接続する柳田國男~災厄後の民俗学と「実験の史学」という問題

学び
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[2]柄谷行人の災厄後の柳田論

さて、[1]で、①柳田國男の「学問」がロマン主義と社会への双極性であること、②そして「社会」への「揺り戻し」が関東大震災や敗戦という「災厄後の思想」としてあることについて概観した。この章で問題としたいのは「災厄後」の思想としての柄谷「山人」論の性格についてである。それをぼくは偽史的とまでは言わないが、柄谷における「先祖」や「固有信仰」と言う概念のロマン主義的ブレを検証する作業を通じて柳田國男の学問をもう少し精緻に描けるのではないかと考える。

柄谷行人の最初期の仕事に「柳田国男試論」(1974)「柳田国男の神」(1975)があり、十年を経て「柳田国男論」(1986)が書かれる。最後のものは『ヒューモアとしての唯物史観』(1993)に収録されているが、この三作の柳田論は長く柄谷の中では放擲されていた印象である。太田出版から刊行された『新現実』に「試論」の一部が再録された折は校正を読まなかったとさえいう。

その柄谷が、2013年に『遊動論──山人と柳田国男』を上梓、同時に未刊行の柳田論三作をまとめて刊行し、以降、柳田は柄谷の批評に突然、重要な位置を占めることになる。

柄谷の中での柳田の「復興」の理由は二つあると繰り返し語られる。

一つは『世界史の構造』(2010)に於いて充分に理論化できなかった「遊動民」の問題の整理のために、「山人」が召喚されたことにある。今回はこの点には踏み込まない。

しかしもう一つ、柄谷は柳田の召喚の理由に「東日本大震災で大勢の死者が出た」ことを挙げる。自身は反原発運動に参加もしたが、それだけで「片付かない気持ち」があり、柳田が敗戦直前に橋浦泰雄と炭を焼きながら執筆された『先祖の話』を読んだことが、柳田を改めて論じるきっかけであったとする。

つまり『世界史の構造』という柄谷の論理的な仕事の精緻化と、対して、「理論」に回収されない「気持ち」という双方から柳田に回帰しているのである。その「気持ち」を無下に否定はしないが、しかしそれが柄谷を不合理ななにものかに向かわせてはいないか。

無論、それは柄谷には自覚はされている。

だから柄谷は素直にこう記す。

『世界史の構造』(二〇一〇年)を書き終えた後、私は急に、柳田国男について考えはじめたのである。それは一つには、二〇一一年に東北大震災があったからだ。だが、別の視点からみれば、それは私の中で、「文学」と「日本」が回帰してきたということなのかもしれない。

(柄谷行人『世界史の実験』2019年、岩波書店)

柄谷が文学についてもう論じないといったのは、中上の死が一つの契機だが、震災によって「文学」とともに「日本」までもが柄谷の中に復興したと言う。つまり、柄谷の柳田論は「災厄後」の思考として、柄谷の中では自ら位置付けられている。

しかしそこで、「文学」のみならず「日本」にまでも回帰したということはどう理解すればいいのか。柳田が「郷土」でなく「郷土」で「日本」を研究すると言ったのに倣い、「日本」を素材に「世界史」を構築すると「山人」の導入を善意に理解はできなくない。ましてこの一行の引用を以て柄谷の転向や日本回帰などと言うつもりはない。しかし理論として柄谷の「世界史」に組み込まれていた「山人論」と「気持ち」の受け皿としての『先祖の話』の間に明らかに乖離がある。

この、柄谷の変化は、一見して、柳田が「災厄」をターニングポイントに双極性の中で彼の学問を構築してきたことを連想させもする。しかし柳田の「災厄後」が、ロマン主義的民俗学の放擲と社会化であるのに対し、柄谷は柳田のロマン主義的民俗学へと傾斜しているのではないか。つまり向かうベクトルが真逆のように思える。それが「災厄後の思想」として『先祖の話』を受けとめることに繋がりはしていないか。

それにしても、柄谷が震災後、彼の中に「文学」が「回帰」したと言う。これはどういう事態か。だからといって柄谷は殊更、中上健次やあるいは近代文学について再び何かを語ったわけでない。ただひたすら柳田國男について語っている。

