縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム
第14回

原始に帰れ! ヒッピーとコミューン

学び
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1960年代、アメリカから同時代的に全世界に広がったヒッピー・カルチャーは、いかにして東洋思想に接近し、原始に回帰したのか。そして、原始と宇宙の動きと連動していたという「神秘主義」により、ヒッピー・ムーヴメントと宇宙考古学はつながってゆく。

ヒッピーの誕生

1960年代半ばになると、アメリカのカウンターカルチャーは、ヒッピーという存在を生み出した。「ヒッピー」という用語が使われたのは、1965年9月の『サンフランシスコ・エグザミナー』の記事が最初だと言われる。この背景にあったのは、アメリカにおける大衆運動の興隆だった。

黒人差別が社会問題化し、キング牧師が主導する公民権運動が拡大した。彼は1963年8月に行われたワシントン大行進で演説し、“I have a dream”(私には夢がある)と訴えた。公民権運動は、アメリカ人の典型的な生活様式が白人中心主義によって構成されており、黒人への抑圧が前提となっていることを明らかにした。「芝生とプールと大型冷蔵庫」という「アメリカンドリーム」が相対化され、背を向ける反体制的な若者が続出した。

この動きはベトナム戦争の開戦により加速した。1964年8月2日にアメリカがトンキン湾事件を起こしたことで全面戦争に突入すると、愛と平和を訴え、徴兵や派兵に反対する若者が急増した。当時のアメリカの徴兵制度では、18歳から24歳の男性が徴兵の義務を負っていた。反戦を訴える若者たちは、ベトナム戦争のなかに大国による小国への抑圧・搾取を見いだし、良心的兵役拒否を行った。

ベトナム反戦運動は、自然と平和を愛し、自由に生きるスタイルの探求へとつながった。出世や競争から離脱し、近代文明を否定的に捉える指向性は、次第にドラッグへの接近を生み出した。ヒッピーたちは、LSDによってこそ意識の変革が起こり、高次の自己へと到達できると考えた。資本主義に支配された身体と精神構造を解放し、ロゴス中心主義を乗り越えなければ、真の幸福を獲得できないと論じた。

ヒッピーは、陶酔状態のなかで「幻覚」を体験し、それが無意識的な心の深層を明らかにしていると捉えた。その視覚・聴覚経験を表した芸術はサイケデリック・アートとして表現され、絵画、デザイン、映像、音楽などの世界に大きな影響を与えた。

また、近代的な理性中心主義を懐疑的に捉えたヒッピーは、東洋の思想や宗教に関心を持ち、そこに合理主義が疎外してきたスピリチュアルな「神秘」を見いだしていった。彼ら・彼女らは、自我の解放と自然との一体化の探求の中でヒンドゥー教のヨーガや仏教の瞑想などを取り入れ、精神修行に励んだ。このなかでインド世界に注目が集まると同時に、日本の禅やイスラームのスーフィズム、中国のタオイズム、ネイティブ・アメリカンへの関心が高まった。

ヒッピーたちは、自給自足による脱資本主義・脱市場原理をめざし、コミューンを形成するようになった。四角四面な規範を打破し、身体の解放を志向する流れは、エコロジー思想を生み出すと同時に、フリーセックスを強調する集団も生み出した。1967年には「サマー・オブ・ラブ」という大規模イベントがサンフランシスコで開催されると、全米からヒッピーが集結した。

新宿・風月堂

アメリカの動きは、同時代の日本と連動した。

1964年、東京オリンピックが開催され、多くの外国人が日本を訪問した。このとき、外国人観光客向けガイドブックに「日本のグリニッジ・ヴィレッジ」と紹介された喫茶店があった。

新宿・風月堂。

戦後間もない1946年にオープンした名曲喫茶で、クラシックレコードのコレクションが売りだった。そこに若き詩人や演劇人、芸術家などが集まり、文化人の重要な拠点となった。

ここにカウンターカルチャーを担ってきた外国人が集まり、日本人と交流がはじまった。その中核にいたのがナナオサカキだった。彼は日本のヒッピー運動をリードした人物で、当時は各地を転々とする生活を送っていた。

