人生最後の瞬間に何を着るか 断崖絶壁のファッション
第5回

モテないで済む努力をする人々

人生最後の瞬間に何を着るか 断崖絶壁のファッション
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「あの服も、この服も納得がいかない……私がほんとうに着たい服ってなに?」
世間は色々な問題を投げかけてくるけど、どれもこれも肝心なこと、漠然とした問いかけの先にある根本的な問題には触れていないような気もする。今のファッションが退屈でしっくりこない、悩めるすべてのみなさまへ。
こちらは、まだ誰も言葉にしていない違和感を親切に言語化する“ポップ思想家”の水野しずさんによる、トレンドを追うよりも、納得のいくスタイルを発見していくためのファッション論考の連載です。「着るという行為」について、一緒に考えていきましょう。

地雷系ファッションの人々が脅かしているもの


「地雷系ファッションの人って、何が目的でやっているんだと思いますか?」


という質問をされたことがある。

 地雷系。それは、関わるとなにかと厄介で、面倒ばかり起こるトラブルメーカー的性質を持つ人物のことである。地雷系ファッションとは、主に黒とピンクを基調とした太ももの中間くらいの丈のワンピースにフリル付きのセーラー襟、ハート型のバックル、編み上げリボンなどの衣装があしらわれた、かわいいけどやばそー(でも本当はなにもやばくないのかもしれない)テイストのファッションを指している。それらは量産型っぽい反面こだわりが強そうでもあり、愛されたいようで嫌悪されたいようにも見える。

 冒頭の質問は、素朴に投げかけられた体裁を装っているものの、背後に恣意的な誘導が含まれている。なぜならば、スタイルとは常にそのスタイルであること自体に目的があるのであって、意味や目的を問いただされなければならない必然性はどこにもないし、ましてや説明責任が生じる余地なんてあるわけがないから。対象に果たされてない説明責任があるかのような態度で示された問題意識は、発話者の願望の投影を鮮やかに反射している。

 こういった話法の共通点として、問いの形式の中に「本来果たされて然るべきはずの説明責任が果たされていない」事態への強い憤りが滲んでいるという特徴がある。たとえば、芸能人がプロデュースした飲食店のメニューの値段が高すぎてネットで炎上をしたときに、当然の責任を果たすべきという構えで説明責任を問う人がいる。そういう人に限って、実際に客ではないケースが多い。冒頭の質問も構造としてはこれに類似している。

 側から見ると、不思議だ。どうして質問者は憤らなければならなかったのか。こういった、なんら迷惑を被っているわけでもない人が内心の憤りを滲ませる理由は大抵の場合単純だ。


ある人にとっての「公平で納得ができる了解の取れた世界」を侵害している「なにか」がそこにあるから。

 
 芸能人がプロデュースした飲食店の価格設定については「知名度を利用して自分よりもずっと楽にずっと多くの金銭を稼ぐ人がいる」という事実に、労働の質量とその対価が釣り合っていてほしいという希望的観測を信じることで平衡感覚を保っている心情が、ゆらぐ。生活を支えている信頼の、どこか大切な部分が侵食される気がしてしまう。なにか、相手の側に落ち度があるのであれば、うれしい。そういった心情はある程度誰でも理解しやすいのではないか。

 他方、地雷系ファッションの人々は、一体なにを脅かしているのか。たとえば、そのスタイルにおいては「自己肯定」と「自己否定」が常に不可分な一体のものとして現れる。自分が最低であること。自分が最高であること。あるいは、自分が常に理不尽なものにまみれた水槽をクラゲのように漂っていることしかできない無能な善人であること。同時に、常に満たされず飢えに飢えて這いずり回ることしかできない取り返しのつかない強欲な悪人であること。こういった二律背反がスタイルに象徴されているし、また象徴されているものは現代にとって間違いなく必然性があって現れている。

