人生最後の瞬間に何を着るか 断崖絶壁のファッション
第8回

「オシャレで検索する行為がオシャレではない」問題

人生最後の瞬間に何を着るか 断崖絶壁のファッション
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「あの服も、この服も納得がいかない……私がほんとうに着たい服ってなに?」
世間は色々な問題を投げかけてくるけど、どれもこれも肝心なこと、漠然とした問いかけの先にある根本的な問題には触れていないような気もする。今のファッションが退屈でしっくりこない、悩めるすべてのみなさまへ。
こちらは、まだ誰も言葉にしていない違和感を親切に言語化する“ポップ思想家”の水野しずさんによる、トレンドを追うよりも、納得のいくスタイルを発見していくためのファッション論考の連載です。「着るという行為」について、一緒に考えていきましょう。

ヤンキーの格好はサービス精神に溢れている

 私の地元は田舎なのにヤンキーがいなかった。最大でも、少し髪色が明るくて上下ジャージを着て軽トラを運転している人しかいなかった。今考えると、自分が極度のビビリですぐパニックになるせいでヤンキーがいそうな場所には絶対に近づかなかっただけの話だ。あと、本格寄りのヤンキーは怖いので視界に入りそうになったら視野角から排除をして意図的に認識しないようにしていた。要は、こちらが強引に見ていなかっただけなのだと思う。強敵の前では無闇に逃げ回って目立つよりも、下手に相手を認識せずに影の濃い場所でスッとしていた方が生き残れる可能性がある。弱者の術である。

 このように過激な無視をしていたせいで私は、高校生くらいまでヤンキーの様式美というものは「人間の想像力によって過度に誇張された大袈裟な不良のイメージ」だと思っていた。実際の虫歯菌はただの菌なのに、虫歯のポスターに描かれるときは悪玉の象徴として擬人化され、手を尽くして悪人らしさが誇張される。そういった慣習があるから虫歯予防ポスター界では悪玉のキングとしてビジュアライズされたイメージの虫歯菌像を描く方が「これが虫歯である」と伝わりやすい。

 漫画やドラマの中で見るヤンキーが極端な格好をしているのもこれと同じだと考えていた。現実にはいないが、イメージの中では“そういうこと”になっている類のもの。例えば、スネ夫のママのような成金は実在しないし、北斗の拳の世界でヒャッハーと言っている雑魚も実在するわけではないが、現実のある部分を誇張することで「あの感じ」として伝わってくる表現としてはけっこう腑に落ちるものがある。だからスネ夫のママはいないにしても、スネ夫のママ的なるものは目を凝らすと至るところに見えてくる。というか、スネ夫のママが「スネ夫のママ」という形で具体化されているおかげで(またはそのせいで)現実空間の中に補助線が引かれて狂おしく可視化されているというか。

 例えば、わかりやすく裕福な人の家にある、やたら広くて全体的に白い部屋のピアノコーナーと仏壇コーナーの中間の無意味で不毛なゾーンに、ゴージャスな、百万円くらいはしそうな敷物が敷いてある様子を思い浮かべる。そうすると、スネ夫のママもこういうことをやりそうだなと思えてくる。招かれた客側としては、人間のうすらくだらなさのようなものを感じてそこはかとなく切なくなるのだが、やっている側は徹底的にノーダメージという感じ。このギャップの埋まらなさに恒久の平行線を感じて、それがまた虚しい。高級感のあるものを虚しくするセンスが卓越している。この感じが私のイメージするスネ夫のママ像である。スネ夫はスネ夫なりに悩んでいるのではないか。そういう悩みをいつも抑え込んでいるから、反動で変な自慢話ばかりしてしまうのではないのだろうか。

