第2章 仕事は自己実現の最良の方法ではない/宮台教授の就活原論

学び
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『絶対内定』ではもう受からない! 今、この社会はどうなっているのか? 今、本当に求められている資質はなんなのか? 今、就職活動をどう乗り切ればいいのか? 日本を代表する社会学者にしてかつて東京都立大学(旧・首都大学東京)の就職支援委員会委員長を務めたこともある著者・宮台真司が語る、社会のこと、働くこと、就職活動、全てを串刺しにした画期的就活論。2011年に刊行され、今もなお就活生のバイブルとして読み継がれている『宮台教授の就活原論』から、一部を試し読み公開します。これから社会に出る若者と、働くことを見つめ直したい社会人のための必読書。理不尽な就活を強いるデタラメな社会を生き抜くために、就活の原理を共に学びましょう。

増殖する自己実現願望

読者の方々の中には、「仕事を通じて自己実現したい」と考えている人が、少なからずいるのではないでしょうか。実際、2011年度の新入社員春の意識調査によると、「仕事を通じてかなえたい夢がある」と答える学生の数はここ数年70%を超える数字を記録しています。

最初に身も蓋もなく結論を言います。「仕事で自己実現する」という考え方自体に問題があります。仕事で自己実現できる人も稀にいますが、仕事での自己実現は現実には極めて困難だし、自己実現は必ずしも仕事を通じて果たすべきものでもないからです。

別の言い方をすれば、仕事は単なる糧(おカネを得る手段)だと考えて、仕事以外の自己実現のチャンスを追求するほうが現実的だし、そうした構えでいたほうが、仕事での自己実現でさえ呼び込みやすいでしょう。むろん自己実現しない人生も「あり」だと思います。

大量生産時代の「フォード主義」

「仕事での自己実現」という発想が特に日本に目立つ理由を、『14歳からの社会学』では、江戸時代の300年以上にわたる安定した善政が、労働集約的な集団作業である農業を、実りある社会関係の構成原理に仕立て上げたからだ、と申し上げました。

それと同様に、戦後の組合運動の中で、大正期に一部企業でしかあり得なかった終身雇用・年功序列制度が一般企業に普及するプロセスにおいても、仕事場で一所懸命に頑張ることと、誠実で協調的な人間関係を作ることとが等置され、それが最近まで続きました。

仕事を人生や社会関係と等置するこうした独特の発想が、一時期、諸外国から憧れられたことがあります。1973年の石油ショックで高度経済成長があり得なくなり、賃上げによって労働の過酷さを償えなくなってからしばらくの間、日本が羨望されたというわけです。

歴史のおさらいになりますが、その部分を補います。第一次大戦が終わると(1918年)間もなく世界初の社会主義国家「ソビエト社会主義共和国連邦」が成立します(1922年)。以降、資本主義国は、社会主義国を意識しながら、社会問題に向き合うようになります。

最大の社会問題は1929年に始まった世界恐慌でした。できるだけ労働分配率を下げて生産効率を上げる競争は、やがて余剰生産物ゆえに生産設備の稼働率低下を招き、各企業は設備投資のために受けた融資を返済できず、金融恐慌に至る。マルクスの予言通りです。

かくして大恐慌がピークを迎えた1933年、フランクリン・ルーズベルト米大統領が「ニューディール政策」を打ち出します。ニューディールとはゲームなどで親がカードを配り直すことですが、当初は生産設備の稼働率が下がらないように大規模公共投資を行う政策でした。

程なく、生産効率を上げる競争が労働者を窮地に追い込んだ結果として革命(体制顚覆)に至る可能性を防遏すべく、アントニオ・グラムシが「フォード主義(フォーディズム)」と呼ぶ労使協調路線がとられるようになります。時は大量生産の時代です。

第一次大戦後の先進各国では重工業化が一挙に進みます。大量生産工場での労働は、チャーリー・チャップリン監督の映画『モダン・タイムス』(1936年)がコミカルかつ残酷に描くような、単調で全体性が見えない反復作業でしたから、つらいものでした。

「フォード主義」とは、第一に、大量生産労働に耐えてもらう代わりに定期昇給を含めたある程度の労働分配率を保証する懐柔策の面と、第二に、国内市場が飽和して消費性向が下がらないよう労働分配率を保証する市場策の面の、ふたつを伴う労使協調路線でした。

ちなみに「フォード主義」の同時代に、今日の社会学につながるタルコット・パーソンズの社会システム理論が生まれました。彼の理論は「ニューディール政策」やそこから派生した「フォード主義」を、学問的に正当化する、という隠れた目的を持っていました。

パーソンズの論理を単純化すればこうなります。市場の需給均衡=価格決定点は、各経済主体の初期手持量と選好構造の組によって変わります。利己的な経済主体が集まる社会ではそれなりの、利他的な経済主体が集まる社会ではそれなりの、需給均衡=価格決定点になります。

