「第3のバナナマン」「第4の東京03」などの異名をとる放送作家オークラ。2021年12月3日に初となる単著『自意識とコメディの日々』を刊行し、お笑いを志した一人の若者の自伝として、90年代後半からの東京お笑いシーンが語られた重要な一冊として、発売前から重版が決定するなど話題となっている。今回は本書から抜粋した内容を掲載。著者がお笑いを志した当時の空気、まだ無名だったバカリズム、バナナマン、ザキヤマのお話など全5回。
お笑いスナイパー山崎君
僕はザキヤマが好きだ。
勝手に弟みたいな存在だと思っている(向こうは何も思ってないと思うが……)。僕が芸人として初めて舞台に立ったのが1994年の5月でザキヤマが人力舎のお笑い養成所に入ったのは4月。歳は2個下なのだがほぼ同期。1995年の夏ごろから、出るライブ出るライブで偶然一緒になり、なんとなく話すようになっていった。
「自分こそが一番面白いセンスありまくり人間」だと信じて疑わなかった僕は、ライブのエンディングなどのトークでは普段はあまりしゃべらず、ポイントでズバっと面白いことを言う……そんなお笑いスナイパースタイルに憧れていた。(松本さんに憧れるとこうなってしまうのだが)ザキヤマも同じだった。今のすべてをなぎ倒す「お笑い重戦車」ザキヤマとはまるで違う……それが当時のアンタッチャブル山崎君だった(当時、僕はザキヤマを山崎君と呼んでいた)。ライブ後にメシを食いに行っては、ほかの芸人のネタに対して「アイツは面白い」、「アイツはつまらない」などのお笑い談義に花を咲かせる。クールじゃないのにクールぶった偽スナイパー同士話が合ったのかもしれない。
話は逸れるが、山崎君はライブ終わりに何度かウチに泊まりに来たことがあったのだが、その時に必ずといっていいほど、トマトパスタをご馳走した。当時は本当にお金がなくほぼ主食がパスタだったので、トマトパスタに異常な自信を持っており、来る人来る人に必ず振る舞っていた。ライブ終わりにアルファルファの豊本(現東京03)がウチに泊まりに来た時は、翌日、僕は朝から用があり、寝ていた豊本を起こさず出かけたのだが、お昼にどうしても豊本にトマトパスタを食べさせたく、用を早めに切り上げて、材料を買って急いで家に戻ると、豊本が1人ズボンを脱いでウチにあったエロビデオを見ようとしていた。気まずくなってトマトパスタどころではなくなってしまった。トマトパスタにまつわる思い出である。
のちに設楽さんにも何度となく作ることになるのだが、さらに何十年経ち、設楽さんが娘さんにこのトマトパスタを作ってあげたという話を源君(星野源さん)が知り、インスピレーションを受け「そしたら」という曲を完成させて、設楽さんへ誕生日プレゼントとして贈った。という後日談がある。
話を山崎君に戻す。1996年のTBSラジオが主催する『赤坂お笑い道場』というライブでアンタッチャブルと共演した僕は、いつも通り楽屋で山崎君と楽しくお笑い談義をしていた。すると、
「おーい。やんま、お前、なにしてるの?」
楽屋の入り口の方から声が聞こえた。当時、ザキヤマは先輩方から“やんま”と呼ばれていた。見ると、そこにはX-GUNの嵯峨根さんが立っていた。この当時のX-GUNと言えばボキャブラブームに突入する直前、テレビにもちょいちょい出演する東京若手芸人界の中心人物の1人であった。テレビなんてほとんど出たことのない僕からしたら、嵯峨根さんは芸能人であり、すごく遠い存在だった。
「山崎君はあのX-GUNの嵯峨根さんと仲が良いの?」と少しうらやましく感じた。が、その直後、そのうらやましさをすぐに上回る人物が嵯峨根さんの後ろから現れた……海砂利水魚の有田さんである。
当時から海砂利水魚は東京ライブシーンで絶大なカリスマ性があり、自意識過剰な芸人たちからも一目置かれていた。海砂利水魚とは何度かライブで共演したことがあったが(向こうは若手である僕なんて認識もしてなかったと思うが)、会うたびに身にまとうオーラが強大になり、正直、恐怖にも近い圧倒的な存在で近寄ることもできなかった。
なぜ、山崎君はこの2人と知り合いなんだ? うらやましかった。
人力舎は当時、お笑い養成所JCAを設立したばかり(アンタッチャブルは3期生)で、その生徒たちの育成が目的で新宿の小さな劇場で『バカ爆走』というライブを行っていた。しかし、どこの馬の骨かわからない養成所出身の若手お笑い芸人のライブなど、相当な青田買いのお笑いマニアでない限り、誰も見たいとは思わないので、当時のライブシーンで有名な芸人をゲストとして呼び、集客をしていた。そこによく出演していたのが海砂利水魚だった。
なので、人力舎所属の若手の中で一番上の先輩はアンジャッシュなのだが、その上に海砂利水魚がいて人力舎芸人の長男的存在になっていた。山崎君はそんな長兄の有田さんに特に可愛がられていて、有田さんと仲が良い嵯峨根さんともつるむようになっていたのだ。
なんにせよ、当時スーパー弱小事務所で先輩とあまり絡むことなく活動していた僕にとって、有田さんと嵯峨根さんという人気者と仲が良い山崎君をうらやましいなーと思った。しかし山崎君を見ると、その顔は曇っていた。
なんだこの違和感?
