最後の交渉と機動隊導入──そして「二・二協定」へ – OHTABOOKSTAND

最後の交渉と機動隊導入──そして「二・二協定」へ

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終戦の年に生まれ、学生運動が激化していく1960年代に二十歳(はたち)の時代を過ごした元日本赤軍闘士・重信房子。6月16日に発売された重信房子・著『はたちの時代 60年代と私』(太田出版・刊)は、22年ぶりに出所した著者が、「女性らしさ」から自分らしさへ、自ら綴った決定版・青春記となっています。
OHTABOOKSTANDでは、本書より厳選したエピソードを一部抜粋し、全7回にわたって紹介します。

第7回目(最終回)は「第六章 大学当局との対決へ」より。学費値上げ反対闘争はついに暴行流血事件を引き起こす……大学当局と学生らが出した結論とは──。

対立から妥結への模索

 学生が入学試験阻止闘争を検討しているとして、1月に入ると、体育会系の「学園封鎖抗議集会」が91番教室で開かれました。以後、理事会の動きと連動するように、学生自治会に対抗して体育会が動き始めたのです。

 体育会は1月14日「学園封鎖抗議集会」で宣言文を採択し、自治会と一触即発の緊張が続いていました。理事会が値上げを公表してから、黒龍会の幹部と噂される島岡野球部監督が動き出しました。体育会を動員して、団交でも前方座席を体育会に暴力的に振り分けるなど、采配をふるい始めたのです。12月から1月にかけて、この動きが激しくなります。

 1月18日に、全学闘争委員会と、学生部長による覚書きがかわされて、1月20日に記念館で、話し合いをもつことが決定されました。学生は教授たちに共闘を呼びかけました。

「私たちは、教授会内の学費値上げに反対する良心的先進的教授諸氏に訴えます。腐敗・堕落した教授諸氏を弾劾し、私たちの共通の目的である『白紙撤回』獲得の為に、私たちとの固い連帯のスクラムの中で、最後まで闘って行こう」と。

 3月5日の『朝日ジャーナル』によると、「定刻の三時間前に、記念館講堂は満員、まわりの500人から1,000人入れる4つの教室にはスピーカーで流したが、そこも一杯。御茶ノ水駅から長蛇の列、消防庁から抗議まできた。団交では、学生が教育のビジョンを要求すれば、理事会は経営の困難さを訴え議論は、かみあわない。この日もむなしく空転」と、記事になっていました。

 この日は、恐怖の団交でした。島岡監督の指令を受けた体育会、柔道部や相撲部、野球部、レスリング部などが、前方座席に座る学生を暴力的に排除して、数百人分の席を占拠しました。そして、壇上で、学生側の発言が始まると「ウルセー! バカヤロー」「だまれ」などと妨害します。敗けずに学生の多数は拍手して、壇上のみならず座席もゲバルト合戦となっています。そして、学生側も棒で徒党を組んで対抗措置をとりました。その後、体育会側は、大学に要請文をつきつけました。

「20日の記念館での混乱でおわかりになったように我々は、会場警備にあたっておりましたが、学生一般及び体育会員の異常な熱気は、現状については、もはや体育会本部にしては制しきれない様になりました。この事に関し、大学側の今後とられるであろう処置についてどうお考えか、明らかにするよう要請します。1月24日 体育会本部」と、暗に警察の介入を求めています。

 25日に再び団交が行われましたが、600人収容の91番教室に体育会ゲバルト部隊が集まっていました。学生服の腕を白い紐で縛って、これからのゲバルトに際して仲間同士の印をつけています。樫棒が運び込まれ、島岡監督が激を飛ばして一触即発の対峙状態でした。この時は学生会の全学闘争委員会も学苑会の全Ⅱ部共闘会議も、流血を避けて挑発に乗りませんでした。

 再び1月21日と26日、大内委員長と学生部長は話し合いを持ち、打開を求めて、学生部長が個人的に「案」を提起。大内委員長も個人として、この筋でまとめていこう、と話し合ったようです。この「案」をもとに話し合おうとしたことが、後の「二・二協定」妥結につながるのです。

