接続する柳田國男~戦時下固有信仰論をめぐって

学び
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大塚英志による本格的な柳田論考、第3回目は、戦争が柳田國男に与えた影響について、戦時下の言説をもとに考察する。

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柳田の戦時下の言説と翼賛体制や戦時思想との「接近」

ぼくはこれまで柳田國男の「公民の民俗学」と暫定的に名付けた日本の近代の民主化運動としての側面を評価してきた。しかし、当然ながら柳田國男の思想の全てを評価するわけではない。

中でも僕は柳田國男の戦時下の言説について留保してきた。多くの柳田研究は戦時下の彼が自局や国策から適切な距離をとっていることを評価する。確かにあからさまな国家主義的発言をしていないし、公職にはつかず在野にある。意気揚々とナチス型民俗学を持ち帰りプロパガンダや植民地エスノロジーに邁進するかつての愛弟子・岡正雄のような妄動はしない。評価すべき、いくつかの発言も残している。しかし、時々、おや、と思うことがある。柳田の言説が時に戦時下のことばと奇妙な整合性を見せる時がある。

例えば先日もこんな指摘に遭遇した。出産やジェンダーを研究する民俗学者・安井真奈美が僕の研究会で戦時下に刊行された大藤ゆき『児やらひ』(三国書房、1944)がその内容といささか乖離する題名で、しかし、それは柳田によるものだという指摘をした。「児やらい」というのは獣の子別れにも似て成長した子供を社会に追い立てるように自立させる育児法だが、確かに同書はこの問題を軸に論じたわけでなく、出産・育児の習俗を網羅的に記述したものだ。だが柳田はわざわざ「序文はもう書かぬ」と言いつつ「児やらい」について論じ、この本の基調を決めてしまうのだという。

本書でものちに問題とするが、戦時下の柳田の書において「序文」は時局との距離を示すある意味政治的なものである。序で時局の文脈に位置付けることで、本文への影響を最小限にとどめるものなのか、本全体を時局の文脈に位置付けてしまうのか、評価は分かれるところだが、「児やらい」を1944年に主題とすることはどのような時局に対応するのか想像のつくところだ。それが出版統制下で書物を出す方便としても、そういう時局への配慮が柳田に確実にある。

だからこそ、戦時下の柳田の立ち位置がどこまで揺らいでいたのかがやはり気になる。

そのことをこれからしばらく考えてみたいと思う。

ぼくは以前から柳田の学問を一つはロマン主義的な「ここではないどこか」を憧憬する「文学」であり、他方は「近代」をこの国に実装しようとする社会運動であるとしてきた。かつて柳田学の動機に空想上の母を求める血統妄想があると論じたことがあったが、マルト・ロベールは近代小説のフロイト的動機として家族小説論を援用して「私生児」的想像力と「捨て子」的想像力に分けた。前者は血統を強く妄想するがゆえに父を乗り越えた「社会」に参加しようとし自身の生きる「歴史」を構築しようとする。結果、方法としては自然主義(私小説的という日本的意味ではない)が選択される。対して後者は実親が本当の親ではないとする甘美な妄想に囚われ、空想的領域に想像力を肥大する。つまりファンタジー作者となる。

柳田の家族小説はといえば「弟が生まれ、自然に母の愛情注意も元ほど」でなくなり、その分離不安の中で実在しない「神戸の叔母さん」を想像し出奔したと回想されるものが思いつく。想像の代理母を創り出したのである。その発生はフロイドの議論に至って忠実だった。この家族小説を「捨て子」的想像力に委ねれば現実の外に空想世界としての先住民の末裔を召喚する山人論になり、「私生児」的想像力は家父長的に研究者を統治しつつ近代や民主主義を主導する「公民の民俗学」となる。

母の不義の子であると妄想し、甘美なるジェンダー的混乱に浮遊さえした折口学はおよそ「社会」を設計しようとはしなかったのとは対照的だ。

柳田の学問はつまりは空想と社会の双極にあり、一つ一つの書物はその時々で二極のいずれに柳田が傾斜しているかで正確な読みが可能だと繰り返し示唆してきたのはそれ故だ。

では、柳田の戦時下の言説はいずれに傾くものなのか。

戦時下とは今回は昭和12年の日中戦争以降を指すことにする。十五年戦争前半の空気は日中戦争勃発によって一変することは当時の言説を読んでいくと戦争後期を「日支事変」以前/以降で分ける世界線が顕著であることでもうかがえる。

