東京進出④/『山口組東京進出第一号 「西」からひとりで来た男』より

試し読み
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山口組について語られなかったエピソード・ゼロを記した『山口組東京進出第一号 「西」からひとりで来た男』(著・藤原良)が3月19日に太田出版より刊行されました。

本書では、関西(神戸)で生まれ今でこそ全国に名を馳せる山口組が、関東(東京)で最初期にどのようにして活動基盤を築いていったのか、その道のりが書かれています。

OHTABOOKSTANDでは、全六回にわたって本文の一部を試し読み公開します。第五回は、第四回に引き続き竜崎祐優識という人物について掘り下げていきます。今回は山口組内で若手の『拳銃屋』として知られていた竜崎祐優識の当時の背景について詳しく紹介します。

※本書は、暴力団や反社会的集団による犯罪・暴力行為自体を肯定したり助長するものではありません。

ハワイの暗黒街

 裏社会で流通している拳銃は中古品も多く、手入れが粗末な品物も多かった。撃鉄の劣化で打撃が弱く弾が出ない、発弾できても銃身が粗末で弾が真っ直ぐ飛ばない、ハンマー方式の拳銃であれば排莢のさいに弾が詰まる粗悪品もあったという。
もっと酷い物になると、弾の不具合と銃の部品劣化のために、撃とうとしたさいに拳銃自体が暴発(破裂)して使用者の指が吹き飛んでしまうケースもあった。いわゆる『鳴らないチャカ』である。

 1980年代当時はソビエト連邦が長年に渡って生産していたソ連軍の正式拳銃トカレフが通常生産を終了しており、コピー生産を引き継いだ中国製が、日本の裏社会で密売されることが多かった。

この時期のトカレフは、生産コスト節約のため、安全装置すらない設計で大量生産されていたので粗悪品が多数存在していた。朝鮮人民軍から流れて来る六十六式改造型トカレフも出回っていたが、こちらも粗悪品が多かった。

 数ある派生モデルの中でも、中国製五十四式トカレフがよく売買されていた。価格は一挺あたり80万〜200万円の間で、弾丸は1発1万円が相場であった。値幅があるのは、密売品であるため時期によって流通量に差が生じるからである。

 当時の新卒初任給が月約20万円の時代に、安い時期でも一挺80万円はするので、決して安い買い物ではなかった。しかも買った物が粗悪品とあってはカネの無駄となる。
ヒットマンを務める際は使用する拳銃の品質が良くなければいい仕事はできない。

 その点、竜崎が扱う拳銃は手入れが行き届いており、どれも高品質で評判がよかった。

 竜崎は中国製トカレフよりもアメリカ製コルトやスミス&ウェッソンの拳銃を多く取り扱っていた。

 コルトは1836年に世界初の連射可能なリボルバーを開発した老舗ブランドで、ブローニング(自動式拳銃)の開発も手掛けるなど、銃器業界のパイオニアとして世界中から信頼されているメーカーである。
スミス&ウェッソンはコルトの競合であり、両者はお互いをライバル視しながら常に高品質の拳銃を提供し続けていた。

 コルトは1911年から約70年間に渡ってアメリカ軍の主力拳銃の地位を独占するほどの勢いを誇っていたが、1970年代後半からイタリア製ベレッタを代表としたヨーロッパ製の高品質な拳銃の人気に押され、アメリカ国内における警察などの公的機関や民間市場からコルトやスミス&ウェッソンが大量に放出されるようになった。アメリカ国内の銃砲店では3割減で安売りされることも珍しくなかった。

 ここに商機を見出した竜崎は日本の拳銃屋たちが中国や北朝鮮から流れて来る粗悪品のトカレフを主力商品としていた時代に、いち早くコルトやスミス&ウェッソンの密売を開始した。

 その仕入れ先は主にアメリカのハワイであった。ハワイの州都・ホノルルのカカアコ地区にあるチャイナタウンのマウナケアストリートの路地裏ではすべての物が手に入った。

 1850年代、中国大陸からハワイにやって来た中国系移民たちによって作られたチャイナタウンは、増加する一方の中国系移民流入を嫌ったアメリカ政府が中国人排斥法を施行したため不法移民者が増え、
いかがわしい飲み屋や売春宿が乱立して町の治安が低下した。ドラッグディーラーやホームレスたちの溜まり場と化し、昼間でもひとりでは歩けないほど危険なエリアに変貌した。

 中でもマウナケアストリートは1970年代以降も荒廃したチャイナタウンの様相を色濃く残しており、違法ビジネスの巣窟として知られるようになった。

 地元住民たちの努力によって、このエリアが安全な観光地に生まれ変わったのは、2000年以降であり、竜崎がコルトやスミス&ウェッソンの仕入れで訪れていた時代はまだまだ暗い勢いを留めていた。

 そんなチャイナタウンのブラックマーケットには、日本の裏社会へ商品を売る日系バイヤーが多く存在し、竜崎は彼らの紹介でアメリカ人バイヤーと直接取引ができるようになっていた。

 マウナケアストリートの一角には、通称『ジョン』というアメリカ人が立っていた。ジョンはひとりではなく、日によって人が入れ替わるが、誰であってもそこにいればジョンはジョンであって、共通の目印は高価なレイバンのサングラスだった。
彼らは取り締まりから身を守るためにチームで動いていた。

 ジョンは、ホノルル警察で摘発時に押収したブツを組織的に横流しする警官たちの窓口役だった。彼らは銃器だけではなく、違法薬物、偽パスポートとあらゆる違法品を取り扱っていた。
ある日のジョンは、いつもの場所に白バイに跨った状態でいることもあったという。

 竜崎はジョンから主に拳銃を仕入れていた。通りの角で挨拶をし、キャッシュを渡すと拳銃を隠してある場所が記されたメモを渡された。

 隠し場所は、商業施設のゴミ箱であったり、飲食店のトイレのタンクの中と、メモで指示された場所に行くと密封された密売拳銃がそこに隠してあった。

* * *

80年代初め、東と西の「境界」はいかにして崩れたか?知られざる最初期の拠点選びから単独隠密行動、そして拡大まで。「シマ荒らし」はいつも静かにはじまる――。

1980年代、神戸の山口組四代目組長(当時)・竹中正久が率いた初代竹中組の最高幹部でありかつ「山口組東京進出の一番手」として、当時まだ山口組組員がひとりもいなかった東京に単身乗り込み、“たったひとりの山口組”として在京勢力と戦い、その後の東京での山口組の初期地盤を築いた男のドキュメント。

『山口組東京進出第一号 「西」からひとりで来た男』(著:藤原良)は現在全国の書店、書籍通販サイト、電子書籍配信サイトで発売中です。

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