急性期リハビリテーションを終え、回復期リハビリテーション(リハビリ合宿)のために転院した夫。この回復期のリハビリで運動機能の改善や、在宅復帰を目指していきく。ここまでの入院生活とは違う空気感に私は舞い上がっていたが、夫はどうやら違うようで──。
私=ライター・三澤慶子が綴る、葛藤と失敗と発見の記録。今回は、本書第3章から一部ご紹介します。
牢屋生活からの脱出
潮風リハビリテーション病院で案内された病室は広い二人部屋だった。
二人部屋といってもお隣さんとは壁のようなカーテンでキッチリ仕切られている。壁の一つがカーテンになっている個室と言っていい。各種引き出しや扉が並ぶ素敵なクローゼットが備えられている。一人で使える鏡の大きな洗面台、小さいながら一人用ソファもテーブルもあった。開閉はできないけれど大きくて鉄格子のない窓も!
牢屋から脱出したばかりだったから余計、ここはどこぞのホテルかってくらいの格差を感じた。
待て待て。予約してたのは4人部屋だが、どういうこと?
「ご希望されていた4人部屋に現在空きがないため、空きが出るまでこちらをご利用ください。差額ベッド代が発生する部屋になりますが、こちらの都合でご案内させていただいてますので、ご希望の4人部屋の利用額を適用させていただきます。よろしいでしょうか。差額ベッド代をお支払いされて入っている患者さんがいる手前、内密にお願いしたいのですが」
看護師が言う。
よろしいも何も、くじを当てた気分でございます!
このシステム、やっぱりほらホテルと一緒だ。いやその前に何、この丁寧な説明。説明してくれたのは看護師だ。ずいぶん違うんですけど、さっきまでの牢屋と。
「すごいね、ここ!」
看護師が去った後、すっかりこの病室が気に入った私は大興奮でトドロッキーに言った。トドロッキーはうん、と相槌を打つだけでほとんど表情が変わらない。発病前はちゃんと表情豊かだった。
こっちはもっと反応が欲しいから、うざいくらい突っ込んで聞くことに。
「嬉しい? 私は嬉しい! ここ落ち着く! 落ち着く? 病院っぽくないよね。ここにしてよかったと思わない?」
「まあね」
「ほら、テレビもずいぶん立派。へえ、お湯も出るよ。見晴らしもいいね。こんだけスペースあればここで髪切れるね。この部屋にいるうちにバリカン持って来るよ」
「うん」
「何か心配事ある?」
「リハビリがいいならいいんだけど」
「そうなんだけど、部屋は? すっごくいい部屋じゃん。やったね! ね?」
「まあね」
限界か、勘弁してやろう。
私は嬉しさが毛穴すべてから出ちゃってたと思う。だってきっとここなら無駄に滅入ることもなさそうだ。トドロッキーが良くなる感じがした。気持ちが上がればリハビリ効果もきっと上がる。
次にやってきたのは医師。主治医となる医師は休みだからと別の医師がやってきて、簡単に医療体制について説明し、トドロッキーの状態をチェックしていった。
トドロッキーの主治医となる四隅医師は脳神経外科医だ。実は潮風リハビリテーション病院には専門のリハビリテーション科医が一人もいない。事前に分かっていたことだが、知ったときには驚いた。そもそもリハビリテーション科医の人数が全国的に非常に少ないらしく、リハビリテーション医のいないリハビリテーション病棟は珍しくないらしい。
ただトドロッキーの主治医が脳神経外科医なのはありがたかった。トドロッキーにとって一番恐ろしいのが脳梗塞の再発であって、再発のないよう引き続き専門医に注視してもらえるのは安心だ。リハビリテーションの専門家は理学療法士ほか、この病院には大勢いるのだから。
医師と看護師からはそれぞれ、家族から見てトドロッキーの性格に変化があったかどうかを何度も聞かれた。
「怒りっぽくなったとか、ないですか?」
看護する側にはものすごく大切なことかも。
どうなのかな。逡巡した。
確かに発病前よりはイライラしているなと感じる場面は多くなった。かといって私に当たることはなかったし、看護師に対してもイラついた態度を見せる素振ぶりはなかったと思う。それに、これまでいたのがあの牢屋だ。発病してなくてもあの牢屋にいれば性格が荒れるように思う。牢屋にいたことを考えたら、あれくらいのイライラで収まっていたのは相当の忍耐力があったと言ってもいい。
人に当たり散らすことがあったなら、怒りっぽくなったと申告するところだけど、そうじゃないため、やはり怒りっぽさに変化は感じない、と伝えた。
