接続する柳田國男

学び
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しかし柳田は論文や論争そのものを否定しているわけではない。

○各編の論文に関し意見又は所感あり、或は其材料に補正を必要とすることに心付かれたる諸君は、成るべく多く之を編集者へ書送られたい。或ものは之を著書に伝達し、外の一般的興味のあるものは、次々の号に於て之を論文欄の後に附載する。著書自身の答弁訂正の類も、亦最も歓迎する所である。

(柳田、一九二七─1)

このように、投稿され掲載された論文の論旨や資料の不備を指摘・補完する投稿も求めるのである。

とはいえ、これはアカデミックな論争や、まして「査読」の代替ではない。

イメージとしてはインターネット黎明期の掲示板に近い。それはSNSのスレッドにも似て、研究者の「自我」を蹂躙するかのように映るかもしれない。

しかし、これは読み手によってテキストが書き換えられているソーシャルリーディングに近い。

そして、さらに言えば、恐らく柳田の理想型には、Wikipediaのような「集合知」としての研究がある。研究者としてのオリジナリティや自身の固有名に拘泥する、アカデミックな研究とはここでも相容れないとわかる。

だからここで注意したいのは、このような柳田の学問設計がことごとく反アカデミックなものとしてあるのは何故かということである。それは明白で、柳田にとって「民俗学」とは一貫して社会改革運動だからである。このあたりは僕の「公民の民俗学」に連なる議論なので、関連する書籍を参照されたいが、要点のみ記せば、柳田の学問は学術の専門家ではなく近代国家の構成員の啓蒙を目的としている。(大塚、二〇〇七)特に『民族』創刊の頃は、柳田は自分が力を入れた普通選挙が実現しつつあったから、「主権者」育成の運動としてその学問は積極的に作り直されようとしていた。

そのためにこそ、資料のアーカイヴ化と操作の方法が主権者たる人々に必要だった。

それ故、柳田は自らの学問の体系化を試みた『民間伝承論』では、データベースの重要性を改めて、こう記す。

索引の善悪・完全不完全は、学問の内容の進歩を暗示するともいえる。索引を拵えるには索引方法を簡易にするということをまず考えねばならぬ。植物なら葉や花や実の形質によることができるが、この学問の進歩の状態を索引によって知るのは容易しくはない。自分は言葉、方言による索引が都合がよいと考えて居る。

(柳田、一九三四)

いかなるデータベースをつくるかが議論されていることがわかる。そしてこのデータベースはその使用者が特権的な「万人」であることに特徴はある。

秀れた洞察力を持って生れた者は、わずかな材料からでも暗示を得ることができ、しかもその推断は仮定ながらしばしば当たっていることがある。しかしそれは万人に望むべきことでもなく、完全に立証し得られた後に回顧して讃嘆せられるべきであって、そういう非凡にして稀有な人々にのみ、この学問は常に期待するわけには行かないのである。

(柳田、一九三四)

「万人」とはつまり非アカデミシャンを包摂することが自明で、誰もが参加可能になる「学問」を彼はつくろうとしていることがわかる。そして、そのような教養のインフラを「万人」が必要とするのが、普通選挙という新しい政治参加システムの登場である。柳田の学問は主権者が意志決定の根拠として、彼ら一人一人のいる場所・時間を立ち位置として確認でき、「万人」の多様性を俯瞰できる方法を提供しようと考えていたのである。

そのツールなりインフラとして「雑誌」があった。

柳田はこうして幾度かのアカデミシャンとの共同の雑誌を目論み頓挫した後で、一九三五年『民間伝承』を創刊する。それは柳田が考えたデータベース作製そのものを目的とした投稿雑誌であった。

柳田はデータベースを改めて「小さい問題」の「登録」と呼ぶ。

勿論問題は或一員が壟断すべきもので無く、又決して独占し得るものでも無いが、今後同志が互いに少しづつ知り合って、あの人ならばやや容易に結果が得られるだらうということになると、切れ切れの材料はいつとなくそこに集ってきて、自然の知識交易が営まれるかも知れない。少なくとも自分はそういう愉快な場合のみ想像して居る。

(柳田、一九三五)

このように『民間伝承』は「切れ切れの材料」の集積(アーカイヴ)と、「知識交易」(ネットワーク)の二つを目的とし、それが「万人」の学問を担保するという計画からなるプラットフォームである。それ故、『民間伝承』が掲載され雑誌そのものがデータベースの機能を持つようにあらかじめ設計されている。

だからこそ『民間伝承』創刊号には以下の投稿規定がある。

一、会員通信 二百字以内
一、学界消息 二百字以内
一、論説 二千字以内

『民間伝承』創刊号

「論説」、つまり「論文」でも二千字が上限である。そして「会員通信」と名付けられている資料、つまり民俗事象の報告は二百字以内というTwitter並みの文字数である。

