何もない“おしまいの地”に生まれた著者・こだまの、“ちょっと変わった”人生のかけらを集めた自伝的エッセイ集「おしまいの地」シリーズ。『ここは、おしまいの地』『いまだ、おしまいの地』に続く三部作の完結編『ずっと、おしまいの地』発売を記念して、シリーズ第1作目に続き、シリーズ第2作目となる『いまだ、おしまいの地』からも6つのエピソードを特別に公開します。
今回は、思い通りにならない“ココロ”と“カラダ”について。
12月に入って原稿が全く進まない日が続いた。パソコンの前で頭を抱えたまま時間だけが過ぎてゆく。一文字も打てない。
年明けに編集者と会って原稿を見せる約束をしていた。もう何カ月も先延ばしにしてもらっていたから、どうしても仕上げたかった。
曇った窓に息を吹き掛けて磨いたら大掃除とともに心も晴れるだろう。そうやって自分の気持ちを適度に放っておいたけれど、クリスマスを迎えても、実家の大きなテレビで紅白を観ていても落ち着かない。何も楽しめない。今回の「書けない」は頑固だった。
「冬季うつ」というやつだろうか。これは日照時間の短さが関係するといわれている。確かに、この北の果ては雪に覆われ、日中も夕方のように薄暗い日が続く。
昨冬も同じ状態が続いた。わけもなく落ち込み、家の中を片付けられない、何日も風呂に入れない。買い物にも行けず、夕飯の用意ができなかった。
そんな八方塞がりの日々から抜け出そうと、昨年はスープを作っていた。コンビニの書棚に並ぶレシピ本の「ココロとカラダをいたわる」という文字に惹かれたのだ。
約90品目が掲載されていた。1日に一品ずつ飲んでいけば春までに健全になるんじゃないか。我ながら良い思いつきだと思った。冷静に考えればその行為自体が強迫めいているのだが、「何かやらなきゃ」と立ち上がっただけでも前進だった。
その日から、私は私のためだけにスープを作り始めた。レシピの横に日付を書いた。12月21日「キャベツの巣ごもりスープ」。健康重視のためか、見た目はそれほど美味しそうには見えない。材料をメモして毎日買い物に出かけるようになった。時にはポリ袋に入れたアボカドを麺棒で潰すことに快感を覚えた。さりげなく出てくる「蟹の缶詰」に恐れおののいたりもした。その習慣も、2月8日「高野豆腐の五目スープ」を最後に途絶える。掲載された半分ほどのスープに手を出さないまま。
陽の落ちかけた台所でひとり、鍋と向き合っていたはずなのに、残念ながら肝心の味は思い出せない。「味わう」ことが目的ではなかったからかもしれない。料理というよりも「トレーニング」だった。
本に残された日付と調味料の染みは、まるで日記のように当時の記憶を呼び起こす。「苦しい、苦しい」と綴り始めたそれは、いつしか自分のために鶴を折るような作業に変わっていった。ひとつ、ひとつ、祈りを込めて。ここから抜け出せますように、と。
結果的にスープの力なのか、雪解けの兆しに合わせて気持ちが上向いてきたせいなのかわからず仕舞いだったけれど、春を迎えるころには普段の自分に戻っていた。
今年の冬も目の前の壁をなんとか乗り越えたい。
さて、どうしようかと悩んでいたとき、通い始めたペン字教室で、たまたま隣の席に座った九十歳の女性にこう言われた。
「私は、あと何年生きられるかわからないの。いまのうちに何でもやっておきたいじゃない。あなたは若いんだからもっと表に出て刺激を受けなさい」
聞くと80歳を過ぎてから華道や茶道を習い始め、最近ではプールにも通っているという。彼女はいつも背筋が伸びていて、身だしなみにも気を遣っている。品があって素敵な人だ。
「もっと表に」。その一言は私の背中を押した。
* * *
正月の賑わいも終わりを迎えたころ、私は妹夫婦の家へ泊まりに行った。
彼女には小学生の息子がふたりいる。冬休みで暇を持て余す兄弟の相手をしてほしいと、かねてから頼まれていたのだ。
居間に通されるなり兄弟が駆け寄ってきて「スマブラやろうよ」とゲームのコントローラーを渡された。「相手」とは、このことだったらしい。
その単語は耳にしたことがあったけれど、ゲーム名だとは知らなかった。そういう次元からのスタートだ。私のゲームの知識は小学生時代のファミコンで止まっている。
テレビの画面を見ながら戦うらしい。
「これってどういうゲームなの? どのボタンを押すの?」
「いいから早くキャラを選んでよ」
私の問いかけを完全に無視し、兄弟が急かす。画面にキャラクターがたくさん現れた。どれが強い技を持っているかなんて当然教えてもらえない。知らない顔だらけの中、ピカチュウを選択した。この黄色い生き物は、かろうじて見たことがある。
「私は誰と戦うの? 何のために戦うの? どうなったらゴールなの?」
再び兄弟に無視され、画面が切り替わった。
