縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム
第18回

アイヌ革命論

学び
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日本の左翼運動に大きなインパクトを与えた梅内恒夫の論考。その梅内が強い影響を受けた太田竜。太田が見据えた国民国家を超えた世界共和国。どのように民族国家を滅ぼし、民族性を滅却していくのか。彼はアイヌの存在に目をつけ、北海道に向かって旅立った。

アイヌへの接近

太田竜がアイヌに接近するきっかけとなったのが、1971年に行われた記録映画『アイヌの結婚式』の試写会だった。

この映画は、北海道日高地方で約80年ぶりに行われたアイヌの結婚式を記録したものである。和人(日本人)の習俗に従うことを余儀なくされてきたアイヌの共同体では、伝統的な結婚式が行われなくなっていた。そんななか、ひとりの女性がアイヌ式の結婚式を望んだ。この要望に応えようとアイヌの人々が奔走するものの、近代以降に生まれた古老たちも、アイヌ古来の結婚式を見たことがなかった。そのため、萱野茂をはじめとする人々の見聞や口伝の伝承をもとに結婚式が再現され、執り行われた。このプロセスを記録したのが、『アイヌの結婚式』だった。

太田は、この映画を見たときのことを、次のように回想している。

私はこれを見て、勇躍した。武者ぶるいが起きたのだ。

[太田1985:230]

ただしこの興奮は、映画製作者の意図とは異なるものだった。製作者たちは、アイヌの結婚式が行われる最後の貴重な機会として、記録に残しておきたいと考えたという。この姿勢に対して、太田は強く反発する。

彼は『映画批評』1971年9月号に「アイヌの復活、和人の滅亡――映画『アイヌの結婚式』へのアンチ・テーゼ」と題した論考を掲載しているが、ここで、次のように述べる。

八 製作者は言う。今後、彼女(すなわち、アイヌ風の結婚式をやりたいと決意した、北海道日高国沙流郡平取町二風谷の小山妙子さん)のような決心をするものは現れて来まい、と。この『アイヌの結婚式』はまさに終末のときをむかえようとしているアイヌ民族、アイヌ文化の貴重な記録である、と。

「北海道教育委員会」は、右の見解に完全に同意して、この映画を「後援」し、推せんしたのであろう。

九 私は、この製作者の意見に反対である。私はまったく逆の意見を持っている。すなわち、アイヌは歴史の舞台から消えることを拒否している。アイヌの魂は復活しはじめている。アイヌの抵抗は再開されようとしている、と。

[太田1971:100]

太田にとって、アイヌ伝統の結婚式が挙行されたのは、アイヌの復活であり、和人に対する抵抗のはじまりである。アイヌの若者たちは、アイヌであることに目覚め、アイヌの復興に取り組もうとしている。この潮流は、単なる少数民族の権利要求やアイデンティティ獲得の問題にとどまらない。アイヌ復興は現代文明に対する挑戦であり、反逆である。

太田の見るところ、アイヌの結婚式が復活させたものは、アイヌの伝統という外形的なものだけでなく、霊的な次元に及ぶ。

小山妙子は、アイヌ風結婚式を行なう最後の女とは決してならないだろう。

私は言う。むしろ逆に、更にすすんで、若い後継者がいなくて、まさにほろびようとしているアイヌのいわば「シャーマン」、詩と、音楽と、おどりと、祭りと、伝踊と、歴史と、復しゅうと、呪いと、これらすべての要素を一つに結び付ける能力をもった女たち、「みこ」たちの登場が、いま準備されており、且つそれが待たれている、と。

[太田1971:101]

太田にとって、この霊的革命の兆しは、経済大国化した日本に対する「武装反乱の合図」であり、これを聞き取るためには「超越者としての心的能力」が必要になる[太田1971:101]。シャーマンの能力を身につけると、声なき声を聞くことができる。和人に迫害されたアイヌの死者たちの心の訴えを聞き、未来を透視することができる。

そして、この霊的能力の開闢こそが、原始共産制への退却へとつながる。原始共産制を生きることとは、「一人の人間が、他の人間の苦痛を自己のものとして感じ、他人の喜びを、自己の喜びとする、その能力」を獲得することである[太田1971:105]