この世界線は柳田國男においても顕著である。それは変節と言っても差つかえなく、普通選挙を可能にする個人の育成を目指す社会運動であろうとした彼の公民の民俗学にとってはまず、挫折である。柳田が、近代市民が「個」でなく「群れ」つまり妄動する群衆でありうると強く危惧したのは彼が、大正デモクラシーに遅れて参加しつつも『朝日新聞』の論説委員という特権をもって世論を動かしたことと不可分である。柳田にとって普通選挙を語ることは市民が「群れ」化することをいかに阻止するかと不可分である。それはポピュリズムへの危惧というよりもっと直接的だ。

なぜなら、柳田は(というより当時の知識人は)関東大震災における「市民」の妄動を見せつけられた強烈な体験を持つからである。普通選挙は大正デモクラシーに至って、ようやく近代的個人として成熟したはずの「市民」の存在が前提だった。妖怪学の香川雅伸はぼくの研究会でのコメントとして『婦人公論』1925年10月号に発表された「妹の力」の中でよく知られる、6人兄妹の「一時に発狂をして土地の人を震撼せしめた」事件は初出時、発生から遠くない関東大震災における市民による朝鮮民族虐殺の暗喩ではないかと発言したことがある。

その可能性が否定できないのは、柳田國男の文章は書かれている時点での文脈をかなり細かに反映しているからだ。逆にいうとその文脈を踏まえないと誤読する。

柳田は震災の知らせを聞き「学問の本筋」に戻る、と決めたと伝えられる。有名な話である。それはこの国に「選挙民」を可能にする社会運動である。その時、柳田の普通選挙への危惧がなんであったかは自ずと明らかだ。それは選挙民の妄動でありそれは必ずしもポピュリズムの意味ではない。集団性のイレギュラーな発動を柳田はリスクと考える。だからこそ普選にあわせ、「選挙民」という「個」を可能にすべく彼の「学問」は公共性の高い社会運動として再設計されようとした。それが恐らく「学問の本筋」である。

しかし、実施された普通選挙において、「市民」は「選挙民」という「個」ではなく「選挙群」という「群れ」として投票行動を行い柳田が怒り狂ったことは幾度も記した。

重要なのはその「群れ」がいかに発言するかだ。『明治大正史世相編』では、それを擬制的親子関係という村落共同体の社会システムに求めたが、「妹の力」では「共同の幻覚」と呼んだ。6人の兄妹の妄想を共有し「心が一つ」になったその「力」の根源である。

柳田はその時はこういう言い方をしている。

即ち別に一人の統率者が無い場合にも、強い因縁さえあれば多人数の幻覚が一致をする。現代の個人はめいめい勝手次第の、生存を巧んで居るつもりで居るか知らぬが、流行や感染以上に昔からの隠れた力に、実はまだこうして折々は引廻されて居るのである。

(柳田國男『妹の力』創元社、1940)

この「昔から隠れた力」といういわば文化の中の「古層」に、集団の暴力のトリガーとさえなる「共同の幻覚」の源があると柳田は考え、それは、個人個人の理性を拒むものである。この問題系は論文「妹の力」の後に書かれる『明治大正史世相編』がある種の「流行論」であることと無縁ではない。

この時点での柳田の世界線は「心」の「共同」を懐疑するものであったことは重要である。

確認しておくが、そもそも、彼の学問の基調は近代を拒むものとしての「民俗」批判である。しかし井上円了のような科学と迷信の単純な線引きや、明治政府のような公序良俗といった表層で批判を済ませるのではなく、「民俗」の変遷を微細に追うことで「近代」にそれが未だどう作用しているかを検証するものである。

無論この「古層」は仮想的なものだが、民俗文化の底流に暴力や殺戮への愉悦が見てとれることを柳田は隠さなかったし、後述するように、南京虐殺の直前には戦争下という非常時に山民的な暴力性が発現するのではないかという危惧さえ、その独特の婉曲な言い回しとはいえ指摘もしている。

だが、この「古層」に「固有信仰」という名付けがなされるのが日中戦争以降であり、そこに戦時下の柳田の「変節」が見てとれる、というのがぼくのこの原稿での見解になる。

近衛新体制とは選挙民から「個」を剥奪したものでそれを「協働」と呼んだ。今、「協働」という語を不用意に用いる人々は農村における「結」などの共同労働的なものを民俗文化の美徳として肯定もするが、それは世界恐慌を経ての政府の農業政策の無策が民衆に求めた「自助」「共助」の類だ。そもそも、柳田の学問は農民を産業組合によって資本主義下で経済的に自立させるものだ。まして「個人」を行き過ぎた西欧化の象徴のように批判してやまない、今も繰り返されるロジックは、近衛新体制を支える重要なイデオロギーであり世論であった。

