縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム
第7回

濱田庄司の縄文土器づくり

学び
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日本の民藝運動の中心人物であり、陶芸界の巨匠であった濱田庄司のもとにある構想が持ち込まれる。それは、戦争中に荒廃してしまった学校の標本を復活させよう、「歴史観のたてなおし」のひとつとして縄文土器を復元するという計画だった。その取り組みは民藝運動と縄文をつなげる重要な役割を果たすこととなった。

藤森栄一と白崎俊次

日本考古学史を語る上で、欠かすことのできない人物がいる。藤森栄一(ふじもり・えいいち)。長野県諏訪市に拠点をおいた在野の考古学者で、『かもしかみち』(1946年)や『心の灯 考古学への情熱』(1971年)などは、多くの考古学ファンから愛読された。戦後いち早く「縄文農耕論」を提唱し、1964年に出版した『銅鐸(どうたく)』では、毎日出版文化賞を受賞した。没後には全15巻の全集が出版されている。

藤森は出版社、古書店、新刊書店、旅館などを経営することで資金を調達し、自ら「諏訪考古学研究所」を立ち上げ、諏訪地方を中心に遺跡の発掘に従事した。諏訪湖底曽根(すわこていそね)遺跡や井戸尻(いどじり)遺跡の発掘成果は、よく知られている。

戦後間もないころ、藤森の家に小学生の子供たちが遊びに来るようになった。小学校では、新しい社会科のカリキュラムが導入され、歴史教育の一新が図られていた。神話的な古代史は後景に退き、実証的な考古学に基づく古代史の教育に関心が向けられた。特に諏訪地方では、古代遺跡が多くあることが知られ、学校関係者は郷土教育の一環として、遺跡や遺物の存在に注目した。

そんな新しい歴史教育に触れた子供たちが、好奇心をみなぎらせて藤森のもとを訪ねた。彼らは次々に「おじさん、石器や土器はどこへ行きゃあ拾えるえ?」と尋ねた。藤森が遺跡の場所を教えると、子供たちは次々に表面採取をはじめ、遺物の収拾に没頭した。これは次第に互いの競争になっていき、それぞれが自分のコレクションを誇りあうようになった。[藤森1970a:22]

藤森は「少年たちの収集趣味と好奇心を、正しく伸ばすことを考え」、『石器と土器の話』という児童書を出版して手渡した。しかし、彼らは本には見向きもせず、「お宝さがし」に躍起になり、遂には喧嘩が起きるようになった。[藤森1970a:23]

藤森は反省した。子供たちは古代に関心を持ったのではなく、市場価値のある遺物の取集に夢中になっていた。彼は子供たちを遺跡の発掘に連れて行き、その様子を見学することで、本格的な考古学への関心を惹起(じゃっき)しようとしたが、なかなかうまくいかなかった。

そんなとき、藤森にアイディアを持ち込む者がいた。有賀貞章(ありが・さだあき)。彼は、「コンス」というニックネームで呼ばれ、「いろんなヤミ物資をみつけて、それを学校へ納入する仕事をしていた」。あるときは、進駐軍の古タイヤを譲り受け、小さな四角に切って「消しゴムとして学校へ納入」した。戦後の混乱期に、逞しく生きていた日本人のひとりと言えよう。藤森は、有賀を面白がり、「一種のアイディアマン」として親しく付き合った。[藤森1970a:87]

有賀は、藤森に対して「戦争中荒廃してしまった全国の学校の標本を復活させる」というアイディアを語った[藤森1970a:87]。世の中は、「歴史観のたてなおし」のために、考古学の研究成果を教育に反映させることを望んだが、学校教育のインフラ整備に国家予算をまわす余裕がなく、十分な教材が用意されていなかった。有賀はここに目を付け、藤森に話を持ち掛けたのである。子供たちへの考古学教育に頭を悩ませていた藤森は、「なるほど」と思い、その提案に賛同した。

