フェミニスト批評家の北村紗衣さんが、初めて見た映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載「あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評」。聞き手を務めるのは、北村さんの元指導学生である飯島弘規さん(と担当編集)です。
連載の中で紹介されていくポイントを押さえていけば、いままでとは違った視点から映画を楽しんだり、面白い感想を話せたりするようになるかもしれません。なお、北村さんは「思ったことをわりとランダムに、まとまっていない形で発してもよいもの」が感想で、「ある程度まとまった形で作品を見て考えたことを発するもの」が批評だとお考えとのこと。本連載はそのうちの感想を述べていく、というものです。
第七回でご覧いただいたのは、ナ・ホンジン監督の『哭声/コクソン』です。
※あらすじ紹介および聞き手は飯島さん(と担当編集)、その他は北村さんの発言になります。
あらすじ
韓国の村コクソンで一家惨殺事件が連続して発生する。犯人全員に発疹があるなど奇妙な共通点のあるこの事件を捜査する巡査部長ジョングは、最近この村に越してきたという怪しげな日本人の男がすべての元凶なのではないかという噂を耳にする。
当初は噂を信じなかったジョングだが、目撃者を名乗る謎の女性からも日本人の男の話が出たこと、加えて男の家を訪れた際、呪術で使用されるような祭壇や事件現場の写真のみならず、最愛の娘の靴までも見つかったことにより、彼への疑いを強めていく。
時同じくして、ジョングの最愛の娘がまるで何かに取り憑かれたかのように、父親を口汚く罵るなどの奇行をとり始める。そして彼は娘にも発疹が出ていることを発見してしまう。義母が呼んだ祈祷師は日本人の男こそ悪霊であるとし、彼を討つべく儀式を開始するも……。
至れり尽くせりな映画『コクソン』
――今回ご覧いただいたのはナ・ホンジン監督の『哭声/コクソン』(2016年、以下『コクソン』)です。初めてご覧になって、どうでしたか?
北村 面白かったです! キリスト教の世界観と土着信仰が混在して描かれているフォークホラー映画だと思いました。私はフォークホラー映画が好きなんですよね。
日本はキリスト教徒の数が少ないから、霊的なことがあった時に教会に行くという発想はあんまりないと思いますが、『コクソン』は同じ東アジアの中ではキリスト教徒が多い韓国特有のやり方で、フォークホラーに向き合っている映画なんじゃないかなと思いました。
ちなみにフォークホラーって、土着信仰に基づいた超自然的なことが起きる映画の他にも、実は超自然的なことは起きていなくて、超自然的なことを信じている田舎に住んでいる人たちがヤバかった、というパターンがあるんですよね。『ウィッカーマン』(1973年)や、『ミッドサマー』(2019年)はまさにそういう映画だと思います。
――『コクソン』はどちらも入っている至れり尽くせりな映画、ということですか。
北村 そうです。しかも超自然的な力によるものなのか、実は違うのか、かなり判断がつきづらいように使っているところはうまいですね。
実はアンチ信仰映画?
――『コクソン』はキリスト教の世界観と土着信仰が混在して描かれていたとのことですが、どんなところからキリスト教要素を感じました?
北村 ナ・ホンジン監督はクリスチャンだそうですね。ご自身で言っていることですが、國村隼が演じる謎の日本人はキリストですよね。聖痕が手にありましたし、村人から排除されている怪しい人で、死んでも生き返って奇跡を起こすところもキリストと共通しています。あと、これは未公開映画のネタバレになっちゃうので詳しく言いませんけど、日本ではこれから公開の『教皇選挙』(2024年)と同じく新約聖書に出てくる疑い深いトマスをネタにしていると思われるところもありました。
それから冒頭では、新約聖書の「ルカによる福音書」からの引用が映されていました。
人々は恐れおののき霊を見ていると思った
そこでイエスは言った
“なぜ 心に疑いを持つのか”
“私の手や足を見よ まさに私だ”
“触れてみよ このとおり肉も骨もある”
シェイクスピアの有名な戯曲『ヴェニスの商人』に「悪魔とて目的のためなら聖書を引用する」という有名なセリフがあるんですけど、『コクソン』は誰が悪魔なのか、そして聖書がどういう意味で引用されているのかがどんどん怪しくなっていって最後までわからないように作られていました。
――謎の日本人は悪魔だと疑われ続けているわけですが、一方で謎の女性ムミョン(チョン・ウヒ)も霊的な存在として描かれていて、ムミョンこそが悪魔ではないかと疑われてもいました。
北村 ムミョンってどういう存在だと思いました?