その中で柳田の「固有信仰」論はいわば、魂の「協働」論に変質してしまうのだ。

さて、冒頭で触れかけた問題に戻る。

戦時下の柳田の言説で注意しなくてはならないのは、その発言や扱う主題と戦時体制の整合性である。事実として、柳田の著作は戦時下も滞りなく刊行される。そればかりかそれ以前の著作もしばしば復刊される。それは、戦時体制が柳田の学問に求める政治性があったからである。出版統制下、本が出るということはそういうことである。

その時、柳田は恐らく、多くの著者がそうであったように時局の中に自著を位置付けることを求められる。

例えば柳田の『桃太郎の誕生』の初版と復刊での序文の差異には国策との関係があからさまに見てとれることは以前、別の場所で記したことがある。昭和初頭、日中戦争以前に刊行された同書はアジア・太平洋戦争下の出版統制下、復刊されるのである。

まず、1933年刊行の旧版の序文にはこうある。

今からちょうど十年前の、春の或日の明るい午前に、私はフィレンツェの画廊を行き廻って、あの有名なボティチェリの、海の姫神の絵の前に立って居た。そうして何れの時か我が日の本の故国に於ても、『桃太郎の誕生』が新たなる一つの問題として回顧せられるであろうことを考へて、独り快い真昼の夢を見たのであった。

(柳田国男「自序」『桃太郎の誕生』三省堂、1933)

この時、柳田が、サンドロ・ボッティチェッリの絵画『ヴィーナスの誕生』の中に「桃太郎」と通底する主題を見つけることは、モチーフの国際間の比較が標準である昔話研究のスタンダードな立ち位置である。しかし1942年、日中開戦から日米開戦を経るとこう変わる。以下は復刻版の序である。

珊瑚海を取巻く大小の島々には、文化のさまざまの階段に属する土民が住み、その或者は今も鬼ケ島である。しかも彼等の中にすらも、やはり昔話は有るのである。それと我々の珠玉の如く、守りかかえて居た昔話との間に、果して悠久の昔から、何等の相交渉するものが無かったと言へるかどうか、是は世界の諺であり、しかも我々日本人ならば、いつかは解き得べき謎でもある。私は幸いにしてこの島々の新たなる資料が、ほぼ公共の財産となるの日を迎へ得るならば、もう一度この旧書を読み返して、改めて是が保存に値するか否かを決したいと思って居る。人が家々の祖神の神話として、たしかに信じて居た時代がかつてはあったといふ点ならば、寧ろ未開の民の間にその痕を見つけやすいであろう。それに学ぶべからざる両者の類似がもし有りとすれば、記録こそは少しも無いけれども、一度は共に住んで教え合ったことがあるか、そうで無ければ人間の自然の性として、いつかは同じ樣な空想に遊ぶ階段を経、しかもその思い出を永く失はないという癖を共通にして居るのである。

(柳田國男「改版に際して」『桃太郎の誕生』三省堂、1942)

昔話研究の立場からすれば旧版は類似モチーフの文化圏や時代を超えて存在する理由を原始的心性に求めるタイラーらの議論であるのに対して、後者はフィンランド学派的な移動説であるようにも思える。移動説には言語の世界的な伝播と昔話の伝承圏の拡大や移動を重なるインド・ヨーロッパ起源説があるが、他方、フィンランド学派は昔話全体かつ世界規模の伝播でなく、説話ごとに文化圏内の伝播を仮説する。重出立証法や方言周圏論と相応の整合性がある。

しかし再版の序をよく読めば、そういう昔話研究の方法的転換を述べているわけではない。いわゆる大東亜共栄圏内の「南方」に類似モチーフの偏在を見出し、その「教え合った」歴史、即ち伝播の立証をこの時、彼の昔話研究が期待されていたことがわかる。つまり、日本の影響下にある文化圏、大東亜共栄圏を重出立証法的に根拠づけることが求められているのである。