そんなとき、藤森と有賀の近くにいたのが白崎俊次(しらさき・しゅんじ)だった。彼はのちに東京民藝協会の設立にかかわり、雑誌『民芸手帖』の名編集者として名を馳せる人物である。1921年に山形県酒田市で生まれた白崎は、1937年に上京し、銀座十字屋楽器店に勤務。東京に空襲の危機が迫ると、信州富士見へ疎開した。1945年3月に召集され、海軍舞鶴基地に赴いたものの、8月の終戦で帰郷し、再び信州に戻ってきた。そこで知り合ったのが藤森であり、有賀だった。

藤森栄一、白崎俊次、有賀貞章―――。

この3人は、「新しい時代の教育のため、神話による古代史を、科学的に開明する考古学教育のため、出土品の土器を忠実に復原し、視覚教材を作ろう」という「夢」を共有した[白崎1978]。そして、その思いを実行するために、動き出した。

東京の考古学者との関係が深い藤森は、旧知の仲である杉原荘介(すぎはら・そうすけ)を紹介した。杉原は登呂遺跡発掘で中心的な役割を果たし、戦後の考古学界を牽引した人物である。杉原は1948年に明治大学専門部助教授に着任したが、ちょうどその直後の時期に、藤森から白崎・有賀の紹介を受けた。

白崎と有賀が明治大学考古学研究室を訪問すると、杉原は彼らを歓待し、遺物の標本教材作成に賛同した。そして、制作協力の実務を任せるために、考古学教室のひとりの若手講師を紹介した。それが芹沢長介(せりざわ・ちょうすけ)だった。芹沢の父は、連載前回「民藝運動と縄文」で詳述したように、日本民藝運動の中核を担った芹沢銈介(せりざわ・けいすけ)である。

白崎は戦時中に日本民藝館を訪れたことがあった。また、銀座の民藝品店「たくみ」に出入りし、芹沢銈介のカレンダーを購入したことがあった。その芹沢銈介の息子と思いがけず知り合い、ひとつの構想を抱いた。それは、縄文土器の復元を民藝運動の関係者に依頼するというものだった。

白崎は「たくみ」に駆け込み、顔なじみの人物に相談した。すると村岡景夫(むらおか・かげお)(のちの民藝協会理事長)を紹介され、話し合いが行われた。村岡は賛意を示し、ある人物に制作依頼することを提案した。

濱田庄司(はまだ・しょうじ)。

言わずと知れた民藝運動の中心人物である。

濱田庄司への依頼

濱田は、東京高等工業学校窯業(ようぎょう)科時代に、同じ学科の先輩、河井寛次郎(かわい・かんじろう)と出会い、卒業後、彼を追って京都陶磁器試験場に入った。そののちイギリスの陶芸家バーナード・リーチと出会い、彼の誘いを受けて渡英。帰国後、柳宗悦(やなぎ・むねよし)、河井寛次郎と共に民藝運動を展開した。自らは栃木県益子(ましこ)に登窯(のぼりがま)を築き、作陶を行った。1947年には、益子で天皇陛下を迎え、1949年には栃木県文化功労章を受けた。1955年には第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されることになる。まさに戦後日本における代表的な陶芸家として、高い評価を受けた人物である。

白崎、有賀が、村岡に連れられて、濱田の工房を訪れたのは、1949年のことと考えられる。このとき、濱田は55歳。名実ともに、日本の陶芸界を代表する「巨匠」になっていた。

濱田庄司が農家の建物を移築した母屋兼作業場。1989年、益子町の有形文化財となり、益子陶芸美術館/陶芸メッセ・益子内に移築・保存

白崎らは、「大きな農家のような茅葺のアトリエ」に通された。すると、囲炉裏に吊り下げられた鍋の前に、「凄い眼をギョロリ」とむいた濱田が座っていた。[藤森1970b]

このときの様子を有賀から聞いた藤森は、次のように記録している。

おそるおそる来意を告げ、土器を出した。この大入道先生はそれを横目でにらみ、手元の椀に大鍋からブタ雑煮らしいものをすくって、ゆっくりゆっくり食っている。土器を手にとって、じっと眺め、また一しゃくり、それがきりもなく続くのだから、空腹をかかえ、すごい匂いをじっと我慢している私たちはたまったものではない。腹一ぱいとおぼしきころ、先生は、ぽつりといった。―――だめだ。おれの体力ではできん。

