人気漫画『弱虫ペダル』の著者である渡辺航も推薦する、フランスの自転車ロードレース「ツール・ド・フランス」について記された愉しく感動的な旅行記、『旅するツール・ド・フランス』(小俣雄風太)が2024年5月17日に太田出版より刊行されました。
日本では誰も知らないようなフランスの街並みやレースの様子を、著者の体験や写実的な文章によって「ツール・ド・フランス」を知っている人はもちろん、知らない人でも楽しめる一冊となっています。
OHTABOOKSTANDでは、本書の刊行を記念して全6回にわたり本文の一部を試し読み公開します。第3回は、「ツール・ド・フランス」を取材するにあたってどのような準備が必要になるのかを紹介していきます。
プロローグ 出発 6月27日
再びツールへ
2023年6月。僕の乗る飛行機は西へと向かっている。もう一度、ツールのあの沿道に立ってみたかったのだ。ティーンエイジ・メモリーを忘れられないまま時が過ぎていき、昨年会社を辞めてフリーになった。会社勤めをしていたら、3週間フランスに行きっぱなしなんてことは到底できるものではない。そして、2022年、久々に現地で見たツールはやっぱり巨大な文化としか呼べないもので、魅了された。この年は最初の三日間がデンマークで開催されたため、大会がフランス本土へ入る第4ステージから最終日パリまで、およそ3週間をかけてフランス各地を巡った。この時見聞きしたことは、2005年の時と変わらず刺激的だった。大人になっても、まだこんなに新鮮な驚きや感嘆を覚えるなんて! それはしばらく人生で味わっていなかった類の興奮であった。そんなだったから、採算や生計を考えるより先に、2023年のツールにも行くんだとカレンダーに印をつけたのだった。
飛行機は、夜のハノイ・ノイバイ国際空港[*]に着陸した。パリ行きの便が出るのは4時間後。日付が変わる頃に、ようやく飛行機は飛び立った。
[*] パリまでの直行便は高くつくため、乗り継ぎ便を選んだのだが、一番安い便がヴェトナム航空だったのだ。平日の夕方に日本を経つ便でこのヴェトナムの古都を目的地としていた人は多くないようで、乗客の大半は乗り継ぎ目的らしかった。
移動日 パリ〜ボルドー 6 月28日
「ツール・ド・フランスに行ってきます」と友人知人に言うとまず返ってくるのが「出るの!?」という言葉なのだが、そんなことはありえない。きっとみんなニューヨークマラソンとか、アイアンマンのようなスポーツイベントをイメージしているのだろうけれど、ツールは正真正銘世界のエリート選手だけが競う場だ。仮に僕が日本で一番の選手であっても、ツールに出るというのは容易なことではない。それくらいに浮世離れした世界なのだ。
ツールはスタジアムスポーツと違って、3週間の期間中、一箇所に留まることが無い。つまり3週間、ひたすらに移動しながら選手たちを追いかけることになる。移動手段はレンタカー[*]。レースコースが3200㎞でも、翌日のスタート地点が離れていることも多いので、レース後にも移動をすることになる。取材班は3週間で走行距離6000㎞なんてこともざら。とにかく、移動づくしの日々なのだ。
[*] 2023 年時点でも、選択できるクルマの半数以上はマニュアル車。オートマ車が無いことはないが、金額が1割ほど高くなる。3週間まるまるツールを追いかける人はそう多くないと思うが、長期間レンタルの場合は距離の上限が設定されることが多い。これがだいたい3000km までなので、ツール取材班にとっては頭が痛い。上限なしのクルマはもちろん金額がさらに高くなる。ちなみにシャルル・ド・ゴール空港のレンタカーオフィスはいつ行っても激混みで、かなり待たされる。日本の手続きとは雲泥の差だ。夏場などはレンタカーのピックアップに1時間以上見ておいた方がよい。
取材仲間を待ちながら
朝のシャルル・ド・ゴール空港に着いたら、空港内のマクドナルドで朝食をとる。マフィンとコーヒーで1000円近くするが、日本円換算はあまり精神衛生上よろしくないので、頭の中では努めて1ユーロ=100円だと思うことにする。ちなみにフランスでマクドナルドは「マクド」と略す。関西方式である。ここでのんびりと朝食をとるのは、ある2人の到着を待っているからだ。
ひとりは、自転車情報ウェブメディア「シクロワイアード」の磯部聡。若手の自転車編集者で、レースはもとより、自転車機材にも造詣が深い。写真も撮れて文章も書ける彼は、今年初めてツールを取材することになった。もうひとりは、自転車フォトグラファーとして海外で活躍している辻啓。昨年、僕をツール取材に連れ出してくれた張本人で、海外メディアや大会主催者にも顔が利く。ツールを放映するスポーツ専門チャンネル「J SPORTS」ではこの数年、毎日現地から映像レポートを行っているので、日本のツール視聴者はまず間違いなく彼のことを見たことがあるだろう。お互いに自転車の業界で仕事を始めた頃からの長い付き合いで、当時は近しい年齢の人がいなかったこともあり、啓兄と呼んでいる。2人とレンタカーを折半しながら今回のツール取材を行うことになっているので、レンタカーのオフィスに近いマクドナルドで到着を待っているというわけだ。