ここに長沢哲夫(ナーガ)や山田塊也(ポン)、長本光男(ナモ)、山尾三省らが加わり、日本の「ビートニク」が形成されていった。彼らは日本中をヒッチハイクで旅行し、その合間に新宿に戻ってきた。

彼らの共通点は、近代合理主義への懐疑にあった。特に、インドのヒンドゥー教に対する関心が強く、次第に関心の中心になっていった。

長沢がヒンドゥー教に接近したきっかけは、「日本ヴェーダンタ協会」との関係にあった。この団体はインドのラームクリシュナミッションの日本支部で、1959年に設立された。ラームクリシュナは19世紀インドを代表する聖者で、ヒンドゥー教の社会改良運動に大きな影響を与えた。ラームクリシュナミッションは、彼の弟子ヴィヴェーカーナンダによって結成された宗教団体で、近代インドの宗教社会運動に大きな影響を与えた。

長沢は1964年から65年頃に、友人に連れられて日本ヴェーダンタ協会を訪れた。そこでラームクリシュナの言葉を読む読書会に参加し、ヒンドゥー教の世界に関心を持った。以後、インド大使館の図書館に通い、インド哲学の書籍を読みあさった[マエバラ2019:161]

同時期に、山尾も『マハーニルヴァーナ・タントラ』を熱心に読み、独自に翻訳を行っていた[マエバラ2019:161]。山田は、この頃に「最も強い感銘を受けた本」として、ヴィヴェーカーナンダの『生きる秘訣』を挙げている。[山田2013:45]

『Spectator』45号/2019年/エディトリアル・デパートメント

このようなメンバーが、1965年頃から「バム・アカデミー」という集団名を名乗るようになった。長沢は次のように回想している。

あるときナナオがね、「ちょっと集まってくれ」って。「風月堂」の近くに「青蛾」っていうちっちゃな喫茶店があってね。音楽も何もかけてないシーンとした静かな空間だったけど。そこに集まるっていうんで、五、六人。おれとか三省とか。

で、何を言うかと思ったら「ぼくらの集まりに名前をつけようと思って」と。「“乞食学会”っていうのはどうかね?」とか言いだして。「ああ、いいですよ」と。それで“乞食学会”で、英語訳で“バム・アカデミー”っていう名前になったわけよ。

[マエバラ2019:159]

バム・アカデミーのメンバーは、立身出世コースを放棄し、高度経済成長の日本のあり方に背を向けた。そして、スピリチュアルな解放を目指し、各地を彷徨った。山田は言う。

日本のヒッピームーヴメントの源流となったこの新宿ビートニックは、都会的デカダンスと快楽主義の半面に、金と文明の利器に対する極めてストイックなものを持っていた。資本主義体制下の労働を拒否し、一年の大半をヒッチハイクと徒歩の無銭旅行で過ごし、北は宗谷岬から南は与論島まで、今まさに総汚染、総破壊へと雪崩れ込んで行くヤポネシア列島を巡礼し、肉体と精神を鍛え、秘境を探り、人を求めて彷徨った。

原始仏教、禅、密教、ヒンズー教、道教、そして文化人類学や民族学などが霊的開発の手引書として研究され、バッハに心酔し、時には新宿に集結してスキャンダルなルンペンセレモニーを行った。

[山田1981:202]

1966年秋、バム・アカデミーが主催するかたちで、第1回「フェスティバル」が開催された。これは「管理され、画一化されていく新宿の欲望に対する自由人のデモンストレーションだった」[山田2013:50]

「われわれはいまだ知られざる文明の原始人である」

新宿はカウンターカルチャーの中核として多くの若者を引きつけ、「革命前夜を想わせるような妙な解放感と興奮に満ちていた」[山田2013:50]。一方で、警察の取り締まりが厳しくなり、「フーテン狩り」のようなクリーン作戦が展開された。

バム・アカデミーは、新宿の自由が窒息しそうになっていることを察知すると、「新宿と決別のセレモニー」を開催することにした。

1967年4月、バム・アカデミー主催で「第2回フェスティバル・世界の滅亡を予言する自由言語による集会と行列」が行われた。これは新宿通りを練り歩くパフォーマンスが行われた。花やビーズで着飾った数十人の若者が、高田馬場から新宿に向けて、様々なスタイルで行進した。

踊る者。ギターを鳴らしながら歌う者。ホラ貝を吹く者。ヒンドゥー教のマントラを唱える者。配布されたチラシには、次のような文言が書かれていた。

おい、

歩こうや!

