「第3のバナナマン」「第4の東京03」などの異名をとる放送作家オークラ。2021年12月3日に初となる単著『自意識とコメディの日々』を刊行し、お笑いを志した一人の若者の自伝として、90年代後半からの東京お笑いシーンが語られた重要な一冊として、発売前から重版が決定するなど話題となっている。今回は本書から抜粋した内容を掲載。著者がお笑いを志した当時の空気、まだ無名だったバカリズム、バナナマン、ザキヤマのお話など全5回。
自分たちのスタイル
先述したが、当時の東京のライブシーンは「真顔で理由のないおかしなことを言うボケ」と、「それに少し強めな語調で返すツッコミ」というスタイルの漫才やコントがほぼすべて。ダウンタウンが作り上げたスタイルをバカルディ(現さまぁ~ず)が東京スタイルに作り替え、各コンビがマイナーチェンジして個性を生み出してはいたが、基本の骨格は変わらない。
これは時代のカリスマが生み出した方法なので、真似をする若手が増えるのは当然なのだが、このスタイルのネタは文脈やお話の流れに関係なくボケが言えるので、1つのネタの中で大量のボケを消化できる。その上、ボケが芝居をしなくていいぶん、演技力がない人でもやりやすく、ツッコミがある程度上手なら、高校を卒業したての新人でもライブで笑いがとりやすい。このスタイルの若手芸人が爆発的に誕生した要因の1つだと思う。
余談だが、この「真顔で理由のないボケ」はネタやコンビ同士の時はアリなのだが、集団、たとえばバラエティ番組では成立しにくい。バラエティ番組はただの笑わせではない。出演者たちは、番組のテーマに沿って意見や主張をする。そこに考えや人となりがあるから面白いのであって、ただ理由もなくボケられても周囲は困惑してしまう。特に顔もよくわからない若手芸人がそれをやり続けていると、次第に使われなくなり、それが通用するライブシーンから抜け出せなくなり、結局多くの芸人が消えていく。
当時の東京お笑いライブは右も左もそんな芸人ばかりだったので細雪をはじめた時に、僕らはこのスタイルはやらないと決めた。
「音楽ライブの出演するアーティストが全員パンクバンドで、全員が世の中の不平不満を叫んでいるのなら、『僕は満足しています』と歌った方が目立つ」
当然のことだ。
しかし、フォローじゃないけどみんなが同じ方向になったのには理由もある。なんせあの頃は圧倒的な教材不足だったのだ。ネットはもちろんお笑いのネタをパッケージ化したソフトもほとんどなかった。今のように有象無象の若手芸人が出るネタ番組もほぼなかったし、本当にたま~~にやってるネタ番組を見るか、お笑いライブに行って直接ネタを見るかしかお手本がなかった。となればネタのスタイルが全体的に似てくるのも仕方ない話だと思う。
とはいえ、教材が不足していたのは芸人のネタであって、当時、偉大なるコントの教材はタダでお茶の間から流れていた。
言わずもがな『ダウンタウンのごっつええ感じ』である。
“ごっつ”は1991年からはじまった伝説の番組だが、1995年頃は、それこそ神がかっていた。「世紀末戦隊ゴレンジャイ」、「Mr.BATER」、「キャシィ塚本」などの名作コントが次々と誕生し、そういったシリーズコントだけでなく、単発でも名作を生み続けた。「1週でも見逃したらヤバイ!」と僕は必ずビデオに録画していた。
この頃の“ごっつ”のコントは初期のキャラクターコントとは明らかに変化していた。たとえば「人間国宝のもとへ取材へ行くが、その人間国宝が何を作っている人かわからず、かといってそれにツッコミもせず取材を続ける」とか、「殺人事件の現場に転がる死体が全員しゃくれているが、刑事たちはそれに誰もツッコまず、当然のように現場検証を続けていく」など、コントの世界の中に1つのルール(状況)を作り、そこに住む住人は、その狂った状況を当たり前として話が進んでいく。
このようなコントは、1980年代から主流だった人気ドラマや映画をパロディにしつつ、スタッフもイジりまくるメタなテレビコントに見慣れていた僕には、非常にスタイリッシュに感じたのだった。
番組内で何かしらの変化があったから“ごっつ”のコントの質が変化したのだと思うが、そのへんのことは先輩である当時のスタッフの方々に聞いてみてもみんなボンヤリとしたことしか答えてくれない。
