縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム
第15回

縄文回帰とスピリチュアル革命

学び
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1960年代後半、日本全国各地に形成されたヒッピー・コミューンは、なぜ急速に消滅していったのか。地方に移り住んだヒッピーたちと地元住民のあいだでは何が起こっていたのか。そして1970年代前半、田中角栄政権下の日本列島は未曽有の開発ラッシュが起き、不動産価格の高騰する。時代は転がるように、波を打って変わってゆく。

コミューンの行き詰まり

ヒッピーによるコミューン運動は、様々な形で注目を集めた。特に、諏訪之瀬島のコミューンは、アメリカの雑誌『ホール・アース・カタログ』に掲載されたことから、世界中でヒッピーの聖地として知られるようになった。

しかし、わずか数年で全国各地に形成されたコミューンの大半が消滅していった。代表的なコミューンとして知られた信州・富士見高原の雷赤鴉族も、1970年代に入ると集団の維持が困難になり、解体された。

なぜか。

山田塊也は次のように言う。

コミューンであるためには、近代によって教育され、分断疎外された個人主義を解体し、アナーキィな一匹狼であることを超克すべきなのに、“部族”はブルジョア的個人主義を解体しえず、“集団的個”という新しい革命主体を形成しえなかった。「集団との関係に於けるオノレの位置づけ、役どころ、義務と責任」を自主的に把握し、全体に機能して行く自発的行為を選択して行くまでに主体性が確立しえていなかったのだ。

[山田1981:239]

コミューン運動は、近代の個人主義を超える社会運動だった。コミューンにおける個人は、あくまでの「集団的個」でなければならず、自己の利益を優先するエゴイズムは批判の対象とされた。一方で、彼ら・彼女らは、スクエア(四角四面)な社会から距離をとり、自己の感性の開放を主張した。ヒッピーにとっての「集団的個」とは、滅私による集団への従属ではなく、自己の本質の発露が、そのまま他者の喜びと融和するあり方だった。だからこそ、ヒンドゥー教の教義やヨーガの実践が重視され、梵我一如(ぼんがいちにょ)の境地への到達が志向された。

人間中心主義の迷妄が作り上げた文明を革命するためには、一個の自我が素っ裸で自然に立ち帰り、その孤独と恐怖、さまざまな不便を克服し、宇宙的自我、一元論的神聖を体験しない限り不可能だろう。世界にはびこる無知と独善を看破し、あらゆる権力を否定し、自然に対する人間の作為と掠奪を阻止するための文化的ゲリラを育成するのだ。

[山田1974:24]

しかし、このような革命主体たる「集団的個」はなかなか形成されず、逆に自我の肥大化と集団内の権威主義が横行した。参加者は競争社会から距離をとる自己を特別な存在であると認識する一方で、年長のリーダーがカリスマ視され、上意下達の体制が生まれてきた。結果、「自分たちは特別に選ばれて二一世紀にサバイバルする人間である」という「エリート意識」「前衛の思い上がり」が、「必然的にコミューン運動を特殊仲間だけのユートピア志向にしてしま」った[山田1981:240]。

そのようななか、各地のコミューンからは、次々にメンバーが抜けていき、「部族」の維持が困難になっていった。

列島改造論と南島

1972年6月、総理大臣になる直前の田中角栄が『日本列島改造論』を出版した。田中は、日本列島各地を新幹線や高速道路などで結び、地方の工業化を促進しようとした。彼は土建産業を基軸とした開発ラッシュを後押しし、日本各地で不動産価格が高騰した。

この年の5月には、沖縄返還が実現し、主権が回復した。これに伴って、本土の資本家たちによる沖縄開発に火がつき、様々な計画が持ち上がった。

そのひとつに、ヤマハ日本楽器による南西諸島のリゾート開発があった。この計画に諏訪之瀬島が含まれており、ヤマハは島の土地の大規模購入に乗り出した。

開発計画は、高級レジャー施設の建設だった。これに伴って空港が開設され、道路や港湾も整備される計画が打ち出された。さらに、施設が誕生すると、島民はそこで社員として雇用されるという。村民は当惑したものの、過疎高齢化問題の解決策として、村有地の一部がヤマハに売却された。

諏訪之瀬島でコミューンを続けるメンバーは、反発した。東京の仲間と連動し、ヤマハボイコット運動が展開され、海外でも署名活動が行われた。このとき、東京・国分寺で結成されたコミューンが、空飛ぶ円盤運動に接近した「CCC宇宙子供連邦大使館」だった。

