とある偽書と小泉八雲 『八雲と屍体 ゾンビから固有信仰へ』序章より

八雲と屍体 ゾンビから固有信仰へ

「小泉八雲」という名前を聞いて、その人が何をした人なのか、そもそも日本人でもないということを知らない人は少なくないと思います。それでも、「耳なし芳一」や「のっぺらぼう」のエピソードを聞けば、それが彼が残した『怪談』という作品集に記されたものだと思い当たる人も多いでしょう。

8月8日に刊行された『八雲と屍体 ゾンビから固有信仰へ』は、そんな小泉八雲を小説の題材にしてきた著者・大塚英志の「八雲論」の決定版となっています。
初めて小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)に触れる読者に捧ぐ、八雲と八雲の物語を愉しむための必読書となる本書。その一部を特別に試し読み公開します。

第1回目は、本書序章の冒頭をご紹介。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがとある少女と交わした書簡の内容を記した“偽書”の内容を読み解きます。(全8回)

小泉八雲とその妻・節をモデルにした連続ドラマが始まるこの日に、これまで彼らがどのように語られ、そして語ってきたのか、ともに思考してみませんか。

偽八雲からの手紙

 まず一冊の偽書から語り始めようと思う。

 一九三五年、小泉八雲の長男・小泉一雄の訳で刊行された『一異端者への手紙』(第一書房刊)と題する書簡集がある。原書は『LETTERS TO A PAGAN』と題されRobert Bruna Powers編でA Laughing Dragon Book社より一九三三年に刊行された[図1、2]。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがアンネッタ・ハリディ・アントーナ伯爵夫人に宛てた二八信の書簡が収録されているとされる。日付のない第一信がニューオリンズから始まり、第三信が一八八二年五月に同じくニューオリンズ、その後、マルティニーク、来日直前のニューヨーク、そして日本に来てからは横浜、松江、そして、最後の一通は一九〇一年東京牛込から差し出されたとされる。八雲が彷徨い続けた土地々々からの長期にわたる手紙とわかる。この書簡集の編者ロバート・パワーズの言を信じるなら書簡の宛先であるアンネッタとの出会は一八七一年シンシナティで始まる。

 シンシナティとはアメリカのオハイオ州オハイオ川沿いの都市である。上陸したニューヨークから移民列車でたどり着いた。つまりアメリカでの八雲は移民だった。

 少年期をアイルランドで過ごすが一七歳の時、経済的な庇護者であった大叔母サラ・ブレナンの破産で、八雲はカソリック系の学校セント・カスバート・カレッジの中退を余儀なくされる。ロンドンでの貧困生活を経てアメリカへの移民船に乗ったのが一八六九年、一九歳の時である。シンシナティには親族がいたがすぐに金銭面が原因で疎遠となる。

 シンシナティでの彼の暮らしはかくて苦渋に満ちたものとして始まる。

 その時代について八雲は余り書き残していないが、後に東京帝国大学文科大学で英文学を講じた時代の教え子には洩らしていたようだ。

 八雲の没後、小泉八雲記念号として特集が組まれた『帝国文学』では内ヶ崎作三郎が「誕生より来朝までの小泉八雲先生」と題する評伝を寄稿している。内ヶ崎は八雲の在学中にその英文学の講義を受講後、東京専門学校が改組し早稲田大学となった直後に同校の講師となる。帝大を退職した八雲を早稲田が招聘する折は大学からの使者ともなった。八雲の伝記は、もとは内ヶ崎が試み、しかし、海外留学のため資料を田部隆次に託したとされる。

 その内ヶ崎の評伝ではシンシナティに流れ着いた直後の八雲についてはこう描写される。師である八雲からの直接の伝聞であろう。

 此の無職業時代は、謂わば、先生の流離時代であって、夜な夜な寝る処とては、公園のベンチの上とか、横町や、小路などに転がって居る空樽の中などの外に無く、人の苦しむ可き一切の状態は殆ど経験されない事は無かった。(内ヶ崎作三郎「誕生より来朝までの小泉八雲先生」『帝国文学』第一〇巻一一号、大日本図書、一九〇四年)

 大袈裟でなくホームレス同然であったと思われる。幸いにもと言うべきか、印刷屋の主人ヘンリー・ワトキンに雇われ裁断機の紙屑でつくった寝所を得るに至る。

 アンネッタと出会うのはこのようにして生活がかろうじて落ち着き、公立図書館で本を漁り雑誌への投稿を繰り返していた頃である。二一歳になっていた。八雲はやがて投稿や持ち込みで作家となっていくが、この時の八雲は、未だ何者でもない。そして、この偽書簡集の編者パワーズはその「緒言」で両者の出会いをこう表現する。

