今日までやらずに生きてきた。美園ユニバースの最終営業日、ライブを観に行った。東京からその催しのために大阪に来たという方がいて、自分にもしっくりきた。その人に背中を押されたような気持ちに勝手になって、私は少し迷っていた東京で開催されるあるサイン会に行くことにした。クレジットカードで未来の自分から金を借り、昼過ぎにのんびりと大阪を出て、東京への日帰り旅に出かけた。
その人に背中を押され私はあるサイン会のためだけに東京へ行くことにした
大阪・ミナミに「味園ビル」という、1955年に建ったビルがあって、建物の中にホテルもあれば巨大な宴会場もあれば小さなスナックなども入った昭和の複合エンタメ施設という感じの場なのだが、老朽化を理由に、ここ数年かけて館内の全店舗が段階的に閉業し、最後まで残っていた地下のライブハウス「味園ユニバース」もついに先日、最終営業日を迎えた。

その最後の日は「FINALBY ( )」と書いて「ファイナルビー」と読む、BOREDOMSの∈Y∋氏とCOSMIC LABというクリエイティブチームから成るユニットの公演があって、私はだいぶ前からそれを楽しみにしてチケットを取っていたので、行った。
ビルの建設当時はキャバレーとして営業していたのが近年はライブハウスとして利用されるようになった味園ユニバースは、自分が好きなミュージシャンのライブもあるし、いつも面白いことが行われている場所で、大阪に引っ越してきてからよく行った。かつて夢見られた宇宙、というような内装もかっこよくて好きだったし、正面のステージに対して自分なりの距離を選びやすい、たとえば今日は遠くでリラックスして音楽を楽しみたいと思えばそうできるような敷地のゆとり、隙間があって居心地がよかった。駅から近いし、ふらっと行ってふらっと去れる感じ。友人のバンド「Have a Nice Day!」がここでライブをした際、幕間のDJをしたことがある。大事にしたい思い出である。
その味園ユニバースの最終公演、FINALBY ( )のパフォーマンスは圧倒的で、たくさん手を叩き、途中何度か涙が出た。素晴らしい場所が今日を最後に今までの形を無くしてしまうことを、感傷的にでもなく、ただ光の点滅とノイズで弔うような、神聖な儀式のような時間だった。