わたくしピカチュウは狭い崖の上に立たされ、何者かに素早い動きでボコボコにされ、爆弾をぶつけられ、最後には自らその崖から身を投げた。ものの数分であっさり絶命した。
「弱すぎじゃん」
「半日だけ練習させてちょうだい。強くなってから勝負する」
「うちはゲームの時間が30分って決まってるから駄目だよ」
おとなげなく懇願するも、謎の家庭内ルールにより、あっさり却下された。
だが、あまりにも不憫に思ったのか「カービィなら、ふわふわ飛べるよ」と生き延びるヒントを与えてくれた。
ピンク色のカービィ。この顔も見たことがあった。
わたくしカービィは画面の左右で弾んでいるうちに両サイドから雷のような爆撃を受けた。兄弟に挟み撃ちにされた。やはり最後には崖から落ちてしまった。これはライバルを崖から落とすゲームなのだろうか。
「下手すぎてつまんないんだけど」
小学生にそう言われ、無性に悔しかった。私は負けず嫌いなのだ。このままではいけない。明日までに知恵をつけて兄弟を驚かせてやろう。
そう思って裏技を検索したけれど、そこにあふれるカタカナの意味を理解することができず、頭が痛くなってそっとブラウザを閉じた。知恵すら得られない。
スマブラ。あれは何をするゲームなのだ。なぜあの人たちは家族ぐるみで一切ルールを教えてくれないのだ。スマブラに思いを馳せる日が訪れるとは思わなかった。
その晩は子供部屋のベッドが私の寝床になった。枕元にはピカチュウのぬいぐるみがある。その何も見ていない黒い瞳が闇の中で光っていた。
ゲームに強くなって甥に尊敬されたい。
このままではスマブラを買ってしまう。1年かけてひそかに練習してしまう。
夫が出勤するや否やコントローラーを握る姿を想像しながら眠りについた。
翌朝六時半に起きると、すでに家族はそれぞれ慌しく動いていた。
妹と義弟Mはその日が仕事始めだった。妹は朝食の用意をしつつ自分のお弁当を詰め、義弟Mは風呂と洗面台の掃除をしている。日当たりの良い窓辺に洗いたての洗濯物が干してあった。これも義弟Mが出勤前に行う家事のひとつなのだ。結婚以来続いている彼らの分業に無駄な動きはひとつもなかった。
私と兄弟が身支度を終えると、全員そろって食卓についた。トーストと果物と飲み物。朝食はフライパンを使わず、さっと用意できるものと決めているようだ。
ちゃんと生きている人たちだ。
毎朝こうして1日を迎えているのだ。
清潔に保たれた家で、それぞれの役割をまっとうしながら。
何もしていないように見えた兄弟だって、小学校低学年なのに親に注意されず歯を磨いたり顔を洗ったり着替えたりできるなんて素晴らしいじゃないか。
何でもない顔で、何でもないことのようにこなしている。この家族が積み重ねてきた日々を思い、泣きそうになった。
妹が先に出勤した。義弟Mはそれを見送り、掃除機をかけ始めた。さすがに「私も何か手伝わなくては」と立ち上がり、シンクに積まれた食器を洗う。
「ありがとう、助かるよ」
その声に顔を上げると、彼が食卓に除菌スプレーを吹きかけ、丁寧に拭いていた。
そこまでするんだ! 回転寿司のカウンターにも負けぬ清潔度!
感心しきりの私に気を留めることなく、「じゃあ留守番よろしくね」と言い残して彼も出勤した。片手に可燃ゴミの袋を持って。完璧だ。
兄弟も間もなく出かけるという。
「それまでちょっくら戦いましょうかね」
兄がそう言い、弟と私も誘いに乗った。
彼らが持ってきたのは小型のゲーム機だった。
「それ何ていうゲームなの?」
「パズドラだよ」
これもよく耳にしていたけれど、目の前で見るのは初めてだ。彼らの手元を覗き込むと、昨晩のゲームよりも面白そうに見えた。
「おばさんもやってみたい」
「おばさんにも貸してよ」
何度も催促するが返事はない。そうこうしているうちに「ゲーム時間終了です」と兄の声が響いた。30分経過していたらしい。ふたりは片付けをして、さっと出かけていった。ケチだけど、しっかりと育っている。
私は忘れないように「やるならパズドラ」と手帳にメモした。
部屋を清潔に保ち、ゲームをする。生活に張りが生まれ、反射神経も良くなり、甥にも尊敬される。去年はスープ、今年はゲーム。私は私のやり方で出口を見つける。
* * *
本書では、集団お見合いを成功へと導いた父、とあるオンラインゲームで「神」と崇められる夫、小学生を出待ちしてお手玉を配る祖母……など、“おしまいの地”で暮らす人達の、一生懸命だけど何かが可笑しい。主婦であり、作家であるこだまさんの日々の生活と共に切り取ったエッセイが多数収録されています。
また、こだまさんの最新刊『ずっと、おしまいの地』は絶賛発売中! ぽつんといる白鳥が目印です。
筆者について
エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。