「献身的」で、なくていい! 突然、働き盛りの夫を襲った脳卒中と半身の後遺症。何の知識もなかった私は、ゼロから手探りで夫の復帰までを「闘う」ことになる――。当事者だけがツラいんじゃない。家族にも個別のツラさがある。ここでは、ライター・三澤慶子が綴る、葛藤と失敗と発見の記録である『夫が脳で倒れたら』から一部ご紹介。正しいカタチなんてない、誰もがいつか経験するかもしれない、介護のリアルをお伝えしていく。 本書から、第一章を全11回にわたって公開。第1回目。
発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ①
入院前夜、トドロッキーは苛立っていた。いつもとは明らかに違った苛立ちを瞬発的に見せたことが印象に残っている。
トドロッキーはその頃大量の原稿を抱えていた。締切が重なってくると全身に電気を帯びたみたいに気配がビリビリしはじめるため近寄りがたいのだが、カッと点火したみたいな苛立ちぶりに、原稿のピンチ度がかつてない事態なんだろうと考えた。それほどにいつもとは違う苛立ち方だった。自宅の一室が仕事部屋になっており、トドロッキーの仕事状況は部屋を出てくる様子で分かる。
私はといえば仕事モードのトドロッキーには立ち入らないと決めているから、とくに反応はしなかった。そもそもトドロッキーの苛立ちは長引かない。そのときも、ほらすぐに収まった、と思ったらごろりと横になってひと眠りの後、のそりとまた仕事部屋に入っていった。
翌朝。息子たちが学校へとはけた直後に起きてきたトドロッキーは、私に不調を訴えた。
「体がおかしい」
眉間にシワを寄せている。
「力が入らない。手が痺れている感じがする」
手が痺れた感じがするというのは実は数ヶ月前にも言っていたことだった。検査を勧めたが「治ったから」と頑なに行かなかった。またそのパターンだろうか。
歯痛もよっぽどじゃないと歯医者には行かない。ある時期、ものを丸呑みしていることに気づいてちゃんと噛むよう進言したら、歯が痛いと打ち明けた。
「そんなに歯医者に行きたくないの?」
「行く時間がない」
原稿の締切に追われていることを理由にした。
「近所の歯医者なら行って帰ってくるのに30分もかからないじゃん。忙しくても行けるから!」
「その30分が惜しい」
お手上げだ。
その後歯医者にいよいよ行ったのは、歯がぼろりと根元で折れたときだった。トドロッキーを病院に向かわせるにはそれほどの事態じゃないとだめなのだ。
そんなだから次第に、病院に行った方がいいってことはしつこく言わないようになった。トドロッキーが体調不良を訴えてきたときは、一応病院に行くことを勧めはするが、本人が行かないとなれば説得は無駄、行く気になるのを待つしかない。
ただ、今回は気になる。
「熱は?」
「測ったけどない」
昨夜のトドロッキーの苛立ちぶりを思い返すに、やっぱり診てもらった方がいい。
「もうやってるかな病院。行くでしょ?」
言いながら私はネットで病院検索を始めた。
「今日は2本インタビュー取材が入ってんだ。昼に2つ。行ってる時間なんかない」
じゃあ何で私に不調を訴えた? トドロッキーを見れば仁王立ちでしかめっ面をしたまま固まっている。丸出しで助けを求めているじゃないの。検索を続けた。
「病院寄ってから行けば?」
「資料まだ見てないし」
インタビューするための下調べが終わってない、だから病院に寄ってる時間はないってことだが、いつもの、結局なんだかんだで行かない言い訳モードが発動している。
「じゃあ行かないってことでいいんだね!」
面倒だな、このやりとり。
「どうしたらいい。おかしいんだよ」
混乱しているようだ。絶対診てもらった方がいいと確信した。
「おかしいなら病院行かないと」
「どうすんだよ取材」
「病院寄ってからでも間に合うんでしょ、資料持っていって病院で読めばいいじゃん」
