあるから。衣服の夢はやわらかい。それは、ひとつの人間の身体に無数の夢を投影して、一人しかいないわたしという存在の中にに複数性を担保する。複雑なまま環境の総体を維持してくれる。わたしはそうやって、決定づけられる息苦しいたったひとつの身体から常に逃れることができる。ひとつではないから。わからないでいられるから逃れ続けることができる。アクセサリーは、そうやって担保された複数性の中にたったひとつの絶対に確実で確かな、それでいて必ず崩壊する思想があるという確信をもたらしてくれる。それは必ずしも正しさや確実さを強要しない。それだって崩れて朽ちて、私という生命活動の生態系のひとつとして機能する。あるいは、意識の連続性という信じがたいものを、夜を超えて繋ぎ止めたりもする。

 それは、無数の夢を貫くのだ。

次回は、12月12日(火)17時更新予定。

筆者について

みずの・しず バイキングでなにも食べなかったことがある。著書『親切人間論』他

  1. 第1回 : 人生最後の瞬間に何を着るか
  2. 第2回 : 豚色の婦人服売り場 1階から9階まで全部死ね!
  3. 第3回 : アクセサリーが突然わかった日
  4. 第4回 : アン・デニム的な自意識
  5. 第5回 : モテないで済む努力をする人々
  6. 第6回 : 「ファッションは出尽くした」と言っている人
  7. 第7回 : 明日着る服をどう選ぶか
  8. 第8回 : 「オシャレで検索する行為がオシャレではない」問題
  9. 第9回 : ホントのわたしってなんですか問題
  10. 第10回 : シティーガール/ボーイってなんですか問題
  11. 第11回 : なにかをギャグとして扱う前に、側から見たらギャグにしか見えないほど切迫しているものがない人の方がむしろピエロ
連載「人生最後の瞬間に何を着るか 断崖絶壁のファッション」
  1. 第1回 : 人生最後の瞬間に何を着るか
  2. 第2回 : 豚色の婦人服売り場 1階から9階まで全部死ね!
  3. 第3回 : アクセサリーが突然わかった日
  4. 第4回 : アン・デニム的な自意識
  5. 第5回 : モテないで済む努力をする人々
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  7. 第7回 : 明日着る服をどう選ぶか
  8. 第8回 : 「オシャレで検索する行為がオシャレではない」問題
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  12. 連載「人生最後の瞬間に何を着るか 断崖絶壁のファッション」記事一覧
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