衝撃的な私小説『夫のちんぽが入らない』で知られるこだまさんが、生まれ育った「何もない」集落を舞台に綴ったエッセイ「おしまいの地」シリーズ。その第3弾にして完結篇の『ずっと、おしまいの地』(太田出版)が8月に刊行されました。
夫に誕生日を10年以上告げられなかった話、闘病生活中に急に除雪車を購入する父やマルチ商法に漬かってしまった母の話など、身近に起こったエピソードをどこかおかしく巧みに描いた傑作エッセイが収録されています。
この刊行を記念して、こだまさんとフリーライターの鶴見済さんに対談をしてもらいました。「生きづらさ」をテーマに執筆活動を続けてきた鶴見さんは、7月に最新エッセイ集『人間関係を半分降りる』(筑摩書房)を刊行。生きづらさの根本的な原因は人間関係にあるとしながら、友人、家族、恋人との適度な距離感での上手な付き合い方などを伝えています。
世の中で「当たり前」とされる価値観にとらわれずに、自分の人生を肯定し生きていくにはどうしたらいいのか。お2人に最新刊の内容を起点に、じっくりお話いただきました。
こだま
エッセイスト・作家。実話を元にした私小説『夫のちんぽが入らない』でデビューし、Yahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)。二作目のエッセイ『ここは、おしまいの地』で第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか、『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。
鶴見済(つるみ・わたる)
1964年、東京都生まれ。東京大学文学部社会学科卒。複数の会社に勤務したが、90年代初めにフリーライターに。生きづらさの問題を追い続けてきた。精神科通院は10代から。つながりづくりの場「不適応者の居場所」を主宰。著書に『0円で生きる』『完全自殺マニュアル』『脱資本主義宣言』『人格改造マニュアル』『檻のなかのダンス』『無気力製造工場』などがある。
ブログ:鶴見済のブログ(tsurumitext.seesaa.net)Twitter:鶴見済(@wtsurumi)
2人を繋ぐ「共感」
鶴見 こだまさんの作品は、最初は『夫のちんぽが入らない』を読ませていただきました。このお話のように、自分もパートナーと2人暮らしで、子どもがいないんです。いろいろと共感できることがありました。
自分も昔から苦しかった話をするほうなんですよ。そうした苦しい話のまとめ方がすごいなと思いました。『「どん底」を持っているだけで、私は強い気持ちになれる』という言葉に、いたく感銘を受けました。
『いまだ、おしまいの地』(「おしまいの地」シリーズ第2作)などで、学校で対人恐怖で悩んだ話を書かれていますね。自分もあまり言ってなかったんですけど、対人恐怖がありました。高校時代に社交不安障害になって、それがずっと尾を引いて続くんです。完治とはならずに、大人になってからも10年以上悩みました。自分にとってはすごく厳しいことだったので、読んで感動しましたね。
──こだまさんは鶴見さんの『人間関係を半分降りる』の書評を書かれています。冒頭で「この本、私のためにあるのかな。そう思わずにいられなかった」とされていました。
こだま 書評のお話をいただく前にTwitterでフォローしていただいて、私のことを認識されているんだと驚いていました。その後、まさかご本人から書評の依頼をいただくことになるとは。鶴見さんの本では最初に高校時代からの社交不安障害のことが書かれていました。そこでもうすでに自分のことが書かれているように思って、没頭しながら読み進めました。
子どもの頃から、人は私のことを何とも思ってないはずなのに、こっちが気にしすぎて身動きが取れなくなってしまう。でもどうしてなのか全くわかりませんでした。親にも言えなくて。「気が弱いからそうなるんだ」と怒られるだろうと思いました。
でも学校に行こうとすると、絶対にお腹を壊したり、人の目が気になって自分の意見を言えなかったりする。すぐ黙りこくってしまう学生生活をずっと送っていたんですよね。鶴見さんの本を読んでいると、蘇ってくることが多かったです。
あと、先ほどお話しされたように、パートナーさんとの関係も共感できる部分がものすごく多くて。「子どもがいなくてもいい」とも書かれていました。不思議と重なるところがたくさんあって、自分の本のような気持ちで読みました。
鶴見 パートナーのこと、そして社交不安障害のこと。まったく別なことでありながら、すごく重なっていますね。
今回の『ずっと、おしまいの地』は今までと比べると、すごくサバサバしている感じになっていると思いました。ちょっとあったかくて、ものの見方が肯定的になってきているのが、すごくいいと思えたんですよ。
こだま 最初の頃は悩みに対してよくないものだという気持ちが強すぎて、自分を責めることが多かったんです。辛い過去ばかりを書いていました。今はそこを突き抜けていったというか、出口が見つかりつつある状態だと思います。
鶴見 そうなんですね。そもそも「おしまいの地」という呼び方をしたときは、かなり否定的に捉えていたんじゃないですか? どのように肯定的になったんですか?