 あるいは、提供されたティーセットに添えられたティースプーンに気合が入りすぎている事例などもこれにあたる。ただでさえティーポットやティーカップがローズ柄なのに、ティースプーンの持ち手部分にまで陶器の女神像があしらわれているから、ロマンティックすぎて助からない。全体の過剰重厚ベルバラ感に当てられて面倒になり、誰も手をつけないまま冷えてカップの中で飽和している紅茶にはしかも、ローズペタル、ローズバーベナ、ローズヒップが入念にしつこくブレンドされている。その上、家具という家具はなんでも猫足なのに、仏前の木魚は剥き出し。ここまで徹底してやり過ぎてくれるのならば、それはもう嬉しい(嫌ありがとう)の域に入ってくるかもしれない。想像上ではここまで切迫したものがあり得るが、現実的にはこうも徹底したものは見られない。そう思っていたので、初めて本物の、成人式に魔改造紋付袴で殴り込みをかけるヤンキースタイルの人を目撃した瞬間、私は大いなる衝撃を受けた。こんなの、野生のミッキーマウスではないか。全てがわかりやすく、サービス精神(他者から見られるものとして存在する意識)に溢れている。

 この印象。例えるならば、一度も海を見たことがない人が、クリスチャンラッセンの絵に描かれた海の様相を「あくまで絵だから」と間に受けすぎないようにしていたのに、実際に海に行ったらラッセンの絵と全く同じものが目の前に広がっていた感じに近い。イルカは虹色に輝き波は夢・希望・愛を要約せずうねりのままに現し全ての輝きはシナプスの伝達速度よりも早くわたしたちの脳に直接働きかける。

 残念ながら、この世の海は実際にラッセンの海ではないが、ヤンキーはヤンキーとして現物であり得てくれている瞬間がある。どうもありがとう。ファッションはすごい。つまり、いまこうして目の前にある実態が、人間の現実認識を先取りしている状況に直面できるということだ。私はこれを奇跡だと思う。奇跡とは一体なんなのか。たとえば、スパイス・ガールズの有名曲「ワナビー」冒頭で流れる「ヨー!」という理屈がわからない掛け声は奇跡だと思う。

 通常、人間が思い描いた理想を実現するためには、どのような手順でそれが達成可能になるのかゴールから現状までを順に思い描き、緻密に考えた上で一つ一つプロセスを辿っていかなければならない。独自にプロセスを想定できないのであれば世の中に流通しているある程度達成可能であることが見込まれた手順に沿ってやっていく(受験や就職活動など)しかない。それなりに定評があり世間に流通しているプロセスだって、本人の力で達成できなければ当然実現し得ない。実現というものがプロセスの先に先にやっとあるかもしれないし、ないのかもしれない。それでも奇跡が起こるわけではないのだから一つ一つ丁寧にプロセス追って、微調整を重ね、日々の生活を背負ったまま実現の麓まで徒歩で近づいていくしかない。これが通常だ。

 一方、奇跡が起こっている現場ではこの世の理のようなものが分析的な手順で触れられる形で存在することをやめ、心と因果関係が不可分に溶け合って渾然一体となり、理解不能な「実現」がそのままの形でまるごと現れてしまう。スパイス・ガールズの「ヨー!」にはだから、プロセスがない。最初っから「ヨー!」は「ヨー!」としてしか現れていない。プロセスを辿る発想で別の曲の冒頭に「ヨー!」と入れても「ワナビー」と同じこと(奇跡)は起こらない。

ラッセンはすごい

 ラッセンの絵のすごいところは「ヨー!」のさらにもう一歩先にある。フツーは奇跡が起こった場合、どう考えたって奇跡そのものを描くのに、ラッセンの絵には「奇跡と直面しているときの状況」が描かれている。変に客観性があって怖い。じっくり見ているとぞーっとする。どういう理屈があるのか全くわからないが、本人の中でイメージが達しすぎた結果、本人を取り囲む全状況が常に奇跡となり、かえってその奇跡を人間社会的なプロセス解釈で再構築した結果、あのような奇跡の断面図的なものが画面上に成立しているのではないか。

