「第3のバナナマン」「第4の東京03」などの異名をとる放送作家オークラ。2021年12月3日に初となる単著『自意識とコメディの日々』を刊行し、お笑いを志した一人の若者の自伝として、90年代後半からの東京お笑いシーンが語られた重要な一冊として、発売前から重版が決定するなど話題となっている。今回は本書から抜粋した内容を掲載。著者がお笑いを志した当時の空気、まだ無名だったバカリズム、バナナマン、ザキヤマのお話など全5回。
初コンビ「オークラ劇場」結成
N君と知り合ったことでさらに僕のお笑いに対する熱は高くなり、この熱に浮かされた人間なら当然たどり着く想いをN君にぶつけた。
「俺と一緒にお笑いライブに出ない?」
「……はぁ?」
N君の解答は奇しくも“ごっつ”の時の彼女と同じだった。
純粋だった僕は半ば強引に彼と一緒にお笑いオーディションを受けることにした。大学1年の終わり、1994年の春休み、当時、松竹梅の松みのるさんがプロデュースしていた『THAT’s笑ライブ』の新人コーナー出演者募集という記事を見つけ応募したのだ。でもそのライブのことはよく知らなかった。当時、東京で若手お笑いライブといえば1986年から続くコント赤信号、渡辺リーダーによる『ラ・ママ新人コント大会』だったが、ウッチャンナンチャン、爆笑問題などを輩出した東京最高峰で最も歴史のある若手ライブに少しビビッてしまい、よく知らない『THAT’s笑ライブ』に応募させてもらった(結果、そのライブも結構すごかったのだが)。
新人コーナーのオーディションに参加するにあたり、僕らはコンビ名を決めなければならなかった。僕はN君と上野の喫茶店で話し合ったのだが、なかなかいい名前が思いつかず、少しリフレッシュしようと、すぐ近くにあったポルノ映画館に入った。
男子はモヤモヤすると1人でエロいことをして、リフレッシュする生き物である。その結果、リフレッシュというよりはダルくなり色々どうでもよくなるのだが……。ポルノ映画を見た僕らは、当然のごとくコンビ名などどうでもよくなって「今日は帰ろうか」と、『上野オークラ劇場』という名の映画館を後にした。
数日後、池袋の小さい区民ホールで『THAT’s笑ライブ』のネタ見せは行われた。
コンビ名は「オークラ劇場」にさせてもらった。
「我こそは未来のダウンタウン」と思い込んだ30組以上の若手たちが参加するそのネタ見せは数人のネタ見せ常連の芸人たちが談笑しているくらいで、誰がどんなネタをやろうがみんなクスリとも笑わない空気。未来のダウンタウンたちが他人のネタで笑うわけがない。そんな状況下で、初めて人前でネタをやる僕らは、その緊張感に耐えきれなくなり、一度外へ出て近くの公園でネタの練習をすることにした。しかし、緊張で練習にも身が入らない。これはヤバいと思った時、
「緊張してるね?」
と言葉をかけてくれた2人組がいた。同じネタ見せに来たそのコンビは、緊張を隠しきれない僕たちに向かって「誰でも最初は緊張するよ。だったら僕らが一度見てあげるよ」と言ってくれた。ネタ見せ前なのに緊張感などまるでなく、人のネタを見る余裕。正直、僕は彼らを格好良いと思った。ネタを見せると、彼らは気を遣ってくれて笑顔で「面白いよ」と言ってくれた。
おかげで少し楽になってネタ見せに臨むことができたが、結果は誰も笑わない。ネタ見せをした松みのるさんにも「そのレベルじゃ新人コーナーも出せないな」と言われ、お笑い自意識過剰大学生の初挑戦は惨敗に終わった。
帰り支度をしていると、あの格好良いコンビがネタをはじめた。
彼らのコンビ名はライトアップボーイズ。
恩人である人たちにこんなことは言いたくないのだが、恐ろしいほど面白くなかった。そのネタ見せ以降、彼らを見たことはない……もちろん、その時のことは感謝をしていますが……。
あれだけ自分はスベったくせに人のネタには難癖つけられるのが「お笑い自意識過剰」という生き物で、恩人のライトアップボーイズさんのネタを見ながら、「このライブの新人コーナー、大したヤツいねーな」と思っていると、そのすぐ後にシュッとした2人組がネタをはじめた。
「お前らがお笑いやるのかよ?」
そんな上から目線で見ていると、ネタ見せ会場の空気が変わった。人のネタなんかでは笑わないお笑い自意識過剰の芸人志望たちがクスクス笑いはじめたのだ。明らかにこれまでネタを見せてきた人間とは一線を画していた。
「面白れぇ」
素直にそう思えた。
そのコンビの名前はアンジャッシュ。
今でも思う。芸人として名前を轟かせる人は最初から面白い。
哀しみの初ライブ
一度目の失敗は「誰でも最初は緊張するもの」という正当な理由によって自分の才能と向き合わなくてすむ。
なのでオークラ劇場は懲りずに違うお笑いライブのネタ見せに応募することした。その時持って行ったネタは「手相占い師と客」というコント。内容は手相占いに来た客の前に現れた変な占い師が変な占いをするというどこにでもありそうな、なんのオリジナリティもないネタで、細かい内容は忘れたが、今でもハッキリ覚えていることがある。それはそのネタ見せを取り仕切っていた人が言い放った言葉だ。
「お前らは占いネタというのがわかってない! 占いにはいろんなボケが詰まってる! まず最初に客が手相を見せる時に手の平を見せるな! 手の甲を見せろ! そしたら占い師は逆! 逆! とツッコめ!」
僕は耳を疑った。だがその言葉は続く。
「次に、占いがはじまったら占い師は客の手の平を見てこう言え。“これが運命線、これが生命線、ぐるっと回ってるのが山の手線、真ん中通るが中央線”。こうボケろ! わかったな!」
ウソだろ。なんだ、その地獄のようなボケは?