――謎の日本人は悪魔で、ムミョンは神様や天使みたいな存在なのかなと思いました。神様的な人と悪魔的な人が釣りをしているという表現がありましたが、そのときに『コンスタンティン』(2005年)を思い出したんですよね。『コンスタンティン』は、人間が善と悪のどちらに転ぶのか魂を巡って天使と悪魔が駆け引きしている映画じゃないですか。『コクソン』も、謎の日本人もムミョンも人間のことをずっと試してきて、何を聞いても全部お茶を濁して答えるから、どっちも嫌な感じだなあと思って観ていたんですよ。
北村 私はちょっと違う解釈をしていて。日本もそうですし、イギリスやアイルランドでもそういう話はたくさんあるんですが、怪談の伝統では白い服を着ている女性って幽霊ですよね。みんな謎の日本人のことはものすごく怪しんでいるのに、ムミョンのことはどっから来たのかわからない、ちょっとおかしな女くらいの扱いをしていて、あんまり気にされていなかったですよね。すごい実態の薄い存在として描かれていて、いきなり消えたりもする。だから土着信仰に基づいた、妖精や幽霊、精霊に近いものがムミョンなのかなと思いました。キリスト教の天使も白い服を着ていることがあるので、よくわからないんですけど。
――確かにムミョンが肉体的な接触をしているシーンってほぼなかったですね。ジョング(クァク・ドウォン)と同僚がはじめてムミョンに遭遇したときも、ムミョンは彼らに石をずっと投げつけているのに無視されていました。
北村 ムミョンが石を投げるシーンってすごく不自然でしたよね。あんなに石を投げ続けられていたら、普通もっと強く追い払いません? ムミョンは物理的な力があんまりないものとして表象されているんじゃないですかね。一方で謎の日本人は、すごく肉体のある、身体的な存在として表象されていたと思います。
深読みをすると、謎の日本人は一神論的な、キリスト教的な世界観、宗教観を象徴していて、ムミョンは現在ではすでに忘れ去られているような、周縁化された土着信仰を象徴している。そして悪魔を追い払うために呼ばれたムーダン(祈祷師)のイルグァン(ファン・ジョンミン)は、わりと俗っぽい土着信仰といいますか、ご利益のある何かみたいなものを象徴しているのかなと考えていました。
――北村先生のいう通りムミョンが土着信仰の象徴であり、この映画がとても複雑で解釈がさらにわかれるところなのであとでお話したいのですが、もしムミョンこそが人間にとって良い存在だったとしたら、けっこう保守的な映画になりますよね。代々信じられてきたものを信じないと怖いことになる……という話になる気がします。
北村 そこが難しいところだと思うんですよね。
確かに、「昔のものを信じないとダメなんだ」という解釈もできると思いますし、そう解釈する人も多いと思います。でもどちらかというと私は、神様を良い悪いでわける発想自体が人間的でバカげているっていう話だと思ったんですよ。
日本のような多神教的な価値観だと、人間に善をなす超自然的な力のことを神様として祀り、悪をなす力は鎮めるためにお参りをする、みたいなことが多いと思うんです。いまでは学問の神様みたいになっている菅原道真も、もともとは祟りをなす怨霊として祀られていたじゃないですか。台湾の『呪詛』(2022年)だと、めちゃくちゃ邪悪な超自然的な何かを神様として祀っている集落が描かれていましたが、たぶん日本も韓国も台湾も、超自然的な力を持つものは、良し悪しに限らず人生に影響を及ぼすから祀らないといけないみたいな考え方が存在しているんじゃないですかね。