 もしそうならば、ただの奇跡よりよっぽどヤバい。

 かつて「ゴッホより普通にラッセンが好き」というフレーズが流行したことがあったが、この文脈で解釈すると

「奇跡そのものよりも、フツーにこの社会秩序の内部でを生存していく以上は、奇跡と直面している状況(=安全な達成)を我々は好むのだ」

という意味内容として取れる。リアリストの諦念の、もう一段階先にある温度の低い肯定といったらいいのだろうか。もし、そうだとしたら、十分理解可能な範囲の発想である。

「オシャレ」になりたいのに、「オシャレになろうとする人」はオシャレではない

 オシャレになりたいと思ったときにまず立ちはだかるものが、「オシャレになろうとしている人はオシャレではない」という究極の困難だと思う。どうしてそんなことになるのかというと、オシャレで検索する行為とは明白に「プロセスを辿る行為」であるからだ(しかも、プロセス自体すでに世の中に流通している安全な答えに依拠しようとしている)。オシャレを達成するには、現実認識の手順を超越してオリジナルの価値を顕在化させなければならない。というと大袈裟な感じがするけど、実際は「ヨー!」みたいなことなのでぜんぜん大袈裟な話ではない。

 ある年、オシャレな人々が誰がきっかけというわけでもなく独自に釣りジャケットをストリートファッションに持ち込むという現象が同時多発的に見られたことがある。ここに、分析的な手続きで触れられるプロセスはない。「ヨー!」だけがある。

「ヨー!」は達成可能なのか

 奇跡と言ってしまうと、確率的に与えられる運のようなものをイメージする人が多いかもしれない。しかし奇跡とは全く難しいことではないし、人間であれば誰にでもできる。なぜならば、人間がものを認識すること自体が奇跡だから。私が幼少期にヤンキーの認識を拒んだ術もマイナスの方向に顕在化した奇跡と言えるかもしれない。とにかくこの世は奇跡のドリンクバーみたいなところがあるのに、それを阻止するものがある。つまり、人々が全員ラッセンみたいな達し方をしていると集団生物として効率的に統治をするのが難しくなってしまうから、もとは奇跡そのもののような認識を社会的な鋳型に鋳造し「やらされる態度」の範囲内で認知のプロセスを共有していく集団の志向がある。このようにして鋳造された態度で行うのが「オシャレ 家具 一人暮らし」といったプロセス達成志向の検索行為だから、これは明らかにオシャレではない。

 では、どうするのかというと、鋳造された認識の先に「再度自分のやり方で適応し直す」、「オリジナルの適応を模索する」というプロセスを持ち込む。これによって我々は「ヨー!」に一歩近づく(ことができるかもしれない)。

「やりに行く」態度の導入

①やらされている(社会適応)
②やりに行く(押し付けられた適応に対する再適応)
③そうなっている(奇跡の実現)

 奇跡(プロセスでは到達できないもの)に到達するためにプロセスを導入するというやり方自体にままならなさがある。しかし、それはもう仕方がない。なぜらば、オシャレ(スパイスガールズのワナビー冒頭で流れる「ヨー!」のようなもの)とは、厳密に考えた場合「奇跡そのもの」ではないからだ。

「ダサくない」はオシャレの真逆

 どの程度の奇跡をオシャレと位置付けるかは人によるが、オシャレをしようとしてセレクトショップのオリジナル商品を買い揃え、全身のバランスを見てそつなく小綺麗にまとめた結果、清潔感がありちゃんとしているがオシャレからは遠い(社交上の問題はないが、内容が無難でありふれており、独自性が見られない)状態に帰着する現象が起こる。なんでこんなことになるのか。それはこの状態が「ダサい(プロセスに沿った判断ができていない)」状態から「ダサくない(プロセスに沿った合理的な判断ができている)」に変化しただけであるからだ。

「不特定多数の人にとって、できるだけ感じのいい服装にしたい」という意図がある場合は、ここで止まった方がいい。しかし、ここからさらなるオシャレを目指すとなると、一度得た「プロセスに沿った判断基準」を独自に解体、再構築し省略の回路を形成しなければならない。

