虐待、売春、強姦、ネグレクト…沖縄の夜の街で働く少女たちの足跡は、彼女たちを取り巻くざまざまな問題を示している。『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』は、沖縄出身の教育学研修者・上間陽子が、2012年夏から2016年夏まで、沖縄独自の問題や、身近な誰かにも起こりうる問題、それらから受けた傷や苦悩を背負いながらも懸命に立ち上がり、自分の居場所を作り上げるため歩み続ける少女たちに、自ら寄り添った4年間の記録である。ここでは各エピソードの冒頭を一部ご紹介する。
記念写真
キャバ嬢の仕事が、日本の女子中高生のなりたい職業にランクインするようになって久しい。若い女性が層として貧困に陥るなか、華やかなドレスを身にまとい、男性客とのトークでお金を得るキャバ嬢が、若い女性たちの憧れの職業となるのもよくわかる。しかし沖縄のキャバクラ店では、とにかく子どもと生活するためにこの仕事をはじめたという若いシングルマザーたちが働いている。
この調査でお会いしたシングルマザー全員が、自分のパートナーであり、子どもの父親でもある男性との関係を解消したあと、慰謝料も養育費も一銭ももらえず、単身で子どもを育てることを強いられていた。子どもを引き取った彼女たちは、スーパーやコンビニのレジの800円程度の時給よりも高い2000円前後の時給のキャバクラで働くことで、子どもの面倒を見ることと生活費を得ることを両立させようとしていた。つまり、沖縄のキャバ嬢たちは、子どもをひとりで抱えて、時間をやりくりして生活する年若い「母」でもあった。
そうしたなかで、美羽は少し珍しい存在だった。長身で、どんな露出の多いドレスでも着こなせる美羽は、他店からも引き抜きが途切れないという売れっ子で、インタビューのときには、21歳になったばかりだった。
美羽は、それまで一度も結婚したことがなく、子どもをもったこともなかった。
美羽は、大阪の専門学校に進学したが学校にうまく馴染むことができず、沖縄に戻ってきていた。
沖縄に戻ってきてからも、比較的裕福な親元で暮らしている美羽は、生活費を得るためにキャバクラで働いているというわけではなかった。
美羽は、中学時代の仲のよい友だちが同じ店で働いているのでこの仕事が楽しいと話し、いまはやりたいことがあってお金を貯めているけれど、まとまったお金ができたらその友だちと一緒にこの仕事をやめるつもりだと話していた。
美羽が話していた、仲のよい友だちというのが翼だった。翼は、美羽と同じ21歳で、5歳になる息子の悠とふたりで暮らす、シングルマザーだった。
美羽と翼では育った家の環境も学校体験も異なっているが、美羽は、翼と一番仲がよいと話した。そして、「自分にはまだ子どもがいないけど、翼の子どもが自分の子どもみたいなかんじ」で、悠の保育園のお迎えに行くと、ほかの園児が集まってきて「悠のおばちゃん、悠のおばちゃん」と年若い自分を呼ぶのだといって、美羽は苦笑いした。そして翼のことを、「とってもいい子」で、「お店のことも、ママもすごくがんばっている」といい、「大阪から帰ってきて、友だちから浮いているような気持ちになっているとき、翼がずっとそばにいてくれて、すごく助けてくれた」と話した。
美羽と話していると翼にも会いたくなって、美羽に頼んだら、翼にもインタビューができることになった。
数週間後、打越さんと開店前のキャバクラのシート席に座って翼を待っていると、白いドレスを着た華奢で小柄な翼があらわれた。翼にはあたり一面がぱっと明るくなるような華やかさがあって、そばにいた打越さんは口が利けなくなってしまった。仕方なく、「今日は会ってくれてありがとう。美羽さんが、翼にすごく助けられたって話していたよ」と私が話を切り出した。そしたら、翼はみるみるうちに涙目になって、「助けてもらったのは、翼のほうなのに」といって泣き出してしまった。
私は、ひとが泣くとできるだけ気配を消して、泣きやむのを静かに待つ。でも打越さんは慌てふためいて、自分の首にまいていた手ぬぐいを翼に渡そうとした。それはたぶん使わないはずだと思って私がハンカチを渡そうとすると、手ぬぐいとハンカチを選ぶコントみたいになって、翼はくすくす笑い出した。
それから翼は、やっぱりハンカチを選んで涙袋のところだけそっと拭うと、すとんと泣きやんだ。涙の拭い方も、泣きやみ方もしなやかで、ああ、この子は、すごく長く仕事をしている子だなとそのときに感じる。
「ママなんだって? 店でその話、大丈夫?」と聞くと、「自分、赤裸々派なんで。子どもいることを隠していないんです。子どもと自分とふたりセットで自分みたいなところがあって。だからお店でも、子どものこと、全然隠していないんですよ」と、これまで自分の育った家のことや、子どもとの生活について語り出した。
*
翼は、子どものころ、大人のひとがいない家庭で育っている。翼の両親は翼が5歳になったころに離婚していて、翼の母親が3人の子どもを引き取った。翼の母親は、スナックのオーナーをしていて、その店のママもやっていた。店が終わってからも、お酒が抜けるまでは店で眠る生活だったので、翼の母親は家に帰ってくることがほとんどなかった。だから翼の子どものころの記憶は、いつも子どもだけで家にいたこと、家にはご飯がなかったことだという。
――お母さんはどうしてたの?
