「献身的」で、なくていい! 突然、働き盛りの夫を襲った脳卒中と半身の後遺症。何の知識もなかった私は、ゼロから手探りで夫の復帰までを「闘う」ことになる――。当事者だけがツラいんじゃない。家族にも個別のツラさがある。ここでは、ライター・三澤慶子が綴る、葛藤と失敗と発見の記録である『夫が脳で倒れたら』から一部ご紹介。正しいカタチなんてない、誰もがいつか経験するかもしれない、介護のリアルをお伝えしていく。 本書から、第一章を全11回にわたって公開。第9回目。
発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑨
翌朝、大学病院の神経内科へと向かった。予約をとろうと事前に問い合わせはしていたが、予想どおり予約では日が遅くなるという。当日受付もしてもらえるということで、待つことを覚悟で行ったのだが、本当にたっぷり待たされることになった。
待っている間、そこのベテラン風の看護師に転院を希望していることを伝えてみた。だめモトだ。トドロッキーの命がかかっている。看護師が話を聞いてくれたのをいいことに、どうして転院が必要と考えているかを切々に訴えた。それでもやっぱり答えはこれまでと一緒だったが、少し情報が膨らんで返ってきた。
「ソーシャルワーカーを通して申し込みをして、それが通ったとしても今この病院はベッドに空きがないんです。空き待ちになるので、転院を希望されてもすぐには無理です。それに入院中の方の順番はどうしても後回しになります。入院中であれば処置できているということですから。まだ処置できていない急患が優先されるんです」
なるほどだ。私はその処置の仕方に問題があって処置されていないに等しいのではと疑っているわけだけど、看護師の言う内容は確かに納得できる。発病したばかりの急患が優先されて当然だ。
予約の患者がすべてはけた後、私はやっと診察室に呼ばれた。
セカンドオピニオンをしてくれる神経内科医は、トドロッキーのデータを見て言った。
「私がご主人の治療に当たったとしても同じことをしますね。同じ効果の薬を使って治療したと思います。違うものを使う医師もいらっしゃいますけど、私は同じ治療方法ですね」
そうなんだ。
神経内科医はトドロッキーのBADと言われるタイプの脳梗塞について詳しく解説をし、「残念ですが、この場合進行を止めようがないんです。止まるのを待つしかない状態です」と言った。
その後、神経内科医はこんなことを言い添えた。
「ただ私の経験上、ご主人の悪化はもうそろそろ止まります」
え? 今何と?
「今が底だと思います」
藁だ! 藁が見えた瞬間だった。藁にもすがりたいのに藁さえなかったのが、目の前に藁が現れた。悪化が止まると言われたのは、これが初めてだった。
神経内科医の目をじっと見て、彼のこれから発する一言も聞き逃さないよう集中した。
医師は続けた。
「いろんな患者さんを診てきてますけれど、ご主人のような場合、発症から1週間で麻痺の進みはだいたい止まります。ご主人は今、一番底にいる状態だと思います。この後ちょっと良くなるかもしれません。というのは、壊死した脳の周りの部分が今腫れているような状態なんですね。怪我なんかをすると、その周囲が腫れたりするでしょう。その腫れのせいで出ている麻痺は、腫れがとれれば良くなるんです。死にかけていた細胞が生き返ってくるということもあります。ただこれはそのときになってみないと分かりません。その先はリハビリでゆっくり機能回復していきます。ですから、今が一番悪い状態だと考えていいと思います」
言葉を失わずにすむ?
左側も麻痺して寝たきりにならなくてすむ?
神経内科医の口調は穏やかで、噛み砕いて説明することに長けていて分かりやすかった。
聞きたいことはたくさんあった。
「左側も右と同じように麻痺していくってことはありますか? だめになったのは運動を司る部分ですよね。その近くに言語の部分があると聞いてます。そこにも血が行かなくなる可能性はあるんですよね? 夫は文章を書く仕事をしてるんです。言語の部分がだめになったら思ったことを言葉に変換できなくなると聞きました。どう思いますか?」
「ご主人のMRIの画像を見ると血管が細くなってる部分があります。ここや、ここ……。ただね、ご主人は今、薬で血が流れるようコントロールされていますね。だから心配はいらないと思います。左側も麻痺する可能性は考えなくていいと思いますね」
考えなくていい? ホントに? すごい。良かった。嬉しすぎる! 信じます!