 これに強い憤りを感じる人間もいるのではないか。なぜならば、ここで象徴されているものは「努力が必ずしも報われるとは限らない」「克己心はときに、それを保持する人間の最も気高い精神領域を不可逆に、取り返しがつかないほど深刻に傷付けてしまう」といった問題を暗示しているのだから。個人の能力や対処可能な範囲には限界がある。誰にでも平等に自己発信するチャンスが与えられている状況とは、「誰にでも平等に能力の限界を思い知らされるチャンスが与えられている」状況でもある。克己心に最大の信頼を置いている人とは、「現実的な能力の範囲内で克服できる困難だけが、困難として目前に現れたラッキーな人」とも言えてしまうのに、少なくとも限られた執行回数の範囲内でチャレンジと諦念を必死に繰り返した痕跡がなければ、今の私たちは最低限度の文化的で健康的な発言権すら得られない。

 現代を直視する上で決定的に目を逸らすことができない「能力主義」や「人生ガチャ(緩和ケア的発想で「親ガチャ」という言葉が用いられるケースが多いが、より深刻なのはもちろん自分そのものがガチャの排出結果におけるノーマルランクでしかないという事態だ)」という現実問題に直面せざるを得ないから。憤りには、真実の鋭角に侵略された「良識」を回復しなければならないという、理性よりも根深い領域で躍動する他人から見たなんだかおせっかいな使命感が含まれている。(あるいは、使命感とは常におせっかいなものである)

甘えたいし、許されたい

 冒頭の質問に回帰して、ここで質問者にとって、一体どの部分の聖域が侵略されてしまったのか考えてみる。


「地雷系の人って、何が目的だと思いますか?」


 ここでは「目的」が問われている。能力主義に関する不合理によって侵害の感触を覚えたものであれば、このような問いは立てないだろう。こういった憤りは、たとえば
「地雷系ファッションをやってる人って、甘えてると思いませんか?」
「自分から地雷って言っとけば許されるとか思ってるんじゃないですか?」
といった問いの形に漂着するものと考えられる。「甘えている」「許されたいと思っている」それは、地雷系ファッションの当事者の多くが実際にそうだろう。甘えたいし、許されたいからわざわざそんな(反社会的にみられかねないリスクを伴う)スタイルをやっているのだ。こういった態度が「いい」のか「わるい」のか。それは、常に与えられたものさしによって測られることによってしか決定づけられない。個人の内心の問題である。つまり、いい、わるい、というより「許すか許さないか」という問いである。

 「目的」を問うている人の内心にある聖域とは、一体なんなのか。それは、


「ファッションは常に性的な市場価値を高める目的で用いられるべきである(そうであってほしい)」


という発想ではないかと私は思う。そうでなければ、この文脈で“目的”という語が配置される必然性が見えてこないと言いますか。もちろん、現実的にはそうではない。というか、質問者にとっても、現代においてこのような聖域がほとんど機能していないことはわかりきっているのではないか。たとえば


「ロリータファッションの人って、何が目的なんですか?」


という質問は、さすがに誰もしないと思う。なぜならば、ロリータファッションをやっている人はロリータファッションがやりたくてロリータファッションをやっている事実はあまりにも明白だから。それはすでに広く社会一般に認められる「公共の事実」とでも言えるものである。

 あるいは、自作の羽を背負っている人は自作の羽を背負いたいから自作の羽を背負っているだけでであって実際に飛ぼうとしているわけではないし、きゃりーぱみゅぱみゅが日能研のバッグを取り入れて話題になっていたことがあるが、それだって当然日能研に通うつもりがあるのではない。わかるだろ、そんなこと。やりたくてやっているんだよそれがなにか悪いか。本当は、全てがバレバレのはずなのに。「意欲がバレバレな人」ほど「バレてないもの」としてうやうやしく扱われることがある。

 同様に、地雷系ファッションをやっている人だって地雷系ファッションがやりたくて地雷系ファッションをやっている、という事実も少し考えれば自明のはずだ。しかし、これはまだ広く公共に認められた事実ではない。ロリータファッションという、一時代ある部分の良識を強く侵害し、侵害し終わった地平で新たなる良識の領土を獲得し終わった様式とは異なり、それはまだ正式な領土を得ていない