 此の交際は一八七一年シンシナティで始まったのである。当時未だ子供であった伯爵夫人に取っては、ハーンは幽霊物語に精しい半盲の本屋サンというに過ぎなかった。(小泉一雄訳『小泉八雲 一異端者への手紙』第一書房、一九三五年)

 つまりアンネッタは何者でもなかった元ホームレスの二一歳の八雲を「本屋さん」、すなわち「作家」として最初に見出した少女だったということになる。この少女は、八雲がカレッジ時代の事故で左目を失明し、息子の一雄が「独眼の倭漢ちび」とまで描く外観を恐れることもなくゴーストストーリーをねだったというのだ。当時の八雲は彼が「意気地なしウィークリーズ」と呼んでいた週刊の安新聞に物語を書き生活の足しとしていた(O・W・フロスト著 西村六郎訳『若き日のラフカディオ・ハーン』(みすず書房、二〇〇三年)。

 偽八雲(以降、書簡集の中の八雲を以降そう呼ぶ)とアンネッタの出会いはこういう状況下という設定だったのだろう。このアリス・リデルとルイス・キャロルの出会いの如き体験が八雲の作家としての出発点だというのは偽書であるが故か余りに出来すぎている。

 同書が現在では偽書であるとされるのは、八雲とアンネッタの年齢差を原著にあるa generation、つまり三〇歳程度と考えると、一八七一年、二一歳の八雲とシンシナティで出会おうにもそもそも彼女は産まれていないという指摘で充分である(西野影四郎『炎と光の人・小泉八雲』講談社、一九七九年)。八雲のマニアックな書誌研究者アルバート・モーデルは他の書簡との矛盾を指摘、書簡そのものが捏造であると指摘している。

 つまり、学術的には『一異端者への手紙』はおおむね偽書として決着がついている。

 この偽書はしかし一度は息子が本物と認め翻訳までした。その程度に親族にさえ信憑性が最初はあった。原著に触れ「最初は眉唾物」と疑いながら「再読し三読するに連れて、是こそが純然たる父の筆致だ」(小泉一雄「『一異端者への手紙レタース・トゥ・エ・ペーガン』翻訳に当りて」(小泉一雄訳前掲書))と確信したとさえ書いた一雄は同書を「偽書」と断じた後にそのクオリティについて偽作の種本まで推察し弁明している。

 この贋手紙の作者はヘンリ・ワットキン老編の“Letters from The Raven”中の Letter to A Lady 及びレオナ・バーレル夫人編“The Idyl”等より着想、ビスランド女史、アルティア・フォレイ等を念題に置き、伝記、書簡集及ハーン著「西印度の二年間」等あれこれと参照して、巧にでっち上げた物である。相当の予備知識のもとになされ、或る程度の努力が払われている。(小泉一雄『父小泉八雲』小山書店、一九五〇年)

 偽作者の勉強ぶりを相応に讃えているようにさえ感じられる。シンシナティ時代の庇護者ワトキンの書簡を下地に、最初の「妻」であるアフリカ系アリシア・フォリー、八雲の正史においては北米時代のヒロイン格である美貌の新聞記者エリザベス・ビスランドといった存在を念頭においてアンネッタ像が捏造されたとも推察する。実際、細かい部分での作り込みは相応に手が混んでいて、なまじ八雲についての知識や先入観があると引っかかるようにできている。

 しかしその一方で、一雄は偽作者の「余り上品でない性格」をあげつらう。

 その「上品でない」偽作の翻訳を一雄が一度は引き受けてしまったのは、彼なりの父への屈託があったと思われる。一雄はこの翻訳に先立ち暴露本とまで行かなくても「癇癪持ちの父ヒステリックの母」として両親を描き八雲から「横面を平手で二ツ三ツピシャーリと張られた」と述懐もする回想録(『父「八雲」を憶ふ』警醒社、一九三一年)を刊行した後で、息子としての両親への複雑な心情を隠していなかった。一雄の息子、小泉時は翻訳の依頼があった際、「一雄も、明らかにあの手紙は偽物だとわれわれ家族のものにも話していた」(西野前掲書)とも証言していて、にもかかわらず翻訳した一雄の動機はやはり興味深いものがある。