 その内容は、異常事態を解決するために双方努力すること。理事会は、学生の要求と話し合って、学内改善方針を67年3月までに決定すること。学費値上げ分は、別途保留して、3月方針の決定を待ってから予算計上する。それが同意されれば、1月30日から、授業再開が可能となるようにする、という内容です。

 そして、「1月30日に学園が正常になった際は、報道機関を通して、大学と学生会との連名でもって、本学の新しい出発を声明するものとする」と、原案は述べています。この妥結案を、宮崎先生は、こう書いています。

 理事会側も学生側も、大筋において異論が無いようだった。ようやく、妥結への灯がほのかに見えてきたように思われた。しかし、この妥結案の内容を公開の場で確認する必要があった。学生側は、1月28日に和泉校舎で理事会側と学生側との公開の話し合いを行い、その場でこの妥結案を公表して妥結の方向にもっていきたいという意向だった。話し合いを行うことには、理事会側も同意した。朝日ジャーナル記事の中に「このころ、すでに斎藤克彦三派系全学連委員長と武田総長との間に裏交渉が進んでいた」(67年3月5日号)とある。学生部長・大内委員長の線とは、別に武田総長・斎藤委員長にも交渉があったようである。しかし、全学闘争委員会の委員長は、大内義男君であり、学生部長と大内委員長の話し合いが非公式交渉の主流であったと言ってよいだろう。

 斎藤全学連委員長にばかり目を奪われていましたが、大内さんは学園正常化に集中していて、斉藤さんに同調していたというよりもむしろ、反発すら持っていたようです。歴史的にみると、こうして、妥結案をめぐって話し合いが行われました。大内さんの出身、工学部生田校合では、妥結を受け入れました。しかし28日和泉校舎では妥結反対の大衆団交と化していき、決着が着きませんでした。決着は再び、29日、神田校舎に持ち越されました。

 この宮崎・大内作成の妥結案によって、各党派、ブントを含めて明大社学同批判が席捲することになります。値上げを前提としているからです。そうした中で、1月29日に生田校舎ではバリケードが撤去され、和泉では妥結反対。神田の29日の団交は流会となりました。

「学生部報・号外(1月31日付)」は、「1月29日午後四時記念館講堂で行われる予定であった学費値上げ問題についての会合(全闘委側回答をめぐる)が開かれる前に全闘委の学生たちと、体育会を中心とする学生たちとの間に乱闘が生じ、後者に13名の重傷者を含む負傷者46名を出す異常状態が現出されたので、記念館での会合は中止となった」と述べています。

 Ⅱ部共闘会議の学生たちが、200数十人、棍棒ヘルメットで武装して、乱闘が行われた、と。明大外の部隊を中心とするそれら勢力が、体育会を中心とした団交の前列に占める学生らを襲撃したと、号外は述べています。この乱闘事件は、その前段で体育会が暴力で座席を占拠して、学生会支持の学生たちを殴りながら追放した結果起こったことでしたが、号外ではそれらは触れられていません。

 こうした暴力流血に対し、打開にむけて理事会と学生側で場所を移して話し合うことを、学生部長の仲介で合意しました。そして午後になって、大学院第一会議室で話し合いが持たれました。これから、機動隊導入「二・二協定」という流れに一気に突き進むのです。

最後の交渉と機動隊導入

 29日の流血のあと、緊急に場を大学院に移した話し合いは、司会に宮崎学生部長と学生側長尾健。理事側は長野理事長、武田総長、小出学長他7名、全学闘争委員会は大内義男委員長、菅谷書記長他8名、全Ⅱ部共闘会議の酒田征夫議長、花部利勝副議長他7名の参加です。

 ここで、28日理事会提案に対して、全学生側の回答を得る場として当局は設定しました。しかし、学生側は白紙撤回を求めて、座り込み部隊300余名が会議終結を許しません。十数時間後の30日朝、学校当局側(学部長会議)は、警察の出動を要請して、理事たちを「救出」しました。

 その直前までは、全学闘としても学園の正常化をしたい。次のことが認められれば、理事会提案を受け入れ授業再開のため、即時バリケードを解くというところまで合意が進みました。(一)理事会が教育・研究財政問題を根本的に解決する姿勢で努力すること、(二)値上げに関しては、実質的に白紙の状態に付しておく様希望する、というところで妥結に近づいていました。