 これを整理すると、次のようになる。

オシャレ:「わざとじゃない」プロセスの省略ができている
ダサくない:プロセスに沿った合理的な判断ができている
ダサい:プロセスに沿った合理的判断ができていない、もしくはプロセスを理解していない

 ダサくない状態とは、プロセスを重んじるかどうかの尺度で考えた場合に、オシャレな状態の真逆とも取れる。だからダサい方が、状態としてはむしろオシャレに近い。オシャレである状態も、ダサい状態も、どちらも多くの人に問題なく伝わる整合性や社会性から距離があり、スタイルの中に一定の歪さを有しているという意味では近しい。これを改めて「やりに行く」態度の導入チャートで見ると、こうになる。

⓪やらされることができていない(ダサい)
①やらされることができている(ダサくない)
②やりに行く(ダサい2.0)
③独自のあり方でそうなっている(オシャレ)

「ダサい2.0」とは、プロセスの省略はできているが、わざとそうやっている(合理的に解釈可能な方法論で行われている)状態を指している。

 例えば、独自のあり方でそうなっているシティーボーイはオシャレかもしれないが、わざとシティーボーイをやろうとしている(やりに行っている)人はダサいかもしれない(この辺りの境界はかなり繊細なので断定するのは難しい)。

「オシャレは気持ちの問題」という、なんだかわかりそうでわからない物言いをされることがある。これを具体的な言葉に置き換えると、


オシャレとは、「やっている本人が「これだ!」と思ったスタイルのcoolさに、社会の側が理解できるような理屈や合理性を持ち込まず、心意気だけでそれを成立させ実現、達成しているかどうか」の問題

ということになる。つまり「独自の美意識を表現するために説明をする必要がなくなったら」それはオシャレである。

 オシャレである、という状態を成立させるためには、まず社会の側から要請されるTPOを理解し、「ダサくない」とはどういうことなのかを把握しなければならない。このTPOの中には、ときに時代にそぐわないように感じられる因習からくるものや古い価値観に沿った要素が含まれる。しかし、現時点でどういった社会性を理解すれば現行の社会慣習の中で「ちゃんと成立している」「感じがいい」と判断されるのか、まずは理解しておかなければならない。自然物が美しいのにオシャレではないのは「説明不要だが独自の美意識ではないから」だし、歌舞伎のスタイルがどの文化圏の人から見てもある程度オシャレなものと判断できるのは「それが所属する社会一般から見て独自の美意識を持ち、さらに説明不要だから」ということになる。オシャレかどうか、にとっては常に、本人の価値観がどうであれ、社会一般に流通している価値観(ダサくなさ)との距離が肝心だ。遠ければいいという話でもなく、近ければいいという話でもない。どのようにコントラストを形成するか、ファッションにおいて対比で見えるものがすなわち見えているものなのだ。

 男性のファションに特有の困難さとは、ここに起因しているのではないか。男性の場合、(それが正しいか正しくないかとは無関係に、社会一般の傾向として)身につけているものに整合性、合理性、実用性が求められやすい。時計を熱心に買う人がいるのも、「時間がわかる」という合理が付随しているせいで、アクセサリーよりも身につける抵抗が少ないからだろう。

 着飾るとは、それ自体が不合理(実用的ではない)なことだから、心意気が追いつかないと「ダサい」と判定されやすい。それにくらべると女性の場合は、ある程度着飾っても「やらされている(ダサくない)」領域に留まることができるから男性がオシャレに到達しようとする時ほどには果敢な精神性が必要ではない可能性が高い。その反面「やらされている」苦しさから抜け出のは困難だから女性にも当然特有の困難がある。

一旦ダサくなること(ダサい2.0)に耐える

 意図的にオシャレになるためのプロセスを整理するとこうなる。

⑴ダサい:プロセスに沿った合理的判断ができていない、もしくはプロセスを理解していな
⑵ダサくない:プロセスに沿った合理的な判断ができている
⑶ダサい2.0:「わざと」プロセスの省略ができている
⑷オシャレ:「わざとじゃない」プロセスの省略ができている