こだま エッセイのお仕事をもらったのはかなり大きいと思うんですよ。自分が「おしまいの地」に溶け込みつつあるというか。こんなド田舎でエッセイを書いてもいいんだという肯定的な気持ちになりました。
最初の頃は「もう本当に嫌な田舎だ」という気持ちで書き始めていたんですが、だんだんとどこかいいところがあるんじゃないかと思いながら、身の回りを見るようになりました。たとえば、『夫のちんぽが入らない』では母の悪い部分ばかりを書いているんですけど、今では母や父のおかしな部分をどんどん見つけていくようになって。
鶴見 お母さんはこだまさんに厳しかったのが変わられたんですか?
こだま そうですね。母と同等の立場になるというか、母のおかしな部分を変だと言える立場になって。ちょっと逆転してきた感じがあるんですよね。
鶴見 向こうが変わるということもあるんでしょうね。俺も実は最近、両親と旅行に行ったりするんです。不思議なことに、肯定的に見るようになっているんですよ。『人間関係を半分降りる』では、親のことはわりと肯定的に書いてるつもりなんです。やっぱりよく見るようになると、肯定的に捉えられるんですかね。
こだま そうですよね。よく見ていくと、そうなるのかな。ある対談で家族についてお話をしたんですけど、自分が親の年齢に近づくことで見えるものがあるのかもしれないという話になりましたね。
鶴見 なるほどね。そういうこともあるかもしれないですね。
こだま 40・50代になっていくことで、自分の経験が積み重なって変わっていくんですかね。子どもがいる人は、また違う目で親を見るようになるのかもしれません。
人間関係と「心の距離」
鶴見 自分は本の中にも書いてるんですけど、あまり頻繁に実家に帰らないようにしてるんですよ。うちの場合はまだ親から「ああしろ」「こうしろ」と言われたりして。そういうことはありませんか?
こだま 私にはもう何も言わなくなりましたね。母のこだわりは多分子どもを生んでほしいという気持ちだったと思うんです。出産できない年齢になった途端に、母は一切言わなくなってきて。結局は母と私の関係のこだわりはそこだったんだとはっきりわかったんですよね。それを言われなくなってからは、実家に帰りやすくなりました。
鶴見 人との「心の距離」ってあると思うんですけど、その人のことを憎むというのは、距離が近いこと。だから、そこそこの距離感でサバサバした態度で、昔のことを水に流すことも、「心の距離」の取り方がうまいことになると思っていて。
こだま 『人間関係を半分降りる』には「心の距離」という言葉が何度も出てきました。親しいだけじゃなくて、憎んでいることも「心の距離」の近さだと。私は今まで考えたこともなかったので、ちょっと人の見方が変わるようになりました。
鶴見 こだまさんはご両親だけでなく、パートナーの方との距離の取り方が健全であるような気がしたんです。うまくやっていらっしゃる感じがすごくひしひしと伝わってきて。喧嘩はされないですか?
こだま しないですね。夫は1回もしたことがないと言いますね。小言を言ったりはあると思うんですけど。
鶴見 それはすごいことですよね。素晴らしいですね。
こだま そうですかね。やっぱり最大の隠し事、文筆活動をしていることを言っていないという、私の中の負い目はあるんですよね。もしかしたら自分は表面上しかうまくやっていないんじゃないかと。でも、それ以外を考えると、お互いの好きなように生きているところはありますね。
鶴見 夫婦生活のことでも、学校時代のことでも、書いた後は心の中で何か変わりますか?
こだま 身の回りに実際に相談する相手が一切いないので、何かを抱えていたときに吐き出す場所は、ネットのブログでした。エッセイのお仕事をもらうようになってからは、全部そこでまとめられるようになりました。自分の吐き出し場になってきて、楽になってくるんですよね。これから先はどうやって生きていこうかと考えられる。先に進めるようになってくるんです。
鶴見 先に進めるのはいいですね。
創作活動と夫婦の関係性
──『夫のちんぽが入らない』を書いたことで、夫婦の関係性を肯定的に捉えられるようになりましたか?
こだま そうですね。出版した反響で、同じような状態の人が世の中にたくさんいることがわかりました。「病院に行けばよかったのに」という意見もいっぱいもらって。一人の悩みじゃなかったことに気づいたことが大きかった。
性生活のない夫婦だっていいんだという気持ちになってきました。周りの人が子どもを生むと、私はどこか欠けてるんじゃないかという気持ちが強くありました。でも夫婦の多様な形を知ることできて、楽になりました。鶴見さんも『人間関係を半分降りる』で、夫婦や子どものことについて色々書いていらっしゃって、私も共感できる部分が多かったです。
鶴見 セックスのことも書いてるんですけど、そもそも自分はあまりしたくないというのがあるんです。30代まで彼女はいませんでしたから、していませんでしたし。最近はそういうことも、大っぴらに言えるようになりましたね。でも、やっぱりこだまさんはいち早く書いていた。あと、子どもも別に嫌いじゃないんですけど、かわいいと思っていなきゃいけないみたいな面もあるから。
こだま そういうところがありますよね。実家に親戚の子どもがいるときに、私はほぼ相手できなくて。みんなが「かわいいね」と声をかけている中で、私はうまくあやせなくて、異常じゃないかと思っていました。
鶴見 子どもをあやすときに独特の仕草や態度があるじゃないですか。「何々ちゃん、何々なんだー!」みたいな。そんなこと言えないですよ。俺の尊厳にかけて、そういうことはしたくない(笑)。「よかったねー!」とか。なんでああいう人間にならなきゃいけないのか? おかしいですよね。
こだま 私も本当にやりたくないんですね。女性は特にそういう風に話す人が多いような気がしますが、そこに入れない自分が異常じゃないかと思ってたんです。「子どもがいなくてもいい」「かわいいと思わない」と書かれていて、自分だけじゃないんだと思いました。
──鶴見さんの『人間関係を半分降りる』を読むと、人との付き合い方はもっとゆるくて自由でいいんだと、すごく楽になりました。その楽になり方は、こだまさんのエッセイを読むときと似ているように思います。たとえば、家族について悩んでいる人は多いと思いますが、家族というものはどのように捉えるといいでしょう?