その違和感に対する答えは、嵯峨根さんの言葉でハッキリした。
「お前、自分の友達の前だと随分元気だな?」
部活の1年生が、先輩がいないと思って教室でハシャいでいるところを3年生に見られた時の「しまった! 見られた!」の顔だった。その直後、嵯峨根さんと有田さんは2人でコソコソと話し合ってこちらへ近づいてきた。そして、山崎君、いや、やんまでなく僕の方に向かってこう言った。
「君、やんまの友達? よかったらみんなでメシ食わない?」
僕は舞い上がった。
カリスマとご飯が食べられる! これはもしかて仲良くなれるかも。
「行きます!」
先ほどの山崎君の曇った表情のことなど、すっかり忘れていた。
当時、千歳烏山には有田さん、嵯峨根さん、山崎君、そのほかアンジャッシュの渡部さんも住んでいて「千歳烏山会」と呼ばれる軍団を形成していた(自分たちがそう言っていたのではなく、周囲からそう呼ばれていた)。なので千歳烏山のジョナサンでそのメシ会が行われることになった。
人気芸人と仲良し芸人との楽しいメシ会のはじまり。そう想像していた僕の期待は、会がはじまるやいなや、もろくも打ち砕かれた。今でもハッキリ覚えている。最初に注文した紅茶がテーブルに置かれた瞬間、嵯峨根さんがその紅茶を指さし「やんま、コレ!」と言ったのだ。
「やんま、コレ?」
ん、どういうこと? カリスマたちに囲まれ、一瞬、状況が理解できなかったが、すぐに冷静になって、状況を理解した。
「これで面白いことやれ!」の合図だ!
一瞬にして体が硬直した。
山崎君はそれに対して、何かしようとするが、うまくやることができず苦笑い。しかし、そんなことでは許してはもらえない。それに対してさらに厳しいフリが飛んでくる。先ほどまで仲良くお笑い談義を交わしていた友達の前でイジられまくる。これは自意識の高いクールなスナイパー芸人にとって地獄でしかない。しかし、人の心配をしている場合ではなかった。
これってこの後、俺もやらなきゃいけないの?
こうして、千歳烏山、恐怖のムチャブリ地獄が幕を開けた。
地獄は予想通り僕にもやってきた。山崎君に負けず劣らずクールなスナイパー芸人志望である僕はまったく打ち返すことができず終始苦笑い……。体育会系のスタッフやイケイケのバンドマンに「芸人なんでしょう? なんか面白いことやって」と言われて何もできないのも情けないが、これはワケが違う。相手はノリにノっている先輩芸人だ。ここで「つまらない」と思われたらすべてが終わってしまう。なんとかしないと……と思えば思うほど、何もできない。結果、このループから逃れることができぬまま、最終的に僕も山崎君も涙ぐんでいた。こうして千歳烏山、恐怖のムチャブリ地獄は終わった。
思い返せば、このフリ地獄は後輩芸人を鍛えるための先輩からのお笑い教育だとわかるのだが、当時はそんなことを思う余裕もなく、家に帰った後「芸人として活躍するためには、これを乗り越えなければならないのか? だとしたら、俺には無理かもしれない」と落ち込みまくった。それ以降、しばらく山崎君と会うことはなかった。
山崎君がザキヤマになった日
1997年2月また、地獄の千歳烏山会以来、約半年ぶりに山崎君と『バカ爆走』で再会した。偶然にもその日のゲストはX-GUN。
ライブ終わり、僕を見つけた嵯峨根さんに「久しぶりやなー。メシでも食おうや」と誘っていただき、今回は山崎君と嵯峨根さん、僕の3人でメシに行こうという流れになった。3人で新宿歌舞伎町のドンキホーテの前を通りかかった時、店内BGMの「ドンドンドン、ドンキー♪ ドンキーホーテ♪」という曲が流れてきた。嵯峨根さんはその曲を聴いた瞬間に山崎君を見つめ、BGMが流れる方を指さし、こう言った。
「やんま、コレ」
千歳烏山の恐怖が蘇った。これは「この曲で面白いことをやって!」の合図である。 いやいや、この曲で面白いことやってってどうすればいいの? っていうか、ここは新宿歌舞伎町、人も多い。山崎君の後は僕の番に決まってる。こんなところでムチャブリ地獄がはじまるのか……無理だ。僕の思考は「何をしたら笑いがとれるか?」ではなく「どうすればここから逃げ出せるのだろうか?」で埋め尽くされた。