諏訪之瀬島では、ヒッピーたちに住民としての権限が与えられていなかった。彼ら・彼女らは家族という単位で生活しておらず、部落会に加入することができなかった。加入するには、「コミューンからカマドと財布を分かち、部落内に住み自立する」ことが求められた[山田1981:237]。

ヒッピーたちは、住民との協議の場に参加するため、子供のいる三家族が部落内に家を建てて住み、部落会のメンバーになった。山田によると、これが「部族」というコミューンの決定的解体につながった。

諏訪之瀬島のバンヤン・アシュラマを精神的な拠り処、ビジョンとして結束していたコミューン運動「部族」にとって、バンヤンの解体はコミューン運動の決定的な挫折であった。

「部族」の掲げた相互扶助、共同共生の論理によるコミューン主義が、ふたたび適者生存の論理、すなわち実力主義に逆転してしまうのだ。コミューンなら生活していけるけど、一人だけ、あるいはカップルだけでは自信がないという人間は、諏訪之瀬島には住めなくなるのである。

それは理想主義の敗北だった。

[山田2013:119]

ヒッピーたちは、部族会に加入したものの、住民の意見を覆すことはできず、ヤマハの工事は進んでいった。ここにコミューン運動のひとつの時代が終焉することになる。

奄美大島の無我利道場

1975年、コミューン運動に挫折した山田は、琉球弧をめぐる旅に出た。ヤマハをはじめとする資本家が、なぜ南西諸島の辺鄙な場所をリゾート開発しようとしているかが腑に落ちなかった。山田は、「この計画の背後には何か別の企みがあるのではないか?」と疑義を抱き、南西諸島キャラバンを始めた。

ここで彼が出会ったのが、奄美大島の石油精製基地建設構想だった。これは東亜燃料工業が1973年に打ち出した計画で、奄美西部の枝手久島周辺を大規模開発するというものだった。地元は賛成派と反対派に分断され、かつての協調的な村落共同体に大きなひびが入っていた。

山田は、地元で開発反対を訴える新元博文と出会い、語らった。山田が「枝手久島(えだてくじま)を守る戦いなら、なぜ枝手久島に砦を築かないのだ?」と質問すると、新元は「おぬしやってみるか?」と返した。

山田は戸惑ったものの、旅をつづけた。各地の旅先で見たものは、ヤマトによる南島への新たな「企業侵略」の実態だった。

たった二ヶ月だったが、琉球弧の島々を巡って、ぼくらが見たり聞いたりしたことは、ぼくらの想像もつかないほど異常なことだった。それは内地を食い荒らした公害資本が、この公害処女地を寄ってたかって食い散らそうとしているみたいだった。沖縄本島には米軍基地に加えて自衛隊が進駐し、その燃料基地として金武湾に三菱が、枝手久島に東燃がCTS(石油備蓄基地)の建設を計画し、そのキナ臭さをカムフラージュするために、ヤマハ、西武、名鉄、東急などの観光資本が、「南の島の楽園」を宣伝しようとしているのだ。

[山田2013:134]

山田は、奄美大島で新元から言われた言葉が心に引っ掛かり、「オレがやらなきゃ誰がやる」という強迫観念にかられ、奄美への移住を決意した。山田が反対派の地主集会に出席し、「枝手久島の原野を開墾して、若者たちの共同体を作りたい」と語ると、区長をはじめ全員がもろ手を挙げて賛成した。そして、「どうかこの部落にも何人かが住みついて、力になってほしい」と言われた。[山田1975:68]

山田が住民たちから感じたのは、「反ヤマト」の精神だった。

奄美の闘争は多様な局面を持っている。それは公害反対運動であり、階級闘争であるが、島津藩による三百年の圧制と搾取以来の、ヤマトに対する怨恨を秘めている。奄美人独特の熱っぽい気質が、理論よりも心情的な闘争に向かわせるのだ。“条件闘争ではない、絶対反対なのだ”という姿勢そのものの中に、ヤマトへの反撃と、奄美自治の悲願を見る。 

[山田1975:67]

山田は、奄美の人たちの「ヤマトへの反撃」を自己への闘争とリンクさせた。ヤマトは単に、本土についての地理的な概念ではない。それは他者に対する権力的搾取の象徴であり、資本主義のメタファーでもあった。そのため、ヤマトからの脱出は、自己解体の契機を含まなければならない。「ヤマト」と戦うことは、自己のなかに存在するヤマト性との戦いであり、新しい主体への生まれ変わりでなければならなかった。