おれたちの裸をとじこめるな

ぬけだせ 裸のお前に

道の上に

おい

歩こうや!

このとき、掲げられたプラカードには、次のようなスローガンが掲げられた。

われわれはいまだ知られざる文明の原始人である

ヒッピーたちは、自分たちを「文明の原始人」と位置づけた。彼ら・彼女らにとって、真の文明は「原始」のなかにあった。プリミティブな共同性に回帰することによってこそ、資本主義的欲望から解放され、生の歓喜に包まれる。そんなイマジネーションが共有されていった。

部族と原始コミューン

バム・アカデミーはこのあと、「部族」を名乗り始める。これはアメリカのヒッピー新聞『ORACLE』に書かれていたTRIBEという単語に、長沢が反応したことによる[マエバラ209:164-165]。

部族メンバーは新宿を離れ、各地にコミューンを形成しはじめた。山田曰く「崩壊する物質文明にとって替わる、生存のための精神文化の場をぼくらは用意しなければならないと思ったのだ」。これは「意識革命の新たな地平への旅立ち」だった。[山田2013:57]

はじめに誕生したコミューンは、長野県富士見高原の「カミナリ赤鴉(あかがらす)族」だった。1967年4月、山尾が仲間と共同で土地を購入し、長沢と秋庭健二(ナンダ)が入植したことから、共同生活が始まった。

赤鴉は三本足のカラスのことで、入笠山のシンボルだった。電気・ガスが引かれていない場所での生活は、薪でドラム缶の風呂を焚き、明かりは蝋燭とランプに頼った。畑を耕し、家畜の世話を行う傍ら、読書や座禅、瞑想が行われ、夜には音楽を奏でた。

次に形成されたコミューンは、鹿児島県諏訪之瀬島の「がじゅまるの夢族」(のちに「バンヤン・アシュラマ」)だった。諏訪之瀬島はトカラ列島に属する火山島で、当時は鹿児島港から奄美大島の間を週一回往復していた「十島丸」に乗るしかなかった。

海岸線は切り立つ絶壁とサンゴ礁に囲まれ八百メートルの山頂では活火山が轟き、亜熱帯のジャングルは野鳥の宝庫だった。わずか十世帯、数十人の島人が、車も、テレビも、商店もない孤島で、最後の縄文人といっても過言ではないほど、文明に頼らず生活していた。

[山田2013:59]
山田塊也『トワイライト・フリークス-黄昏の対抗文化人たち』2001年/ビレッジプレス

当時、諏訪之瀬島には、約50名の住人がいた。部族メンバーは住民を「最後の縄文人」と見なした。彼らは「最後のプリミティブともいうべき」「高度に研き上げられた生活テクノロジー」を有していた。「手仕事の驚くべき練達」は、「神技に近い技術とカン」によって成り立っており、それは文明人が失った野生の知だった。[山田1981:205]

私たちはアメリカインディアンを一つの理想として、コミューンの生活設計をし、原始共産制社会を再現し、意識そのものを直接攻撃する戦略で世界文化革命を夢見た。

[山田1981:205]

部族メンバーは住民の許可を得て、部落から約1キロ離れた場所の竹藪を開墾した。そこでのコミューン生活は「原始共産制社会」の再現であり、「世界文化革命」の拠点とされた。

コミューンという理想社会を築くためには、純粋で普遍的な愛と慈悲が必要であり、そのためには全人類、全生類との一体性を体験しなければならない。

[山田2013:60]

全なる者との合一を体感するために、彼ら・彼女らはLSDを使用した。「カプセル入りの緑の粉末状のLSDを摂」ると、牧草や樹木の一本一本が「呼吸し、揺れ動き、笑っていた」。「雲も、牛も、虫ケラも、竹藪も、竹の家も、全てが肯きながら笑っていた」[山田2013:60]