これがたとえばアメリカなんかだと、キリスト教の世界観にのっとって、神様はいいものであり、悪魔は悪いものであるという二分法で考えられるのが一般的だと思います。悪魔が悪いことをすると困るから祀っとこう、みたいな発想ってまず見かけませんよね。
たとえば同じフォークホラージャンルの映画でも、『ミッドサマー』のアリ・アスター監督の作品って、キリスト教がほとんど存在していない、邪教だけがある世界観なんですよね。たとえば『ヘレディタリー/継承』(2018年)の登場人物には、神父とかラビとかブードゥー教の呪術師とか、とにかく何でもいいので霊的なことを専門とする人のところに行って相談してお祓いしてもらおう……っていう、こういう場合によく出てきそうな発想がまったくないように見えました。たぶんアリ・アスターは、世俗的なフリをしながらキリスト教やユダヤ教にものすごく支配されているアメリカ人の生活に対するアンチテーゼとして映画を撮っていて、そこが面白いところなんだろうと思うんです。
『コクソン』の場合は信仰そのものを批判的に見ている気がするので、どっちかというと私は悪神論的な話として考えたいと思ったんです。悪神論とか邪神論と呼ばれる考え方があるんですが、すごい雑に説明すると、神様は計り知れない力を持っているが、人間のことなんて全然考えてくれないみたいな考え方です。先ほど神様も悪魔もどっちも試してくるし嫌な感じがするってお話をされてましたけど、確かにこの映画ではお祈りしても誰も助けてくれないんですよね。だから、どっちかっていうとアンチキリスト教、アンチ信仰的な映画だと思ったんですよね。クリスチャンの監督がそういう映画を撮るのは逆に面白いし、ある意味信仰をすごく真面目に考えてる作品だと思ったんですけれども、ただこの解釈はそう思わない人も多いでしょうねー。わざと解釈が割れるように撮っている気もするので。
「子どもをちゃんと育てる」ことへの恐怖
――『コクソン』って、何回見ても頭がこんがらがります。謎の日本人とムミョンがどういう存在なのか最後までわからないし、悪魔を追い払うために呼ばれたイルグァンも、日本人と手を組んでいるような描写もあれば、敵対する描写もありました。
北村 アメリカのスパイ映画大作くらいは複雑ですよね。同じナ・ホンジン監督の『哀しき獣たち』(2010年)も複雑な作りだったので、わざとわかりにくくしてリピーターを増やしたいんじゃないかなと思ったくらいです。
――悪魔を追い払うための儀式も、本当はジョングの娘・ヒョジン(キム・ファニ)を苦しませるためのものだったのかもしれないなかったですよね。いずれにせよ、ヒョジンが苦しむ様子に耐えられなくなったジョングが途中で中断させちゃうんですけど。
北村 あの場面なんですけどね、私は無神論者ですけど、手続きを途中で終了させたらまずいことになるに決まっていませんか!? 何か機械を直しているときに、変な音が出てきたりしてうまくいかないからって途中でやめたらまあ、まず壊れるじゃないですか。儀式の中で子どもが叫んだりするのは当然の前提だと思うので、ジョングってすごいダメなお父さんだなあって思ったんですけど。
――こっくりさんを途中でやめたらいけないのと同じですね。
北村 そうですよね! それから、『呪詛』も『エクソシスト』(1973年)もそうですけど、ホラーを作る人には「子どものほうが悪霊的なものに憑りつかれやすい」って発想があるんですかね? それとも子どもが叫んだりしているのってやっぱりなんか怖いから、その怖さを引き出すために憑りつかせているんですか?