このように柳田の昔話研究が大東亜共栄圏の実証に駆り出されている様は、ジェームス・チャーチワードのムー大陸本が南方と日本がかつて一つであった根拠として同じ時期に翻訳されたことを想起させる。その便宜を図ったのがジュネーヴの国際連盟時代の側近・藤沢親雄であることはよく知られる。この柳田重出立証法に求められたものとムー大陸説の「近さ」は、決してぼくのオカルト小説の題材としてではないところが厄介なのである。

もう少し、柳田の戦時下の言説と翼賛体制や戦時思想との「接近」について問題点を立論したい。

このような「接近」なり「変節」が柳田の書くものに顕在化するのは日中戦争が境となる。言語空間が本当に劇的に変わるのである。そのことに柳田も無縁ではいられない。

この年、「山民」の暴力性発露、つまり「古層」への危惧を小声で語る一方で、以降、柳田の著作に顕著となるのが「固有信仰」なる語である。

ぼくは、このところ、柄谷行人が柳田の『先祖の話』における「固有信仰」論を敷衍して「生者と死者のアソシエーション」論を唱えたことに困惑している。こういう言い方は不適切かもしれないが、柄谷の「固有信仰」論は言うまでもなく東日本大震災での死者へのある種の「供養」であることをあからさまにしている。それは心情的に批判しにくいものだ。

しかしそこで引用される「固有信仰」論はやはり、戦時下の言説なのだ。「固有信仰論」は長きにわたって柳田民俗学がたどり着き、検証を重ねた仮説ではない。柄谷が「国家以前の社会にあった」と主張する「固有信仰」についての言説は国家主義の支配する戦時下の言語空間で、しかも敗戦直前、恐らく1年程度で急激に形成されたものだ。日々知らされる死者への供養が動機としても『先祖の話』は戦時下の言説との整合性を取ることで、「固有信仰論」という「変節」が形成された。

だからそれを「現在」に敷衍するのは慎重さが必要だ。戦時下の思想で東日本震災を語るのは妥当なのか。

柄谷が理解した「固有信仰」論とは以下のようなものだ。

柳田国男が推定する固有信仰は、簡単にいうと、つぎのようなものである。人は死ぬと御霊になるのだが、死んで間もないときは、「荒みたま」である。すなわち、強い穢れをもつが、子孫の供養や祀りをうけて浄化されて、御霊となる。それは、初めは個別的であるが、一定の時間が経つと、一つの御霊に融けこむ。それが神(氏神)である。祖霊は、故郷の村里をのぞむ山の高みに昇って、子孫の家の繁盛を見守る。生と死の二つの世界の往来は自由である。祖霊は、盆や正月などにその家に招かれ共食し交流する存在となる。御霊が、現世に生まれ変わってくることもある。

(柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』)

それをこう柄谷式に言い換えもする。

柳田がいう固有信仰では、こういう感じです。あの世とこの世の間に自由に往き来があり、そしてお互いに面倒を見ている。つまり、死者と生者とのアソシエーション(連合)がある。

(「『想像ラジオ』と『遊動論』」『文学界』2014年1月号掲載)

そもそもぼくは柄谷「固有信仰」論に限らず、柳田の言説に「古層」を肯定的に見出そうとする傾向が震災後の言説としてあることがひどく気になっていた。死者を語る言葉に民俗学が引き合いに出されるのだ。その際、しばしば、言及されるのは、柳田の『遠野物語』に描かれた1896年の三陸大津波の際、死んだ妻が死後の世界で連れ添うことになった男とともに夫であった人の前に現れるという挿話である。それをもって柳田の言説を「心の復興」論に寄せ、「死者」について共生的に論じる態度は、柄谷だけでなく柄谷と対談したいとうせいこうや(彼にかかれば彼の小説『想像ラジオ』は柳田「先祖の話」の柄谷的アダプテーションとなる)、柳田研究の側なら石井正巳(例えばNHK「100分de名著」ブックス柳田國男『遠野物語』など)に見られる傾向である。それは東日本震災の死者への言及が物語の解決手段となるという流行ともリンクし、村上春樹『騎士団長殺し』や新海誠のアニメにも繰り返されてきた。

それらがぼくにはオンライン化した社会が「古層」を捏造しかつ実装するかの如き奇態としてうつる、ということは別のところで書いた。

ただ、その後、村上春樹の殆ど話題とならなかった最新作だけが、彼が一貫して世界を二層のレイヤーとして配置しその交通を描いてきた果てに、その通路を断念するかの結末を選択してみせたことの意味はまたどこかに場所があれば書くが、要するにこの国は東日本震災を口実に「固有信仰」という「死者の魂」のための「古層」を批評や文学や物語が実装しようとしていて、そのことがさて正しい選択なのか。ぼくにはそれが「リベラルの国学化」とでも形容したらいいのか、やはりナショナルなものの再編の無視できない動きにも思える。忘れてはならないのは「固有信仰論」における「死者」は「先祖」であり、死者の魂と共振することは美しいかもしれないがその共同性はファシズムではないのか。