では、原始共産制は何によって滅ぼされたのか。それは「文明」によってである。太田の見るところ、日本の原住民はアイヌである。そのアイヌの原始共産社会を破壊したのは、中国からやって来た征服民であり、彼らこそが文明の名のもとに大和朝廷を作り上げていった。

なにをよりどころにして、和人はアイヌ同胞を絶滅させたのか。「文明」の旗印によって、だ。この「文明」はどこから生まれたか。

黄河流域に登場した秦漢帝国、その衛星国としての朝鮮半島に生きていた同胞たちを征服し、ドレイとして、大和に国家権力を打ちたてたのだ。

私たちが打ちほろぼすべきものは、秦漢帝国とその継承者、その衛星国、従属国、その「文明」のすべて、地上のすべての「帝国」、「民族国家」の秩序なのだ。

[太田1971:105]

太田は、アイヌと連帯することで「一億一千万人の日本民族と断絶し、彼ら男女と敵対する道」を歩むと宣言した。『アイヌの結婚式』に見られるアイヌ復興の兆しを拡大させ、原始共産制に向けた霊的革命を成就させるために立ち上がることを表明した。

後年、彼はこのときのことを、次のように回顧している。

いまや、機は熟した! アイヌ問題、アイヌのたたかいに私自身が参加してゆく時機がまったく熟した、という思いが全身にみなぎるのを私は感じた。

[太田1985:230]

さらに太田は、同年夏に、新谷行の詩集『シャクシャインの歌』を神保町の本屋で見つけ、購入した。夏の強い日差しのもと、彼は夢中になって読みはじめ、駅に着くまでに読み終えた。「そしてすぐさま作者の家に電話した」[太田1985:231]

新谷もまた、太田と同様にアイヌの精神世界に魅かれ、現代文明に対して懐疑的なまなざしを向けていた。

私には所詮、ぶんめい、、、、といわれるものが肌に合わぬ。ぬくもり、、、、がない。万感をこめて、私は土へ帰りたいといいたい。

[新谷1971:167]

新谷のアパートは荻窪にあった。新谷は北海道出身で、「アイヌへの同情と、また、アイヌをしいたげる日本人・シャモに対する深い自責の念」、そして「怒り」を持っていた。ふたりは共鳴し、太田はしばしば新谷のアパートに泊まった。「新谷夫妻と私の三人が寝るとへやは一杯にな」った。[太田1971:231]

「アイヌ革命論」と八切史観

太田は『情況』1972年2月号と4月号に「アイヌ革命論」と題した論考を掲載した。彼は冒頭で次のように述べた。

一九七一年

私は確信をもっていう。潮流は変化した、と。

日本の帝国支配者に対する千数百年にわたる奴隷の反逆の革命思想は。今、ついに真の根底にまで達した。すなわち、北辺のアイヌ同胞の闘争を跳躍台として、原始共産制の自己主張、その復権という地点にまで到達した。

[太田1973:43]

太田は、日本の歴史の書き換えを強く要求する。「『日本歴史』は、日本による蝦夷・アイヌ征服の歴史として、日本に対する蝦夷・アイヌの抵抗と独立の戦いの歴史として、書き換えられねばならない」[太田1973:80]

ここで登場するのが、連載第16回「偽史と革命」で詳述した八切止夫の歴史観である。太田は次のように言う。

心あるアイヌ同胞に。

私は幾冊かの本を心読の参考文献として推賞する。

第一.八切止夫『われら日本原住民』(新人物往来社、一九七〇年刊、五五〇円)

第二.八切止夫『八切日本史』(大和書房、一九七一年刊、五五〇円)

第三.八切止夫『日本裏がえ史』(講談社、一九七一年刊、四八〇円)

これらの八切日本史シリーズ原理は、被征服民族としての日本原住民と、征服者としての天皇・天孫族の闘争の歴史として、日本史を書き変える、ということである。すなわち、われらは日本原住民の子孫である、という原点に立って、時の支配者と、その御用学者(もっとも、学者はすべて必ず御用学者に転落することになっているが)の書いた歴史を転覆することである。

八切日本史をステップにして、「アイヌ史」が書かれなければならない。

[太田1973:83-84]