「次のライブ出してやるからこれやれ!」
これはもうネタ見せではなくネタハラスメントだ。しかし、お笑いライブに出たことのない大学生の僕らにとってネタを見てくださる方の言葉はある意味、絶対だ。おまけにライブに出してくれる権限を持っているとなれば、これはもう絶対神だ。僕らの答えは決まっていた。
1994年5月、お笑いコンビ・オークラ劇場は初舞台に立つことが決定した。
『元気なはぐき』という名のそのお笑いライブの会場は渋谷の小さいショーパブ。客は50人くらい。チケットにはノルマがあって、出場する芸人1組あたり6枚(1枚1000円くらい)を売らなければならない。売れなかったら自腹。もちろんギャラはなし。今はどうか知らないが、当時のお笑いライブはちゃんと主催者が損しないようにできていた。なので僕は「僕を笑いの天才と信じてくれる中学の同級生3人とその彼女たち」にチケットを買ってもらった。
緊張の本番前、相方のN君が僕の耳元でコソっとささやいた。
「アレ、あのボケ本当にやるの?」
「……なんで?」
「なんでって……おもろないやん」
「……」
もちろん、そんなことはわかっている。1994年はお笑い界の生きる伝説松本人志がエッセイ『遺書』を発売した年だ。擦り切れるほど読み、そこに書かれた笑いへのこだわりに勝手に共感したお笑い自意識が爆発寸前の若者にとって、手の甲を出して「逆! 逆!」や手相を見て「これが運命線、これが生命線、ぐるっと回ってるのが山の手線、真ん中通るが中央線」という鬼のようにしょうもないボケを客前でかますことはありえないことだ。
「そんなこと言ったってやらなきゃダメなんだよ……!」
僕は、生きる伝説よりも目の前の絶対神を優先したのだ。
こうして忘れられない初舞台の幕が開けた。
初めてのステージ、やりたくないネタ、客席には僕を信じる同級生。人間を緊張させる条件は十分すぎるくらい揃った。
「ダメだ! 逃げ出したい!」
数組の芸人がネタをこなしていく中、僕の頭の中はそれで埋め尽くされたが、そんなわけにもいかない。そうこうしているうちに出番がやってきた。
「続いては、なんと今回が初舞台だそうです。オークラ劇場‼」
ライブMCを務めていたノンキーズ(現在解散)が僕らを紹介し、出囃子が鳴り響く。もう覚悟を決めてステージに飛び出すしかなかった。
ネタを披露した3~4分、あの騒がしい渋谷から何も音が聞こえなくなった。
「あんなネタでウケるわけがない」と言いたいところだが、もうそういうレベルの話じゃなかった。緊張しすぎて、僕の声が小さくなりすぎて、ネタそのものが客に聞こえてなかったのだ。
「これに懲りて解散しないでね!」
ネタが終わり、袖に引っ込もうとする僕らにMCのノンキーズ白川さんが言うと客は笑った。僕らはそれを無視してステージ袖へ引っ込んだ。袖に引っ込む間のコンマ何秒の間、
「俺には才能がないのか?」
「このまま終わっていいのか?」
僕の中に残された微かなプライドが、そう訴えた。
「……いや、ダメだ!」
少し間を置き、僕は再び舞台に飛び出し叫んだ。
「ちょっと! 解散しませんよ!」
起死回生を図るも、再び渋谷から音が消えた。
舞台袖から僕を見つめるN君の憐れむような表情を僕は忘れない。
その後、僕らにあのボケを授けてくれた絶対神から「あんな小さい声でやったらウケるネタもウケない!」と説教され、僕を笑いの天才と信じてくれたはずの同級生たちからは「やっぱ本物の芸人と比べると全然ダメだったね」と言われた。
よく若い芸人さんから「ネタ見せの時にいろんなアドバイスを受けるのですが、納得できない場合どうすればいいのですか?」と聞かれることがある。これに関してはハッキリ答えることができる。
「納得できなければやらなければいい」
ネタ見せの意見なんて話半分に聞いておくくらいがちょうどいい。言う通りにしてスベったら腹が立つし、ウケてもあまりうれしくないのだから。
地獄の初舞台から数日、喉元過ぎて熱さを忘れた僕は「アレは俺のせいじゃない」と再び自信を取り戻し、N君に次なるお笑いライブのネタ見せの話を持ちかけた。しかし、N君の口から意外な答えが返ってきた。
「俺はもういいよ。正直、自分の人生をお笑いに賭ける覚悟はない。やるなら1人でやってよ」
N君は冷静に未来を見据える自意識を持っていたのだ。
* * *
本書では、今回ご紹介したエピソードの他にも、東京03、おぎやはぎ、ラーメンズなどの新たな才能たちとの出会いや、放送作家としてさまざまな作品を世に出すようになるまでのエピソードなど、オークラにしか語れないストーリーが満載! 全てのお笑い好きに贈る、オークラ初のお笑い自伝『自意識とコメディの日々』は現在大好評発売中!
筆者について
1973年生まれ。群馬県出身。脚本家、放送作家。バナナマン、東京の単独公演に初期から現在まで関わり続ける。主な担当番組は『ゴッドタン』『バナナサンド』『バナナマンのバナナムーン』など多数。近年は日曜劇場『ドラゴン桜2』の脚本のほか、乃木坂のカップスターCMの脚本監督など仕事が多岐に広がっている。