だから立ち止まり考える術として、戦時下の柳田の学問への「固有信仰」論の実装へと変化をトレースすることは無駄ではあるまい。

そもそも「固有信仰」という語は柳田の独自の造語ではなく、大正期に入って使われ始めたものだ。国会図書館のデジタルコレクションで検索すると3493件が表示される。学術用語に見えるが国学論や道徳論、国史、神道史などで所与のものとして用いられる印象が強い。

だから、それをあらためて積極的に定義したのが柳田國男ということになる。

その、柳田國男における使用例は『底本』索引等を元にすると70、刊行中の『全集』の索引が完成すればもう少し増えるかもしれないが、その最も古い用例は1922(大正12)年8月『史学』第一巻第四号「「うつぼ」と水の神」だという指摘がある。

そして、その使用は大きく二つの時期に分かれるともされる。大正から戦時下前半は「昔話」「伝説」研究に集中し用いられ、戦争末期、つまり「先祖の話」に至る流れと戦後に至る時期は「祖霊」と結びつく信仰に収斂する(松元博明「固有信仰」、野村純一外編『柳田國男事典』勉誠社、1998)。

事実、「固有信仰」前期と後期の差は極端であり、先の『桃太郎の誕生』では「固有信仰」の語はこう使われる。

日本の特徴というのはただ其英雄の名前であり、又其出現の様式であった。 桃が川上から流れて来て其中に赤児があり、それで桃太郎と名を付けたという点ばかりは、近い地域にも類似のものを見せられて居ないから、多分は我邦に於て新たに出現したものであり、従うて同胞国民の間に、原因を探り求むべきものであったろう。見通すことの出来ない一つの事質は、此点が兼ねて我々の固有信仰の可なり大切なる一つの信条であったことである。

私は最初海の神を少童と書いて居た思想が、日本の田舎では大よそいつの頃まで遺り伝わって居たろうかを考えて見るために、桃太郎の桃や瓜子姫の瓜が流れ下って来た川上の方に思いを馳せて居た。斯邦の固有信仰の中には、優れた小子を神より賜はって、それを大切に守り育てて下界の生活を美しく又安らかにしようという希望の強かったことだけは、変転霊落した色々の説話を貫いて、今も尚依然として之を窺い知ることが出来るのである。

(柳田國男『桃太郎の誕生』三省堂、1933)

いずれも昔話「桃太郎」の原型、及び日本の伝承における一定の偏差を論じるニュアンスである。その点で折口の言う「物語要素」に極めて近い。折口もまた国際インデックスとしてのモチーフ論を踏まえつつ、日本古典に特長的な偏りを「物語要素」と呼んだが、その代表としての貴種流離譚は最終的にはその細部でランクの英雄誕生の神話と重なり合い、はからずも議論の普遍性を証明している。

柳田が当初は昔話・伝説研究に「固有信仰」の語法を限定したのは、それが彼の学問に戦時下、特に日中戦争後の1937年以降に求められた「文脈」だからでもあることは既に書いた。

一方、1937年以降で、かつ祖霊論に収斂していかない時点までの柳田の「固有信仰」の語はもっぱらその著作の「序」、もしくは巻頭論文に突出して使われる傾向にある。これは大きな特徴で、このことからも「固有信仰」という語は時局と彼の学問の、善意にとれば「緩衝材」として使われている例がある。戦時下の言説の侵入を「序」にとどめ、方便とするわけだが、しかし、同時に、それは読者や柳田の方法を追うものにとっては時局的な「読み」を求められることにもなる。

例えば『禁忌習俗語彙』にはこうある。

資料が乏しいとは言いながらも若干の量になった。是を整理し排列して居るうちに、是までは全く懸離れた二種の現象のように見えたものに、少なくとも双方の歩み合いが、幾分かは跡付けられるようになって来た。橋がこの間に架かるのもやがてあろう。そうすればこの二つのゆゆしい習俗を作り上げた根本の物の考へ方、即ち固有信仰の特色ある外面が、今よりはずっと明瞭になって単に国内の先輩の慧眼を立証するに止まらず、或は一歩を進めて世界の異なる諸民族に、相互を理解する態度方法を、改良せしめる手引ともなるかも知れない。