――うーん、子どもが親に対して急に罵声を浴びせるのってショッキングなことだと思うので、それをやりたいのかもしれないですよね。
北村 最近のフォークホラーは、子育てをテーマにしているものが多いと思うんですよね。『コカイン・ベア』(2023年)、『ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ』(2023年)もそうですし、『死霊のはらわた ライジング』(2023年)や『M3GAN ミーガン』(2023年)も子育てホラーだと思います。日本ではまだ公開されていませんが、『スターヴ・エイカー』(Starve Acre, 2024年)も子育ての話でした。
これは私が勝手に考えていることなんですけど、おそらく地域を問わず、現代人は「子どもをちゃんと大人にするにはどうしたらいいのか」という恐怖があるんだと思います。ちゃんと育てているつもりなのに、子どもがいきなりおかしくなるっていうことが根源的な恐怖として存在している。現実世界では、いきなり病気になるとか、非行に走るとかだと思うんですが、映画の場合は、何かに憑りつかれるみたいな超自然的なものとして出てくる。
『コクソン』の警察はどうだった?
――そもそも村人の様子がおかしくなったのは、幻覚作用のあるキノコのせいだと受け止められるようにもなっていますよね。キノコを原因としたパンデミックものやゾンビ映画になりそうな予感がするシーンが、いろいろあったりもします。
北村 ありましたね。キノコによる集団感染の疑いはずっとあるのに、警察が一切衛生に関係する規制を行わなくて「おかしいなあ」と思っていました。普通なら、疑いが出た時点で、保健所などにあたるようなしかるべき施設に連絡して「山でキノコを採ってはいけない」とか「人と人の距離を保とう」とか注意すると思うんですよね。
――部下に「いま皮膚科にいる」って言われたジョングが「そんなのいいから帰ってこい」って言っていましたね。いや、よくないだろって思いました。
北村 警察で言うと、最初のほうで言及した『ウィッカーマン』は、キリスト教徒の警察官が捜査のために行ったある島でおかしなことに巻き込まれるという映画なので、フォークホラージャンルにもそういう映画は既に存在するんですが、一方で警察が右往左往するだけでなく、異常に複雑な作りでもある点で、『コクソン』からは韓国ノワールっぽさも感じましたね。
――『セブン』(1995年)以降の映画って感じもありますね。あるいは『NY心霊捜査官』(2014年)とか。
北村 確かにそうですね。殺人現場が残虐で汚い感じの描写も似ている気がします。
『コクソン』は、捜査があまりうまくいっていない感じでしたよね。田舎の話だし、普段は殺人みたいな大きな事件がめったに起こらなくて、せいぜい誰かが無断で山とか畑とかに立ち入った程度の軽微なもめごとにしか対応していないから、あたふたしているんだろうなと思いました。
ちょっと面白いなと思ったのが、農家で人が惨殺された後、ジョングが急にたばこを吸い始めるじゃないですか。たばこの煙みたいなものって、いろいろな地域である種のお清めと言うか、邪気を払う効果があるという考え方があるらしいんですよね。これ、以前に武蔵大学でやった怪談の研究会で聞いて、帰って調べたらわりと広くそういう発想の話はあるらしいんですよ。ジョングも漂っている邪気に耐えられなかったんじゃないですかね。
もっと信じるべきなのか、そもそも信じなくていいのか
――キノコが原因だったとしたら、『コクソン』を霊的な現象はすべて幻覚であり、実はすごく真面目な映画だと捉えることもできそうですね。最後の最後で、テレビに「キノコで作った漢方は使わないように」みたいな場面が流れていました。キノコの成分による集団幻覚事件であったという可能性は消えていない。ヒョジンは映画の最初のほうで、お父さんとお母さんがカーセックスしているのを目撃していましたし、あそこでショックを受けていて、さらに幻覚作用のあるキノコを食べちゃったから、あんな風になってしまった、という解釈もできるんですかね?
北村 あの場面をきっかけとして、話はどんどんよくない方向に行きますが、その解釈をすると「車でセックスをしたらいけない」「人に見られないところでセックスしよう」みたいな話になりますね……。うーん、どうなんでしょう。私は娘のヒョジンがああなってしまったのは、子育てをうまくできなかった罰として描かれているとは思わなかったんです。カーセックスの場面は、キリスト教的な原罪、アダムとイブがセックスをしないと子どもが生まれない、みたいなことなのかなあと思いました。
――ヒョジンは、父親の着替えを職場まで持って行って、「シャワーを浴びて」と注意したりしていて、しっかりしたいい子でした。一方で、事件が起きたときに、執拗に「誰が死んだの」と聞く不気味さもありましたが……。ジョングって罰を受けるような悪いことってしていましたっけ? 謎の日本人が飼っていたワンちゃんを殺したこと?