「おかしい、おかしいんだって!」
トドロッキーの体がフラフラし始めた。物事を整理して考えられなくなっている。
「病院行くから」
「取材どうすんだよ」
「病院行っても、その後取材行けるから」
「病院てどこ」
「脳外科かな。痺れた感じがあるんでしょ?」
「いや、分かんない。痺れじゃないかも」
トドロッキーは脳外科ってトコに抵抗を示した。そんな大変なもんじゃないんだとアピールしているが、私が検索していたのは脳神経外科のある病院だった。
脳神経外科を選択したのは、痺れの症状の最悪の病気が脳関係のものだという程度の知識はあったからだ。ただ、脳の病気に本当にかかってるとは思っていなかった。脳の病気じゃないことを診察してもらえば、とりあえず緊急性もないだろうから、トドロッキーの動揺も落ち着いて昼の2本のインタビュー取材に挑めるんじゃないかと考えたのだった。
振り返ればこの思考、おめでたい限り。
実はトドロッキーの症状は脳梗塞の初期症状にピタッと当てはまるもので、即救急車を呼ぶ場面だった。だけど私は脳梗塞だとか脳卒中っていうのはバタンといきなり倒れちゃうものだと思っていて、トドロッキーが歩けていることからそれとは露ほども思っていなかった。
まず、検索した病院に電話をした。トドロッキーの症状が脳神経外科で診てもらうべきものなのかどうかと、これから行ってすぐに診てもらえるかを確認した。回答はそのままトドロッキーに伝えた。
「やっぱ脳神経外科がいいって。すぐ診てもらった方がいいって言われたよ。でもここ、すぐ診るのはやってないんだって。診てくれる病院教えてくれたからそこ行ってみよう」
振り返れば、電話で問い合わせた時も救急車を呼んで今すぐ病院へ、とは言われなかった。私のトドロッキーの症状の伝え方が甘かったのかもしれない。
すぐに支度をし、私はトドロッキーを連れて家を出た。そうでもしないと病院に行きそうになかったからだが、ふらつきがあったことと判断力がひどく低下しているようにも思えて、そこはかとない不安は感じていた。
一緒に玄関を出てみれば、トドロッキーの不調がかなりのものだということが分かった。無言で、ただ私の後を付いてくるだけ。表情がぼんやりしている。ヤバい。急いだ方が良さそうだ。
ちょっと先のバス通りまで走っていきタクシーをつかまえ、家の前に待たせていたトドロッキーをピックアップ。トドロッキーは生垣の石に腰を下ろして頭を垂れていた。不調が進んでいるようだった。
教えてもらった坂の上脳神経外科病院まではタクシーで5分ほどの距離。なのにその時間が長く感じた。トドロッキーの体に何かが起きている。
* * *
この続きは『夫が脳で倒れたら』本書にてお読みいただけます。
*本文中に出てくる病院、医療関係者、患者などの固有名詞は仮名です。
筆者について
みさわ・けいこ。北海道生まれ。ライター。
(株)SSコミュニケーションズ(現(株)KADDKAWA)にてエンタテインメン卜誌や金融情報誌などの雑誌編集に携わった後、映像製作会社を経てフリーランスに。手がけた脚本に映画『ココニイルコト」『夜のピクニック』『天国はまだ遠く』など。半身に麻痺を負った夫・轟夕起夫の仕事復帰の際、片手で出し入れできるビジネスリュックが見つけられなかったことから、片手仕様リュック「TOKYO BACKTOTE」を考案。
轟夕起夫
とどろき・ゆきお。東京都生まれ。映画評論家・インタビュアー。『夫が脳で倒れたら』著者・三澤慶子の夫。2014年2月に脳梗塞を発症し、利き手側の右半身が完全麻痺。左手のみのキーボード操作で仕事復帰し、現在もリハビリを継続しつつ主に雑誌やWEB媒体にて執筆を続けている。近著(編著・執筆協力)に「好き勝手夏木陽介スタアの時代」(講談社)J伝説の映画美術監督たちX種田陽平」(スペースシャワーブックス)、「寅さん語録」(ぴあ)、「冒険監督塚本晋也」(ぱる出版)など。