まず磯部くんがやってきた。彼にとっては初めてのツール。どこか期待に胸が踊っているようでテンションが高い。時差ボケのせいもあるかもしれないが……。啓兄の到着はまだ少し先だから、先に2人でレンタカーのオフィスで手続き[*]を進めることにする。遅々として進まない列で順番を待っていると、啓兄がやってきた。
1時間半後、ようやくクルマが出てきた。磯部くんは黒のフィアット「ティーポ・クロス」、啓兄は白のシトロエン「C5 エアクロス」。これが3週間の相棒となる。日本と同様に、フランスでも小型のSUVが流行っているようだ。 ルノーの「キャプチャー」やプジョーの「2008」、ダチアの「ダスター」といったクルマをフランス各地で本当によく見かけた。ツール取材のクルマ選びは、乗るのがジャーナリストなのかフォトグラファーなのかで変わってくる。フォトグラファーなら機材を積める充分な荷室が必要だし、ジャーナリストだけが乗るならそこまで大きくなくてもいい。機材のみならず3週間に備えた大きなスーツケースも持ち運ばないといけない我々は、あまりに小型のクルマだと動きようがない。
[*] シャルル・ド・ゴール空港のレンタカーオフィスではとにかく時間がかかる。予約しておいたクルマをピックアップするだけなのに、なぜこんなにも時間がかかるのか。フランス人の芸術性を、この国の玄関口でまざまざと見せられることになる。
ツールを追いかけるとなるとかなりのドライビングスキルを要求されることになる[*]。スピードを出すだけでなく、駐車や車間のセンス、右側走行…。そして何より、今回の2台は両方ともマニュアル車である。フランスではまだまだマニュアル車がメインで、オートマ車をレンタカーすると割高になる。3週間も借りるとなると、その差額は馬鹿にならないのだ。
[*] ここで白状しよう。散々運転のあれこれを語ってきたが、僕はこの旅ではほとんど運転をしない。
というのも、啓兄は他人(特に僕)にハンドルを握りたがらせないし、磯部くんは趣味がクルマやモーターバイクという生粋の乗り物好き。マニュアル車の運転方法をほとんど忘れているような男の出番はそもそも無いのであった。一応は国際免許をとってきたのだけど、運転は得意な人たちに任せる。
レンタカーのエンジンがかかり、空港を出ると「いよいよツールの取材が始まるぞ」と気分が高まる。だが、まずは最寄りのスーパーに立ち寄る。アエロヴィル(空港街)と名付けられた、ほとんど空港に併設しているようなショッピングモールで買い出しである。最優先で買うのは、スマートフォンのsimカード。フランスでは数社のsimカードから選ぶことができるが、僕のお気に入りはfree社のもの。15 ユーロ(約2300円)で一ヶ月通話は無制限、データ通信も100GB以上使えるとあって安くて必要十分。sim カード自体の代金として10ユーロ(約1550円)がかかるが、それでも充分に割安だ。デメリットは、田舎での電波の弱さ。ツールでは電波の入らない山岳地帯や農村といった田舎を多く訪れるため、レース中に使用できない恐れがある。啓兄は動画レポートを生中継で届けなくてはならないため、freeではなくフランス大手の通信事業者であるorangeをチョイス。日本で言うドコモのような存在で、圏外になることは少ないという。
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美しい田舎町を駆け抜ける選手たち、道端で出会うヴァカンス中の人びとの熱狂──食、宿、自然etc…普通のガイドブックには載らない、フランスの原風景を体験できる“特別な3週間”の道しるべ。
小俣雄風太×辻啓 ポッドキャスト 書き起こしも抜粋収録されています。
生活の横をレースが通過する!ー「ツール・ド・フランス」がどのようにしてヨーロッパの人々に親しまれているのか、その魅力が詰まった一冊です。
『旅するツール・ド・フランス』(小俣雄風太)は現在全国の書店、書籍通販サイト、電子書籍配信サイトで発売中です。
【刊行記念】「僕らの旅するツール・ド・フランス 小俣雄風太×辻啓」開催決定!
本書の刊行を記念してReadin’ Writin’ BOOK STOREさんにてイベントが行われます。是非お越しください!
日時:2024年5月26日(日)20:00-
場所:Readin’ Writin’ BOOK STORE
東京都台東区寿2丁目4-7
登壇者:小俣雄風太、辻啓
参加費:1,500円(会場/オンライン)
参加方法:詳しくは書店ウェブサイトやPeatixよりご確認下さい。→チケット購入