そのとき、「夜」やってた。帰ってこないのが当たり前だった。
――そうか。……仕事終わって、帰ってくるとかじゃなかった?
お母さんが店やってたから、その仕事場で寝て。
――お酒も飲んでるしね。
うん。オーナー。経営していて、お母さんは、寝て帰ってくる。昼帰ってきたり、お母さんと顔を合わせないこと、1週間とか2週間、顔合わせないとかあった。
――飯とかは、お金をもらって自分らでなんとかみたいな?
ううん、お金ももらってないんですよ。自分このときに仲のいい友だちがいて、その友だちの、その友だちの家で、自分も一緒に食べてた。夜ご飯を一緒につくって、一番、仲良かったのが、ミノリっていう子で、いまは結婚して子どもいるんですけど、この子のおうちで、毎日、ご飯つくって、ご飯食べて、お椀洗って、で、おうち帰って。
――姉ちゃんと兄貴はどうしてたん?
(そのときは)ねえねえは結婚して、(家のことが)できない。にいにいはにいにいで、いまと一緒でお父さん側に(行っていた)。
――小学生のときはどんなしてたの?
(そのときは)ねえねえは結婚して、(家のことが)できない。にいにいはにいにいで、いまと一緒でお父さん側に(行っていた)。
――小学生のときはどんなしてたの?
小学校のときも、お兄ちゃんとお姉ちゃんとで軽くご飯つくったりとか。……(離婚した)お父さんが「ご飯食べに行こう」って。………記憶がないんですよ。だからみんなにいわれるのが、「お母さんの味ってなに?」っていわれても、「ごめん、わからない」、出てこない。お母さんの味ってわからない。みんなが話してるときも、わからない、ってなるくらい、おうちにご飯がなかった。なんか、「自分でなんかつくりなさいよ」だったの、お母さん。
友だちの家でご飯をごちそうになったら、お椀を洗ってから帰るように翼に教えたのは、翼の姉だ。翼よりも3歳年上の姉は、自分も母親からネグレクトを受けながら、ネグレクトを受けているほかのきょうだいの面倒を見てくれていた。だから翼にとっては、「お姉ちゃんがお母さんのような存在」だった。
子どものころの翼の夢は、お父さんとお母さんがいて、子どもを育てる家庭をつくることだった。早く結婚して子どもをつくり、寂しい思いをさせないように子どもを育てたい。自分もまだ子どものときに、自分の子どもには寂しい思いをさせないと翼は決心した。
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この続きは『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』本書にてお読みいただけます。上間陽子『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』特設サイト
筆者について
うえま・ようこ。1972年、沖縄県生まれ。琉球大学教育学研究科教授。 1990年代から2014年にかけて東京で、以降は沖縄で未成年の少女たちの支援・調査に携わる。『海をあげる』(筑摩書房)で「Yahoo!ニュース|本屋大賞2021ノンフィクション本大賞」他受賞。ほかに「貧困問題と女性」『女性の生きづらさ その痛みを語る』(信田さよ子編、日本評論社)、「排除II――ひとりで生きる」『地元を生きる 沖縄的共同性の社会学』(岸政彦、打越正行、上原健太郎、上間陽子、ナカニシヤ出版)、『言葉を失ったあとで』(信田さよ子と共著、筑摩書房)など。2021年10月から若年ママの出産を支えるシェルター「おにわ」を開設、共同代表、現場統括を務める。おにわのブログは、https://oniwaok.blogspot.com。『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)が初めての単著となる。