 一雄が偽物の「上品でない性格」をもわざわざ指摘するのはアンネッタへの手紙にこうあるくだりへの牽制であろう。

 ペーガンさん、僕は一冊の本、否、本当の本じゃない、寧ろ仮綴本ともいうべき物を男友達を興がらせる為に書き上げましたョ。あなたには見せちゃならぬしろものです、だから見て仰天なさるおりもない筈だが、ホーキンス君は、若し彼が私よりも生き永らえたら、それを焼いて仕舞ってると約束してくれました。私はそれを『女の香パーフイユーム・オブ・ウイメン』と名附けたのです。(小泉一雄訳前掲書)

 『女の香』なる書は「男友達を興がらせる為」のものという言い方や殿方向け限定本という装いからして、好事家対象の春本なり性的な秘本の類と推察される。アンネッタのこの時の年齢は定かでないが、この手紙が投函されたのは一八八五年、その三年前の一八八二年には成人した彼女が新聞記者の仕事を求めニューオリンズの八雲を訪ねているとされる。『一異端者への手紙』収録の第一信は成人して再会したアンネッタに向けたものだ。

 書簡集はこの地から始まり、書名ともなる八雲のアンネッタへの呼びかけでもある「異端者」はシンシナティ時代と同様に周囲から好意的には見られず、孤立する彼を弁護したことに由来する。そうやって成人し再会し擁護さえしてくれた女性に春本の話を持ち出すのはいただけない。

 この『女の香』なる書は、八雲の北米での評伝の一つに登場する。五〇部限定で出版されたという関係者の証言のみを根拠とする都市伝説的書物である。今に至るまで実在は確認されていない。「偽書」である可能性が高い。そうやって、偽書が偽書に言及するあたり、偽書簡集の作者のある種の犯行声明ととれなくもない。

 だが八雲の性的な側面を強調するには、妙齢の女性に性的書物の話を書き送るという挿話は十分な印象操作になる。

 偽作者がこういった操作を試みたのは、八雲の女性関係については東洋人の妻を娶った隻眼の男への好奇心からなのか、海外での評伝などの中に「女好き」という評があったことを一雄も記している事情がある。偽書で春本の話題を妙齢の女性に書き送るくだりはそういう読者の期待に応えての、それこそ「上品さ」に欠く捏造ではあったろう。

 だが後に全てが捏造と断じられるこれらの書簡に対して、一方では一雄は書簡集に挿入された書簡の写真は「紛うことなき真物」とし「総数二十八通中約半数が偽物」とする。つまり半数は「本物」である、ということにもなる。とは言え、一雄が本物とした写真版[図3]もモーデルは「巧妙に筆跡を真似たもの」だとする。

 この書簡を巡っては、全てフェイクであることには小さな異論もある。

 八雲の書簡などの調査者である関田かをるは、小泉時・小泉凡共編『文学アルバム小泉八雲』(恒文社、二〇〇〇年)の「年譜」中に、書簡集に「掲載されている写真版の手紙は真筆と思われる」と記す。実際この「年譜」はアンネッタの動向について実在の女性として記述している。また手紙は偽物と断じた一雄もアンネッタとの関係を「文章上の恋」と記し実在までは否定していない。

 確かに『一異端者への手紙』はアカデミックな立場に立てば実際の八雲の書簡と諸資料をふまえて捏造したものからなる「偽書」であるというのが妥当であろう。だがそう看破することがいささか虚しくもあるのは、恐らくは偽作者の正体である編集者パワーズがそもそも同書をこう定義しているからである。

 是等の書簡は、ラフカディオ・ハーンとミシガン州デトロイト市のアンネッタ・ハリデイ・アントーナ伯爵夫人との間の叙事詩的な友誼からの所産である。(小泉一雄訳前掲書)

 つまり、パワーズは「叙事詩的な」と書簡集全体を形容し、これが一編の「物語」であると偽作者の謎かけとして暗示しているのだ。

吸血鬼になる八雲

 この『一異端者への手紙』は全体としての真実性が否定されているのでアカデミックな小泉八雲なりラフカディオ・ハーンの研究者は相手にすべきでないと言い切る人もいる。研究者としては当然であろう。