終演後も会場には多くの人が残り、会場側もそれをよしとしているようで、控えめな音量で音楽が鳴り続け、バーカウンターでは飲み物を売り続けている。「っていうことはまだ居ていいってことか」と解釈し、会場で顔を合わせた友人たちと缶ビールを飲んでいると、ひとりの人に声をかけられた。私がウェブ上に書いた記事をよく読んでくれているそうで、東京に住んでいるが、今日この催しのために大阪に来たという。
「いやー最高でしたねー」と言い合いながら、何かあれば東京と大阪間を移動するのなんか苦でもないよなと思った。もちろんそれは、自分の健康状態とか、そのための時間が融通できるとか、最低限、交通費は出せる(私の場合はクレジットカードで未来の自分から金を借りてるだけなんだが)経済状態であるとか、そういう条件に恵まれているからこそだが、とにかくその人が今日このパフォーマンスをここで体験するために大阪に来たというのが、自分にもしっくり来たのであった。
で、その人に背中を押されたような気持ちに勝手になって、私はやっぱりサイン会に行くことにした。少し迷っていたのだ。そのサイン会は東京で開催されるもので、私が前から気になっていた人の写真集が発売されるのを記念して行われるものだった。
そもそもその写真集が発売されるという情報がインスタグラムにアップされていて、「へー! 買うしかない」と思いつつ、添えられたテキストをよく読んだら、東京の書店で発売記念のトークイベント&サイン会があって、少人数制のため抽選になる、当たったらトークが聴けて本人にサインももらえる、でも外れても写真集自体は後日郵送するという条件らしかった。なるほど、それはつまり、どうせ買うなら申し込んでおいて損はないってことか、と思った。
申し込みが完了し、当選者にのみメールでその旨を知らせますと自動返信が来て、数日が経った。メールは来なかった。ある朝、起き上がる気になれず布団の上でスマホを見ながらごろごろしていて、「そういえばあれは結局やっぱり落選だったんだよな」と、それはそれでやはり少しは悔しく思い、メールの受信フォルダを見返していた。最近スパムメールがやたら届くようになって、ポチポチとそれをゴミ箱フォルダに移すのが私の日課になっているのだが、もしかしたら大事なメールも一緒にそのゴミ箱フォルダに入れてしまっていたりして、と思ったのである。すると本当にゴミ箱フォルダの中に「イベントのご案内」みたいなタイトルのメールが紛れていて、開くと当選の通知だった。「あぶなっ!」と声を出し、飛び起きた。
よくよくメールの文面を読み返してみると、私はやはりイベントに参加する権利があるらしい。書店内の会場で本人のトークを聞いて、その後、宛名入りのサインをもらえるという。どうしよう。しかし、会場は東京である。ちょうど遠方への取材旅行が始まるタイミングで、行くなら日帰りになる。新幹線往復で……金額を考えると痛い。しかし、こうなることも想定して申し込んだのではなかったか。自分に何度も問いかける。味園ユニバースの最後を見に、あの人も東京から来ていたではないか。だよな。
立ち上がって走りたいような気がしてくる。新幹線の中じゃなければもしかしたら
トーク&サイン会は17時からなので、昼過ぎにのんびりと大阪を出た。もともと1号車から3号車までの3両あった新幹線の自由席は最近になって2両になり、そのせいか、いつも混んでいる。なんとか座れたが、窓側の、コンセントを使える席は埋まっていて、そこにパソコンのコンセントを繋いで少し仕事をしようと思っていたあてが外れた。まあそれならそれで仕方ない。
何日か前に滋賀県に行った際に自分へのお土産に買ってあった「サラダパン」と発泡酒を味わおう。

サラダパンのことは全然よく知らずに、名前だけ聞いたことがあると思って買ったのだが、コッペパンにマヨネーズと漬け物のたくあんが挟まったもので、食べてびっくりした。「え、何この味。たくあん⁉」とパッケージを見て驚いたのだが、最初の違和感を乗り越えれば、なるほど妙にクセになる取り合わせではある。発泡酒を飲む。
パソコンでの作業はできないし、最近、スマホの充電の減りが早いので、あまりスマホを使うのは避けたい。そうなると、読書である。家を出るとき、通販で注文した『boid paper』が郵便受けに投函されていたので、それをリュックに入れて持ってきた。『boid paper』は映画配給会社のboidが発行するミニコミで、「湯浅湾」というバンドを取り上げた「そこから先の湯浅湾」という特集に保坂和志さんが寄稿していると知って買った。
それを新幹線で読む。封筒をビリビリ破いて中身を取り出したのだが、封筒をビリビリと乱暴に破って開ける行為が隣の席の人に脅威を与えないか、少し不安になった。でも、まあその中から本を取り出してすぐに読みだすことで、「実は読書好きの穏やかな人なんだな」という印象で帳消しになるかもしれないら早く読む。
「湯浅湾のライブは凄い」という保坂和志さんの文章のなかに、保坂さんの山梨の従兄弟が亡くなり、その従兄弟が所有していたJBLというメーカーのスピーカーが不要になった、それを湯浅湾の湯浅学氏に伝えたらぜひ欲しい! というので湯浅氏の友人の運転する車にみんなで乗って取りに行ったら車が小さくてスピーカーが2台のうち1台しか詰めなかったという話が書いてあった。そこから数行の文章があって「それでもJBLは1台でもいい音をさせていると、その後湯浅さんから聞いたし」と書いてある。なるほど、その後、もう1回行ってもう1台を積んでくるのではなく、1台でよしとしたのか! そこがなんだか面白くて笑ってしまいそうになりながら、でも耐えた。
『boid paper』はそれほどページ数のない冊子なので読み終わって、次に向坂くじらさんの『踊れ、愛より痛いほうへ』をリュックから取り出し、読みかけのところから読む。京都の誠光社という書店で買って、あとで読もうとして気づいたのだが、この本もサイン入りだった。私は色々な人のサインを持っている。今日もこれからひとつ増えるはず。
向坂くじらさんの『踊れ、愛より痛いほうへ』は冒頭から8ページ目まで読むだけでとんでもなく、小説の言葉がいかに自分が普段使っている言葉と違うかを痛感させられる。痛感と書いたけど、その言い方が適切かわからない。普段使う言葉からできるだけ離れて、言葉の使い方とか、考え方のベースみたいなものをかき回してくれればくれるほど、面白い小説という気がする。だから、痛感するからこそ楽しいというか、つまりそれは快感ということか。主人公の溢れ出る思いが、読んでいる私のなかにも入り込んでくるようで、立ち上がって走りたいような気がしてくる。新幹線の中じゃなければもしかしたら。
小説がすごくて呆然としていると、東京駅がもう近いらしかった。封筒の切れ端やサラダパンのパッケージなどをビニール袋にまとめ、本をリュックにしまって到着を待つ。ホームに降りるとまだ明るいし、もわっと暑い。大阪も暑いが東京も同じだな。
目的の書店は銀座にあって、東京駅からなら歩いたほうが早い。うまく日陰を選びながら、巨大な空き地ができて、またそこにビルが建つらしい東京駅から有楽町駅あたりの風景を眺めつつ進む。高速道路の高架下に伸びる商業施設「銀座インズ」を通っていけばクーラーが効いて涼しい。いつかもこんなふうに暑い日にここを通った気がする。
銀座の大きな交差点に出ると歩行者天国になっていて、あまりに暑いからか人通りはそこまで多くなかった。7月20日の参院選に向けて、参政党の候補者が選挙カーの上にのぼって街頭演説をしていたが、道路を渡る歩行者がその前を通り過ぎていくだけで、足を止めている人はほとんどいないように見えた。