北村 ジョングが犯した罪は「信じないこと」なんじゃないですかね、たぶん。
ジョングは映画の終盤に、鶏が3回鳴ってから家に帰らないと家族が大変なことになるというムミョンの警告を信じるべきなのかどうかという選択を迫られていましたよね。
――最初の方でお話した、肉体的な存在かどうかが注目されるシーンでもありますね。謎の日本人が、映画の冒頭で引用されていた聖書を引いて「俺には肉も骨もある」と話す一方で、それまで身体的な接触のなかったムミョンが、ジョングを止めるために手を握るシーンでもあります。このシーンは、ムミョンを信じなかったために、ヒョジンはおばあちゃんとお母さんを殺してしまった、と捉えられるようになっていました。
北村 はい。でもジョングが最初から何かを信じられていたら、あんな選択を迫られるようなこともなかったはずなんですよね。私がこの映画を悪神論的だと捉えたいと考えたのも、そもそもこういう選択を迫ってくるような存在自体が人間にとって不利益であり、この映画は信仰に対する批判的な話なんだと思ったからなんです。もちろん、代々信じられてきたものを信じなければならなかった、という話に捉えることもできると思うんですけど。
――警察官って捜査のために、いろんなことを疑わないといけない職業ですよね?
北村 信じる可能性に対してオープンであることが大事なんだと思います。ジョングは最初、霊的なものである可能性について検討しないですよね。誰かの話を信じないということは、それとは別の誰かのこと、特定の状況を疑わないってことに繋がるんだと思うんですよね、この映画だと。
――霊的なものの可能性も検討しなければならないってハードルの高い要求のような……。
北村 その通りだと思います。だから、そのような理不尽なことを要求してくる宗教はもうやめようって話としても解釈できるし、あるいは「もっとちゃんと信じましょう」という話だと考えるかで解釈が違ってくるんだろうなと思いました。
――いろんな解釈が出ている映画なので、この記事を読んだ人がどんな解釈や感想を持っているのかぜひ聞いてみたいですね。
まとめ
――最後に、北村先生が批評を書くとしたら、どんなポイントに注目して書かれるかを教えてください。
私はフォークホラーっぽい映画が好きなので、とりあえずこの作品をフォークホラーと考えて、そこでキリスト教要素がどのように出てきているのかを詳しく考えたいと思いますね。ただ、これは結論が出ないんですけど、私は結構キリスト教的な宗教観を批判していると思ったのですが、逆に思う人もいると思うんです。そこにかなり解釈の余地があるようにわざと曖昧に作っているところが面白いってことですよね。
いろいろな角度から信仰について考えさせるような描写をやっているんですけれども、結論はオープンで、観客が自分で判断するようになってるところがポイントの映画だと思います。とはいえそういうスピリチュアルな難しい問題を、かなりエグい映像描写でちゃんとエンタテイメントなホラー映画にしているんですよね。この映画はちゃんと怖いし、緊張感ありますからね! 恐怖を使って人を楽しませつつ考えさせるというホラー映画のジャンルとしての強みを最大限に活用している作品だと思います。
***
この連載では私が初めて見た映画について、苦労しながら感想を話しつつ、取り上げる作品だけでなく他の作品でも使えるポイントを紹介していきたいと思います。なお、私が見ていなさそうな映画でこれを取り上げてほしいというものがありましたら、#感想最高 をつけてX(旧・Twitter)などでリクエストしてください。
筆者について
きたむら・さえ 武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。専門はシェイクスピア、フェミニスト批評。著書に『批評の教室――チョウのように読み、ハチのように書く』(筑摩書房、2021)など。2024年度はアイルランドのトリニティ・カレッジ・ダブリンにてサバティカル中。