 しかしそういう立場ではないぼくは、永く、この偽書に魅せられてきた。それは何より隻眼のまだ何者でもない青年が偏見のない少女によって幽霊物語の作者として見出される、というパワーズがこの書簡集に与えた設定にある。とは言え、この「出会い」の描写そのものは書簡集にはない。パワーズは老アンネッタが当時からの日記を秘蔵しているとも匂わせているので、あるいはそこにある記述が根拠なのかもしれないと想像したくなる。

 無論、それも虚構なのだろうが、老婦人の日記が過ぎ去った少女期に邂逅した幽霊物語の語り部に想いをはせるという設定などは、ぼくなどはまるで萩尾望都の「グレンスミスの日記」の如くでさえあると、うっかり思ってしまう。そちらは正確にはヒロインが亡き父の残した日記に描かれた吸血鬼の少年少女の記述を拠り処に戦時下を挟む混乱の人生を送る物語だ。

 さてここで吸血鬼と自分で書いてぼくは苦笑する。何故なら、偽書『一異端者への手紙』の日付の定かでない「第一信」において偽八雲は自らを「吸血鬼」の如く表現しているからである。

 若しも私が忘却の境に入り得たなら、あなたの御存じの私という者──それを何とんでも構いませんが──その私なる者は屹度幽霊になって、オッと併し、(いやいや、ぺーガンちゃん)決してこうもりの姿になんかなって出やしませんョ。あなたが嫌がる事は知ってますからネ。私はあなたにいやだッと声立てられて叩き出される事はまっぴらですからネ。私は歯を立てたい、そっとではあるがあなたの可愛らしい手首へ、といってもあなたをいためやしませんョ。そして遂にあなたが私の頭を撫でて下さる迄ぶら下って居ますサ。(小泉一雄訳前掲書)

 まるで小さなこどもを怖がらせるような描写である。最初、読んだ時、日付をきちんと確認しなかったので、出会ったばかりの少女への手紙と勘違いした語り口だが、実際には成人女性になって再会した後で送っているのだから、幽霊物語というよりはあからさまに性的な誘惑というか下心が見える。無論、偽書だから八雲に責任はない。とは言え、偽八雲は自分は蝙蝠になどならないといいながら、一方で一雄がわざわざ「吸血大蝙蝠ヴアンパイア」がいかなるふるまいをするか、その下心を注釈で説明してもいる。

 このように妙齢の女性に幼女への如く語りかけるくだりも含め、この偽八雲の文章はその前半の書簡においてやや淫らな方向に走りがちである。それが捏造者の筆なのか、下地になり参照された八雲に依るのかはわからない。だが重要なのは、この偽八雲の叙事詩において彼は「幽霊」なり「死後」の姿として意図して描かれることだ。

 そもそもこの書簡集の書き出しにおいて偽八雲の自己定義が死者であることが明瞭に示されている。

 親愛なる希臘グリークちゃん、

 何で私が忘れるなどと想ったのです? 私達は時代ときも定かならぬ遙か遠い昔の世の双生児ではなかったのですか? 噫、実は私、ひどく病気したんですョ。この市中は街燈柱にも歩廊ピァツザァの柱にも忌中デセデ忌中と貼札されてます。やがて出るかも知れませんョ、

 『今朝三時

 ラフカディオ

 原籍……』とネ……(小泉一雄訳前掲書)

 偽八雲はこの時、「骨痛熱デンゲイ」に罹患してレモンジュースを飲む以外の医師の処方もないと自嘲している。見舞いも看病もないと同情を買おうとしているようにも思える。だがそこから、自らの死亡の知らせが街中に張り出されるだろうとゴーストストーリーの如くこの書簡を語り始める。だからぼくにはこの書簡集全体が八雲自身の語りによるゴーストストーリー集のようにも思える。前世が双子であるというのは帝大時代の講義で言及される、生まれ替った恋人同士の絆を歌うダンテ・ガブリエル・ロセッティの詩が下地にあると思われるが、もしそうなら偽作者の取材力は相当のものである。

 この日の書簡では、熱病にうなされた、その朦朧とした意識は、身体という「」を破り「常世国インフアイナイトビース」に赴かんとする自身の「胆魂きもつたま」を察知する。魂が身体から抜け出そうになると言うのだ。そして今いる「現世」を離れた「忘却の境」に自分が入ったなら「幽霊」になってあなたの許を訪れると囁くのである。先に引用した吸血鬼のくだりはそれに続く。つまり、アンネッタに私は吸血鬼に生まれ替って貴女の許にいく、と偽八雲は書き送ったのである。