イベント会場である書店にたどり着く。店内のあちこちで絵画や人形などの小さな展示コーナーが設けられていて、どれも無料で見ることができる。東京に来るたび、「東京にはアートが余ってるな」と思う。大阪にいる自分からすると贅沢でうらやましい。それらの小さな展示を見ているだけで時間はすぐに過ぎて、イベントの開始時間が迫っていた。気づけば店内の一角に入場を待つ人の列ができており、慌てて最後尾に並ぶ。
15分ほどして列が動き出し、30脚ほどの椅子が並んだ小さな会場に通された。自分の座った場所から、マイクの置かれたテーブルと椅子はそれほど遠くなく、あの位置にもうすぐ現れるのかと思うと信じられないような気分だ。ちらっと見まわすと、来ているお客さんは年齢も幅広いようだった。
いよいよ時間となり、「あのドアから出てきそう」となんとなく思っていたドアとは別のほうから、その人が現れる。今回の写真集の写真を撮ったカメラマンの方と一緒だ。それからふたりで、写真集を作るにあたってこんな姿勢で臨んだとか、こういうこぼれ話があった、ということなどを話した。「話し下手なふたりなのに今日は司会の方もいないから緊張します」というようなことを冒頭に言っていたが、そんなふうには見えず、ふたりともリラックスした雰囲気で、一言一言、大事に言葉を発しているように聞こえた。
これを食べるために他の日を節約してもいい。また来よう
自分がもう少しドキドキしたりするかと思ったのだが、普通に笑って話を聞いて、トークパートは45分で、あっという間に感じた。その後、一度イベントが中断し、お客たちはそのまま座席にいて、サイン会用の設営が始まった。
黒い仕切りというか、ついたてがふたつ運ばれてきて、どうやら、私たちは並んで順々にその向こうに行き、向こうに行くとあの人がいて、写真集にサインをしてくれるらしい。事前に紙が配られて、そこに宛名を書いて渡す。「スズキナオ」と書いた。
順番が近づいてくると急に緊張してきた。自分が書いた紙をもう一度見ると「スズキナオ」とちゃんと読めるか不安な、下手な字に見えた。たとえば「ナオ」じゃなくて「十才」かと思って困らせたらどうしよう。
私の番がついに来て、ついたての向こうに行くと、その人が座っていて「こんにちは」と言った。「こんにちは」と返し、すぐに「あの、字が下手なんですけど、ナオって書いてます」と言うと「いや、全然下手じゃないですよ。ちゃんと読めますよ」と言いながら、私の名前をさらさらと書いて、写真集を手渡してくれた。何か言うべきなのか、「大阪から来ました」は「知らねーよ」だし、「写真集、見ます!」は「まあ、そうだろうな」だし、結局「応援してます」と言って、「ありがとうございます」と言われて、入ってきたのと反対側の通路へ出た。
緊張から解き放たれて建物の外へすぐに出る。よし、終わった。なんだかすごく不思議な時間だった。こういうものなんだな。ぼーっとした気持ちで銀座をでたらめな方向に歩く。東銀座のほうに足が向き、歌舞伎座が見える。つくづく、東京だ。

