山口組について語られなかったエピソード・ゼロを記した『山口組東京進出第一号 「西」からひとりで来た男』(著・藤原良)が3月19日に太田出版より刊行されました。
本書では、関西(神戸)で生まれ今でこそ全国に名を馳せる山口組が、関東(東京)で最初期にどのようにして活動基盤を築いていったのか、その道のりが書かれています。
OHTABOOKSTANDでは、全六回にわたって本文の一部を試し読み公開します。最終回となる第六回は、東京へ単身で乗り込んで以降の竜崎祐優識の思惑を紹介します。竹中正久の考えを色濃く引き継ぐ竜崎は東京でどのようにして拠点を築くのか…。
※本書は、暴力団や反社会的集団による犯罪・暴力行為自体を肯定したり助長するものではありません。
ヤクザの聖地
当時の歌舞伎町は、表立って営業できない仕事が日本国内で最も数多く肩を並べている場所だった。
「住む町ではない。歌舞伎町は稼ぐだけの町。2年もやれば大金が作れる」と言われるほどバブル期における東京裏社会の中心地で、中国人マフィアも勢力を拡大しつつあり、竜崎のような余所者が紛れ込むには最適な場所だった。
しかし竜崎は新宿歌舞伎町には見向きもしなかった。それはなぜか?
「いくら隠密行動でやったとしても、いつかは必ず菱だ、竹中だとバレてしまうでしょ。その時に、味噌も糞も一緒みたいな誰でも勝負できるような歌舞伎町でやっとったんじゃ、こっちの代紋の値打ちが下がるかもしれんでしょ。
竹中も中国人マフィアも同じやと言われたらダメでしょ。わざわざ神戸から出張るんですから何でもかんでもってわけにはいきませんでしょ。どうせやるなら、東京の連中にアッと言わせな、さすが竹中やと頭下げさせんと意味がないでしょう」(竜崎)
この頃の山口組はひと昔前よりは組織名が認知されていたとはいえ、関東圏で山口組の直参団体まではまだあまり知られてはいなかった。
竹中組、小田秀組、山健組、弘道会、後藤組などの名を知る者は東京在住でありながらも西日本の事情に詳しい暴力団員であり、神奈川県横浜市ですでに事務所を構えていた古参幹部である益田組の名すら東京ではまださほど知られてはいなかった。
竜崎は自分の後から東京に乗り込んで来る山口組、そして竹中組の組員たちの立場について考えていた。
『東京でカネを稼ぐことは、竹中の名を周知させること』と認識していた。だからこそ、進出先については慎重に検討しなければならなかった。
「みっともないカネの稼ぎ方しとったら、自分は金持ちになるかも知れませんけど、その後が続かんでしょ」(竜崎)
未開の地へ進出することは後に続く者たちへの『道』を作ることでもある。
新しくできた道は堂々たる赤い絨毯が敷かれたレッドカーペットがいい。そのためにはみっともないマネはできないという思いが竜崎にはあった。組の見栄や評判だけに拘っていたわけではない。
山口組初の東京責任者である竜崎のやり方ひとつで、後に続く仲間たちの評判やシノギの仕方が決まってしまうのだ。
東京や関東の暴力団員たちから中国人マフィアや不良外国人たちと同じだと見なされてしまえば、いつまで経っても余所者扱いを受け、根を張った活動を展開しづらくなってしまう。
逆に、菱の代紋と竹中の看板が更なる威厳と強さを放つようになれば、その分だけ、後続者たちもやりやすくなる。
若い頃から暴力団業界に身を投じていた竜崎は、「この業界はカネだけじゃ解決できんことも多いんでね」とポイントをよく熟知していた。
そんな竜崎が東京進出の牙城として選んだ場所は浅草であった。
浅草は今も昔も関東の老舗暴力団組織が総本部や東京本部を構えている関東暴力団業界の中枢だ。関東の暴力団業界では、浅草はヤクザ者の系譜が江戸時代から代々続く伝統的な場所で、博徒系暴力団だけではなく、的屋系組織の本家や本部も多数存在していた。
それだけに浅草は暴力団業界において、あらゆるアウトローがひしめく歌舞伎町よりも『王道たる本拠地』『王道の街』と言える場所だった。
当然ながら関東特有の縄張り意識についても、浅草は厳しくシマ割りが取り決められた熾烈な場所でもあった。この土地が重ねた歴史の深さもあり、老舗暴力団同士がお互いのことを認め合い無駄な抗争を避けながら共存共栄している部分もあった。
明文化されていない連綿と継承された『掟』が生き続け、互いへの尊重と緊張感が存在し、安易に余所者が入り込める場所ではなかった。
だからこそ、竜崎は浅草に出城を築くことを選んだ。
「浅草みたいな歴史ある場所なら、すでに名前が知れてる幹部やベテラン連中や組長クラスになるでしょ。
昔からの縄張り意識も強いでしょうからね。やっぱりそういうのとやり合わんと、わざわざ東京行ってワケの分からん奴らを相手にしとってもしゃあないですからね」(竜崎)
彼は、自分の命が危険に晒されることへの恐怖心はなかった。縄張り意識が強い浅草に行けば、それが原因で殺されてしまう危険性も充分にある状況だった。命の保証はどこにもなかった。
「まぁ、それを言ったら、神戸にいる時も同じですから」(竜崎)
確かにそうかもしれなかったが、仲間もいる町で危険と隣り合わせで生きることと、敵陣のど真ん中でたったひとりで命の危険に晒されながら生きることとでは難易度や生存確率が大きく異なる。
だが、竜崎は浅草行きを決めても顔色一つ変えることはなかった。
竹中正久は常々「殺られた時がヤクザの寿命や」と話していた。
竜崎も常にそう考えるようにしていた。あえて言うなら、命を守る生き方をするよりも命を使う生き方を選んだとでも言えばいいのだろうか。
竜崎がしなければならなかったことは、東京の観光名所巡りや買い物ではなく、暴力団に所属している者としての資金源の開拓と獲得である。
東京という都会に憧れて上京を目指したわけではない。任務の秘匿性を保つために、一本の槍を持って一匹の馬に乗って単身敵陣に出向くという単槍匹馬で乗り込むのである。
* * *
80年代初め、東と西の「境界」はいかにして崩れたか?知られざる最初期の拠点選びから単独隠密行動、そして拡大まで。「シマ荒らし」はいつも静かにはじまる――。
1980年代、神戸の山口組四代目組長(当時)・竹中正久が率いた初代竹中組の最高幹部でありかつ「山口組東京進出の一番手」として、当時まだ山口組組員がひとりもいなかった東京に単身乗り込み、“たったひとりの山口組”として在京勢力と戦い、その後の東京での山口組の初期地盤を築いた男のドキュメント。
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