(柳田國男『禁忌習俗語彙』国学院方言研究会、1938)

やはり、民俗語彙の遠方の一致、「昔話」と同様に空間的偏差そのものが「固有信仰」の語によって意味される。

また『食物と心臓』(1940)では、書名と同名の巻頭論文でこう言及する。

其資料として自分たちに許されるのは、無意識に保存せられて居る農漁民の俚諺歌謡、その他言語の切れきれの用法の如きもののみで、可なりの臆測を傭うてもまだ綜合の不可能を感ずるのみか、かの環境論者の平気で論断して居る郷土差などは、殆ど共端緒をも捉へ得ぬ状態であるが、以前固有信仰の最もうぶな形を、単に目に見え筆に残された習俗の外貌から尋ねて見ようした際にも、やはり同じ様な痛切なる不安を体験したことであつた。

(柳田國男『食物と心臓』創元社、1940)

無意識の保存である民俗資料から「固有信仰」に至る道筋が仮説されるが、ここではまだ「固有信仰」は祖霊崇拝を意味するものではない。

このように序、ないしはキートーンとなる巻頭論文に「固有信仰」が登場するのは『昔話と文学』(1938)、『昔話覚書』(1943)である。「結語」、つまりまとめとしては、関敬吾と共著の『日本民俗学入門』(1943)において、「我が民俗の固有信仰を明らかにしようとする民俗学」と民俗学の定義にも用いられるようになる。しかし、そのニュアンスは昔話のアーキタイプに近い物語要素に近い意味や重出立証法の描き出す民俗文化の変遷と祖型の意味を漠然と指し示すものだ。

序文に「固有信仰」が用いられるのは「祖霊信仰論」にシフトする『日本の祭』(1942)も同様だが、同書ではそれに伴い本文にも七例、「固有信仰」の語が見える。つまり、書物全体の主題が「固有信仰」論となるのだ。

『日本の祭』の序で目を引くのが、次世代に向け「国の固有信仰の有り形を知らしめる」とあることで、ここで「固有信仰」という語が「国」と明確に対となる。

この時点で、柳田でなく一般での「固有信仰」の使われ方は、「固有」に対して「外来思想」が対となる傾向が顕著となっていく。やはり「国」が意識されるのである。

併しの点に他の東亜諸民族に比して極めて進取的な日本民族の性格が現れている。而も、外国から海で遮断せられている日本民族は、自然的或は意図的に、よく自国の文化的伝統を保存し維持しようとする。現在のヨーロッパ諸民族が如何に古の固有文化や固有信仰を失ってしまったかを考へてみればよい。

(高山岩男「我が国土と文化的精神」『日本文化70』日本文化協会、1941)

日本文化の「伝統」と「固有信仰」は同義となり、海外では「外来思想」に侵食されているが、日本では保持されていると鼓舞する。柳田においても、この外来思想との対峙は『日本の祭』の中で「国の固有信仰の伝統」における一つの大きな危機として、やや大仰に語られる。

柳田が昔話における物語要素的ニュアンス、あるいは重出立証法という「科学」と結びつけ、かつ、序や巻頭論文に「固有信仰」の語を置くことで束の間の「防御」を試みたのは、戦時下においてこの語は国体論に収斂するとさすがにわかっていたからである。事実、日中戦争の時点で国体論としてこう「固有信仰」の見取図が国体論に示されている。

(伝統を重んずる)国民性は我が国民の固有信仰たる祖先崇拝に顕現して居る。祖先崇拝の信仰を有って居たのは決して我が天孫民族のみでは無いが、他の諸民族に在っては風に共信仰を喪失し、又衰微した中に在て、我が国民は今日尚直接形に於て、又は他の形に於て此の固有の信念を把持して居るのは伝統を重んずる国民性に基いて居るのである。何となれば祖先崇拝は元を元として之に報ゆる精神と離る可らざる関係を有して居るからである。

(清原貞雄『日本国体新論』育芳社、1997)

「固有信仰」は「祖先崇拝」と結びつき「国民性」の具現としてある。このような「祖先」と「固有信仰」を結びつける国体論こそが、柳田が慎重に忌避しつつ敗戦直前、一挙に崩れていく先にあるものである。それが『先祖の話』である。

つまり、『先祖の話』は「国体論」なのである。

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