近くに「銀之塔」というシチューの専門店があって、もう20年以上も前に一度、食べたことがある気がする。背伸びした気分で入って、記念にもらって帰ったマッチが今も部屋のどこかにあるはず。

こんな日は、ちょっといいものを食べて帰ってもいいかもしれない。サインをもらって銀ノ塔で食べて帰る。優雅に思えなくもない。「ひとりなんですけど、いいですか」と入った店は、先客が数人、1階と2階の席にわかれて食事をしているようだが、空いている席もあり、さっと座ることができた。
この店はシチューとグラタンしかメニューになくて、そのシチューとグラタンが両方味わえる「ミニセット」を本当は食べたいのだが、それは4200円するからさすがにためらって、ごはんと香の物がセットになったシチューなら2950円だ。「ミックスシチュー」「ビーフシチュー」「野菜シチュー」の3種類から選べる(もうちょっと高級な「タンシチュー」もあるが)。その「ミックスシチュー」を選ぶことにして、キリンビールの中瓶もいただく。

さっきまでの時間を反芻しつつ、まずはお漬物などをつまみつつ、冷えたビールを飲む。ああ、うまい。今日、結局何もしてないような気もするが、いいか。大阪に戻って、また働かなくては。積み上がった課題がたくさんある。依頼にうまく応えられず、迷惑をかけてしまっている人が何人もいる。
シチュー鍋とご飯が運ばれてくる。シチューはぐつぐつと煮立った状態で、見た目にもお肉がたっぷり入っている。なんと美味しそうな。記念写真を何パターンか撮って、食べる。うまい。「これこれ!」という感じがないのだが、私は本当にここで食べたことがあったんだろうか。ただただ、生まれて初めてのように新鮮に思える美味しさだ。

シチューはどこか醤油っぽさを感じるような味わいで、ご飯にぴったり。お肉はほろほろで、いくつかの部位が入っているように思えた。こんなに美味しいものがあったのか。いつもの食事よりは値が張るけど、これを食べるために他の日を節約してもいい。また来よう。
食べ切ってしまうのが寂しい思いで、最後まで味わい、残ったビールをグッと飲み干して満足した。会計をして外へ出る。そのまままた東京駅まで歩く。夕暮れで、靄がかったようなピンクの空が広がっている。

新幹線の終電まではまだ間があるが、もう今日はこれでいいと思った。キップは買ってあったから、駅の改札にサッと入り、売店で帰りに飲むチューハイだけ1缶買ってすぐ新幹線に乗り込む。
リュックから写真集を取り出しかけたが、割と座席が混んでいるので本を開くのは帰ってからにしようと思った。それでも、あの人が書いてくれた名前だけどうしても見たくて、そこを開いて確かめ、記念に持ち帰ってきた銀之塔の箸袋をそこに挟んだ。
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スズキナオ『今日までやらずに生きてきた』は毎月第2木曜日公開。次回第15回は8月14日(木)17時配信予定
筆者について
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』を中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』、『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』、『「それから」の大阪』など。パリッコとの共著に『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ”お酒』、『酒の穴』などがある。