 そもそも、この「吸血鬼」という語には恐らく文学史的文脈がある。八雲の関心をも偽作者は熟知していると思われる部分でもある。

 小泉八雲は帝大時代、英米文学の講義でディオダディ荘の怪奇談義について言及している。ジョージ・ゴードン・バイロンの隠遁先である一八一六年のスイス・レマン湖畔におけるディオダディ荘での余りに有名な出来事である。詩人パーシー・ビッシェト・シェリーとその恋人メアリー・ゴドウィン、そしてバイロンの同性のパートナーであるとされるジョン・ポリドリによって怪奇譚を創作する怪談会が催されたのである。八雲の講義ではその開催場所や参加者は正確さをやや欠くが、重要なのはそこでバイロンが「小説の断編」と呼ばれる吸血鬼小説を書き、更にポリドリがバイロン名義の小説「吸血鬼」を発表していることだ。ちなみにこのバイロン名義の「吸血鬼」は日本ではディオダディ荘の怪談会についての詳細な解説を含む形で一九三六年、つまり『一異端者への手紙』と前後して佐藤春夫の訳で翻訳出版されている(バイロン著、佐藤春夫訳『吸血鬼』山本書店、一九三六年)。そもそもVampireの話は一八七三年刊行の柴田昌吉・子安峻編『英和字彙・附音挿図』(日就社)に「吸血鬼(小説ノ)」とあり、その語が日本に紹介された明治初めの時点でバイロンの小説に出自があることが示されていた。一雄のやや仔細な註もそういう教養が相応に人口に膾炙していたことをうかがわせる。原書においても翻訳においてもこのくだりはバイロンなり、そもそもが妙齢の女性に性的な暗喩を孕む吸血鬼のストーリーを開陳する点でもディオダディ荘の一夜を連想させるものだ。

 偽八雲の下心の有無はさておいても、東西を問わずそういう教養の上にこのくだりはあるといえる。

 さて、ゴーストストーリー『一異端者への手紙』の語り部である偽八雲が死者であり、あるいは前世や来世の姿であることは同書の際だった属性である。それは自身の前世来世をさまざまに変化させることは偽八雲の強い関心でもある。

 だから第二信では骨痛熱は回復したが「黄熱病に罹ったらはかゆき必定うけあいです」と書き送る。単に同情を乞うているのかもしれないが、死者への傾斜を語らずにはおれない偽八雲を感じもする。こうやって偽書簡集では幽霊として、あるいは生まれ替りとしての自身を偽八雲はアンネッタに語り続けるのである。

 第三信では南米の「征服者コンクエスタドルの誰かの亡霊」として古城に飛び、残された「貧弱な哀れなる現身」が現世の街を徘徊すると書く。この魂の抜けた後の身体に対する偽八雲の言及は案外、八雲論には示唆的であるが今は触れずにおく。

 あるいは第六信はこう書き始められる。

 ペーガンいとしや!

 何と気持の好い暑さでしょう! 多分何時の前の世にかは私は蜥蜴とかげだったのでしょう。それで現在に於ても尚お是やァ蜥蜴の血のせいですョ。(小泉一雄訳前掲書)

 このように偽八雲の書簡はまず死者として、あるいは前世の自己像から語り始められ、そして通常の書簡の内容、つまり近況へと話題が移っていく構成となっている。この手紙では偽八雲の来世はスペインの征服者でありもしたが、総じて矮小な存在への転生が夢想されるのが特徴だ。この第六信では、書き出しでは前世は蜥蜴、そして末尾ではどう変化するかと言えばこうしめくくられる始末だ。

 私の眼界は次第に拡大して行き、次第に経験を積んで行きつつありますが、何処か、又何時とは分らぬが、何かしら浩大な新生ニュー・ライフが将来におぼろに現れているのが見える気がします。それは死であり、墓とうじむしであるかも知れません。私の所有あらゆる生活力が蛆虫に変化するのを御想像下さい。全体どんな風な虫でしょう? それらは日光や影や雨上りのあかちゃみた土を好むでしょうか? それらは多少でも私の嗅覚を具えるでしょうか? それらは若しL・H・の遺骸を食べてそだったなら、其の小さな世界の美に対する芸術的観念を持つでしょうか?(小泉一雄訳前掲書)

 偽八雲自身の屍に湧く蛆虫としての来世を想像することをアンネッタに求める悪趣味さである。

 だが偽八雲が前世なり来世をアンネッタに語るのは、彼女との結びつきを現世ではないどこかに見出したいからに他ならない。それは第一信の前世における「双生児」と言う表現に既に顕らかである。それは第五信でも同様だ。