 結局、「白紙撤回」という字句を認められないとするやりとりや、学生部長からの妥協案などのやりとりが続いていました。95番教室1,000人、150番800人、140番1,000人、各教室には体育会を含む数千人の学生が膨れ上がって、成り行きをスピーカーで報じられつつ待っていました。

 29日の夜十時前、妥結点と未解決点を確認して、会議を終えた学生・理事会双方が、140番教室で説明会を行なうことになりました。宮崎教授によると、Ⅱ部の全学共闘会議と他校からの部隊が移動を阻止して、缶詰状態になってしまいました。そして、「大衆団交をひらけ」「理事会は学費値上げを白紙撤回せよ」と、出室を拒否して、バリケードを築き、「つるしあげ」が延々と続きました。

「機動隊がきた!」のデマで浮き足立ったり、混乱が深まって夜が明けました。この頃、学部長会議が警察隊に30日朝7時、理事救出の要請を行なったのです。このことは会議場にも通告されました。昼間部の菅谷書記長は「退場してバリケードを再構築しよう」と、呼びかけました。それに対してⅡ部の側が、継続を要求して対立し、昼間部は会議室から退場しました。しかし、機動隊が来ることがわかると、昼間部の大内・菅谷全学闘執行部も会場に戻って、Ⅱ部の学生たちとスクラムを組んで、インターナショナルを歌いながら機動隊をむかえました。

 大学当局の要請は、理事救出のみだったので、7時15~20分、警察機動隊は窓を破って理事を救出し、撤収しました。こうして結局は、警察の介入に結果したわけです。30日、その日すぐ透かさず、理事会の意を受け島岡野球部監督らが中心となって体育会を動員し、バリケード撤去に動きました。そして、その日のうちに神田校舎のバリケードはすべて解除されてしまいました。

 その上で、『学園は理性の場であり、大学内に棍棒などの凶器を持ち込むことは、大学に対する重大な侵害行為である。ただちにこれらのものを、大学外に持ち出し、所持者および明治大学教職員学生以外の者は、ただちに学外に退去するよう命令する。1月30日 明治大学学長』『本日、明治大学のストは、学生の手によって解除されました 1月30日 明治大学学長』『全学闘争委員会、全Ⅱ部共闘会議の解散を命じる 明治大学長』と、正門に通告告知がなされました。

 こうして、学生大会によって決定された学生の闘争機関の解散を当局が命令するという事態に至ったのです。和泉とⅡ部の学生指導部、およびブントを含む党派の外部勢力は、大学当局の暴挙をはげしく批判しました。私のようなレベルの人々も、この機動隊導入で、逆に闘争の継続を強く主張するようになりました。

 後に知ったことですが、神田署から学長と学生部長に「被害届」を出すように求められたようです。理事救出の警察出動した件で、被害者からの届出が必要ということらしい。しかし宮崎先生は「学生部長は学生を守る立場にある。その者が処罰を求めるような届けを出すことはありえない」と拒否しています。後に学長が被害届を出したと聞いて2月8日、宮崎先生は辞表を提出し、3月いっぱいで学生部長を辞めています。

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※この続きは本書にてお読みいただけます。
重信房子・著『はたちの時代 60年代と私』(太田出版・刊)は、全国の書店・各通販サイトにて好評発売中です。

筆者について

しげのぶ・ふさこ 1945年9月東京・世田谷生まれ。65年明治大学Ⅱ部文学部入学、卒業後政経学部に学士入学。社会主義学生同盟に加盟し、共産同赤軍派の結成に参加。中央委員、国際部として活動し、71年2月に日本を出国。日本赤軍を結成してパレスチナ解放闘争に参加。2000年11月に逮捕、懲役20年の判決を受け、2022年に出所。近著に『戦士たちの記録』(幻冬舎)、『歌集 暁の星』(晧星社)など。

  1. 終戦、高度経済成長、そして父の教え…元日本赤軍闘士・重信房子が明かす『はたちの時代』の前史
  2. 1964年の就職と進学…当時18歳の重信房子が幻滅した「世間」という現実
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  4. はたち 希望にみちた学生生活──全学連再建と明治の学費値上げ反対闘争
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  6. 最後の交渉と機動隊導入──そして「二・二協定」へ
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