つまり「文学」とは、柳田の仕事を指すように思う。

ぼくは柳田の仕事を「文学」と言うことに異論は全くない。柳田の双極の学問は一貫した「方法」に貫かれている。少なくともそうありたいと願っていた。だから柳田は花袋の死後、花袋の文学と自分の仕事を合わせて「自然主義運動」と呼んでもいる。明治期の文壇ゴシップには小説を書かない文壇人として登場するが、柳田にとっての[方法]はあくまでも[文学]のそれ以外の何物でもない。

この「自然主義運動」は柄谷の新旧の柳田論が「実験」の語で把握しようとする「方法」と同じである。「ロマン主義民俗学」も「公民の民俗学」もともに「自然主義運動」によって柳田の中では方法的統一をとろうと試みられる。

柄谷に戻れば、彼の新しい柳田論で中心的に召喚されるのは「山人論」であり、『先祖の話』である。『海上の道』「小さき者の声」を扱う子供論にも敏感に反応する。子ども論は、柳田の中では起原論的であるかシャーマニックな傾向のあるものだ。つまりロマン主義色の強い文章に魅せられ、一方では「実験の史学」を方法として強調する。それは柳田の双極性の一方、ロマン主義的欲望に自然主義的方法を適用させようとする態度にも似る、とすれば両者には同じ隘路に向かわないか。

柳田は「歌のわかれ」に於いて、ロマン主義的新体詩やハイネなどの「文学」を放擲している。『遠野物語』の冒頭にグリム童話集の序との重複が見られるが、同書にロマン主義的な民族精神の高揚は当然、皆無である。他方、説話の提供者(インフォアマント)である佐々木喜善が、自分の口から出た東北の世間話の類が柳田の手に掛かると西欧のそれに見えると、無邪気な感激を手紙に示している。喜善は最後まで柳田が西欧のロマン主義と彼の学問の間に引いた「実験」という方法の境界線の存在を理解できない人であったが、柄谷は当然違う。「実験」という方法に支えられるからこそ柄谷の「世界史」の中にロマン主義を出自とする「山人」論は接続が可能なのである。

その意味で『海上の道』も『先祖の話』も柄谷は彼らしい合理性を以てその批評の中に位置付けてはいる。

しかし、柄谷の柳田論が「日本」と「文学」への「回帰」だとした時、ぼくが困惑する問題が二つある。

一つは「固有信仰」が柄谷の中では批評の論理性からは逸脱して「気持ち」の領域に受容されているのではないかという疑問。

二つめは柄谷による柳田の方法の理解が「起源論」に傾いていること。

これらはいずれも柳田がロマン主義民俗学に傾斜した時に見せる傾向でもある。

後述するように柳田の「方法」が描き出す世界像は、「起源」と「多様性」の二つの間を揺れる。「起源」とは「日本人」でも「日本民族」でもいいが、その来歴である。「多様性」とは列島の内/外で文化の偏差を体験し、それを空間と時間の二軸の中で「実験」するもので、柳田が主権者の資質とする「史心」に相当する。いわば唯一のオリジンに向かうのが起源点なら「史心」はそれぞれがそれぞれの場から提示され、体感される(ここが重要である(ヽヽヽヽヽヽヽ))パースベクティブである。

このような「揺れ」は柳田の中に一貫してあるもので、同一の「方法」や「資料」から導かれながら向かう先は常に二極化しているのだ。そして柄谷の震災後の柳田論は「固有信仰」と「起源」といういわばロマン主義的な「日本」に接近している。

そのことを考える上で、柄谷の理解する柳田の「方法」が初期柳田論と震災後の柳田論の中でどのように変化したかを手続きとして確認しておく。

新旧柳田論に於いて柄谷は「実験」という語に重きを置く点は一貫している。この点は正しい。柄谷は柳田が「郷土研究と郷土教育」に於いて「史学は果たして科学なりや」という問いから「実験といふ方法」を立論したことを踏まえ、同論文から以下の一節を引用する。

次には實驗といふ方法、是も亦決して自然科學だけの専賣特許では無い。實驗は必ずしもレトルトや顯微鏡等の操作のみを意味して居らぬ筈だ。さういふ直截簡明なる實驗は、なんぼ幸福なる自然科學でも、必ずしも其全部には許されて居ない。早い話が生理學の大部分である。

(柳田國男「郷土研究と郷土教育」『國史と民俗學』1944年、六人社)