[藤森1970b]

濱田は、古代の土器を制作するには「体力」がいると判断した。大柄な濱田にとっても、土器の制作はハードな仕事に思えた。

白崎らは焦り、平伏して頼み込んだ。そして、型への流し込みによる制作を提案した。すると、なんとか了承を取り付けることに成功した。

以降、濱田は上京の折に、明治大学考古学資料室や東京大学人類学教室、武蔵野郷土館などを訪問し、専門家から土器についてのレクチャーを受けた。芹沢長介が案内役をつとめ、白崎は共について回った。

濱田は専門家の説明に、熱心に耳を傾けた。時には実物を手に取り、「火度は胎土は」を熱心に質問した。そして、「古代人の造形力のたくましさや、表現の自由さ」に感嘆の声を上げた。[白崎1978]

東京大学人医学研究室では、山内清男(やまのうち・すがお)の指導を仰いだ。山内は「日本考古学の父」と称される大家で、縄文土器の年代決定による編年網を作り上げたことで知られる。

山内は、「縄文土器の文様の付け方や年代による形の違い」などを熱心に語った。時に自ら紐を取り出し、粘土板の上に転がして見せた。「紐の組み方による各種の文様、二重にした文様、それに瘤玉を付けた文様と、一本の紐から生まれる文様の変化」に、濱田は強い関心を示した。さらに「描き落しのように文様の上を竹箆で綿を描き、余分のところを貝殻の背で磨き縄文を消す方法など、古代人の土器作りの技」を食い入るように見ながら、その土器の用途について思いを巡らせた。[白崎1978]

このとき、濱田はひとりの弟子を連れていた。島岡達三(しまおか・たつぞう)。のちに益子の濱田宅の隣地で築窯(ちくよう)し、1996年に人間国宝になった人物である。島岡は、濱田の傍らで、縄文土器の制作方法を学び、事業の重要な役割を担うことになる。そして、のちに島岡独自の「縄文象嵌(じょうもんぞうがん)」が生まれることになる。

一方、教材販売の会社組織として、ドルメン教材研究所が設立された。会社の資金集めは有賀が担当した。有賀は藤森から「金持ちの中学同級生」を紹介され、「その男にくいついた」。「その男」は片倉財閥の一員だった。この財閥は、1873年に長野県諏訪郡川岸村(現在の岡谷市川岸)で片倉市助が始めた製糸業に起源を持つ。のちに富岡製糸場を操業するなど、近代日本の蚕糸事業を支えた企業で、1926年には東京・京橋の鍛冶橋通りに面した一等地に、片倉ビルを建設した。片倉財閥と関係を深くした有賀は、この片倉ビルにドルメン教材研究所の業務部を開設することに成功する。[藤森1970a:88]

巨匠による縄文土器づくり

濱田は土器づくりに着手した。白崎は東京から益子に通い、試作に必要な資料写真や図面を持参した。

白崎はこのときのことを、次のように回想している。

先生は土器片を見て、土器の土は荒い、砂が混じっている、と益子の胎土を土器用に作って試作を始められ、成焼も、本窯に入れると温度が高過ぎるのでと、別に窯を作って試作された。しかも復原した土器は、すべて原寸であるので出来上った品々は、年代の新古はあっても、真物と見まがふばかりの出来ばえであった。悪意があって時代性を付ければ本物として通用するような見事な土器が復原されたのであった。

[白崎1978]

この事業では、縄文土器と弥生土器が制作された。原型製作を濱田が担当し、島岡達三が土もみや型取り・型抜きを担当した。島岡の父・米吉(よねきち)は東京・愛宕で3代続く組紐(くみひも)師で、この時、縄文土器のような縄目を出すための撚紐(ひねりひも)を担当した。

まずは、島岡達三が黄色と鼠色の2色の土を練った。その練土を濱田が受け取り、轆轤(ろくろ)の中心に据えて、土器の底を作った。次に輪積みを繰り返し、胴ができると、上部の広がりを成形した。そののち、貝を使って全体を削り取り、不要な個所を取り除いて、縄文を付けていった。開口部は木片の角で文様を付け、胴部は滑らかな箆(へら)で模様を描いた。最後に貝の表面で模様内の縄文を消し、原型が完成した。これを島岡達三が受け取り、石膏で型取りが行われ、複製が作成された。