“私というもの”という観念に支配されている限り、理想の共同体作りは不可能だ。ヤマトという中央集権体制をドロップアウトし、アナーキイな新しい共同体作りを展開しているぼくらが、一方で放浪に対して定着と同等の価値を認めているのは、“究極には自己との闘いである”ことを自覚しているからだ。現代文明の闇を潜って来たぼくらにとって、自己否定は自明のことだ。絶望と孤立の底で連帯し合ったコミューン運動が、求道者的色彩を帯びるのは当然のことだ。コミューンのことをぼくらが同時にアシュラマ(修行道場)と呼んでいるのも、そこをケチなエゴを葬り、自らの働きを捧げる場として捉えているからだ。

[山田1975:68]

山田たちは、奄美で新たに開設したコミューンを「無我利道場(むがりどうじょう)」と名付けた。ヒッピーたちにとって、石油精製基地建設に反対することは、ヤマトという資本主義文明に対する抵抗運動であり、エゴイズムを乗り越える精神修行そのものでもあった。

このころ無我利道場を取材した『アサヒグラフ』の記者に対して、山田は次のように述べている。

ここには、まだ病んでいない自然と、ストレートな怒り、内省化した怨念、そして、かっとなったら凶器を振りかざす野生の暴力性が健在だ。この健全な反発力があり、ここの闘いが深められていくとき、病めるやまとに対するヤポネシアの土俵際での打っちゃりの可能性がある。枝手久こそ、地域とともに生きともに闘う、孤立したユートピアでない、真のコミューン建設の場だ。

[アサヒグラフ編1979:32]

山田の構想には、島尾敏雄の「ヤポネシア論」の影響が見て取れる。山田は琉球弧の基層に存在する「怒り」や「怨念」、「野生の暴力性」に依拠しながら、ヤマトをヤポネシアによって包み込もうと考えた。南島に残るヤポネシア性に回帰することで、現代文明を解体し、「真のコミューン」を建設しようと訴えた。

「原子化」から「原始化」へ

この構想は、島尾と同様に、日本の基層文化である縄文へと接続した。徳之島での使用済核燃料再処理工場の建設計画(MA-T計画)が浮上すると、山田は「原子か、原始か?」という問いを立て、「超近代に対する超古代」の立場をとった。

山田は言う。

原子力こそは、死の絶対秩序を実現さす悪魔のエネルギィである。かくて「原子か、原始か?」の二元論は、新たなる様相を帯びるのである。
核分裂と無機質化、非生命化、関係性の限りなき分断、疎外、孤絶、そして狂気である原子化に相対するものとしての原始化とは、核融合と有機質化、生命化、関係性の限りなき拡張、深化、連動、そして解放である。それは原爆の核分裂を起爆剤として核融合を誘発させ、原爆の数百倍もの膨大なエネルギィを放出させる水爆の原理にも似た核融合を、精神界に於て爆発させることである。

[山田1980:43]

山田にとっての「原始化」とは、精神の革命に他ならない。個々の生命は、自己を超えて拡張し、他者と融合する。そのことによって、私の存在は深化し、いのちは連動する。これが真の解放であり、原始化である。

全人類、全生類を同胞にして行くこのような一体感、偉大なる統合、ヨガが、無告の民の内部で為されて行く事実こそは、迫り来る原子力支配を逆転する生のベクトルが、危機の時代を燃え上がらせていることの証明である。ここに於いて“反文明”は、単なる文明嫌悪や逃避思想でなく、反原子化という積極的な闘争意地を持って、原始化を生きることなのだ。

[山田1980:44]

「反原子化」は、原子力発電への反対にとどまらない。人間が個人化し、つながりを失った「原子化」への抵抗である。「原子化」を退け、「原始化」を志向することは、疎外を超えた新しい時代の人間社会を生み出す。その拠点が、原始とつながる琉球弧であり、革命の中心地である。「原子化ファシズムの潮流に対する反流として、原始化の波が琉球弧の島々を連動し、世界同時革命の前衛拠点として琉球弧自立が、今激しく戦われている」[山田1980:44-45]。

ただし、原始化とは単に古代社会に「退化」することを意味しない。それは、意識の解放を伴う「宇宙的アイデンティティ」への到達でなければならない。

私たちが原始化を志向するということは、原始人になることでも、昔に帰ることでもない。それは近代的自我の独房を破壊し、解体し、意識を解放、変革し、生きとし生けるものに愛を感じ、実在と観念の同時性、リアリティの復活、宇宙的アイデンティティの確立を目指すことである。それは“近代”という媒介を通して止揚されるべき自我の再統合であり、“世界”の奪回であり、「万物は一なるものの多様なる顕現である」という不二一元論の自覚であり、ブラフマン(梵)とアートマン(我)の一如であり、サンスクリット語で結合を意味する“ヨガ”の完成である。