 だから、善良な社会生活を送る一市民としては、正当にこの侵略者を放逐する権利があるのではないか、とうっすら錯覚に陥ってしまった土台があるせいで、冒頭の、絶妙に誘導を含みながらも脇が甘い質問の態度が醸造されたんじゃないかと私は思う。

 この質問に対して、私は次のように回答をした。


「可愛くしたいけどモテたくはないんじゃないでしょうか」


 地雷系ファッションも、いずれはこの社会における正当な領土を獲得し、私の回答がわざわざ回答するまでもない自明のものとなる日が来るだろう。そうなったときに、スタイルの土壌に表れていた精神性の大半は死ぬ。死に続ける。認められると同時に、多くのものが抜け落ちる。なぜならば、矛盾そのものを抱き抱えて張り裂けるように現れる心の叫びじゃなければ射程範囲に収まらない人類の、それそのもの自体を憎むべき恒常性っていうものが常に我々の皮膜に張り付いて、精神活動の領域をある特定のパターンの範疇に収めようとしてくるのだから。

 ほんとうは、人間の行為に説明がつくものなんてひとつもない。「ジャンル」だと思い込んでいるものは、全て説明不可能な得体の知れない「なにか」でしかない。サッカーとアメリカンフットボール、戦争と暴力の違いを突然問われたときに、我々はどれほど精緻に回答できるのか、そんなことすら疑わしい。ここにも猛烈なジレンマが横たわっている。文脈や位置付けを確認しないことには、そこにどういった意味を読解する余地があるのか、我々はそもそも認識できない。だからといって、位置付けというもの自体は常にがらんどうの箱でしかない。ただこの原理的な困難を頭で理解しようとして必要以上に難しく考える必要はない。


寿司なんだよ!

ネタとシャリをバラす必要はない。一体のものとして味わうほかない。いつだってそうしなければわからない。あと出たら出たで即、食べるしかない。さすれば舌先で分解されるアミノ酸とでんぷんと添加された酢酸が複雑に味蕾を刺激していわく理解の範疇を超えた、現象そのものの祝祭の場を勝手に繰り広げられるだろう。要するに、ジャンルそのものに言及してなにかしらの解釈を引っ張り出したような気分に染まってたとしても、そこで解釈されているのはシャリのみで、肝心のネタを無視しているといったことが起こりかねない。だからこそ、本日もそこいらじゅうで、個々人のジャンルからはみ出した精神性の決壊活動として、「モテないで済む努力」が発露されているという自体にさえ全く気が付かない極度にのんきな人間が多くいる。別に、それはそれで、構わない。わからないやつに、わかってたまるかという気持ちの方が、切実に服を着る人にとっては絶対に圧倒的に命懸けで重要であるはずだから。

 わからないなら、どうかそのまま、わからないままでいてください。わからないくせに、わからないでよ。

次回は、1月9日(火)17時更新予定。

筆者について

みずの・しず バイキングでなにも食べなかったことがある。著書『親切人間論』他

  1. 第1回 : 人生最後の瞬間に何を着るか
  2. 第2回 : 豚色の婦人服売り場 1階から9階まで全部死ね!
  3. 第3回 : アクセサリーが突然わかった日
  4. 第4回 : アン・デニム的な自意識
  5. 第5回 : モテないで済む努力をする人々
  6. 第6回 : 「ファッションは出尽くした」と言っている人
  7. 第7回 : 明日着る服をどう選ぶか
  8. 第8回 : 「オシャレで検索する行為がオシャレではない」問題
連載「人生最後の瞬間に何を着るか 断崖絶壁のファッション」
  1. 第1回 : 人生最後の瞬間に何を着るか
  2. 第2回 : 豚色の婦人服売り場 1階から9階まで全部死ね!
  3. 第3回 : アクセサリーが突然わかった日
  4. 第4回 : アン・デニム的な自意識
  5. 第5回 : モテないで済む努力をする人々
  6. 第6回 : 「ファッションは出尽くした」と言っている人
  7. 第7回 : 明日着る服をどう選ぶか
  8. 第8回 : 「オシャレで検索する行為がオシャレではない」問題
  9. 連載「人生最後の瞬間に何を着るか 断崖絶壁のファッション」記事一覧
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