ちなみに今書いたようなコントは1960年代のイギリスの番組『モンティ・パイソン』などで使われていた手法なのだが、当時の僕はそれを知らなかったし“ごっつ”の場合、そこに日本人ならではの価値観や人間性、あるあるも取り入れることにより、新しいコントを生み出したのではないかと思っている。
こうした“ごっつ”のコントに対して、当時の僕は勝手に「システムコント」と名付けた。
細雪はシステムコントを作り、さまざまなライブに出演するようになった。ダウンタンの漫才やバカルディのコントをマイナーチェンジしたようなネタをする若手芸人たちとは一線を画した。こういうと「俺は昔すごかったんだぞ」自慢をしているおじさんみたいで嫌だし、「何かそれを証明するものはあるのか?」と言われても資料的裏付けや物的証拠もない。申し訳ないが、そうだったということにして話を進める。
繰り返すが、システムコントとは「まず演じるコントの世界に1つのシステム(ルールや状況)を作り、そのシステムを前提としてお話を進めていく。そして、そのルールをお客さんに理解させたところで、展開のさせ方や崩し方でさらに笑いを作る」というものである。そのルール自体が笑える仕組みの場合もある。
今ではシステム漫才なんて言葉がある。オードリーのズレ漫才やハライチのノリボケ漫才やミルクボーイの漫才などがそれに当たるのだが、システム漫才の場合は「1つの仕組み(やりとり)を繰り返していく」ものだが、システムコントの場合はそれを含みつつ幅が広い。仕組みだけではなく、世界観も1つのシステムとして包括する。
このシステムコントを追い求めるのは修羅の道である。
まずシンプルにシステムを1つ生み出すのに苦労する。システム漫才の場合、鉄板のシステムを生み出せば、あとは題材を変えることで複数のネタを生み出すことができるから、システムが漫才師の代名詞になる。しかし、コントの場合、鉄板のシステムを生み出しても、それはコントの設定の1つでしかない。そのシステムでシリーズコントはできたとしても、そう何度も使えない。なんならいいシステムを作れば作るほど、客からは「次はどんなシステムコントを見せてくれるんだ?」と期待され、ハードルも上がる。毎回、よりセンスのあるシステム開発が必要な大喜利ループに入り込む。そもそも芸人のネタを「世の中に知ってもらうため(売れるため)の手段」と考えるならば、1つの武器を磨き上げたほうが絶対にトクなのだ。システムコントは「作家性がある」という評価をされるが、こと芸人として売れるにはコスパが悪すぎるのだ。ではなぜ、こんな茨の道を選ぶのか? それはもう、コントが好きだから、としか言いようがない。「本当に俺はコントバカだな」
そう思っていた。だけど、世の中にはもっとバカがいた。
システム巧者、バカリズム
1995年の3月に結成した細雪は結成してすぐにいくつかのライブで優勝し、見に来ていたフジテレビの若手ディレクターに「君たち面白いから一緒に飲み行こう」と誘われた。小さい世界での出来事だが、これまで顔見知りの客5人のぬるま湯につかっていた人間からすれば大事件である。
とにかくネタ作りが楽しかった。毎度システムを生み出すのは苦労するが、お笑い自意識は満たされまくっていた。自分が毎回新しいシステムを生み出しているのに対して、周囲の芸人はその方法論に気づいてすらいない。
浮かれまくっていた5月のある日。細雪は新宿Fu-という定員100人くらいのライブハウスで『マセキ芸能社ライブ』というお笑いライブにゲスト出演することになった。これはウッチャンナンチャンが所属するマセキ芸能社が主催するライブで、所属する若手芸人とゲストがネタをやるのだが、その途中でウッチャンナンチャンが卒業した日本映画学校のお笑い志望の生徒たちがネタをするコーナーもあった。
「学生のネタかよ」
ゲスト芸人でもあり、お笑い自意識満たされまくりの自分は完全にバカにしながらそのコーナーを見ていた(僕も大学生だったのだが)。
そこに背のあまり高くない、かわいらしい風貌をしたコンビが登場した。コンビの名前はバカリズム(当時はコンビ名)。
完全になめ切っていた。が、ネタをはじめて数秒後。
「!」
驚いた。自分以外にもいる! 気づいている人がいる! いや、気づいてるどころじゃない! 細雪のシステムコントより美しい!