最後に土器に商標のマークをつけたが、そのデザインは芹沢銈介が担当した。まさに民藝運動を代表する人物たちが、円熟期に取り組んだ事業が、土器の標本作りだったのである。

濱田は、制作過程を取材した『毎日グラフ』記者に次のように語っている。

この土器は教材に使われるんだから、うかつな仕事はできない。古代土器は古代人の無意識の中から生れたと思われる美しさを持ち、日本の民藝の先祖だ。その美しさは今なお、われわれの心を打つものがあつて、造つていながら真に興味深いものがある。

[尾崎1950]

濱田は土器標本制作を通じて、「日本の民藝の祖」に出会った。そこには「古代人の無意識の中から生れたと思われる美しさ」が存在した。

濱田にとって「無意識」は重要な概念だった。彼が探求した作陶の本質とは、「計らい」の超克にあった。美しいものを作ろうとすると、美しさが逃げていく。美しさは人間の作為性を超えたところからやってくる。それは超越的であり、内在的である。仏の本願としての「他力」は、人間の「無意識」と呼応して、思いがけない美を生み出す。それが民藝の真髄に他ならなかった。

濱田は晩年に書いた「一瞬プラス六十年」というエッセイのなかで、バーナード・リーチに釉薬(ゆうやく)の流し掛けを見せたときのことを振り返っている。濱田は柄杓(ひしゃく)に半分ぐらいの釉薬を掬うと、「大皿の先方一尺程のところから流し始め、出来るだけ意識を抑えて一気に手許まで描き流す」。この様子を見ていた訪問客が「これだけの大皿に対する釉掛が十五秒ぐらいきりかからないのは、あまり速過ぎて物足りなくはないか」と尋ねた。

濱田は言う。

しかしこれは十五秒プラス六十年と見たらどうか。自分でも思いがけない軽い答が出た。リーチも手を打ってうまく答えたと悦ぶ。こうなると、この仕事は自分の考えより、手が学んでいたさばきに委したに過ぎない。結局六十年間、体で鍛えた業に無意識の影がさしている思いがして、仕事が心持ち楽になってきた。

今の願いは私の仕事が、作ったものというより、少しでも多く生れたものと呼べるようなものになってほしいと思う。

[濱田2000:15-16]

体が覚えた技に無意識の影が差す。そこで出来上がったものは、「作ったもの」ではなく「生まれたもの」である。

濱田は縄文土器を制作するなかで、古代人の技や手つきを共有しながら、そこに差し込む「無意識の影」を感じ取ったのだろう。彼は土器を作りながら、古代人と無言の交わりを持った。そして、縄文土器に、「今なお、われわれの心を打つもの」=「美」を見出し、その制作者たちを「日本の民藝の先祖」と見なした。

濱田庄司『無盡蔵』(講談社文芸文庫/2000年)

古代土器複製標本がもたらしたもの

 

ドルメン教材研究所が制作した「古代土器複製標本」は、全8集を予定に刊行が始まった。しかし、高価だったため第1集(弥生土器)、第2集(縄文土器後期・晩期)が出たところで制作中止に追い込まれ、以後、事業は継続されなかった。第2集の標本には『古代土器標本解説書』が付録されているが、監修は後藤守一(ごとう・しゅいち)、杉原荘介がつとめ、解説は芹沢長介が担当した。発行者は白崎俊次で、1950年11月に発行されたが、これが最後の出版となった。

ドルメン教材研究所の土器標本制作は、事業としては失敗に終わったが、民藝運動と縄文をつなげる重要な役割を果たした。

白崎は次のように述べている。

この土器の復原のために研究されたことが、浜田先生の作品にも用いられ、その年の三越の展覧会にも出品され、浜田作品に縄文時代が生まれたのであった。[白崎1978]

[白崎1978]

