「献身的」で、なくていい! 突然、働き盛りの夫を襲った脳卒中と半身の後遺症。何の知識もなかった私は、ゼロから手探りで夫の復帰までを「闘う」ことになる――。当事者だけがツラいんじゃない。家族にも個別のツラさがある。ここでは、ライター・三澤慶子が綴る、葛藤と失敗と発見の記録である『夫が脳で倒れたら』から一部ご紹介。正しいカタチなんてない、誰もがいつか経験するかもしれない、介護のリアルをお伝えしていく。 本書から、第一章を全11回にわたって公開。第6回目。
発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑥
トドロッキーとは入院してから毎朝、起きたときにメールのやりとりをしていた。
「おはよう」
「おはよう」
簡単な朝の挨拶だ。これがトドロッキーの生存確認の様相を呈してきた入院4日目の朝、「おはよう」と送っても返事が来ない。病院の朝食の時間になってもメールが来なかった。
何かあったのではと思うが、何かがあったときには病院から電話連絡があるはず。ここ数日の疲れでぐっすり寝続けているのならいいが。もしくはトドロッキーのスマホの充電が切れたのかもしれない。
いつもの挨拶メールがやってくる時間から2時間ほど経ったとき、やっと「おはよう」のメールが届いた。なぜ今頃? 何があったのかをメールでは怖くて聞けない。じりじりと面会時間が来るのを待ち病院に向かった。
病室に入ると、ベッドにはぐったりとしたトドロッキーがいた。
囚われの身みたいな顔をしていた。病室が牢屋に思えたからそう見えたのかもしれないけれど。
病室は窓からは光が入っていたし、蛍光灯も常時ついていて一般的な病院と同じ、明るさは十分。にもかかわらず印象は、死神たちがマントを広げて宙を蠢いているのかと思うほど暗い。空調が効いているのに息苦しく、ドアは解放されているのに閉ざされているような暗黒感漂う空間に思えた。
トドロッキーは頭を枕から上げずに言った。
「早朝にMRI検査したんだよ」
やっぱり、事が起きていた。
「夜中の点滴が流れてなかったみたいで、大騒ぎになってさ」
どういうこと? 言葉にしたくなかった言葉を口にした。
「再発?」
「いや、それはないって」
よかった。何よりだ。
トドロッキーは夜中も絶え間なくずっと点滴を入れている。点滴を入れているのは左腕で自由が効く方。その腕の点滴針跡を私に見せた。直径2センチほどの円形の痣が出現していた。うっ血してどす黒くなっている。何それ! ちなみにこのとき腕についた痣は薄れたものの今でも残っている。
「点滴の針が曲がっちゃっててさ。看護師が朝になってようやくそれに気づいて、点滴も入ってってなかったって。一倉先生が来て、すぐ検査だってなってMRI連れてかれた」
「そんな痣になるまで放置されてたってこと? どんくらい気づかれなかったの? 夜勤の看護師は点滴が終わった頃にチェックに来るでしょう? 来なかったの?」
「来なかったんだと思う。朝方は寝ちゃってたから分かんないんだけど。問題になってた。向こうで一倉先生の怒ってる声、聞こえてきたから」
大問題案件じゃん!
「夜ずっと息苦しくてさ。何度もナースコールしたんだけどぜんぜん来ないし。暑くて暑くて上のパジャマをはだけても暑くて、上、脱いだんだよ。それでも暑くて」
暑いってのはおかしい。それほど暖かい病室じゃない。
「寝苦しくてけっこう動いてたから、それで針が曲がっちゃったのか、とにかく朝まで気づかれなくて」
何それどうなってるの夜勤看護師! 叫びそうになったけど胸の内に留めた。トドロッキーはもう十分動揺も怒りもしたんだろう。またここで私が心中をかき回すようなことはしたくない。
「夜勤の看護師が来なかったってことは、誰かに言った?」
「看護師長には朝、苦情言った。何度もナースコールしたのに来なかったって」
「看護師長は何て?」
「謝られた」
謝ったんだ! あの看護師長が。ちょっと謝りそうにないタイプの人だ。
「夜勤の看護師ってどういう人?」
「すごい感じ悪い。やり方も荒い。もうあの人は嫌だよ」
「日中はいない人?」
「夜だけだと思う」
「怖かった? 早朝にMRI連れてかれて」
「まわりが騒ぎ出したからね」
そうでしょうとも怖かったでしょうとも!