彼が学んだ近代経済学はアダム・スミスらの古典派経済学をルーツとしますが、スミスは市場の「神の見えざる手」を論じた『国富論』に先立ち、市場が社会を壊さずに機能するには人々が道徳感情をシェアする必要があるとする『道徳感情論』を書いていました。

パーソンズの論理はスミスのそれを洗練したものですが、彼は市場にとっては外部性をなす人々の選好構造の分布が、一定のパターンを持続できない限り、大恐慌の如き事態が反復し、社会は持続しないだろうと見ました。課題は、価値パターンの持続可能性です。

彼の学位論文はマックス・ウェーバー論でしたが、ウェーバーの影響も見てとれます。ウェーバーは、たとえ近代憲法や近代法や近代組織を導入しても、社会成員が近代的なエートス(行為態度)を持たない限り、近代社会にはならないのだ、と考えました。

ウェーバーがエートスと呼ぶものを、パーソンズは価値パターン(正確には複数の価値変数からなるパターン)として取り出し、社会がこれを社会成員に埋め込む過程を「社会化」と名付けて、社会が「社会化」に成功しない限り、自らを持続できないとしました。

「社会化」とは教育のことだと思うでしょう。教育哲学者ジョン・デューイのように、同時代にはそう考えた人もいます。でもパーソンズは、教育意図の失敗が却って良い帰結をもたらし得る事実を踏まえ、成育環境全体による価値の埋め込みを「社会化」と呼びました。

そこでは、個々の社会成員らが持つ教育意図を超えて、成育環境全体に設計主義的に関わる必要が出てきます。こうして、単なる財政政策や金融政策や雇用政策を超えて、大規模な政治介入――社会への政治の介入――を弁護することが、パーソンズの理論的目的でした。

この時代、経済学におけるケインズ、教育哲学におけるデューイ、社会学におけるパーソンズなど、多くのアカデミシャンが、社会主義社会(ソ連)との対抗関係を意識して、市場における経済的自由を守るべく、政治介入(を行う大きな政府)を肯定しました。

近代を前期と後期に分ける、あるいは近代と現代とに分けるという場合、従来大抵は「第一次大戦×ソ連誕生」を画期としました。素朴に自由を尊んだり、自由な者が持つべき市民道徳を説いたりする「古典的自由主義」を超える議論が主流になったからです。

多品種少量生産時代の「ポストフォード主義」

ところが、近代をふたつに分けるという場合、別の考え方が順次出てくるようになります。例えば第二次大戦が終わると、この大戦では米国によって原爆が使われたので、核以前と核以降という意味で、第二次大戦を分岐点だと見るような考え方も出てきます。

ところが70年代に入ると、1971年のブレトン・ウッズ体制終焉、1972年の変動相場制への移行、1973年の石油ショックなどを境に、経済的な営みに求められる要件が変わります。今日のグローバル化につながる資本移動自由化は確かにここから始まると言えます。

マルクスの予想に反して資本主義が永続する理由を、社会が内蔵する広い意味での調整メカニズムに求めるレギュラシオン学派と呼ばれる経済学の立場に属するボブ・ジェソップは、石油ショックに伴う資源不況を境に「ポストフォード主義」が始まるとしています。

そこでは、経済においてはケインズ主義よりも資本移動(グローバル化)が追求され、政治においてはコーポラティズム(労使協調など談合主義)よりもネオリベ(市場原理主義)が追求され、これらを消費主義パラダイム(自己実現主義!)が支えるとします。

自己実現の名のもとに新しいモードが正当化されるようになるのです。例えば、高度経済成長時代から低成長時代へのシフトで、雇用主側にしてみれば大幅な定期昇給が不可能になり、被雇用者側にしてみれば賃上げ闘争が不可能になります。

そこで、雇用主側は従来の賃上げに代わって労務環境の改善を提案するようになり、被雇用者側も従来の賃上げ闘争に代わって福利厚生の充実を要求するようになります。そうした要求が「生活の質」といった言葉で正当化されるのが、「ポストフォード主義」です。

マルクスが未来の理想として唱えた労働と自己実現の合致という観点から、レギュラシオン学派は当初こうした動きを肯定しましたが、やがてはこうしたシフトを資本主義社会の巧妙な調整メカニズムのなせるワザだとして批判的に捉えるようになります。

仕事での自己実現機会はとても希少ですが、これを煽ることで、低成長時代の高付加価値化市場に相応しい人材の「動機付けと選別」を行います。そして「仕事での自己実現」競争に敗れた大半の成員には、代わりに「消費での自己実現」を提案するわけです。

いわく、賢い消費者になればアナタ(たち)は幸せになれる……云々。号令一下規律正しく集合的身体行動をとれるようにさせる「良き労働者の養成」から、試行錯誤によって何が自分を幸せにするのかを掴めるようにさせる「良き消費者の養成」へ、というわけです。

簡単に言えば、自己実現をエサに巧妙に収奪するシステムがそこにあるという話です。それが「収奪」かどうか――何かを「収奪」として判断させるような「本来性なもの」を想定できるかどうか――は別にして、ここに極めて巧妙なメカニズムがあるのは事実です。