「原始に帰れ」

1967年秋、富士見高原の「カミナリ赤鴉族」では「聖殿」の建設が行われた。払い下げの電柱を大黒柱にし、カラマツの丸太を組み合わせた瞑想センターが誕生した。また、「業の実修(カルマヨーガ)」と称して、地元の土建業者の元で働いた。コミューンの維持費や生活費を稼ぐとともに、仲間の連帯を強めた。

仲間たちと一緒に、家を建てること、新しい土地を開拓すること、大海へ乗り出すヨットを作ること、そして宇宙大の祭りをやること、夢とビジョンは語り尽くせぬほどあった。労働の汗を流した後は、焚火を囲んで焼酎を飲み、お互いの夢とビジョンを語り合い、シヴァやクリシュナのマントラを唱い、裸になって踊った。それは信州の高原に、縄文時代が復活したような光景だった。

[山田2013:64]

部族コミューンの特徴は、ヒンドゥー教に依拠したスピリチュアルな「修行」が、原始生活の実践とセットで捉えられていることにある。彼らにとって、身体と精神の解放を探求することは、近代を乗り越えることにつながり、その先にコミューンの理想形態としての原始生活が見据えられた。ヒッピーは、コミューンのなかに縄文時代の復活を願い、積極的に近代文明を手放していった。ヒッピーのスローガンは、「原始に帰れ」に収斂していく。

長野県富士見台や鹿児島県諏訪之瀬島の他にも、東京・国分寺には「エメラルド色のそよ風族」というコミューンが立ち上がった。京都には「七色の虹のマント族」、宮崎には「夢みるやどかり族」が生まれ、部族によるコミューン運動が社会現象となった。

1967年12月20日には、新聞『部族』が創刊された。編集執筆を長沢が担当し、アートディレクション・イラストは山田が担った。表紙には踊るシヴァ神、背表紙にはインドのサドゥー(遊行者)がサイケデリックに描かれた。巻頭には、長沢が執筆した「部族宣言」が掲げられた。

ぼくらは宣言しよう。この国家社会という殻の内にぼくらは、いま一つの、国家とは全く異なった相を支えとした社会を形作りつつある、と。統治する或いは統治されるいかなる個人も機関もない、いや“統治”という言葉すら何の用もなさない社会、土から生まれ土の上に何を建てるわけでもなくただ土と共に在り土に帰っていく社会、魂の呼吸そのものである愛と自由と智恵による一人一人の結びつきが支えている社会――僕らは部族社会と呼ぶ。

では、「愛と自由と智恵」によって結ばれた部族社会は、いかにして成り立つのか。現代の社会から距離をとり、単独で隠遁すればよいのか。

長沢は「生活というゲーム」の重要性を説く。

ぼくらがもっともっと広い視野、宇宙的なともいうべき視野と自我の奥底からの智恵の輝きを以って見るなら、全宇宙が至高の自我一神の戯れでありその場であるように、ぼくらの外部への動きは一人一人の生命全体を以って遂行していくゲームであり、社会はそのための場だ。

人間の活動だけでなく、全宇宙の活動すべては、神の「戯れ」である。我々は一人ひとりが神の顕(あらわ)れであり、その連関としての共同体生活も神の「戯れ」に他ならない。国家社会は法による統治を強制するが、部族社会は一人ひとりの自覚においてルールが共有される。ルールに支配され、ゲームが義務になるのではなく、すべてを神から与えられた「真の務め」として、共同生活が運営される。そこに存在するのは「お互いの愛と自由と智恵」であり、内面の深い探求こそが、無限の自己を開花させ、真の連帯を生み出す。

部族社会は、まさに夜明の太陽のごとく全地上にあまねく光を投げかける、国家社会の下に息絶え絶えに生活している他の人類に対しいく度もいく度もぼくらの内面の呼吸を、大地の呼吸、魂の呼吸をとり戻させるべく。“大地に帰れ!”と、“そして自らの内に大地の呼吸を取り戻せ!”と。