ここで確認しなければならないのは、太田が「アイヌ革命論」を書いた時点で、まだ八切止夫の『日本原住民史』(朝日新聞社、1972年6月刊)は刊行されていないという点である。前述のように、八切はこの本で自説を大きく変更し、日本原住民である縄文人こそ「天孫族」であると論じた。つまり、日本原住民と天皇を連続性存在と見なし、「日本原住民は天孫民族の末裔、であるという誇り」を強調したのだ。

太田が挙げた八切の本は、『日本原住民史』以前に刊行されたものばかりであり、そこに描かれた世界は、1972年当時の八切が自ら棄却した歴史観だった。ここに太田と八切の重大なズレが生じることになる。

太田は八切の議論を土台としつつ、過激な主張を行う。彼は、北海道をアイヌの手に奪還すると同時に、日本人(和人)の殺害を教唆する。

十四 世界革命人として、私はいう。

北海道の全国有林(「東京大学演習林」もここに含まれる)は、差しあたり、アイヌ同胞の力でことごとく没収して、これをアイヌ共和国の領土とすべきである。

アイヌからすべてを奪い、日常的に植民権力としてアイヌを征服してきた北海道の営林署の役人を、一人のこらず殺せ。

ところで、この「営林署役人」たちは、こしゃくにも「労働組合」などを結成し、「革新政党」を支持し、「おのれの幸福と生活。権利の拡大のために」民主運動などをつうづけている。

この役人=「労働者」とその「家族」たちよ。

アイヌにとって「アイヌ解放」とは、お前たち一家を殺すことだ。

十五 「革命的な闘い」とは何だ。それは報復だ。奴隷の復讐だ。抑圧された最下層の同胞の、具体威的な反撃だ。

アイヌ同胞の復讐とは何か。和人を殺し、この徒党を北海道から追放することだ。とりわけて、北海道の革新勢力などと称している労働貴族の徒党を解体し、殲滅することだ。

[太田1973:62-63]

 

そして、このような過激な議論に影響を受けたのが、赤軍派の「爆弾魔」として知られた梅内恒夫だった。

梅内論文への応答

本連載第16回「偽史と革命」で論じたように、梅内は太田から多大な影響を受け、「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」を書いた。太田への過大なまでの賛辞が、ここには溢れている。

梅内はこの論文を目的として、「世界革命戦争の大義を明らかにする」ことを挙げている。そして、この闘いを「世界革命浪人(ゲバリスタ)の一員として開始」するという。[梅内1972:130]

我々はこの大義を最も透徹した革命思想家である太田竜から学んだ。この大義は、当面我々が日帝本国で、日帝に抑圧されている流民のために闘う武装闘争の大義でもある。

[梅内1972:130]

世界革命戦争に参与するためには、太田が主張するように、「沖縄の窮民・アイヌの窮民、在日朝鮮人窮民、未解決部落の窮民、そしてアジアの窮民」と結合し、日帝と闘っていかなければならない。そして、「マルクス主義を捨て、原始共産制社会を復権」させなければならない。[梅内1972:133]

梅内は、アイヌに対する「和人の征服」に言及する。和人は「アイヌの民族絶滅政策」を展開し、アイヌから北海道を奪ってきた。残ったアイヌは「奴隷」となり、凌辱を受け続けて来た。そして、いまアイヌの存在をなきものにしようとしている。しかし、そのような和人の意図を貫徹させてはいけない。アイヌと連帯して、日帝の侵略に抵抗しなければならない。

ここで、梅内は太田の「アイヌ革命論」を持ち出す。太田が「アイヌを征服してきた北海道の営林署の役人を、一人のこらず殺せ」と論じた部分を引用し、次のように述べる。

しかしアイヌのみなさん、彼はいますぐやれといっているのではない。アジアの窮民が日本を包囲して最後の決戦を開始する時、内側から呼応して反乱を起こせといっているのだ。常に和人に対する憎悪を忘れるなと彼はいいたいのだ。今あなたがたが反乱を開始しても犬死だ。あなたがたが要求したら、我々がかわりにやる。それをできる能力をつける為に、我々は努力する。(同志太田竜 あなたの言葉を誤解しているのなら、訂正を要求して下さい。謝罪します。)

[梅内1972:134]