鶴見 やっぱり繋がりの中のひとつだと思うしかないと思うんですよね。自分が生まれたら家族しかなくて、すごく絶対的なものとして迫ってくると思います。でもよく考えたら、人生において血がつながっていない人とのほうが仲良くなっているわけですよね。1回選んだパートナーとも「永遠の契り」なんて考えないで、繋がりのひとつとして、サバサバと利用していけばいいんじゃないか。
こだま そう考えると、楽ですよね。
飽きずに生きる
鶴見 一方でこだまさんはお父さんのことをかなり思っていらっしゃいますね。『ずっと、おしまいの地』を読むと、俺みたいにサバサバしているんじゃなくて、もう少し思いが強いように思いました。
こだま 父が病気してからはそうですね。もう普通に話せる時間が残り少ないかもしれないとなると、緊迫感みたいなのがあって、よく実家に帰るようになりました。それまではやっぱり一歩距離を置いていました。外から淡々と家族のことを書いていたんですけど。
鶴見 やっぱりそうなると見方が変わるんですかね。
こだま 全然変わらない人もきっといると思いますけど、私の場合は変わりました。もう会えなくなっても後悔がないように、今のうちに頻繁に帰っておこうかなと。父が病気になってからは、わがままを言い出す姿も、なんか面白く感じてきて。
鶴見 楽しんでますよね。
こだま だから、傍から見たらすごく悲しい状況にはなってるんだけど、この期に及んでなんかめちゃくちゃ体力あるなとか。突然除雪車を買ってきたりして。
鶴見 どんな状況でも楽しむという、ひとつの技術のようなものでしょうか。
こだま やっぱりもう嫌な気持ちで過ごすより、おかしなところだけ見て面白がっていようみたいな気持ちになってきましたね。
鶴見 こだまさんの指の病気を書いた文章の最後に「自分にとっておもしろい部位になっているかどうか。そういう視点なら病や老いと付き合えそうな気がする」と書かれていましたね。
こだま 指は膠原病の影響で直角に曲がったまま、こぶができちゃって伸びないんですよね。でも、この指はちょっと気に入っていて。変なものを愛でるような気持ちは出てきました。自分が病気になったときも、その中のおかしな出来事を見つけていくようになる。そしたら辛いだけじゃなくて、変で楽しいこともあったなと思える。エッセイを1本書いているうちに、中和されちゃうところはあります。暗く落ち込まずにすむ方法になってますね。
鶴見 自分の過去の体験も、ネタと思えばいいですよね。ほんとに人生を乗り切るテクニックかもしれません。
こだま そうかもしれないですね。普段人と話さないので、自分でなんとかしようと思って書いているのかもしれない。
鶴見 「笑い」はどん底であることとすごく近いんですよね。一見すごくかけ離れているように思えるかもしれないけれど。
昔、辛いときは暗い音楽が気分に合うので聴いていました。でも本当にどん底になってくると、聴けないんです。だからクレージーキャッツのバカバカしい曲ばかり聴いてましたよ。それ以上暗くなったら、もうダメだというのもあるんですけど。そういう状況は笑いと近づいてくる。もうバカバカしいやという気持ちになってきて。
こだま どん底にいるときって貴重な機会だから、今のうちにいろんなものを観察しておこうと思う冷静な自分もいて。嫌なことがあったらあったで、エッセイのネタにはなるし、嬉しいことはそのまま喜べるし。何も別に怖くなくなってきたのはあるかもしれません。
鶴見 『ずっと、おしまいの地』には人生の肯定の仕方が詰まっていると思うんです。地元も見方次第で楽しくて素晴らしいところが見えてくる。人もそうですしね。そういう風に人生を見ることができれば、何も飽きないで生きていけるんじゃないかと思います。
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こだま著の『ここは、おしまいの地』、『いまだ、おしまいの地』に続く、“おしまいの地”シリーズ三部作の完結編『ずっと、おしまいの地』(太田出版・刊)、鶴見済著の『人間関係を半分降りる』(筑摩書房・刊)は現在大好評発売中です。