先に触れかけましたが、「フォード主義」は大量生産時代の労務管理に関係し、「ポストフォード主義」は多品種少量生産時代の労務管理に関係します。多品種少量生産とは、製品が市場に普及することによる物余りという「市場の限界」を超える工夫です。

20世紀前半は機能的で堅牢なT型フォードが自動車市場を席巻しました。しかし先進各国の市場に製品が行き渡ると、機能的で堅牢なるがゆえに買替需要が乏しく、物余りが始まります。ところが第二次大戦後、ゼネラルモーターズの新しい工夫が持ち込まれます。

モデルチェンジという工夫です。機能性や堅牢性とは関係なく、ジェット噴射口の形をしたメッキのオーナメントが付いたとか、垂直尾翼を思わせるエアロパーツが付いたといった理由で、まだ使える物を廃棄し、機能よりも趣味で新しい物を買わせるのです。

機能と違って趣味への要求は多様です。製品が機能的要求に応える時代には大量生産で対応するのが合理的ですが、製品が趣味的要求に応える時代には多品種少量生産で対応するのが合理的です。多品種とはいえ意匠の種差ですから、設備投資は小さくて済みます。

従って、先に申し上げた「消費での自己実現」とは、機能よりも趣味が消費動機を構成する多品種少量生産の時代における、「パンピー(大多数の人)を幸せにするというよりも、個性的なアナタを幸せにするための」商品やサービスを享受することを、意味するものなのです。

ちなみに、他人に差を付けるべく趣味が煽られるこの時代には、私の欲求は果たして私の欲求なのかという疑念が拡がります。主体は<システム>の産出物にすぎないとか、<生活世界>は<システム>の作り出したイメージにすぎないという発想が拡がります。

主体のために<システム>はあるとか、<生活世界>のために<システム>があるというヴィジョン自体が、<システム>によって作り出されたものだ――選択の前提もまた選択されたものだ――と、再帰性が気づかれた時代を、モダンと区別してポストモダンと呼びます。

ポストモダンでは市場のあらゆる場面で「アナタだけのアナタのための」ホスピタリティが要求されます。そういう市場環境に、「フォード主義=大量生産時代」における「構想(頭)と実行(体)の分離」で対応するのは、事実上、不可能になります。

『モダン・タイムス』でチャップリンが演じた、単純作業に耐えて生産ラインの歯車になり切れる労働者は、生産場面でも消費場面でも適切な存在形式ではなくなります。末端からトップまで創意工夫が求められ、仕事でも消費でも創意工夫が求められるのです。

「仕事は単なる糧ではなく、人生そのもの、社会関係そのものだ」とする日本的発想が、終身雇用・年功序列とも結びつく形で、企業への高いロイヤリティ(忠誠心)を生み出し、かつ休日には豊かな消費生活を可能にする。まさに日本が憧れられた所以です。

* * *

この続きは『宮台教授の就活原論』本書にてお読みいただけます。

筆者について

みやだい・しんじ。社会学者。大学院大学至善館特任教授。東京都立大学教授。東京大学文学部卒(社会学専攻)。同大学院社会学研究科博士課程満期退学。大学と大学院で廣松渉・小室直樹に師事。1987年東京大学教養学部助手。1990年数理社会学の著作『権力の予期理論』で東京大学より戦後5人目の社会学博士学位取得。権力論・国家論・宗教論・性愛論・犯罪論・教育論・外交論・文化論で論壇を牽引。政治家や地域活動のアドバイザーとして社会変革を実践してきた。2001年から「マル激トーク・オン・ディマンド」のホストを務め、独自の映画批評でも知られる。社会学の主要著書に『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎文庫)、『日本の難点』(幻冬舎新書)、『14歳からの社会学』(ちくま文庫)、『子育て指南書 ウンコのおじさん』『大人のための性教育』(ともに共著、ジャパンマシニスト社)、映画批評の主要著書に『正義から享楽へ』『崩壊を加速させよ』(blueprint)がある。

  1. まえがき/宮台教授の就活原論
  2. 第1章 なによりも”適応力”が求められている/宮台教授の就活原論
  3. 第2章 仕事は自己実現の最良の方法ではない/宮台教授の就活原論
  4. 第3章 自己実現より”ホームベース”を作れ/宮台教授の就活原論
  5. 第4章 自分にぴったりの仕事なんてない/宮台教授の就活原論
  6. 第5章 CMと就職情報サイトに踊らされない仕事選び/宮台教授の就活原論
  7. 第6章 就職できる人間になる“脱ヘタレ”の心得/宮台教授の就活原論
  8. 第7章 社会がヘタレを生んでいる/宮台教授の就活原論
  9. 第8章 すぐには役立たない就活マニュアル/宮台教授の就活原論
『宮台教授の就活原論』試し読み記事
  1. まえがき/宮台教授の就活原論
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  9. 第8章 すぐには役立たない就活マニュアル/宮台教授の就活原論
  10. 『宮台教授の就活原論』記事一覧
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