梅内がここで「我々がかわりにやる」と述べているのは、和人に対する反乱であり、和人の殺害である。太田の過激な主張が、赤軍派に伝播していることがうかがえる。

前述(連載第16回)の通り、梅内の論考には『日本原住民史』以前の八切史観が反映されているが、これも太田からの影響とみて間違いないだろう。梅内も太田と同様に、<被征服民としての日本原住民>と<征服者としての天皇・天孫族>の闘争という構造で、八切史観を捉えている。繰り返しになるが、八切はこの時点で、自説を大きく転換させている。太田竜「アイヌ革命論」と梅内恒夫「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」という当時の左派に大きな影響を与えたふたつの論考が、共に1971年以前の八切史観を論拠として掲げたことによって、八切本人の変化を置いてきぼりにしたまま、影響力を持つことになる。

この梅内の論文に対して、太田は即座に反応した。梅内論文が掲載された同じ『映画評論』1972年7月号に、太田は竹中労と連名で「梅内恒夫への私的な応答」と題した文章を掲載している。

ここで太田は、次のように梅内論文を歓迎する。

同志梅内恒夫(ゲバリスタ)に。

私は、あなたの世界革命浪人(ゲバリスタ)への立候補を、喜びを以て、公然と確認する。

あなたは、私のいおうとしたこと、行ないつつあることを、きわめて深く理解していると、私は判断する。

例えば書く、「しかしアイヌのみなさん、彼[太田]はいますぐやれといっているのではない。アジアの窮民が日本を包囲して最後の決戦を開始する時、内側から呼応して反乱を起こせといっているのだ……」と。

まさにその通り。その通りのことを私は考えており、また、そうなるように作戦計画を立てている。

[竹中・太田1972:114]

さらに太田は、梅内論文を「軍事・政治の領域での、世界的均衡の崩壊の兆しと成るであろう」と評価し[竹中・太田1972:119]、梅内を同志と認定した。

この直後、太田は北海道で具体的な行動に打って出る。

第26回日本人類学・民族学連合大会への乱入

このころ太田は、結城庄司の存在を知る。結城は1938年生まれのアイヌで、20代のうちから北海道ウタリ協会本部理事に就任するなど、アイヌ解放運動に従事した人物である。

結城は一貫して、アイヌの自然観の重要性を訴え、アイヌこそが日本原住民=縄文人であると論じた。アイヌは「原始共産制」を起源としており、私的所有を前提とする階級社会のあり方とは一線を画してきた。現代文明は、私有制の欲望に飲み込まれており、自然破壊を繰り返す。この文明のあり方は、人類を自滅の道に導く。この危機から脱するためにも、アイヌの精神世界や自然観を取り戻すことが、世界の新たな道を照らしだすことになる。そう訴えていた。

太田は『映画批評』1972年5月号に「『お荷物小荷物・カムイ編』論―アイヌ同胞への檄―「同化」ではなく「独立」を!」と題した論考を掲載し、結城が強調する自然観を肯定的に受け止めた上で、次のように呼びかける。

結城さん。

それをこそ、原始共産制に生きる同胞たちの生得の共産主義的世界観と言うべきである。そして、「文明」はそれを未開野蕃の世界と言う。「文明的共産主義者」もまた同じ評価を与える。

和人文明への同化を要求するアイヌ指導者に反対せよ。アイヌ同胞諸君。

すでに、オーストラリア大陸の「原住民」は、共和国を名乗り、白人オーストラリア資本主義国家に対して、土地を返せ、と要求し、行動に起ち上がっている。

アイヌ同胞諸君。

あなたの盟友が、そこに存在する。

[太田1972:90]

この呼びかけに応じる形で、結城は太田と共闘する道を選んだ。そして、彼らが目をつけたのが1972年8月25日、札幌医科大学で行われる「第26回日本人類学・民族学連合大会」だった。

この連合大会の幹事は、埴原和郎(当時、札幌医大助教授)だった。埴原はのちに「二重構造モデル」(東南アジア起源の縄文人が定住する日本列島に、東北アジアからの渡来人が移動してきて混血していったとする学説)の提唱者となる形質人類学者で、連合大会のあと、東京大学理学部人類学教室に教授として迎え入れられた。

シンポジウムの報告者でもあった埴原は、連合大会開催の約1週間前の『北海道新聞』(8月17日夕刊)に「人類学会によせて」と題した文章を寄稿した。彼はここで、アイヌ研究が「北方アジア」という世界的視点に立つべきと主張したうえで、次のように述べた。

