接続する柳田國男

学び
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つまり「重ね撮り写真」は一方では俗化した「知」として『民間伝承論』の時点ではあった。

坪井は柳田の『郷土研究』と同年の一九一三年に、雑誌『民俗』は創刊された。白鳥庫吉ら柳田と親交のあった研究者が加わっただけでなく、コロボックル論争には青年期の柳田の庇護者であった森鷗外も参画している坪井の言説は当然、柳田に届く範囲にあった。柳田が直接にせよ間接にせよ坪井の説いた「重ね撮り写真」を踏まえて『民間伝承論』に於ける「重出立証法」の比喩として用いたことは十分、考えられる。

だが「重出立証法」のもう一つの文脈として、大正後期に実践された「身体測定」に基づく計測人類学が考えられないか。

「重ね撮り写真」が犯罪者の形質上の特性の抽出という犯罪捜査に「実用面」が期待されたように、身体の細部を分類・測定して容疑者の特定等に用いる司法的人体測定法が明治末に日本に紹介されている。フランスの警察職員アルフォンス・ベルティヨンが十九世紀末に開発したもので、それは個人を数値化されたパーツの組み合わせとして特定するものだ。

この人体測定法は一八八九年、『日本監獄協会雑誌』に紹介されて以降、司法関係の雑誌で断続的に紹介されている。最終的には司法に於ける身元特定手段としては指紋法が採用されている。

坪井もまたこの身体測定を「離島住民」や「被差別民」に適用を試みていた。また、鳥居龍蔵は「飛越能地方人民の頭形」(一九〇五年)に於いて、日本人の身体測定を身体上の地方差を基礎データに「日本民族の起源」を明らかにしようとした。松村瞭は明治末から大正末にかけて学校での身体検査のデータを採用して人体測定法を人類学の手法としようと試みる。

松村の主張で重要なのは、統計から標準値を抽出するのではなく、身体上の差異に注意し、「差異」から起源を遡行しようという方法意識である。  松村は「人類学上より観たる日本民族」(一九二六)でこう述べる。

一国の民政或は一地方における種族の、人種的位置を明かにしようとするならば、記録の上からも、風習の上からも、はたたまたま言語の上からも研究することが出来よう。けれども記録は遡っても限りあり、言語風俗は変化もすれば学び易い性質を帯びている。しかのみならず其の変化は人種の流れにも、文化の流れにも見られ得る場合がある。所が身体上の性質になれば、変化はするにしても言語や慣習のようなことはない。従って人種の研究には体質人類学に基礎を置いたものを、最も価値があるとする。

(松村、一九二五)

ここで重要なのは特定種族の人種的位置の特定の材料として、「風習」「言語風俗」を材料に可能としてる点だ。しかし文化領域の「変化」のし易さや模倣性が「身体上の性質」に比すと資料として正確さに欠く、ので後者を採用すると説く。しかし重要なのは地方差という多様性から「人種的位置」が確認できるという、柳田と共通の思考である。偏差を標準化して平均や本質に意味を見出すのではない。

それでは柳田國男が「重出立証法」の語を用いた時、それはいかなる方法を具体的に意識したのか。

ここで思い起こすべきは柳田のイメージする歴史像である。

柳田には山人論や「海上の道」など起源論は少なくないが、それらは彼が断念したロマン主義、「この世でないどこか」を求める明治の新体詩人としての残滓が時に暴走するからである。従って柳田は『民間伝承論』でも起源論を主張しない。

柳田の歴史観を理解する上で重要なのは以下のイメージである。

さて我々は今日の世相すなわち人間の生活現象を、そのまま歴史の一横断面と見ることはできるのである。この横断面の正しい観念を得るには、かの金太郎飴の断折面を想像すればよい。そこにはあらゆる種類の事象がある。中には連綿として続いたものもあれば、また昨日から生じたばかりの新現象もある。そこに現われているものおのおのの起源はあるいは新しく、あるいは古く、おのおの異っている。日本の地方地方の生活もこの通りであって、今日東京の生活と似通ったものを一つも持っていない土地で、十年後には今日の東京の流行を模倣しているかも知れない。酒を飲む風習にしても、婚姻の儀式にしても、今日の横断面では地方地方でおのおの幾分ずつ異っているのである。しかもその相違を比較すると割合に似通ったものが多い。これが根源が一つであるというと誤解される畏れがあるが、ごくごく些少な差異しか持たぬものを多く集めて比較すると、その根源をきわめ得るということはいえないまでも、少なくともその変化過程だけは看取できるといえる。すなわちある地方では消失してしまったことが、他の地方では残っているとか、遠隔な地方同士で一致したものが存するとか、まったく新風に変化した中に了解に苦しむような古風が存するとかいうような事柄を、多く集めて比較研究すれば、変化した段階は自らよくわかるのである。固有事物の存在、あるいは物に普遍性のあるという考え方は起原論に災いされた考え方であって、前述のごとく、風俗を時代時代に別のものがあるように解するのも誤謬の甚だしいものである。

(柳田、一九三四)