柄谷はここから「実験」という「方法」は「現存している人々の「意識」において確かめうることからにもとづく」「たまたま遺された資料に依存するのではない」と理解する。

しかし、この引用はこう続くことに留意したい。

天文學なども亦さうだと思ふ。あのきらきらと光る小さなものゝ一つを、右から左へ置きかへたらどうなるかは、面白い空想であつても之を試みる途は無い。つまり此方面に於ての實驗は、たゞ念の入つた計畫ある觀測に過ぎない。最も辛抱強い長期の、又何度かくり返さるゝ觀察を以て之に代へて居るのである。此種の實驗ならぱ新らしい史學に於てもきつと出来る。現在はまだ一般にはそこ迄進んで居ないといふのみで、さうすべき必要は迫つて居る。乃ち文化科學は決して不可能では無かつたのである。

(「郷土研究と郷土教育」)

「実験」とは実験室の中で試みられるものではなく、天文学が星の運行を観察することも「実験」とする。このような長期に渡る事象を「観察」することも「実験」とする。

つまり「実験」とは「歴史」にも対応できる「観察」方法なのである。

このように柳田の「実験」論は「歴史」を、古文書など文献資料を「読む」のではなく「観察」によって把握可能と考える。そして、その「実験」的方法を可能にするのは以下の如き「歴史」像である。これも柄谷の引用部分を丸ごと引用する。

私などの企てゝ居る研究では歴史は竪に長い細引のやうなものとは考へられて居ない。寧ろ是を考察する者の属する時代が、切つて与へたるーつの横断面と見るのである。此横断面に頭を出して居る史実、即ち過去にあつたらしき事実の痕跡は、実際はその過程の色々の段階に於て自分を示してゐる。我々の社会生活は決して均等には発達し展開して居ない。是には新しい文化がいつも都市といふ僅かな中心から、入つて来たといふことがーつの大いなる便宜であつた。即ちその文化改革の中心からの距離が区々である為に、所謂おくれた地方又は人を生じ、是に又無数の等差が認められるのである。殊に日本はこの横断面の、最も錯雑した国であつた。山嶺の区劃があり、多数の小さな盆地の孤立があつた。さうしてその区々の文化は、今までは多く他の振合ひを見ずに展開し、従つて甲乙丙丁の間に、種々なる変化と偶然の一致とがあり、互ひに遠く隔絶した土地の多くの一致は、概して其根原の年久しいことを思はしめる。それよりも尚著しい我邦の特徴は島の分立であつた。

(「郷土研究と郷土教育」)

これは歴史を「レイヤー」として考える思考であるといえる。

そのレイヤーの層は、実は注意して観察すればしばしば剥き出しになっていると柳田はイメージする。

例えば一つの「風景」が現在形であるとして、しかしそこで目に映る一つ一つの建造物の建築された時代は異なる。近世の商人宿の玄関、大正期のモダニズムの窓、あるいは看板建築からコンビニやファストフードのチェーン店まで一つの風景の中に時間が「層」になっている風景を思い浮かべればいい。対して郊外に駅とショッピングモールが同時に創られたような空間では空間はレイヤー化していない。

ぼくは神戸の大学に赴任していた頃、神戸震災で焼失し、その後に駅や団地、マンションが同時に建設された長田区のある駅に立った時、軽い吐き気に襲われた記憶がある。そこにあるもの全てが同じ時間から始まっている風景であること、つまり時間のレイヤーの不在への困惑である。例えば同じ神戸でも三宮の駅なら震災の後での補修部分だけでなく、例えば高畑勲のアニメ『火垂るの墓』で主人公の少年が息絶えた柱がまだあり、一歩外に出ると同じくアニメの背景としても記憶のある六甲山の稜線が見える。無論、そういうことの一つ一つを普段は意識しない。しかしそうやってレイヤーとして歴史の「古層」の所在と重なり合いを空間の中に見てとる。これを「観察」するのが柳田の言う「実験」である。

この「観察」は、建物などのマテリアルなものだけではなく当然、民俗習慣や民俗語彙、説話などの「民俗」に於いても適用される。その時に明らかになるのは同一、あるいは類似した事象の「無数の差異」である。

柳田の「方法」の本質はこの「差異」、つまり文化の「偏差」の所在をいかに観察し記録するか、ということにある。その「記録」方法が、戦時下の写真論や文化映画に接近することで鮮鋭化したことは前回、見た。

問題はこの「偏差」から何を(ヽヽ)読みとるか、ということである。

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