 私の記憶──前世すぎこしよ記憶おもいで──の内に、何処か古い都で──多分ポンペイ辺の──嬉々として遊ぶ異教徒ペーガンの児としてあなたの姿が想い浮ばれてなりません。(中略)

 実にあなたは紀元の第一世紀の末に、大洋うみなす灰と山なす軽石とに覆い埋められた人々中の一人ではなかったのですか?(小泉一雄訳前掲書)

 ここではアンネッタの前世は紀元七九年にヴェスヴィオ火山の噴火の火山灰に埋もれたポンペイの街の住民であったと語られる。こうしてみるとアンネッタもまた死者、つまり前世の隊列へと加えられているとわかる。

 さて『一異端者への手紙』が叙事詩として相応に練り込まれているのは、このように、古代イタリアから蛆虫へと時空を超えて綿々と連なる時間軸が世界線として仕掛けられている点にある。しかもこういった偽八雲の死者という属性や繰り返される転生といったモチーフは後半への周到な伏線となってもいる。

 それにしても、蛆虫にまで自らを比喩する、偽八雲の自己の矮小化の意味するところは何処にあるのか。自分の真実の血統を子供が夢想するファミリーロマンスには高貴なる血筋の真の父母を誇大的に妄想する者がいるのに対して、下層階級や賤民を空想する矮小妄想があるとされるが、ならば来世を虫や蜥蜴とするのもその類なのか。

 何にせよ、そのような死者、あるいはこの世の存在でないものへの言及や過小な自己の形象化は書簡集全体における物語構造上の転換点として、第一九信への伏線として機能する。

 この第一九信で偽八雲は突然、ロンドン時代についてやや長い手紙を送るのだ。

 八雲は大叔母ブレナンの破産で高等学校退学を余儀なくされると、ロンドンに嫁いだ「大叔母の召使」で、八雲にすれば乳母的存在のキャサリン・デラニーの許に転がり込むように身を寄せる。八雲伝記としては先の内ヶ崎から資料を引き継ぎ完成させた「正伝」ともいえる田部隆次『小泉八雲』(早稲田大学出版部、一九一四年)には、彼女とその夫はころがり込んできた八雲を「涙を流して」歓迎してくれたとある。しかし他方では「ただ何とはなしにふらふら歩いたり」と、田部の記述は聞こえはいいが、やはり住居の定まらぬ生活であったことは後に幾人かに宛てた書簡でも証言されている。

* * *

※この続きは本書『八雲と屍体 ゾンビから固有信仰へ』をお読みください。
 本書では、八雲が新聞記者時代に残した記事の一部や取材の様子、彼が巡り合った数々の事件などに触れています。

八雲と屍体 ゾンビから固有信仰へ

墓を掘り起こし八雲は思考する

八雲が記した数々の“死”と“屍”、「物語をねだる者」と「語り部」たち、レキシントンの古屋敷を舞台に語られた幽霊譚、ディオダティ荘の夜を彩る怪奇談義、前世の記憶を持つ少年・勝五郎の転生、火星に運河を見つけた男・パーシヴァル・ローウェルとの出会い…
小泉八雲を彩るエピソードはあまりに刺激的でファンタジーじみている。しかし、それらは果たして「真実」なのか──

大塚英志の決定版・八雲論。
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【お試し読みあり】墓を掘り起こし八雲は思考する 八雲が記した数々の“死”と“屍”、「物語をねだる者」と「語り部」たち、レキシントンの古屋敷を舞台に語られた幽霊譚、ディオダティ荘...

筆者について

大塚英志

おおつか・えいじ。国際日本文化研究センター教授。まんが原作者。
著書に『手塚治虫と戦時下メディア理論 文化工作・記録映画・機械芸術』(星海社、2018年)、『大政翼賛会のメディアミックス『翼賛一家』と参加するファシズム』(平凡社、2018年)、『大東亜共栄圏のクールジャパン「協働」する文化工作』(集英社新書、2022年)、『「暮し」のファシズム ――戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』(筑摩選書、2021年)、『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』(太田出版、2022年)、『木島日記 うつろ舟』『北神伝綺』『北神伝綺 妹の力』(いずれも星海社、2022年)など。
現在の研究テーマは戦時下のメディア理論と文化工作。

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