柳田にとって現在とは歴史のその時点での「横断面」である。

例えば、商店街の何気ない風景を見た時、そこには最近のコンビニのチェーンに混じって幾代か続いた老舗や開店時期の違う店がよく見れば混じる。無論、人工的に作られたショッピングモールはそのような風景はお目にかかれないにしても、柳田は「今」を歴史の「一横断面」と見る。様々な時間のスパンを持つ商店街の推移を「今」の時点で切れば目の前の光景となる。そこには経てきた時間の異なる店が並ぶ。樹木や貝殻の「年輪」にも過去から現在が「層」として存在しているが、しかし年輪のように一年で一目盛という単純さはない。

柳田が考える「断片面」とは外形的差異が偏在する「現在」である。

それを「歴史」とするには偏差を時間の推移に変換する必要がある。

これは歴史を起源の時期の異なる事象のレイヤーとして把握する歴史像であるといえる。

だから柳田は「我々の方法」としてこう記した。

我々の眼前に毎日現われては消え、消えては現われる事実、すなわち自分のいう現在生活の横断面の事象は、おのおのその起原を異にしている。この点より考えて、全事象はそのまま縦の歴史の資料を横に並べたのと同じに見ることができる。自分はこの横断面の資料によっても立派に歴史は書けるものだと信じている。自然史の方面ではこれは夙に立証せられたことで、すこしでも問題になっていないのである。自分のごとく歴史は現在生活を説明する学問であると解している者には、この横断面に現われるあらゆる現在生活相を無視することはできない。我々は我々自身の眼で見た事実を重んじ、それを第一の資料とする。自分の考えでは、日本がまだまだもっとモダン化しても、今日まで経て来たプロセス、史的発展の順序は、この横断面をつぶさに観察することによってもわかると思う。

(柳田、一九三四)

地域的差異は「縦の歴史の資料を横に並んだ」ものであり、だからこそ横断面=差異を正確に把握するために正確さとして「観察」が必要である。「重ね撮り写真」の語のうち「写真」とは一つ一つの資料の正確さを意味する。

それでは「重ね撮り」は何を意味するのか。

史学を学ぶ者の道の誇り、外部でその律儀さを誉めそやし傾聴しようとした理由は史料を容易に許さないリゴリズム(厳正主義)であった。しかしこれはいわゆる史実の一回性に伴うものであって、後にも先にもたった一度しか起こらなかった昔の大事件によって、ついでにその囲りの世の様や時の姿を説こうとする以上は、どれほど慎重に記録文書の鑑定をしても、いつまでもまだ安心がならぬのは知れたことである。史かも今まではこれ以外の手段を知らぬゆえに、むやみにやかましい証拠物の批判をしていたのである。ところが一たび我々の求めるような人生事実を、新しい史料を採用することになると、さような苦労をする必要はもうなくなって来る。たとえばこの社会の最大事件、人が飯を食い、妻まぎをするということなどは、過去に何十億回とくり返され、また現前にも到る処に行われている。それほどでなくとも年に一度、一代に一遍は必ずあることが、村ごとにある歴史を告げようとしているのである。私たちのいう重出立証法は、いたって安全に今までの厳正主義に代ることができるのである。しかるに一方では史料を新たにこの繰り返さるる者の中から求めながら、なお旧式の証明手段に縋ろうとする者があるともに、他の一方ではたった一回の事実を見ただけで、それが何らかの過去を示すように説く者がある。かようなうつつなき人々が寄り合って、意見が合致したところがが何になろう。

(柳田、一九三四)

柳田は歴史上の政変や争乱といった異常時が歴史学の対象でなく、日々のあるいは世代間でくり返される「日常」の変遷の確認を彼の学問の目的とする。「重ね撮り写真」のレイシズム性は脇に置くとして、多数のサンプルの中ではその中に一枚か二枚、極端に外形の異なる人間の写真が混じったとしてもそれは出来あがった「重ね撮り写真」には反映し難い。

重ね撮り写真は、「政変」や「争乱」をいわばノイズする柳田の歴史観とリンクすることがわかる。

その是非はともかく歴史記述に於ける「非日常」的資料の過大評価を戒めている。

すでに見たようにゴルトンなり坪井の「重ね撮り写真」は、その結果得られる一つの像に、それが民族学的応用であれば「民族」、つまり「日本人」の標準なり本質として見てとろうとするものだ。それがレイシズムにも繋がる。

例えば柳田民俗学への、民族学側からの批判者は戦後、日本人の「エトノス」抽出のための民俗学を主張する。あるいは柄谷行人は柳田の起源論が民族心理学と結びついた結果としてある「固有信仰」論に足を掬われる。

しかし柳田の言う「重ね撮り写真」は、何より、「歴史」を一葉一葉の写真のレイヤー、重なりとしてイメージするものだ。つまり「重ね撮り写真」論は歴史の総体をレイヤーとして比喩するものであり、ゴルトンのような本質論とは実は、異質なのである。

従って『蝸牛考』に於ける方言周圏論の分布図は、レイヤー化した歴史のイメージであって、立証すべき仮説ではないことを注意せねばならない。

こうして見た時、柳田の「重ね撮り写真」という比喩は、坪井式の「重ね撮り写真」そのものとは大きな乖離があるとわかる。

明治期、台頭する自然主義文学、中でも私小説を半ば揶揄するように、覚え立ての写真機を身近に向けたピンボケ写真と揶揄して以来、写真は柳田の方法の常に比喩としてある。そのことは実は柳田の方法のメディア性とでもいえる側面である。

このような「写真」を比喩とした方法論の整理はこの後、実際に柳田が「写真」そのものに接近していく中で整理される。

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