アイヌ系の人びとは、とくに和人とのかかわりあいにおいて、多くの苦汁をなめてきたにちがいない。このような面を無視しては、今やアイヌ論はなりたたないとさえいえる。

新谷行は、事前に大会における発表題目と抄録を手に入れ、強い疑問を感じた。和人の研究者たちが、こぞってアイヌを標本のように扱い、中には「動物と同一次元でとらえている」ように思える研究もあったからだ[新谷1977:282]

埴原の発表タイトルは「アイヌの歯冠形質の集団遺伝学的研究」で、「北海道日高地方の中学生を中心とした住民の歯の石膏印象を採取してすすめられた研究」だった[新谷1977:282]

埴原はいわば歯マニアだ。自分の研究のためには、アイヌがどんな屈辱的な生活を送っているかなど一切かまわず、大人であろうが、子供であろうがかたっぱしから歯の石膏印象を採取して五年間に六〇〇個集めたという。

[新谷1977:282]

埴原は、アイヌが和人とのかかわりのなかで「多くの苦汁をなめてきたにちがいない」と言い、「このような面を無視しては、今やアイヌ論はなりたたないとさえいえる」と述べたにもかかわらず、「彼自身の研究は全くアイヌのなめた苦汁を無視するどころか、その上ぬりをしてい」た[新谷1977:285-286]

しかも、埴原の所属する札幌医科大学は、日高地方の系列病院をつかってアイヌの人たちからの血液採取調査を行っており、大会での発表者の研究報告にも、その成果が含まれていた。「アイヌの人々の貧困につけこむような血液採集方法」に新谷は憤り、結城・太田と相談して、公開質問状を作成することとした[新谷1977:283-284]

大会初日の8月25日午後12時50分。主催者による開会のあいさつが終わると、突然、草履履き姿で髭を蓄えた太田が壇上に駆け上がり、結城庄司・新谷行名義の公開質問状(「日本人類学会・日本民族学会連合大会のすべての参加者に対する公開質問状」)を読み上げた。すぐにマイクの電源が切られたが、太田はつづけた。

公開質問状では、まずアイヌ研究の重鎮として大会委員に名を連ねる高倉新一郎・更科源蔵を名指しで糾弾したうえで、第一の質問として、次のようなことを問うた。

本大会のアイヌ問題についての討論は、アイヌ民族は亡びている。或いは亡ぼすべきである、という原則に立って行われているのか。それとも、原始共産制に生きたアイヌ社会は、アメリカ大陸におけるインディオと同じく、尚生きており、滅びることを拒否しており、征服者たる日本国家に対決している、という認識に立って行われるのか。

この点を質問する。

[太田1973:124]

さらに第二の質問として、大会参加者に対して「君たちは、和人支配者階級の圧迫、征服に対決するアイヌ解放の味方なのか。それとも君たちは、日本国家のアイヌ滅亡、抹殺作業の総仕上げの担い手なのか」と問うた。

そして、埴原が『北海道新聞』に寄稿した文章を引用したうえで、次のように訴えた。

さて、本大会幹事、埴原君。

われわれ、アイヌ解放同盟、北方民族研究所は、君の言う自由な討論、本連合大会のスケジュールにとらわれない真実の討論を欲するのだ。真実の、自由の討論とは何だ。殺され、自由を奪われ、すべてを抹殺されてきた被征服住民アイヌの発現を無制限に解放することだ。いうまでもなく、君たちをはじめとする和人の教育者の大きな力によってアイヌの多くの子孫は、脱アイヌ、和人搾取者階級文明への同化の道に引きずり込まれている。

[太田1973:215]

主催者が太田に近寄り「あとで発現させるから」となだめたものの、太田はマイクを離さず「一人ひとりが公開質問状に答えよ」と迫った。会場から「アイヌ解放同盟なんてあるのか」「アイヌ不在の解放同盟はナンセンス」というヤジが飛ぶと、ここに結城が加勢し、「生きたアイヌがしゃべっているんだ。予定の行動、なれあいによってアイヌをマスコット化する研究発表は阻止すべきだ」と声を上げた。[朝日新聞(北海道版)1972.8.26]