理学療法士は最後にやってきた。トドロッキーをベッドに寝かせて、体のあちこちを曲げ伸ばしして麻痺の状態をチェックしていった。
トドロッキーはそのチェックの仕方、アドバイスに十分な経験値を見たようで、この病院のリハビリテーションを信用できたみたいだった。何よりだ。
牢屋の理学療法士は熱心な人だったけど若くて少し経験が浅かった。いろいろ調べてきてくれたり、スタッフ間で相談したりしてトドロッキーのリハビリについて一生懸命考えてくれた人だったが、彼とは持ってるスキルが違うのが私の目からも分かった。
あとで分かったことだが、このときトドロッキーを診てくれた理学療法士は病院外での研究会にも個人で積極的に参加している勉強熱心な人だった。スキルは同じ病院内でも人によって大きく違うことをこの後実感することになるのだけれど、それを踏まえてもなお、リハビリテーションに関しての環境が格段に良くなったことがとても嬉しかった。
患者を守るルールなんです
看護師と、トドロッキーがどの程度身の回りのことを一人でできるのかの情報共有をする時間が設けられた。トドロッキーはほぼ一人でやれる。ベッドから一人で車椅子に乗り込み、左手足で動かしてトイレに行き、ズボンを脱いで用をたしてズボンを上げベッドに戻るまでをトドロッキーは看護師と私の前でデモンストレーションした。人に見られながら放尿するって、きっと毎回個室に入る女性より男性の方が若干抵抗感は少ないのかもな、私が患者だとして看護師が男性だったとしたら最高に嫌だなとか考えながら眺めていた。
「大丈夫ですね」
看護師はそう言った後、当たり前のように付け足した。
「トイレに行くときも、車椅子で動く際は見守りしますのでナースコールで呼んでください」
やれてるのに? 今見たじゃん?
「いいです、できるんで」
トドロッキーが言った。
「でももうしばらくは様子を見たいので」
ここはトドロッキーの矜持のため私も援軍に出た。
「前の病院でもずっと一人で動いてたんです。見守りなしでずっとやれてたので大丈夫だと思います」
ここで看護師はえっ! と驚いた顔を見せた。その表情で、急性期病院で片麻痺になりたての患者が車椅子で一人で移動しているのを野放し、っていうのがあんまりないことなんだなと理解した。
「転倒の危険のあるうちは見守りはしますね。理学療法士のチェックを何度か受けてもらってOKが出たら、見守りが外れるので、それまではナースコールしてください」
そういうルールが存在していて、この病院ではみんながちゃんと守らなければならないようだった。
「早く見守りを外せるように申し伝えておきますね」
ほー、システマチック。
「車椅子に乗るときっていうと、洗面所もですか?」
私はすぐそこ、三歩先にある病室内の洗面所を見て聞いた。病室内にあってベッドからは私なら三歩で行けるけど、トドロッキーがそこへ行くにはいちいち車椅子を使わないとだ。
* * *
この続きは『夫が脳で倒れたら』本書にてお読みいただけます。
本書では、試し読み記事で紹介された内容の他にも、当事者とその家族ならではのエピソードや、それに付随する医療情報などが盛りだくさん。入院やリハビリ、在宅復帰への不安や、復帰後の生活のHow toなど、「同じ境遇の人の役に立ってほしい」という著者の思いが込められた一冊です。
*本文中に出てくる病院、医療関係者、患者などの固有名詞は仮名です。
筆者について
みさわ・けいこ。北海道生まれ。ライター。
(株)SSコミュニケーションズ(現(株)KADDKAWA)にてエンタテインメン卜誌や金融情報誌などの雑誌編集に携わった後、映像製作会社を経てフリーランスに。手がけた脚本に映画『ココニイルコト」『夜のピクニック』『天国はまだ遠く』など。半身に麻痺を負った夫・轟夕起夫の仕事復帰の際、片手で出し入れできるビジネスリュックが見つけられなかったことから、片手仕様リュック「TOKYO BACKTOTE」を考案。
轟夕起夫
とどろき・ゆきお。東京都生まれ。映画評論家・インタビュアー。『夫が脳で倒れたら』著者・三澤慶子の夫。2014年2月に脳梗塞を発症し、利き手側の右半身が完全麻痺。左手のみのキーボード操作で仕事復帰し、現在もリハビリを継続しつつ主に雑誌やWEB媒体にて執筆を続けている。近著(編著・執筆協力)に「好き勝手夏木陽介スタアの時代」(講談社)J伝説の映画美術監督たちX種田陽平」(スペースシャワーブックス)、「寅さん語録」(ぴあ)、「冒険監督塚本晋也」(ぱる出版)など。