今まで信じたい情報がなかったけど、やっと信じたい情報が出て来た。左側の麻痺はない! やった! 早くトドロッキーに教えてあげたい。
「ご主人は50歳ですね。まだお若いですからリハビリ次第である程度動くようになります。今の病院で2週間の治療が終わったらリハビリテーション病院に転院することになると思います。ご主人の場合は半年ほどの入院になるでしょう」
そう、これについてはなんとなく聞いている。聞きたいことはトドロッキーの回復の見通しだ。
「ある程度動くようになるって、どれくらい動くようになるんですか。仕事復帰できるくらい動くようになりますか」
「ご主人と同等の麻痺の方で、半年後に麻痺手でゆるく閉めたペットボトルの蓋を開けられるくらいになった方がいます」
動くようになることは嬉しかったが、その程度かと落胆もした。
「人によってどれくらい動くようになるのかは違いますから、なんとも言えないところですけど」
ってことは、それ以上の動きを取り戻す可能性もあるってことだ! と勝手に理解させてもらった。
「転院を考えておられるようですけど、今いる病院での治療を中断しない方がいいです。このまま続けて、その後のリハビリテーション病院の検討をされた方がいい」
転院を希望している話は看護師からこの神経内科医に伝わっていたようだった。真摯な話し方に信頼感を覚えたから、転院をしなくても大丈夫だと言ってもらえたことに安堵した。そして何より、はっきりと悪化が止まると言っている。涙が出るほど嬉しかった。実際医師の話を聞いているうちに涙がタラリ、垂れてきた。トドロッキーの発病後、涙腺が緩んでいる。
「ご主人は良くなりますから、希望を持って!」
医師はティッシュを差し出してそう言ってくれた。
あー、そんなもう、ティッシュなんか渡されたら涙が。我慢! いやもう無理。ドドッと溢れ出てきてしまった。
パンパンに腫れてしまった目で病院を後にしたときには、もうすっかり転院の諦めがついていた。
セカンドオピニオンはこの後、もう一人の医師にも求めた。
ツテのあった脳神経外科医。勤務先のリハビリテーション病院は行くには少し遠い。自宅への電話で相談に乗ってくれるということで、お言葉に甘え電話で相談させてもらった。
この脳神経外科医も大学病院の医師と同様のことを言ってくれたが、一番響いたのはこの言葉だ。
「悪化を食い止めるってことはね、毛細血管に血が流れるようにすればいいんだけど、これは今の医療ではできないんです。血管が細すぎてどうすることもできない。これができるようになったらそれはもうノーベル賞ものです。それくらい難しいんです」
ノーベル賞もの! そんなに!
分かりやすい言葉が心に響いた。
キャッチーなコピーにコロッと騙される消費者とは私のことなんだろうが仕方ない。トドロッキーの脳梗塞がBADである以上、入院して治療しているにもかかわらずどんどん悪化していくのもBADだからであり、悪化が阻止できないのは治療方法がトンチンカンなわけではなく、看護師が点滴管理をちゃんとやれてなかったからでもなく、今の医療技術に限界があるからだということが、不思議とこのキャッチーな説明でちゃんと納得できた。
同じ内容のことを坂の上脳神経外科病院のイカレていない二志野医師が既に私に説明してくれていたのだけども、「次は左だな」のイカレ三河医師の出現で雪だるま式に膨らんでいった不信感から、言葉通りには受け取れなくなっていたのだ。
行き当たりばったりでバタバタと動いたが、動いたおかげで問題点が見えてきた気がした。
よし、ちゃんと坂の上脳神経外科病院の医師と向き合うぞ。
* * *
この続きは『夫が脳で倒れたら』本書にてお読みいただけます。
*本文中に出てくる病院、医療関係者、患者などの個有名は仮名です。
筆者について
みさわ・けいこ。北海道生まれ。ライター。
(株)SSコミュニケーションズ(現(株)KADDKAWA)にてエンタテインメン卜誌や金融情報誌などの雑誌編集に携わった後、映像製作会社を経てフリーランスに。手がけた脚本に映画『ココニイルコト」『夜のピクニック』『天国はまだ遠く』など。半身に麻痺を負った夫・轟夕起夫の仕事復帰の際、片手で出し入れできるビジネスリュックが見つけられなかったことから、片手仕様リュック「TOKYO BACKTOTE」を考案。
轟夕起夫
とどろき・ゆきお。東京都生まれ。映画評論家・インタビュアー。『夫が脳で倒れたら』著者・三澤慶子の夫。2014年2月に脳梗塞を発症し、利き手側の右半身が完全麻痺。左手のみのキーボード操作で仕事復帰し、現在もリハビリを継続しつつ主に雑誌やWEB媒体にて執筆を続けている。近著(編著・執筆協力)に「好き勝手夏木陽介スタアの時代」(講談社)J伝説の映画美術監督たちX種田陽平」(スペースシャワーブックス)、「寅さん語録」(ぴあ)、「冒険監督塚本晋也」(ぱる出版)など。