点滴が途絶えたことは麻痺のさらなる悪化を引き起こさないんだろうか。でもこの疑問については口にできなかった。きっとトドロッキーも同じことを考えているに違いないし、病院にクレームをつけて追求したところで、その先私はどうすればいいのかが分からない。今優先したいのはトドロッキーをもうこれ以上不安にさせないってことだ。
この病院に数日通って気づいたことがある。
日中もそうだが、とくに夕方から入る夜勤の看護師たちにフリーランスらしき看護師が多い。看護の作法に統一感が感じられないのだ。いろんな病院でのやり方をそれぞれの看護師が自分のスキルとして持ち込んでいる感じがした。
ここに運ばれてくる患者は死線をさまよっている人が多くて目が離せない。私の素人目から見てもフロアの半分の患者が危険な状態にある患者だ。トドロッキーのいる6人部屋以外も病室はすべてドアが開けっ放しのため、廊下をゆけば患者たちの様子が分かる。とくにスタッフステーション周辺の病室は6人部屋と似たり寄ったり。常にどこかしらでベッドサイドモニターがアラームを鳴らしている。看護師はサボってるわけじゃないけどアラームは長い時間鳴りっぱなし。手が足りてない。
そんなだからトドロッキーがナースコールをしても当然すぐには来ない。ナースコールより重篤な患者のアラームが優先されるんだろう。でも聞けばトドロッキーは何度もナースコールを鳴らしたという。それでも夜勤の看護師は来なかった。ひどすぎる。
この病院が過酷で忙し過ぎるのは分かる。決められている人員は確保しているのだろうけど、仕事量に対して明らかに人数が足りてない。私が看護師なら敬遠するだろう職場だ。そういう職場に身を置いて職務を全うしている人をもちろん尊敬する。でもこの夜勤の看護師には納得がいかない。
じゃあこれからどうしよう。今トドロッキーは目を離せない状況にあるはずなのに、またこんなことがあってはたまらない。猛烈に心配だ。
「泊まって世話をしたいんですけど」
話の分かる看護師を選んで言ってはみたものの、やはりだめだという。病院は付き添いの泊まり込みを認めていない。例外で認めてもらえないかしつこく聞いてみたがだめだった。
* * *
この続きは『夫が脳で倒れたら』本書にてお読みいただけます。
*本文中に出てくる病院、医療関係者、患者などの固有名詞は仮名です。
筆者について
みさわ・けいこ。北海道生まれ。ライター。
(株)SSコミュニケーションズ(現(株)KADDKAWA)にてエンタテインメン卜誌や金融情報誌などの雑誌編集に携わった後、映像製作会社を経てフリーランスに。手がけた脚本に映画『ココニイルコト」『夜のピクニック』『天国はまだ遠く』など。半身に麻痺を負った夫・轟夕起夫の仕事復帰の際、片手で出し入れできるビジネスリュックが見つけられなかったことから、片手仕様リュック「TOKYO BACKTOTE」を考案。
轟夕起夫
とどろき・ゆきお。東京都生まれ。映画評論家・インタビュアー。『夫が脳で倒れたら』著者・三澤慶子の夫。2014年2月に脳梗塞を発症し、利き手側の右半身が完全麻痺。左手のみのキーボード操作で仕事復帰し、現在もリハビリを継続しつつ主に雑誌やWEB媒体にて執筆を続けている。近著(編著・執筆協力)に「好き勝手夏木陽介スタアの時代」(講談社)J伝説の映画美術監督たちX種田陽平」(スペースシャワーブックス)、「寅さん語録」(ぴあ)、「冒険監督塚本晋也」(ぱる出版)など。