このように雑誌を「投稿空間」とするイメージの根底には、柳田國男の明治文学者としての経験がある。

一八九〇〜一九〇〇年代、近代文学の黎明期には「投稿空間」として文芸雑誌があった。柳田は新体詩の詩人としてその投稿者として生き、同時に文学上の盟友・田山花袋らが「投稿空間」として、『文章世界』等の投稿雑誌をつくる様や、そこから言文一致体という「方法」が「万人」に共有されることで「文学」が無名の人々から立ち上がる様をリアルタイムで目撃したのである。

そういう柳田にすれば雑誌が投稿空間であることは当然であった。

ここで明治期の柳田の仕事を振り返ってみるのは無駄ではないだろう。

何故なら、その時点で既に彼の学問設計の雛形は出来上がっているからである。

そもそも柳田は明治文学をゾラの実験小説論が目論んだような、自然科学観察に基づく「自然主義」としてイメージしていた形跡がある。自然主義とはナチュラリズムであり、その意味で明治文学は「文理融合」としてそもそもあった。

しかしそのナチュラリズムが、花袋によって「私小説」という観察の対象を「私」の「内面」にローカライズされたことに反発して、柳田はいくつかの「文学実験」を行う。

その一つが『石神問答』(一九一〇)である。

柳田は同書で「文学」から私的な「文章結構」を削除し、「報告」部分を残してアーカイヴ化しつつ、同時に資料の配列そのものが思索の過程となる、その学問の雛形を試みた。

同書は「石神」をめぐっての柳田の問い合わせに答えた者たちとの往復書簡集である。一人一人は民俗学史に名を残すフィールドワーカーや気鋭の研究者たちだ。山中笑、伊能嘉矩に加え、佐々木繁(喜善)、白鳥庫吉、喜田貞吉らの名が並ぶ。

当然、これらの人々の独自の見解も入る。一方では佐々木繁などは図解入りの正確な「報告」を寄せる。

柳田はそれらを往復書簡集として「編集」するのだ。

目次には報告者の名が並ぶが、この書で注意すべきは三点ある。

一つは目次とは別に巻頭に掲げられた「概要」である。

その冒頭を引用する。

シヤグジ、サグジまたはサゴジと称する神あり …………………………………二七、六六、七一
武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐・遠江・三河・尾張・伊勢・志摩・飛騨・信濃の諸国にわたりてその数百の小祠あり ………………………………………………三一、三五、五五、六六、一九一
シヤグジに由ありと見ゆる地名はいっそう分布広し ……………………………………二七、三〇
本書の目的は主としてこの神の由来を知るにあり ……………………………………二九、一七二
シヤグジは石神の呉音すなわちシヤグジンなりということ現在の通説なるがごとし ………………………………………………………………………………………二八、三二、四〇
石を神に祀れる社ははなはだ多し …………………………………………………………三七、四一
『延喜式』の時代にも諸国に許多の石神社あり………………………四三、六五、一一一、一四六
近代においても石を神体とする諸社のほかに社殿はなくて天然の霊石を拝祀する者あり ……………………………………………………………………………………………三七、一一七

(柳田、一九一〇)

一つ一つの文には「石神」の名称のバリエーションが示される一方、その一文は「報告」が意味する要旨をまとめるものとしてある。

そして、その下に該当するページ数が記される。

つまり、これは「石神」という民俗事象を構成する資料の意味づけされた「索引」であるとわかる。柳田は「民俗語彙」を最終的には索引の項目とすることを選択するが、「報告」のデータベース化はこのように『石神問答』で既に試みられている。

二つめの注意点は、この「報告」の索引を兼ねる一文を順に読んでいけば、「概要」と題されたように「石神」が「サエノカミ」などの境界神であり、それは本来「生蕃」、つまり先住民との国事境界であり、同時に「疫病」侵入を防ぐ民俗学宗教上の結界の意味を有するというコンパクトな「論文」となっていく、という構成となる点である。

つまり「報告」を索引化するだけでなく、「編集」して、そこに一つの論旨が浮び上がる仕掛けが施してある。

三つめは「註」である。一つ一つの書簡は差し出し人の相応の見解も含みつつリアルタイムで書かれたものである。論文のプロトタイプともいえるものも混じる。しかし、その書簡に「註」を付すのは柳田である。捕捉する資料の追加や論旨の短い追記をする。当然、自分の書簡にも註を施す。

これは学術論文に於ける「註」というよりSNSに於ける「投稿」へのスレッドに近い。そもそも「書簡」を集めた『石神問答』事態が「手紙」を介して柳田が創出した「投稿空間」であることは自明である。

このように『石神問答』はデータベースの作成と、それを利用することである種の「集合知」が形成されていく過程を方法論として示していて、それは大正末から戦時下にかけて体系化される柳田の学問の雛形であることがわかるだろう。

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