主催者が「あとでかならず発言させるから」と説得したことで、太田らは壇上から降り、研究発表は20分遅れではじまった。研究発表中も、彼らは発表内容に異議がある際はヤジを飛ばし、会場は緊張感に包まれた。結局、大会の最後に阿寒湖畔のコタン(集落)の長老である山本多助が短時間、感想を述べただけで、太田や結城が発表者たちと討論する場面は設けられなかった。

シャクシャイン像台座削り取り事件から北海道連続テロ事件へ

太田らは、続けて行動を起こす。

1970年9月、北海道日高地方の真歌の丘(新ひだか町・真歌公園)にシャクシャイン像が建立された。シャクシャインは17世紀に松前藩に対して蜂起を行った指導者で、アイヌの英雄として知られる。このシャクシャイン像を制作したのは竹中敏洋で、札幌に住む和人だった。

像の台座には「英雄シャクシャイン」と書かれており、その下に「北海道知事町村金五」と刻まれていた。和人と闘ったアイヌの英雄の台座に、和人の知事名が刻まれていることが、アイヌの間で問題になった。この文字を見たとき、結城は「屈辱感からくる抵抗を感じ」たという[結城1980:73]。

1972年4月9日、太田はシャクシャイン像を訪問し、台座の碑文を読んだ。

「英雄シャクシャイン像、北海道知事町村金五書」と、台座に刻んであるのを見た。私はそのとき、この碑文は書き直さねばならないし、「北海道知事町村金五書」という文字は抹消されなければならない、と考えた。

[太田1973:237]

同年9月19日、土砂降りの雨のなか、静内駅を降りた太田は、「シャクシャイン顕彰会主催の供養祭」に参加した。ここではシャクシャインに捧げる儀式(カムイノミ)が行われ、全道のアイヌが集まっていた。

この翌日(9月20日)の夜10時ごろ、太田と結城は、新谷行、足立正生、秋山洋と共にシャクシャイン像に向かった。そして、到着するとすぐに、「町村金五」の名を削り取った。このとき、作業をする太田の手は「小きざみに震えてとまらなかった」という[結城1980:150]。

こののち、結城は太田が「権力側の隠密」ではないかと疑い、絶縁状態に陥る。両者の関係は急速に悪化し、公刊された文章を通じて罵りあうに至った。

同年10月23日には、旭川市常磐公園に設置された「風雪の群像」が爆破され、ほぼ同時刻に北海道大学のアイヌ文化研究施設「北方文化研究施設」で爆発が起きた。事件を起こしたのは、のちに東アジア反日武装戦線と名乗る集団で、北海道出身の大道寺将司が主導した。彼らは太田の「反日」思想と呼応し、日本帝国主義の象徴と見なした施設の破壊活動を行っていた。1971年12月12日には、熱海で興亜観音・殉国七士之碑爆破事件を起こし、1972年4月6日には総持寺納骨堂爆破事件を起こしていた。

東アジア反日武装戦線のテロ事件は過激化していき、1974年8月14日には昭和天皇が乗車したお召し列車を、鉄橋もろとも爆破しようと計画(虹作戦)。失敗に終わった。そして、同年8月30日、丸の内で三菱重工爆破事件を起こし、8名が死亡。376人が負傷した。太田が呼びかけた日帝の打倒、そして和人の殺害が、現実となったのである。

同年3月9日には、北海道白老町で町長襲撃事件が起きていた。白老にはアイヌのコタン(集落)があり、1965年には観光を目的とする「ポロトアイヌコタン」(アイヌ民族博物館)が建設されていた。犯人は太田の「アイヌ革命論」に感化された人物で、白老町長がアイヌを観光に利用していることを問題視していた。

太田に感化された集団による暴力事件が相次ぐなか、同年10月、太田・結城・新谷をはじめとするシャクシャイン像台座削り取り事件の関係者が指名手配され、逮捕された。新谷はこの事態を「管見当局の三井・三菱爆破事件の容疑者をあぶりだそうとするための別件逮捕」と捉えた[新谷1977:299]。結城らは起訴猶予処分となったものの、太田には執行猶予つきの有罪判決が下された。

その後も、太田が蒔いた暴力の種が、次々に芽を出していく。1974年11月10日には北海道神宮放火事件が起き、1975年7月19日には北海道警察本部爆破事件が起きた。さらに1976年3月2日には、世の中を震撼させる北海道庁爆破事件が起こり、北海道でのテロの連鎖が続いた。