その時やっていたネタが「恥ずかしい行為を競い合う世界大会で優勝した男のインタビュー」というもので、優勝した選手とインタビュアーが大会を振り返っているだけなのだが、具体的な競技内容も見せず、断片的な情報で大会内容を想像して楽しむというコントだった。
自分が作るシステムコントよりスマートで、かつ枠からはみ出さないシンプルな構成、そして余計な笑いもないがポイントポイントで確実に笑わせる、すごく美しいコントだった。ネタを作った升野君は僕より2歳年下で当時19歳。映画学校の同級生とバカリズムというコンビを組んで、まだ2回目か3回目くらいのライブ出演だった。年下に完敗したと感じた瞬間だった。
「なぜ? これにいつ気づいた?」
「どこまで気づいてる?」
「ネタは何本あるんだ?」
僕はそれが聞きたくて仕方なかった。しかし、自意識の高い人間は人見知りが多い。もちろん僕もそうだ。「向こうから話しかけてこないかな?」と思い、しばらく待っていたが、そんな気配はまったくない。そりゃそうだ。あんなコントを作る人間は絶対、笑いの自意識が高い。ということは人見知りの可能性も高い。じゃあどうすれば知り合いになれる? 自分から話しかけるしかないのである。
僕は、高校に入学してから、夏休みくらいまでほぼ誰ともしゃべれなかった。理由は高校浪人をして、クラスメイトは全員1つ年下だったからだ。入学初日、僕はそのことを隠すかどうか悩んだが、後々バレたら厄介だと思いクラスメイトの前で自己紹介する時、「僕は高校を入るのに浪人したのでみんなより1年先輩です。よろしくお願いします」と言った。その瞬間、教室が凍りついた。それ以降、クラスメイトは僕に接しづらそうにしていた。僕も変なプライドが邪魔して誰ともしゃべれずにいた。このままではまずい、と思った僕は自分から積極的に話しかけた。「1つ上とか気にしなくっていいよ! 呼び捨てでいいよ! 良(僕の名前)って呼んで!」
こうしてクラスのみんなと打ち解けて、僕は友達の輪に入れた。のちにクラスメイト男3人、女2人でカラオケに行って、僕を抜いた4人がカップルになり、翌日「なんで俺をカラオケに誘ったんだよ!」と聞いたら「お前がいると盛り上がるから」と言われるくらい仲良くなれたのだ。
そんな過去の経験から、興味を持った人にはなるべく自分から話しかけなきゃダメだと学んだ僕は、バカリズムに話しかけた。この時、自分がどう話しかけたか覚えてないが、のちにバカリズムから、ものすごい目をギラギラさせた男が「あのネタってこういうことなんでしょう? 俺わかってるからね」、「同世代にロクな芸人はいない。みんな亜流のネタばっかりだ!」、「俺達は同志だ!」みたいな感じでアピールしてきた……と、回顧された。なのでバカリズムに「実は俺は人見知りだ」と言ってもいまだに信じてもらえない。
それ以降、バカリズムとはライブで会うたびにネタの話をするようになった。最初は「この男に舐められるわけにはいかない」との思いから自分の知っているネタの研究成果を語りまくった。「あのネタは〇〇ネタのパターンで」とか「シティボーイズライブは~~で」とか。
当時の僕は、バカリズムを自分と同じく「芸人の笑いはもちろん演劇や映画や本など他ジャンルの笑いを紐解き、自分なりに体系化している男」だと思っていた。僕と同じくシステムコントの方法論に気づいている唯一の男であり、ライバルだと感じていた。
だから、サブカル男が情報量で相手にマウントをとる感じで、理論と知識で負けたくなかったのかもしれない。しかし、仲良くなっていくと次第に、自分とは違うタイプだということがわかってきた。バカリズムは知識や情報量ではなく感覚的にネタを体系化していた。つまりピュアな天才であって、こっちがマウントをとるために言ったさまざまな知識に対して「こいつ俺より知ってる!」ではなく純粋に知識として受け取ってくれていたのだ。
結果的にバカリズムは2つ下の後輩として、先輩の僕をリスペクトしてくれるようになった。まあ知ってる人は知ってるかもしれないが、バカリズムは福岡の少し不良の多い地区の出身で、かなりの縦社会で幼少期を過ごしてきたから、リスペクトというより、先輩に対して礼儀がしっかりしているだけなのかもしれないが……。
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本書では、今回ご紹介したエピソードの他にも、東京03、おぎやはぎ、ラーメンズなどの新たな才能たちとの出会いや、放送作家としてさまざまな作品を世に出すようになるまでのエピソードなど、オークラにしか語れないストーリーが満載! 全てのお笑い好きに贈る、オークラ初のお笑い自伝『自意識とコメディの日々』は現在大好評発売中!
筆者について
1973年生まれ。群馬県出身。脚本家、放送作家。バナナマン、東京の単独公演に初期から現在まで関わり続ける。主な担当番組は『ゴッドタン』『バナナサンド』『バナナマンのバナナムーン』など多数。近年は日曜劇場『ドラゴン桜2』の脚本のほか、乃木坂のカップスターCMの脚本監督など仕事が多岐に広がっている。