またしてもあの地獄がくりかえされるのか? と山崎君を見ると、山崎君は、嵯峨根さんが「やんま、コレ」と言ったと同時にBGMに合わせて踊り出したのだ。
怯えていたあの夜とはまるで違い、顔の表情はいつもと何も変わらない。変わらないというかなんなら無表情。歌舞伎町のど真ん中で小太りの若者が無表情でコミカルなダンスをする。面白い。マジでそう思えた。僕だけではない、歌舞伎町を通る通行人たちもそれを見て笑っていた。その滑稽な踊りにセンスを売りにするスナイパー芸人の要素は微塵もなかった。それは僕の知ってる山崎君ではなかった。もうみなさんの知ってるザキヤマに生まれ変わっていたのだ。それから8年後、この男が『M-1グランプリ』のチャンピオンになるとは、この時の僕も嵯峨根さんも笑った通行人も、ドンキホーテのBGMを作詞作曲した田中マイミさんも知らなかった。
僕ら細雪が人力舎に入り、ザキヤマが覚醒したちょうどこの頃、東京の若手お笑い界も大きく変化した。
ボキャブラブームである。
昨年くらいからじわじわと来ていたが、この頃になるとボキャブラブームは絶頂期を迎えていた。キャブラーと呼ばれた芸人たちはいわゆるお笑い第4世代とカテゴライズされる芸人たちで、この頃、その世代で全国のテレビバラエティで活躍していたのは、めちゃイケメンバー、ロンドンブーツ1号2号、キャイーンくらいだったが、ボキャブラで人気が爆発することによって、それ以外の実力派の芸人たちにスポットライトが当たるようになった。『バカ爆走』の集客のために呼ばれていた他事務所のゲストたちがボキャブラで活躍しはじめると、ライブ自体も異常な盛り上がりを見せた。
しかし問題もあった。ブームとは光が強いぶん、暗い影も落とす。ライブに集まるお客さんたちはゲストであるボキャブラ芸人にしか興味がなく、彼らのフリートーク(多忙でネタを書けない)では盛り上がるのだが、それ以外の芸人にはまったく興味もなく、ネタをはじめても平気で雑談するみたいなことが起きていた。
当時の思い出で『バカ爆走』終わりに会場を出た僕のところに出待ちしていたかわいい女子高生が「サイン下さい」とノートを差し出してきたので、照れつつ、そのノートを手にとろうとした。ちょうどその時、後ろからボキャブラで活躍する芸人が出てきて、その子はそれに気づくやいなや、僕からノートをもぎ取り、その芸人のもとへ駆け寄っていった。俺カッコ悪い! とやり場のない気持ちを抱えながらトボトボ帰ろうとすると、僕の隣を一台の自転車がさっと駆け抜けていった。その瞬間に絶叫にも近い声が聞こえた。
「キムタク!」
そう、その自転車に乗っていたのは木村拓哉で、ドラマ撮影をしていたのだ。キムタクに気づいた女子たちは一斉に黄色い声をあげてキムタクの方へ走っていった。僕にサインを求めたくせに、ボキャブラ芸人が来たらすぐさまそっちへサインを求めにいった女の子も、そのボキャブラ芸人からノートを奪い取り、キムタクの方へ走っていった。
ブームはすごい。しかし、本物のスターに勝てないと実感した瞬間だった。
* * *
本書では、今回ご紹介したエピソードの他にも、東京03、おぎやはぎ、ラーメンズなどの新たな才能たちとの出会いや、放送作家としてさまざまな作品を世に出すようになるまでのエピソードなど、オークラにしか語れないストーリーが満載! 全てのお笑い好きに贈る、オークラ初のお笑い自伝『自意識とコメディの日々』は現在大好評発売中!
筆者について
1973年生まれ。群馬県出身。脚本家、放送作家。バナナマン、東京の単独公演に初期から現在まで関わり続ける。主な担当番組は『ゴッドタン』『バナナサンド』『バナナマンのバナナムーン』など多数。近年は日曜劇場『ドラゴン桜2』の脚本のほか、乃木坂のカップスターCMの脚本監督など仕事が多岐に広がっている。