この「部族宣言」には、「40067年12月」という記載がある。これは「人類の新石器時代以来の歴史が約四万年」とみなす時間軸を提示している。部族のメンバーの間では、縄文時代と現代の連続性が強く意識されていた。

山田は次のように回想している。

原始人は現代人よりはるかに鋭いアンテナをもっていて、宇宙間の動向をキャッチしていたのではあるまいか、という神秘主義もそこにはあった。

[山田2013:97]

部族メンバーのあいだでは、「原始人」こそが宇宙の動きと連動していたという「神秘主義」が共有された。ここに「空飛ぶ円盤」を探求してきた宇宙考古学との接点が生まれる。

1972年から73年頃、アダムスキーに影響を受けた円盤運動のメンバーが「グル・マハラジ教団というヨガ系の団体」と接触したところ、そこに「C・C・C(宇宙子供連合)というヒッピー団体の幹部が数人い」たという。そこで、空飛ぶ円盤について話をすると、彼らは強い関心を示した。「これがヒッピーの間で、世間にさきがけて円盤がもてはやされるようになったきっかけ」だったという[堂本・団・中園1976:129]

「空飛ぶ円盤」運動とヒッピー・ムーヴメントは、原始をめぐるスピリチュアルな神秘主義によって結びついていった。

【参考文献】
上野圭一(監修)・塩澤幸登(編集) 2020 『全記録スワノセ第四世界』河出書房新社
堂本正樹・団精二・中園典明 1976 「日本円盤運動の光と影」『地球ロマン』復刊2号(1976年10月号)
マエバラトモヒコ 2019 「部族の聖地スワノセ・レポート-詩人・長沢哲夫との対話『Spectator』45号
山田塊也 1981 「第二部 奄美革命論」、新元博文・山田塊也『奄美独立革命論』三一書房
___ 2001 『トワイライト・フリークス 黄昏の対抗文化人たち』
___ 2013 『(増補改訂)アイ・アム・ヒッピー』森と出版

*   *   *

*中島岳志『縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム』次回第15回は2023年4月28日(金)17時配信予定です。

筆者について

中島岳志

1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。なかじま・たけし。北海道大学大学院准教授を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』、『秋葉原事件』、『「リベラル保守」宣言』、『血盟団事件』、『岩波茂雄』、『アジア主義』、『下中彌三郎』、『親鸞と日本主義』、『保守と立憲』、『超国家主義』、『保守と大東亜戦争』、『自民党』、『思いがけず利他』などがある。

  1. 第1回 : 戦後日本が「縄文」に見ようとしたもの
  2. 第2回 : 岡本太郎の縄文発見
  3. 第3回 : 岡本太郎「縄文土器論 四次元との対話」
  4. 第4回 : 岡本太郎 対極主義と伝統
  5. 第5回 : 縄文とフォークロア
  6. 第6回 : 民藝運動と縄文
  7. 第7回 : 濱田庄司の縄文土器づくり
  8. 第8回 : 最後の柳宗悦
  9. 第9回 : 島尾敏雄の「ヤポネシア」論
  10. 第10回 : 吉本隆明『共同幻想論』と「異族の論理」
  11. 第11回 : ヤポネシアと縄文
  12. 第12回 : 空飛ぶ円盤と日本の危機
  13. 第13回 : 宇宙考古学 遮光器土偶は宇宙服を着ている?
  14. 第14回 : 原始に帰れ! ヒッピーとコミューン
  15. 第15回 : 縄文回帰とスピリチュアル革命
  16. 第16回 : 偽史と革命
  17. 第17回 : 太田竜――「辺境」への退却
  18. 第18回 : アイヌ革命論
  19. 第19回 : 自然食ナショナリズムとスピリチュアリティ
  20. 最終回 : 陰謀論と縄文ナショナリズム
連載「縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム」
  1. 第1回 : 戦後日本が「縄文」に見ようとしたもの
  2. 第2回 : 岡本太郎の縄文発見
  3. 第3回 : 岡本太郎「縄文土器論 四次元との対話」
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