[山田1981:228]

山田は、このあと奄美を去ることで、さらなる縄文回帰を進めた。彼が注目したのは、古代日本においてヤマト王権に服従しなかった「土蜘蛛」という存在だった。

土蜘蛛というのは、古代大和朝廷によってジェノサイドされた日本原住民のことで、古事記には「尾生る人」などと記され、未開蛮族扱いされているが、稲作民渡来前の縄文狩猟民のことだ。
ぼくはこの「原日本人、縄文インディアン」の抵抗を通して、日本人とは何かを提起してみたかった。

[山田2103:232]

ヒッピーにとって、縄文とは反ヤマトの幻像だった。ヤマトとは、資本主義や帝国主義と結びついた日本の呼称であり、現代文明のメタファーだった。原始化としての縄文回帰は、疎外を抱えた自我からの解放であり、一なるものへの合一化だった。ヒッピーにとって、縄文の原理を抱きしめることは、現代文明に対するアンチテーゼだけでなく、自己のスピリチュアルな革命でもあった。

縄文幻想は、ニューエイジにおけるスピリチュアリティの探求と密着しながら、新たな展開を遂げていく。

【引用文献】
アサヒグラフ編 1979 『にっぽんコミューン』朝日新聞社
山田塊也 1974 「第二、第三の諏訪之瀬島を」『思想の科学(第6次)』、34号、1974年8月号
____ 1975 「村落共同体の崩壊の中で」『思想の化学(第6次)』55号、1975年12月号
____ 1977 「悪魔との運命の決戦」『思想の科学(第6次)』72号、1977年2月号
____ 1980 「原子化時代を生きぬく」『思想の科学(第6次)』114号、1980年1月
____ 新元博文 1981 『奄美独立革命論』三一書房
____ 2001 『トワイライト・フリークス』ビレッジプレス
____ 2013 『(増補改訂版)アイ・アム・ヒッピー』森と出版

*   *   *

*中島岳志『縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム』次回第16回は2023年5月26日(金)17時配信予定です。

筆者について

中島岳志

1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。なかじま・たけし。北海道大学大学院准教授を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』、『秋葉原事件』、『「リベラル保守」宣言』、『血盟団事件』、『岩波茂雄』、『アジア主義』、『下中彌三郎』、『親鸞と日本主義』、『保守と立憲』、『超国家主義』、『保守と大東亜戦争』、『自民党』、『思いがけず利他』などがある。

  1. 第1回 : 戦後日本が「縄文」に見ようとしたもの
  2. 第2回 : 岡本太郎の縄文発見
  3. 第3回 : 岡本太郎「縄文土器論 四次元との対話」
  4. 第4回 : 岡本太郎 対極主義と伝統
  5. 第5回 : 縄文とフォークロア
  6. 第6回 : 民藝運動と縄文
  7. 第7回 : 濱田庄司の縄文土器づくり
  8. 第8回 : 最後の柳宗悦
  9. 第9回 : 島尾敏雄の「ヤポネシア」論
  10. 第10回 : 吉本隆明『共同幻想論』と「異族の論理」
  11. 第11回 : ヤポネシアと縄文
  12. 第12回 : 空飛ぶ円盤と日本の危機
  13. 第13回 : 宇宙考古学 遮光器土偶は宇宙服を着ている?
  14. 第14回 : 原始に帰れ! ヒッピーとコミューン
  15. 第15回 : 縄文回帰とスピリチュアル革命
  16. 第16回 : 偽史と革命
  17. 第17回 : 太田竜――「辺境」への退却
  18. 第18回 : アイヌ革命論
  19. 第19回 : 自然食ナショナリズムとスピリチュアリティ
  20. 最終回 : 陰謀論と縄文ナショナリズム
連載「縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム」
  1. 第1回 : 戦後日本が「縄文」に見ようとしたもの
  2. 第2回 : 岡本太郎の縄文発見
  3. 第3回 : 岡本太郎「縄文土器論 四次元との対話」
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  18. 第18回 : アイヌ革命論
  19. 第19回 : 自然食ナショナリズムとスピリチュアリティ
  20. 最終回 : 陰謀論と縄文ナショナリズム
  21. 連載「縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム」記事一覧
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