そんななか、太田は思想的変転を繰り返し、やがて陰謀論に接近していく。

【引用文献】
梅内恒夫 1972 「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」『映画批評』1972年7月号
太田竜 1971 「アイヌの復活、和人の滅亡―映画『アイヌの結婚式』へのアンチ・テーゼ」『映画批評』1971年9月号
___ 1972 「『お荷物小荷物・カムイ編』論-アイヌ同胞への檄-「同化」ではなく「独立」を!」『映画批評』1972年5月号
___ 1973 『アイヌ革命論-ユーカラ世界への<退却>』新泉社
___ 1985 『私的戦後左翼史-自伝的戦後史1945-1971年』話の特集
新谷行 1971 『長編詩シャクシャインの歌』蒼海出版
___ 1977 『増補アイヌ民族抵抗史-アイヌ共和国への胎動』三一書房
竹中労・太田竜 1972 「梅内恒夫への私的な応答」『映画評論』1972年7月号
結城庄司 1975 「アイヌ民族抵抗の論理」『北方ジャーナル』1975年1月号
___ 1980 『アイヌ宣言』三一書房

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中島岳志『縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム』次回第19回は2023年9月22日(金)17時配信予定です。

筆者について

中島岳志

1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。なかじま・たけし。北海道大学大学院准教授を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』、『秋葉原事件』、『「リベラル保守」宣言』、『血盟団事件』、『岩波茂雄』、『アジア主義』、『下中彌三郎』、『親鸞と日本主義』、『保守と立憲』、『超国家主義』、『保守と大東亜戦争』、『自民党』、『思いがけず利他』などがある。

  1. 第1回 : 戦後日本が「縄文」に見ようとしたもの
  2. 第2回 : 岡本太郎の縄文発見
  3. 第3回 : 岡本太郎「縄文土器論 四次元との対話」
  4. 第4回 : 岡本太郎 対極主義と伝統
  5. 第5回 : 縄文とフォークロア
  6. 第6回 : 民藝運動と縄文
  7. 第7回 : 濱田庄司の縄文土器づくり
  8. 第8回 : 最後の柳宗悦
  9. 第9回 : 島尾敏雄の「ヤポネシア」論
  10. 第10回 : 吉本隆明『共同幻想論』と「異族の論理」
  11. 第11回 : ヤポネシアと縄文
  12. 第12回 : 空飛ぶ円盤と日本の危機
  13. 第13回 : 宇宙考古学 遮光器土偶は宇宙服を着ている?
  14. 第14回 : 原始に帰れ! ヒッピーとコミューン
  15. 第15回 : 縄文回帰とスピリチュアル革命
  16. 第16回 : 偽史と革命
  17. 第17回 : 太田竜――「辺境」への退却
  18. 第18回 : アイヌ革命論
  19. 第19回 : 自然食ナショナリズムとスピリチュアリティ
  20. 最終回 : 陰謀論と縄文ナショナリズム
連載「縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム」
  1. 第1回 : 戦後日本が「縄文」に見ようとしたもの
  2. 第2回 : 岡本太郎の縄文発見
  3. 第3回 : 岡本太郎「縄文土器論 四次元との対話」
  4. 第4回 : 岡本太郎 対極主義と伝統
  5. 第5回 : 縄文とフォークロア
  6. 第6回 : 民藝運動と縄文
  7. 第7回 : 濱田庄司の縄文土器づくり
  8. 第8回 : 最後の柳宗悦
  9. 第9回 : 島尾敏雄の「ヤポネシア」論
  10. 第10回 : 吉本隆明『共同幻想論』と「異族の論理」
  11. 第11回 : ヤポネシアと縄文
  12. 第12回 : 空飛ぶ円盤と日本の危機
  13. 第13回 : 宇宙考古学 遮光器土偶は宇宙服を着ている?
  14. 第14回 : 原始に帰れ! ヒッピーとコミューン
  15. 第15回 : 縄文回帰とスピリチュアル革命
  16. 第16回 : 偽史と革命
  17. 第17回 : 太田竜――「辺境」への退却
  18. 第18回 : アイヌ革命論
  19. 第19回 : 自然食ナショナリズムとスピリチュアリティ
  20. 最終回 : 陰謀論と縄文ナショナリズム
  21. 連載「縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム」記事一覧
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