このころ濱田は「飴釉(あめゆう)縄文茶碗」をいくつか制作した。これは紐による縄目が特徴的な茶碗で、濱田の代表作として知られる。また、縄文の遺物の蒐集に乗り出し、青森県外ケ浜町宇鉄(うてつ)遺跡出土の遮光器土偶(縄文晩期)を弟子の濱田喜四郎(はまだ・きしろう)から手に入れた。この土偶は、現在でも濱田庄司記念益子参考館に収蔵されている。

型取りを担当した島岡達三は、このときの経験をもとに、彼の代名詞となる「縄文象嵌」を生み出していく。紐を転がすと、思いがけない文様が現れる。そこでは「計らい」は無用のものとなり、作為を超えた紐の回転にゆだねることになる。父が継承してきた職人の技と民藝運動の精神、縄文土器づくりの経験が高次に融合し、昇華されて生まれたのが島岡の「縄文象嵌」だった。

さらに、芹沢銈介もこのころから古代の遺物の蒐集に熱を出すことになる。彼の収蔵品のなかには遮光器土偶(縄文晩期)の他、土器・岩版など約30点の「縄文もの」があった。

1950年代に入り、民藝運動のなかに一種の「縄文ブーム」が起きたのである。

【参考文献】
尾崎昇 1950 「古代土器をやく」『毎日グラフ』第3年第14号(1950年6月)、毎日新聞社
佐々風太 2022 「無地の器の利他-柳宗悦の蒐集と思想を手がかりに」『コモンズ』第1号、東京工業大学未来の人類研究センター
島岡達三他 1981 「島岡達三・益子語り(一)」『民芸手帖』274号(1981年3月)、東京民芸協会
白崎俊次 1978 「土器を作った浜田先生」『民芸手帖』238号(1978年3月号)、東京民藝協会
濱田庄司 2000 『無盡蔵』講談社文芸文庫
濱田琢司 2021 「民藝運動の定期刊行物とそのなかの『民芸手帖』」『民藝』828号(2021年12月号)
平田健 2011 「学校教育における考古資料教材の開発とその学史的意義-ドルメン教材研究所『古代土器複製標本』の評価をめぐって」『学習院大学史料館紀要』17号、学習院大学史料館
藤森栄一 1970a 『考古学とともに-涙と笑いの奮戦記』講談社
____ 1970b 「縄文の故郷」『歴史読本』15巻7号(1970年6月号)、新人物往来社

*島岡達三については、佐々風太さん(東京工業大学博士課程)からご教示いただき、有益な視座を得た。感謝の念を記したい。

筆者について

中島岳志

1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。なかじま・たけし。北海道大学大学院准教授を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』、『秋葉原事件』、『「リベラル保守」宣言』、『血盟団事件』、『岩波茂雄』、『アジア主義』、『下中彌三郎』、『親鸞と日本主義』、『保守と立憲』、『超国家主義』、『保守と大東亜戦争』、『自民党』、『思いがけず利他』などがある。

  1. 第1回 : 戦後日本が「縄文」に見ようとしたもの
  2. 第2回 : 岡本太郎の縄文発見
  3. 第3回 : 岡本太郎「縄文土器論 四次元との対話」
  4. 第4回 : 岡本太郎 対極主義と伝統
  5. 第5回 : 縄文とフォークロア
  6. 第6回 : 民藝運動と縄文
  7. 第7回 : 濱田庄司の縄文土器づくり
  8. 第8回 : 最後の柳宗悦
  9. 第9回 : 島尾敏雄の「ヤポネシア」論
連載「縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム」
  1. 第1回 : 戦後日本が「縄文」に見ようとしたもの
  2. 第2回 : 岡本太郎の縄文発見
  3. 第3回 : 岡本太郎「縄文土器論 四次元との対話」
  4. 第4回 : 岡本太郎 対極主義と伝統
  5. 第5回 : 縄文とフォークロア
  6. 第6回 : 民藝運動と縄文
  7. 第7回 : 濱田庄司の縄文土器づくり
  8. 第8回 : 最後の柳宗悦
  9. 第9回 : 島尾敏雄の「ヤポネシア」論
  10. 連載「縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム」記事一覧
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