「⑴ダサい」から「⑵ダサくない」へ
 まず合理的なプロセスを理解する(「オシャレ 家具」で検索する等)ことで、「ダサくない」状態に到達する。

「⑵ダサくない」から「⑶ダサい2.0」へ
 やりに行く つまり、自分にとって最もやりたいスタイルを考えて、わざとやる。ここで一旦ダサくなることを受け入れる。ここで生じるダサさはオシャレの前フリというか、スパイスというか、結果につながるポジティブなものなので前向きに捉えておく。

「⑶ダサい2.0」から「⑷オシャレ」
 わざとやっている状態から心意気でやっている状態に移行する。スタイルがなぜいいか、理屈がなくなるところまで追求する。

つまり、「一旦ダサくなる現象(ダサい2.0)」をあらかじめ受け入れておくことでオシャレはやりたい放題になる。

オカダヤでいくらでも売っている

 一旦ダサくなる現象こと「ダサい2.0」は普段はあまり目に入ってこない。なぜならば、オシャレの実力者は「ダサい2.0」と「オシャレ」をほぼ同時にやってしまうからだ。それは星の瞬きのように、ほんの一瞬の発見としてこの世に現れて、現れた途端にもうずっと前から確実にオシャレなものだったようにわたしたちに理解される。流行り出したものが多くの人に理解されるようになったとき、さっきまであったはずのダサい2.0は忘却されて、「もしかしたら未来に起こるかもしれないこと」として倒錯した時間軸の中に出現する。

 私がいつも散髪をお願いしている美容師さんは明らかにオシャレの実力者なので、やっていることの中に実力が発揮された瞬間のきらめきを感じることがある。

 ある日、くだんの美容師さんが、牛乳を注ぐ女が頭に巻き付けているターバンのようなものを頭に巻いていた。「牛乳を注ぐ女」よりは布幅が細長くて、巻き方も帯結びのように洗練されている。そんなことをやっている人を他に見たことがなかったので、私は昂る気持ちを抑えきれずに尋ねた。

「そのヘアターバンは、なにを参照したんですか?」

彼女は、質問の内容が意外だったのか一呼吸おいて答えた。

「フランスの映画でやっているのを見て。いいなと思って」

すごい。やりに行くから成立しているまでの0秒の時間が、今ここにある。私は質問を重ねた。

「布は、どこで?」

汗が滲む両手をヘアカットクロスの中、密かに握りしめた。美容師さんは、なんでそんなことを聞くんだとおかしがるように目を細め、

「オカダヤでいくらでも売ってますよ」

と笑った。

次回は、2月27日(火)17時更新予定。

筆者について

みずの・しず バイキングでなにも食べなかったことがある。著書『親切人間論』他

  1. 第1回 : 人生最後の瞬間に何を着るか
  2. 第2回 : 豚色の婦人服売り場 1階から9階まで全部死ね!
  3. 第3回 : アクセサリーが突然わかった日
  4. 第4回 : アン・デニム的な自意識
  5. 第5回 : モテないで済む努力をする人々
  6. 第6回 : 「ファッションは出尽くした」と言っている人
  7. 第7回 : 明日着る服をどう選ぶか
  8. 第8回 : 「オシャレで検索する行為がオシャレではない」問題
連載「人生最後の瞬間に何を着るか 断崖絶壁のファッション」
  1. 第1回 : 人生最後の瞬間に何を着るか
  2. 第2回 : 豚色の婦人服売り場 1階から9階まで全部死ね!
  3. 第3回 : アクセサリーが突然わかった日
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  8. 第8回 : 「オシャレで検索する行為がオシャレではない」問題
  9. 連載「人生最後の瞬間に何を着るか 断崖絶壁のファッション」記事一覧
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